▼ 第四幕 少女の夢想 ▲
「すみませーん。お荷物、すべて運び終えましたから、私たちはこれで」
「あ、はーい。どうも、ご苦労さまー」
オコジョがトレードマークの引っ越し屋のリーダーは、鮮やかなプラチナブロンドの、ちょっとレディースっぽいお姉さん。
でも、作業着から伸びる色白の肌は完璧なまでに美しく、同性の私ですら見惚れてしまうほどだ。
こういう美人って、テレビやグラビアの中にしかいないものと思っていたけれど、結構あっけらかんと身近に存在するらしい。
「この度は当社を御用命くださいまして、ありがとうございましたぁ」
恭しく言うと、彼女は帽子を取り、にこやかにお辞儀をした。それがまた、とても優雅な仕種だから驚かされる。
このご時世、引っ越し業界も生き残りをかけて、様々なサービスを展開していると聞く。今回の引っ越しスタッフの七名にしても、全員がうら若い乙女だ。
たぶん、女性ならではの繊細さを売りにしているのだろうなと、このときは思っていた。確かに、仕事ぶりは配慮が行き届いていて、懇切丁寧だったから。
彼女たちが実は七人姉妹で、家族経営の引っ越し業者だったと知るのは、もっと後のことだ。
「それじゃあ、失礼しますねぇ……。またの機会がありましたら、ぜひお申し付けくださいな」
リーダーさんの受け答えは、非の打ちどころがない。これも厳しい世間の荒波とやらの賜物か。磨き抜かれた如才なさが窺える。
しかし、彼女の優しげな微笑みは、仕事上での営業スマイルという感じでもなくて、私の胸に羨望と憧憬を芽生えさせた。
「折角ですし、冷たい麦茶でも」
八月の初旬と言えば、猛暑の真っ直中。
そんな時期に、朝も早くから荷物の梱包や運び出しを、一所懸命にこなしてくれたんだもの。そのくらいの労いは、してあげたくなる。
すると、ドア付近で涼しげに佇んでいたスタッフのひとり――額に汗を滲ませた金髪の乙女が喜色満面に、くるりと振り返った。
「まあ、気が利く子ね。それなら、紅茶を入れてちょ――べぶ!」
「いえいえ、お構いなくぅ。おほほほ……」
……ひぇぇ。今、おもいっきり顔面に裏拳が入ってたよ。めぎゃ! って、すごい音もしたし。
金髪の乙女は、両手で額の辺りを押さえて蹲り、微かに肩を震わせている。相当に痛かったろうことは、想像に難くない。
「な、なんてことするのよ水銀燈っ!」
「うっさいわねぇ。さっさと撤収の支度しなさいよぉ、おバカさんの真紅」
なんか、リーダーさんの素性を垣間見てしまった。この人、かなりの『猫かぶり』みたい。
真紅さんのほうも、淑女然としてはいるが、その実なかなか気性の波が激しい人と見た。
でも、彼女たちの間にあるムードは険悪どころか、むしろ真逆。この程度のケンカなんて、二人には遊びの範疇なのかも知れない。
他のスタッフも、一癖二癖ありそうな人たちだったけれど、おしなべて目の覚めるような美人ばかりで。
みんな、表面的には身勝手なことばかりしている様子ながら、深いところではしっかりと結びついている仲良しメンバーらしかった。
そういうの、すごく羨ましいって思う。私の友好関係は、御世辞にも広いと言えないから。
引っ越し業者のお姉さんたちが去ってしまうと、私の次なる興味は、この新たな世界へと向けられた。
中学二年生になったとは言え、世間的には、まだ保護者の必要な子供の扱い。私も年齢相応に、無邪気な少女なのである。
……って、自分で言ってたら世話ないかー。
すっかり家具が並んだダイニングに駆け込むと、胸に、じわじわと実感が込み上げてくる。
これから、この家で暮らすのだ。お兄ちゃんと二人きりで。
部屋の真ん中に佇んで瞼を閉ざし、これからのことに想いを馳せていた私は、優しく肩を叩かれて振り返った。
「あ、お兄ちゃん。お疲れさま!」
「お前も、よく頑張ったな」
「いやいやいや。このくらい、大したことないっス!」
空元気ではなく、私は小さくガッツポーズをして見せる。
いつものことながら表情の変化に乏しいけれど、お兄ちゃんは目元に精一杯の笑みを浮かべて頷いた。
昔っから無骨な感じで、口数が少ない人なのよね。でも、妹の私に対しては割と多弁だったりする。
まあ、一般的に口数の多寡は親密度に比例しているはずだから、当然と言えば当然なのかな。
私は、ごく自然な素振りで、お兄ちゃんに抱きついた。だって兄妹だもの。ちっとも、おかしなことじゃない。
上背があって、筋肉質で、花も恥じらう女子中学生の私とは、身長差に相当の隔たりがある。美女と野獣ってヤツですかねー。
でもまあ、私だって成長期の真っ最中だし。今に見てろよー、すぐに追い抜いちゃるからなー、と密かに思ってたりする。
「思ってたより楽だったね。引っ越し屋さんも、とってもよくしてくれたし」
「そうだな。スタッフ全員が女性だから、どうなることかと心配していたが」
実際、お兄ちゃんは率先して力仕事を引き受けていた。
向こうもプロだし、信頼していなかったワケじゃあないと思う。女の子ばかりに重労働させることが、我慢ならなかったに違いない。
引っ越しが予想外に早く終わったのも、お兄ちゃんが冷蔵庫やタンスなど、大きな家具を独りで運んでくれたお陰だ。
