第二話 庭師
お休みを貰っていると言っても、別段それで僕達の役割が御免になっている訳ではない。必要とあればいつでも"世界"へ飛び込むし、それが僕達に与えられている使命だったから。 それは僕達がこの世に生を受けたときから、きっと決まっていたことなのだと思う。嫌だと思ったことは特にない。 僕らの雇い主――正確には、彼女自身の依頼ではないけれど――は、態度はお嬢様気質だ。浅い付き合いならば敵を作りやすいタイプだとも思う。 だが、深い付き合いとなって接してみれば、彼女が悪い人間では無いということがわかる。むしろ彼女は優しい。優しく、かつ思慮深い女性。もともと僕達の"新たな仕事"が始まる前からの付き合いで、僕は彼女のことは気に入っている。気兼ねのいらない友人のような関係。 ただ。その優しさ故にこの状況を生み出してしまったことを、彼女が自覚しているかと言えばそれは疑問だ。悟っているのか、諦めているのか。 僕が彼女の立場だったら、ということは考えなくもないが、表には出さない。それは同情にしか成り得ないし、恐らく彼女が最も嫌うであろう行為のひとつだろうから。「さ、いこうか翠星石」「そうですね、蒼星石。まあ、多分あのチビ幽霊が全部片付け てると思いますけど」「そうかもね」 館に住み着いている幽霊、桜田ジュンが、僕達を手伝っているというこの状況は恐らくイレギュラーなのだと思う。だが図らずも彼の存在が、僕達の負担を軽くしているということだけはどうしようもない事実だ。 僕は、今の状況を打破するという願いを叶えたい。それを彼女が望んでいるかというと、それは最近はちょっとわからなくなってきているが。「……」 深く息を吸い込んで、また吐き出す。 僕達は前方を睨み。その先に存在する"世界"へ、飛び込む。 いつものように、何の問題もなく。 そしてこれは、これからも。 多分ずっと続いていくかもしれない、こと。【ゆめまぼろし】 第二話 庭師 薔薇の屋敷に、代々仕え続けてきた血筋。丁度十五歳になった時、僕らはその屋敷へ連れられていって、その当主の前へと通された。「柴崎か」「一葉。これがわしの娘達だ。わしの次に、この娘が番人に なってくれるだろう」 当時の僕達はと言うと、自分達の役割をよくわかっていなかったし。以前からぼんやりと聞かされていただけで、はっきりと自分達がこれからするべき仕事を意識してはいなかった。「そうか……こんなことは、終わらせなければならないのだろうな、 本当は」「それは致し方ない。引き受けなければならぬのだろうな」「……次のここの当主は、私の娘に継がせることになる。真紅、 こちらへ」「はい、お父様」 一葉、と呼ばれていた人物の後ろに控えていた少女が前へ出る。僕達と同じくらいの年であるような印象を受けた。「私ももう、五年はもたないだろう。恐らく三年後くらいに……指輪 が受け継がれるだろうな」 「こんな可愛らしいお嬢さんが……なんとも、やりきれん」 祖父が小さな声で言ったのを聞いたのだろう、真紅と呼ばれた少女が言う。「大丈夫ですわ。それが私の運命ならば、私はそれに従うまで」 何も悪びれず、臆さない。凛と通った声だった。 まだ話をしているらしい二人を置いて、僕と翠星石、そして真紅は揃って廊下に出た。「あなた達、名前は?」「蒼星石だよ」「翠星石ですぅ」「そう……こちらももう一度自己紹介しておくのだわ。私は真紅」 にこり、と微笑んで彼女は言った。「役割は、聞いているの?」「いや、まだあまり」「そう……端的に言うとね。あなた達は、私の一族にかけられ た呪いに抗う剣となるのだわ」「呪い……?」「そう。この屋敷が縛られている、呪い」「おじじが言ってた仕事のことですね。夢がどうとか言ってたですぅ」「翠星石……だったわね。あなたは少しはわかっているのかしら」 彼女の部屋に案内されて、僕らはめいめい椅子に腰掛けた。「お父様がつけていた、薔薇の指輪。まあ、何処まで本当かはわ からないけど。昔々に――私の先祖、とでも言えば良いのかし らね――悪い魔術師の口車にのせられて、あの指輪を貰い受けた」「魔術師? そんな前時代的な」「多分、貰った本人も冗談だと思ったでしょうね。でも、その指輪をつけ て間もなく、一族はその隆盛を極めたのだわ」「魔法の指輪ですねぇ」「そうね。伝えられたことをそのまま鵜呑みにするとすれば、あの指輪 は観念をかたちにするものなの」「観念を……かたちに?」「そう。