薔薇乙女家族 その五

-----先生の父は昔、大日本帝国陸軍の歩兵として出征した。所属は、静岡部隊の陸軍歩兵第三十四連隊…軍神と呼ばれた橘中佐の原隊でもあった…。
歴史の先生の長い昔話。別に珍しい事ではない。授業内容が第二次世界大戦に入ってからは(教科書には太平洋戦争って書いてあるけど、先生は大東亜戦争と言う)ほぼ毎回話してくれる。
他の生徒は何だか退屈そうな態度を露骨に示している。あくびを包み隠す様な事もしない。机に突っ伏して寝こける者もいる。最近の学生達はやはりこういった話には敬遠しがちみたいだ。
-----父の所属した陸軍歩兵第三十四連隊は、ある作戦に参加した。戦争が終わる何ヶ月か前に敢行されたその作戦は何と、支那(中国の事を先生はこう言う)を歩いて縦断するという陸軍史上最大の作戦だった。
作戦は何とか半分だけ成功したが被害は甚大だった。父は何とか生き残ったが、戦友を数多く亡くしたと言っていたな…。
先生は涙で眼を潤しながら、しみじみと語ってる。私は黙って先生を見つめる。先生がこちらを向いてたら私は先生の瞳をしっかりと見つめているだろうが、当の本人は窓越しに青空を眺めている。その青空にお父さんの顔を見ている様な気がした。

-----父は私に戦争中の話をよくしてくれた。その中でも興味深かったのは、武器を無くした際に素手で相手を殴り殺す為の、陸軍の格闘技だ。
先生が拳を固めた。生徒達の方を向いて、その硬い拳を突き出した。
-----相手を殴る時はとにかく真っ直ぐ突く様に殴るのが良いそうだ。横からフックをかけるよりも、突く方が速い。そして、目と目の間を狙うのだと言っていたな…。
他の生徒達からしてみればつまらない話だろう。しかし、私はこの日この時の先生の話を聞いて何かを感じた。胸に感じた。それはとても熱いもので、今まで感じた事がない。
思わず拳を固める。それを見つめる。
「…かしら~…」
とても大切な物を知ったと特別な根拠もなく感じた。
固めた手を緩めて先生を見る。それを教えてくれた先生は今なお昔話に夢中の様子。黒板は汚される事も無く、綺麗なままだ。
やがて、授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
……先ほどの歴史の授業光景が頭に鮮明に焼き付いている。眼の裏に先生の顔が見える。
顔を上げる。目の前の扉は内界と外界を隔てている唯一の物であり、外と内(なか)を繋ぐ中継点でもある。そして内に渦巻く邪念をシャットアウトするフィルターでもある。

内には凶悪なモノが潜んでいる。今ここを開ければ、私は忽ちそれに喰われるだろう。
もちろんここを開ける事なく、素通りするという事もできる。だが、それは私のプライドが許さない。いや、許してはならないのだ。
大切なものを守る為に…。
両目をきつく閉じて見開いた。私は汗ばむ右手を握りしめ、扉を開けた。
-----
「もうすぐみんなが帰ってくる頃ねぇ」
薔薇水晶と雪華綺晶がお互いに戯れ合っているのを尻目に、柱時計を見ると時刻は五時少し前を指していた。
「ジュンももうじき帰ってくるわぁ…♪うふふ、今日は良いものがあるのよねぇ…」
今、この家を守っている一家の母である水銀燈は愛する夫の顔を浮かべ、薄く笑みを浮かべる。
台所にはウナギやら豚肉やら卵やらと精のつくあれこれがある所を見ると、一家の為の台所を完全に「今夜」の為の台所にしてしまったみたいである。「母」が守るべき所は今や水銀燈一色。つまり、完全に自分の為。
おまけにその現場を本人を除き、唯一目視している薔薇水晶、雪華綺晶末っ子双子姉妹はまだ幼稚園生である為にその実態に気付く事はない。母の色ボケ暴走の歯止めを掛ける者はいなかった。
「うふふふふぅ~♪」