地位や名誉、そういったもので他のひとより上に立ちたいという 欲望、と言ってもいいかしらね」 そういって、彼女は窓の外を見つめた。こんな馬鹿らしい話、あるものだろうか。だがとりもあえず彼女がふざけている様子は感じられなかった。……けど、何処か。彼女の眼は、何処か虚ろで。 それにしても。もし彼女の言うことが本当だと言うならば、この家はもっと栄えていても良いのではないか。失礼かもしれないが、この家の名を冠した事業が今世の中を牛耳っているとは聞かないし、この家自体も大分古めかしい。そして先ほどからこの屋敷に取り巻き始めた、何やら嫌な感じは……一体なんなのか。 僕がきょろきょろ部屋を見回していると、真紅が話しかけきた。「そんなに新しい感じはしないでしょう、この部屋も」「あ……いや、……ごめんなさい」「ふふっ。いいのだわ。だって本当のことですもの」 ため息をつきながら、言う。僕はそこで、ある考えに至る。その指輪は、一時は一族の繁栄に一役買った。だが、今はその限りでない。ならば……「奇跡は、限りなく続くことはない……そういうことかい?」「察しが良いのね。その通りなのだわ。そもそも、世の中は観念で出 来上がっているものだけど。結局個人個人が持っているそれにつ いては、実現出来るかは本人の実力次第だった。 だけどね。あの指輪はそれを容易く実現してしまったの。どんな因果 かはしらないけどね。私達の一族は、生きながらにして甘い夢を見せ られていたということなのだわ。 けれど、無理矢理引き出された夢には、引き出された"跡"に歪みが出 来る。その歪みには、甘い夢とは全く正反対のベクトルを持った夢―― "悪夢"が、補填される」「どうしてその"跡"に、甘い夢がまた補充されないですか? 無くなった分 はそれで補えばいいんですぅ」「そうね、全く以てその通りだわ。まあもしそうであったら、私の一族も調子 にのりすぎてもっと前に滅んでいたでしょう。 ただね。見ることが出来る夢は、無限ではないの。ましてや、個人の観念 から作られた夢――光のあとには、影が残るでしょう? 幸せを得るため には、代償が要る。その代償が、私達にかけられた呪い」「幸せの夢を見終わって――今は悪夢を見続けている?」「そうね。指輪をつけていた者には、一身に悪夢が降りかかったのだわ。その 悪夢は本人だけ見ていれば自業自得だったのかもしれないけど、指輪を通 してそれがかたちになり。そして周囲の人間にも降りかかり始めた」「……」「丁度、指輪を受けついた初代から次の代へと受け継がれたとき、その傾向 は顕著になったのだわ。指輪をくれた魔術師とやらを探し当てようとしたけ れど、あとの祭り。一族は途方にくれた。 ……そうして、全国を探し回って。夢の中へ入り込むことを生業とした血筋 を見つけたの。それがあなた達」「指輪を捨てることは、出来なかったのかい」「言うなれば、戒めかしらね。初代の犯した過ちの責任を、私達がとらされている」「そんな理不尽なことって、ねーですぅ!」 翠星石が、憤ったように言った。確かにそうだ。そんな指輪は、何処かに投げ捨ててしまえば良いのに。「そうね、確かに理不尽なのだわ。けど、それは指輪が許さない。指輪の持 ち主が――宿主、とでも言っていいかもしれないのだわ――、勝手に次の 当主を見定めたら、勝手に受け継がれてしまうんですもの。 お父様が亡くなってしまう前に、私の指にはあの指輪が現れることでしょう」「それが、呪い……」「そう。もう指輪には、私達の観念を叶えるような力は残っていない。残高が 無くなった、ということかしらね。大分弱まってきているけど、悪夢のツケだ けが残っている。それを延々と始末してるみたい。油断すると、そこだけは この世界に実現してしまうようだから」「そういえば……君のお父さん。一葉さんは、この屋敷から出られないって聞 いてるけど」「それはあなた達の処置ね。万一悪夢が実現しそうになったときに、この屋敷 内に留めておけるような結界を施したのでしょう。 昔は大変だったらしいわよ? 一室に閉じ込めてがんじがらめにしないとい けないらしかったから。今は庭に出るくらいならば問題ないらしいのだわ」 僕はまだ、自分の考えの整理がつかない。彼女の言うことを、本当に信じて良いのかということ。そしてもしそれが本当ならば、僕達がこれから、彼女を守る役割を担わなければならないということ。 思いを巡らせていると、祖父が部屋をノックして、入ってきた。「翠星石、蒼星石。こっちへ来なさい。お前達に、仕事を見せておこう」 祖父に連れられて、一葉さんの寝室へ向かった。 彼はまだ目覚めている。僕は真紅の部屋に居たときから感じていた違和感をより一層強く感じ、思わず眉をひそめた。翠星石の方を見ると、彼女も何か察しているのか顔をしかめている。「最近は、悪夢が実現しそうになるときには、気配がある。わし等にはそれを 敏感に感じる力があるし、それは指輪の持ち主も僅かながらに持っている 感覚なのだ。わかるな?」 僕らは頷いた。「では、一葉。そろそろ眠くなってきたろう。良い夢を見るといい」「ああ……頼んだ、"時計職人"」 身体を横たえ、一葉さんは眠りについた。祖父が意識を集中し始めると、空間にくらい穴が開いた。「「……」」 僕と翠星石は、その様子をぽかんとした様子で眺めている。「これから、この先にある"世界"に飛び込む。お前達には度々仕事を手 伝ってもらうことになるだろう。さあ、ついてきなさい」 "世界"は、空虚と言う言葉がよく似合う空間だった。何処までも白いのだが、もうそこら中に溢れている影が、まるで世界を穴だらけにしているようだった。「あれか……」 祖父が先を見据える。僕は眼を凝らさないと、それをよく確認することが困難だった。透明で、……大きな塊、のようなもの。「あれをわしらは"異なるもの"と呼んでいるのだ、二人とも。あれはまだ かたちをうまく成していないが、あれが人のかたちに見えてくるようだ と大分具合が良くない。厳然たる意志を持ち、外へ出ようとする」「ここは観念の世界なんでしょう? おじいさん」「その通りだ。不幸の観念とは存外に厄介なものでな。"祟り"というもの を聞いたことがあるだろう?」「うん」「本来"祟り"と呼ばれるものは、こちらがある観念の摂理を乱さなけれ ば出てこないものなのだ。けれどこの一族は、もはや呪われてしまっ ていると言ってもいい。放っておけば不幸を撒き散らし、……端的に 言うと、人死にが出るだろうな」「そんな……」「しょうがないことだ。それほどこの一族の業は深い。欲望を無理矢理 実現した影には、泣いている者も多く居たのだからな。最近では少な くなったが、外からそういった怨念のようなものが悪夢をこじあけよう とする場合もある。 さあ、済ませるか……カズキ、出てきなさい。奴を抑えておいてくれ」「……うん、お父さん」 すう、と。祖父の隣に、少年が現れる。「カズキ……君!?」「か、カズキはもう亡くなってるって……ゆ、ゆゆゆ幽霊……!?」「カズキは、わしの息子だが……丁度遠縁のお前達を養子で貰った頃 にも言ったことがあったな、もう死んでしまったことは。幽霊とは、観念 の塊のようなものだ。カズキは一葉の夢の中で命を落としたが…… こうやって、ここにくれば会うことが出来る」「始めまして、お姉ちゃん達」「あ……はじめ、まして」 僕はかなり驚いていたし、翠星石に至っては僕の後ろに隠れてしまった。しかしながら、この状況に大分慣れてきてしまっている自分も居る。「じゃあ、お父さん。……動きを止めるから」「わかった」 祖父は懐から懐中時計を取り出した。空間が歪み、そして次々に時計が眼の前に現れ始める。 パシン、という音とともに、カズキ君の手が光った。光の帯のようなもので、"異なるもの"の身体ががんじがらめになる。どうやら動けないようだ。『――時は止まり、そして巻き戻らん。 "異なるもの"、汝のかたちはもとより無い。ならば、かたち無き元の姿へ ――滅されんことを、欲す』チッチッチッチ、となり響く時計の音。 透明だった"異なるもの"の身体が、白くなり。そして灰色のヒビが入って、ぼろぼろと崩れ落ちていった。「……終わった、の?」「ああ、終わった。大したことにならなくて良かったが」カズキ君がこちらに戻ってくる。「お疲れ様、お父さん」「おお……いつもすまないな、カズキ」「それは大丈夫。僕もそろそろ、ここからは解放されそうだけどね……」「……そうだな」「どういう、ことですか?」「ここで朽ちた身体は、外に出ることが出来ないんです。始めはそのまま 夢の中に留まり、やつらの相手をしていたんだけど、大分イメージが薄 れてきちゃったから……」「カズキに所縁の深いわしが居ることで、カズキも存在出来るということだ」「え……でも。"異なるもの"は外に出ようとするんですよね? カズキ君も なんというか……そのまま成仏出来たりしないんですか」 祖父は静かに首を横に振った。