母の放つ幸せ光線をチラリと見た雪華綺晶が薔薇水晶に耳打ちする。
「お母さん…楽しそうだね」
「楽しそうだね…」
しかし、突如としてけたたましい音がその空気を砕いた。その電話の呼び出し音は水銀燈の目を覚ました。
「また「ほけんのかんゆう」だよ、ばらし~姉ちゃん」
「そうだね、きらき~ちゃん」
「…えええ!!!?金糸雀が…!?」
びっくぅ!
薔薇水晶&雪華綺晶姉妹が見たのは、受話器片手に全身を強ばらせた母の後ろ姿であった。何が起きたかは分からないが、自分達の姉さんに何かがあったらしい事は分かった。
「薔薇水晶、雪華綺晶!すぐに出掛ける支度をしなさい!」
やたらと慌てている様子を目の当たりにした末っ子双子姉妹は、事態を深刻と幼心に受け止めた。
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表が騒がしい…。
痛む首を廊下側に向ける。何人か連なった足音が聞こえる。足音は段々と近づいてくる様だ。
顔も影も見たわけではないが、それが誰によるものなのかは分かった。先生の声と…私が長年聞いてきた愛する人達の声が耳に届いたから。
保健室のドアがけたたましく開くと、やはり予想した通りの顔がそこにあった。
「金糸雀!」

「お母さん…お父さん…ばらし~にきらき~も…」
「お姉ちゃん…大丈夫…?」
「…大丈夫…?」
みんなが私の横たわるベッドに駆け寄る。
「大丈夫か?金糸雀…」
お父さんが私の瞳を覗き込む。お父さんの目は眼鏡の奥にあるけれど、私をしっかりと見てくれている。私はどんな表情をすれば良いか、迷いながらも応えた。
「大丈夫…かすり傷かしら」
細工の悪い笑顔を浮かべる私に、お父さんは黙って頭を撫でてくれた。
「…にしても…本当にびっくりしたわぁ。金糸雀が女のチンピラと喧嘩したって言うんだからぁ…」
私の姿を見て安心したのであろう母が、溜め息をつくかの様に言う。
…話は少し遡る。私は特別、部活に所属しているわけではないので帰宅しようとしていた時の事だ。
ある上級生の教室を横切った時、室内の声が聞こえてきたのだ。教室内は彼女達以外の気配が見られない事もあって、その声は鮮明に聞き取れた。
特別気にする事はないし、聞き耳を立てるのも趣味が悪い…と、流す訳にはいかなかった。何故なら、私の大切な友達が絡まれているからだ。
「あんたさぁ…見ているだけでなんかむかつくのよねぇ…」
金髪にガングロ、おまけに鼻ピアスとかなんか時代に乗り遅れた様な典型的なコギャル…あの調子じゃ生活指導もどこ吹く風だろう…が、私の先輩でもあり、友人でもあるみっちゃん…本名は草笛みつ。私の一個上の先輩だ…の胸ぐらを掴んでいるのが見える。

「黙ってないでなんか言ったらぁ?!」
語調を荒くしてみっちゃんを責める。みっちゃんはただ、おどおどと狼狽していて何も口を利けない様子だった。
このままみっちゃんを見捨てれば私は無害で済む。そしてその瞬間にもう私はみっちゃんに顔向けができないだろう。かと言って、この扉を開ければ私は勿論ただでは済まない。だけど…。
拳を固める。汗を握りしめる。
深呼吸を一つする。
眼前に認めた扉に手を掛け、開いた。もう後戻りはできない。だがどの道、悔やむ事なぞ何もないと腹を決めて理解した私にリターン・ギアなぞ無い。前へ進むのみ。
「みっちゃん!一緒に帰るかしら♪」
笑顔を作ってみっちゃんに声を掛ける。二人共予期せぬ人物の登場に唖然としていた様子だった。
「…カナ…」
「さ、早いとこ帰るかしら~」
みっちゃんの手を引き、席を立たせる。しかし目前の不良先輩は当然それを阻む。
「ちょっと待てよテメェ。何勝手な事してんだ」
いきなり物騒な言葉を初対面の私に掛けてきた。こんなのは予想の範囲内と私も返す。
「勝手な事って何かしら?友達と一緒に帰るのがそんなにいけない事かしら?」
挑発以外の何物でもない発言をさらりと口にした。

何だか目の前のガングロがピシピシと音立てている。顔の筋肉が引きつっている。
「私はソイツと話してんの。邪魔だからさっさと消・え・て・ね~?」
…この時点ではまだ堪えたか。では、もう少しつついてみるか。どちらにしても、衝突は避けられまい。
喉から声を絞り出す。
「話…かしら?私には不条理ないちゃもん付けにしか…見えなかったかしら…」
体が震えてきた。空気がピリピリしてる。背中が塩吹き始めてる。声帯も緊張して声が途切れてしまった。
眼前のケダモノはついに私に手を掛けてきた。私の身は投げ出され、机と椅子に激突した。後頭部も打ち付け、目の前に星がちらついた。
「……ぁ……くぅ…」
体が痛む。ケダモノが私の体にのしかかってきて体が軋む。その手が私の喉元に伸びてきた。
…絞められる!
頭で理解した瞬間、私は全力を振り絞って拳を突き出した。拳はソイツの目と目の間の鼻っ柱。奇しくも歴史の先生が教えてくれた戦法を実践する事になったのだ。
拳に何かを砕いたような感触がした。それと鈍い痛み。
「………っ!」
ヤツは鼻血を出して大きくのけぞった。押し返すチャンスだが私にはもう余力が無い。
向こうが先に仕掛けてきたら事が終わった後、教師という権力でどうにかできるだろうとしか考えていなかった。ここをどうやって巻き返すかがまるで抜けていた。策士失格である。

ヤツが目をこちらに向けてきた。体勢は未だにマウントを取られたまま。不利に変わりない。
「この………………」
…やられる………!
ガチャアアアアン!
瓶が砕けた様な音がしたと思ったら、ケダモノがいきなり白目を剥いて倒れかかってきた。一瞬何が起きた理解できなかったが、いつの間にかケダモノの後ろに回っていたみっちゃんの手にある割れた花瓶が説明してくれた。
「………カナ、大丈夫……?」
みっちゃんが割れた花瓶を捨てて、私を助け起こしてくれた。
「大丈夫かしら………それにしても…みっちゃん、結構大胆かしら…」
そう言って、みっちゃんがぶん殴ったそれを見る。
不良先輩の顔はまさしくケダモノのそれに相違いなかった。鼻血出しながら白目剥きながら気絶しているこのワンカットをアップで映画に挿入すれば、喜劇も忽ちホラー映画に早変わりしそうだ。
「…死んじゃったかな」
少し余裕が出てきたらしいみっちゃんが冗談めかして言う。
「…これじゃ殺しても死にそうにないかしら…あいたたた…」
安心して神経が緩んだのか、途端にまた痛みが走った。体全体と、右の拳…慣れない事したから骨に響いたのだろう…がズキズキとする。
「カナ!…そうだ、早く保健室へ…!」
………それから教師による事情聴取に現場の片付け、問題生徒に処分を下し終えて…私とみっちゃんは不問にされた。話の分かる先生がいてくれて本当に良かった…今に至る事をみんなに伝えて、一つ区切りをつけた。

「そのみっちゃんという子もなかなかやるわねぇ…カナ、今度紹介なさぁい。お礼もしなきゃねぇ」
「…お姉ちゃん、かっこいい…」
「みっちゃんさんも…かっこいいかも…」
お母さん、薔薇水晶、雪華綺晶がそれぞれ言葉を返す。
…ぽん。
お父さんが私の肩に優しく触れる。
「…偉いぞ、金糸雀。友達を守ろうとするその心は大切なものだ。絶対に忘れるなよ」
「勿論かしら!」
私は笑顔で返す。だが、お父さんは少しだけ悲しそうな笑顔を見せた。
…僕は友達を見捨ててしまったが…こんな親父の子でも、こんな良い子が育つんだな…。水銀燈、君のおかげだな…。
…私はお父さんのその笑顔に隠された涙の意味がどうしても分からなかった。

少し遅れた夕食にお風呂を終えて、僕は水銀燈の待つベッドに座る。風呂で身は清めたが胸の曇りが晴れない。あれから憂鬱な気分が続いている。
「…巴の事でしょう?」
水銀燈が身を起こして図星を突く。相変わらず、彼女の前では隠し事は通用しないみたいだ。
僕は水銀燈の体に身を寄せる。
「…僕は…僕は……」
「…ジュン、泣かないでぇ…」
水銀燈の指が僕の涙をすくい取り、僕の目の前に正座した。おもむろに服をスルスルと脱いで白い肌を空気に晒した。
「…私が…慰めてあげるからぁ…」
彼女に泣きつくかの様に、僕は水銀燈を抱いた。過去を忘れたい、無かった事にしたいとあまりにも利己的な事で頭がいっぱいになり、自分が抑えられない。ベッドの上で涙を流して、愛と裁きと罰を求めた雄に慰める雌の姿がそこにあった。
………今は机の中に眠っている日記の、かろうじて残っている“消された一文”。
彼女は元気だろうか。彼女は僕を恨んでいるだろうか。
彼女は今、何をしているのだろうか…。

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最終更新:2007年12月15日 01:22