「それは出来んのだろうな。カズキはここで生まれたものでは無いからなあ。 ここは一葉の観念の世界。ある程度、一葉のイメージにカズキはとりこま れてしまっている。解放されるのは、一葉の命が尽きたときなのだろうな…… 外部から正しく入り込んでいれば、問題は無かったのだろうが」「あんまりですぅ……そんなの……」 翠星石が俯く。僕もなんだか、暗い気持ちになっていく。脈々と受け継がれてきた指輪。これが不幸の影を落とし続けている……『大丈夫ですわ。それが私の運命ならば、私はそれに従うまで』 真紅の言葉を思い出した。彼女はこれから、どんな人生を送ることになる というのか。 僕は――僕達は。彼女を、救わなければならない。「この呪いを断ち切ることは、出来ないんですか」「……指輪の実現した幸福が有限だったように、それに伴う不幸も有限だろう。 いずれはこの連鎖も終わるに違いない。 ただ、わしの力では、それを絶つところまではいかなかったが……何しろ、こ の力も万能ではない。"異なるもの"が発生したあとに、それを抑えることが出 来る程度だ」 懐中時計を僕らに示す。「それは……さっきの」「そう。わしらの一族は、自分と縁の深い道具を用いて、"異なるもの"と対峙する。 この時計が、わしが"時計職人"と呼ばれる由縁なのだ」「僕達は、その時計を使って闘う訳では無いということですか?」「そうなるな。わしの時計を預けても、それをうまく使うことが出来ないだろう…… そうだ、お前達は園芸が好きだったなあ」「そうですけど……単なる趣味にすぎんですよ、おじじ」「はっは……それで構わんのさ。わしよりも何代前のことだったかなあ、"庭師" の異名をもつ人物が居た。"異なるもの"の攻勢が激しかった頃、それを見事 に押さえつけていたと。お前達にぴったりじゃないか」「"庭師"……」「そうだ。翠星石は、この世界を守る壁を作るために……如雨露をあげよう。 それで壁を育て、隔てるのだ。 蒼星石、お前は全てを断ち切るための鋏を預ける。どちらも、家に残ってい る筈だ。まずは現実の世界で、それらに慣れ親しむこと。そうすれば、それ をこの"世界"へ持ってきて……ここで闘うための手段にすることが出来る。 ここは観念の世界。お前達がしっかりと存在する己を意識出来るのならば、 大丈夫……カズキの二の舞には、させん。 お前達はこれより、"夢の庭師"を名乗りなさい。まだまだわしも現役だが、 鍛えることになりそうだなあ」 そんなやりとりの後、僕らは"世界"を飛び出し、現実へと戻ってきた。「……む……」「目覚めたか、一葉。終わったよ」「そうか、すまない」一葉さんがゆっくりと身体を起こし、こちらへ向いた。そして頭を下げる。「娘を……宜しく、頼む。私とて、娘をこの屋敷に留めつづけておくには忍 びない。なんらかの策を、考えなければならないのかもしれないな……」――――――「お前達は、あの館の主を守りなさい――それが、役目だから」「はい」「しゃーねえです、おじじ。どんと任せて、ゆっくり休むといいですぅ」 指輪が真紅へと受け継がれたとき、僕達は正式に"夢の庭師"の名を冠することになった。これから、あの屋敷に住み込むことになる。 翠星石はかなり筋が良かったようで、意識を高めれば何処でも自在に"世界"へ通じる穴を開くことが出来るようになっていた。 彼女が守り、僕が攻める。それを繰り返し、繰り返して。果たして、いつまで続くことだろう。――――――――――――――――――――――――― 館の主から貰った休みの期間を終えて、僕達はまた屋敷に戻ってきていた。「精が出るな、蒼星石」 庭で薔薇の剪定を行っていると、彼がこちらの方へやってきた。「やあ、ジュン君は散歩なのかい」「散歩……というと微妙だな。確かに暇ではあるけど」 そんなことを言いながら、彼は空中で仰向けになりながらふわふわと浮いている。「休みは満喫出来たのか?」「お陰様で、骨休めくらいにはなったよ。有難う、ジュン君」「それはいい。お前らはもっと休んだほうがいいと思う」「あははっ」 可笑しなものだ。彼は僕の眼の前に居るが、確かな存在では無い。この世での生が、彼には無いから。そんな虚ろな存在に僕は心配されてしまっている。心遣いは有難いけど、ちょっと変な感じ。「本当、人間くさいね君は」「あー。これでも多分、元は人間だろうから。その名残なんじゃないのか」「生きていた頃の記憶は無いんだよね?」「無いな」 ぱちん、と。また余計な台芽を切り取る。僕は今、彼を目の当りにしている以上、その存在を疑うつもりは無い。――だけど。「まあ。運命かなんかなんだろ、多分」そんなことを、彼は何処か遠くを見つめながらいうものだから。僕は彼自身何かを知っているのではないかと、恐らくは余計な心配をしてしまうのである。 と、僕らが談笑していると。『スコン!』と小気味良い音を立てつつ、彼が少し吹っ飛んだ。うん、いい当たりだね。クリティカルだと思うな。「蒼星石の仕事の邪魔してんじゃねーですよ、チビ幽霊!」 ぷんぷんと怒りながら登場した双子の姉、翠星石。「いや、翠星石……僕がさぼってたのが悪いん」「どうせこのチビが話しかけたに決まってるです!」 ……正解。でも、これはちょっとやりすぎのような気も……「……いっててて……おい翠星石、いい加減その如雨露アタックはやめて くれ。頭が割れる。下手すると死ぬぞ」「うっさいです! さっさとお陀仏すればいいですよ!」 うん、翠星石。彼はもう死んでるよ? やたら健康的だけど。 ぎゃーぎゃー言い合っている二人を、僕は脇から観戦する。ごめんねジュン君。君には悪いけど、結構君たちの言い争いは、見てて微笑ましかったりするから。 軽口を叩き合う、というか。悪く言い合っている中にも、なんだかんだでお互い気遣いあっている。彼がもし幽霊などという存在で無ければ、案外と良い感じのカップルに成り得たのかもしれない。 庭の先にある門の方を見ると。通りすがりであろうひと二人が、こちらを見てひそひそと話をしている。僕と眼が合って、一目散に去っていった。 まあ……しょうがないだろう。あのひと達にすれば、翠星石は一人で喚いているようにしか見えない訳で。頭がおかしいと思われても、致し方ない。 一歩この屋敷に踏み入れれば、多分第六感だとか、そういった資質に優れた人物ならば彼を知覚出来ることだろう。だけど、この館に自ら進んで入り込もうとする物好きな輩は居ない。 その辺を歩いているひとなんかより、よっぽど人間が出来ている彼。彼もこの館の主に負けない位の思慮の深さを持っていることを僕は知っている。だから、他人の眼なんかは別に気にならない。 「あー、言い合っててもしょうがねーです」「言いがかりをかけてきたのはそっちだろうが」「チビ幽霊は黙ってろですぅ」「僕と大して変わんないだろ。あ、じゃあお前もチビだ。このチビ」 プチン。あ、これは、「ジュン君、多分逃げた方がい」「……ふふ、ふ、」 光った。翠星石の両眼が……南無。あれ、言葉の使い方は合ってるのかな、この場合は。 ああ、今日彼は何メートル飛ばされるのだろう、と考えたところで。唐突に僕らの空気が変わる。 三人、顔を見合わせた。「仕事だね」「しゃーねぇです。勝負は預けとくですよ、ジュン」「……ああ。先に行く」 彼は館の中へ飛んでいき、姿を消した。僕達もそれを追う。事を始める分には別に何処でも良いのだが、流石に外では具合が悪い。 僕達は彼を追うようにして、館へと走っていった。 館の中へ駆け込み、階段を上る。勢いよく、ある部屋のドアを開けた。「真紅……」 床に倒れている。彼女自身の対応が遅れたのだろう。恐らく、予兆が少なかったのだと考える。最初の頃こそ今のようにぱたぱた倒れたりしていたが、最近では余裕をもってベッドやソファに横になっていた。 僕は彼女を抱え、ソファに横たえさせる。 翠星石が意識を集中し始めた。眼の前の空間が歪み始め――くらいくらい、穴が開く。「――行こう」 僕は大きな鋏を、彼女は如雨露を手に携え。僕らはその穴に飛び込む。 そこは、現実とは異なる世界。だからここには、"異なるもの"が居る。「薔薇が……」 この世界の防衛線とも呼ぶべき薔薇の茨が、荒らされていた。まだこの入り口付近に、"異なるもの"が辿り着いている気配は無い。「前回念入りにやったというのに……ちょっと面倒なことになりそうですぅ」そう言いながら、翠星石は如雨露を掲げ水をまき始める。「さあ、元気になるです薔薇さんたち」 みるみるその生気を取り戻していく薔薇。僕達はそれを見届けて、"世界"の奥の方へと進んでいった。 真紅を守るために。 そして彼女に課せられた呪いに―――少しでも、抗うために。
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