やっぱり、男の人なんだよね。いざってときは、すっごく頼もしい。
「あ、そうそう。お兄ちゃん、お腹空いたんじゃない?」
「……すっかり忘れてた」
「もぉ。折角おにぎり作っておいたのに」
今朝方、私はいつも以上に早起きして、ちょっと多めにおにぎりをにぎっておいたのだ。
作業が始まれば、食事する間もないほど忙しくなるだろうことを見越しての準備だ。
引っ越し業者のお姉さんたちにお裾分けする分も、ばっちり数に含めてあった。あのときはまだ、みんな女性とは思ってなかったから、かなり余っちゃったけど。
ひとつずつサランラップに包んで、いつでも食べられるようにしたし、麦茶も二リットルのものを十本くらい用意してあった。
ところが、お兄ちゃんときたら黙々と荷物運びをするばかりで、私が言っても、ちっとも休憩しようとしなかった。
現在、午後四時を少し過ぎたところ。およそ九時間、飲まず食わずじゃあ、空腹で今にも倒れそうじゃないのかな。
「これだもんなー。私がいなかったら、どうなっちゃうんだろ?」
「お前が心配することじゃない」
「するよぉ。だって妹だもん。まっ、私に気遣われるのが嫌なら、素敵なカノジョをつくることだよねぇ」
「また、その話か」
やれやれと吐息混じりに肩を竦めるけれど、妹にしてみれば切実な問題なんだよ、お兄ちゃん。
「あー、そうだ! さっきの引っ越し屋のリーダーさんなんて、どうかな? 見事なプラチナブロンドで、すっごい綺麗な人だったよね」
「……どうでもいい」
「いやいやいや、全然よくないっ! だってさぁ、あんな美人が義理のお姉ちゃんになってくれたなら、私も鼻たっかだかーだし」
「いい加減にしとけ」
「あいたたっ! もー、ランボーだなぁ」
頭にゲンコツを落とされた。コ・ノ・ウ・ラ・ミ・ハ・ラ・サ・デ・オ・ク・ベ・キ・カ。
――とまあ、冗談はさておき。割と本気なんだけどなぁ。
ま、これから着々と根回ししていけばいいか。引っ越し屋さんの電話番号は判ってるし。
それよりなにより、ここで暮らすための礼節を尽くしてくるのが先だよね。
「お兄ちゃん。私、ご近所に挨拶してくる。暗くなってからだと迷惑になっちゃうし」
「それなら、俺も一緒に――」
「あー、いいからいいからっ。お兄ちゃんは、残ったおにぎり食べながら、ゆっくりしてて。戻ったら、一緒に夕飯の買い出しにいこうね」
「……そうか。解った。気をつけるんだぞ」
「らじゃー!」
大体いつも、こんな感じ。私たち兄妹は、のほほんと生きてたりする。
――と言うか、辛気くさいのが嫌いなんだよね。だから、殊更に明るく振る舞ってしまう。
今日は日曜日。世間一般的に、休日だ。
仕事してる人もいるけど、殆どの人は日曜日の夕方ともなれば、自宅でゆっくりしていることだろう。
私が先に挨拶してこようと思ったのも、そんな理由からだ。
まずは順序よく、お隣さんから。最低でも、向こう三軒両隣はまわらないとね!
『桜田』と表札の出ているお宅のベルを鳴らすと、すぐにドアが開かれ、真ん丸メガネの若い女性が顔を覗かせた。
女性と言っても、歳は私とそう変わらないみたい。雰囲気で解る。
「……は、はい。あの……どちらさま?」
「えーっと。私、隣りに越してきた斉藤っていいます。それで、ご挨拶に伺ったんですけど」
私の素性が解ると、それまでのおどおどした様子から一変。桜田さんは、ぱぁっと表情を明るくした。
「まあまあまあ。それはご丁寧に」
「いえいえ。あぁ、これ、つまらない物ですけど。お近付きのしるしに」
「あらぁ、どうしましょう。重ね重ねお気遣いいただいちゃって」
「今後とも、よろしくお願いしますっ」
こういうことは、第一印象が大切。私は、いつも以上に溌剌とした挨拶を心がけた。
ちなみに、手渡したのはタオル。引っ越し業者さんが見積もりにきたとき、日用品がいいとアドバイスしてくれたので、予め用意しておいたのだ。
「ところで、つかぬことを伺うけど――」
桜田さんは撞きたてのお餅みたいに柔らかそうな頬に手を当てて、続ける。「斉藤さん、おいくつ? 随分と若そうだけど、独りで暮らすの?」
そう質問されることには慣れている。いつも、そう。
幸か不幸か、私は小さな頃から人情の機微に敏感だった。……ううん。他人の顔色を窺ってばかりで、そんなことだけ上手くなった、と言うべきね。
だから、気づいてしまうのだ。表情は取り繕えても、『ご両親は?』と問う声に混ざった訝しげな音色までは誤魔化せない。
「いえいえっ、私まだ中学二年生の未成年なもので。お兄ちゃんと二人暮らしなんですー」
この質問に対して、私が精一杯の笑顔で答えるのは、せめてもの抵抗なのかも知れない。
ただし、その矛先が向けられるのは質問者に対してではなく、私の境遇そのものについてだ。
私は、自分が不幸だなんて絶対に思ったりしない。たとえ、両親がいなくたって……私には、頼もしいお兄ちゃんがいる。
「今日は片づけとか、いろいろ忙しないので。また日を改めて、お兄ちゃん同伴でご挨拶しにきますね」
「まぁ、そうだったのぅ」
答えた桜田さんに、そのとき私は、他と違う気配を感じた。
なんだろう? ありがちな憐憫や優越めいたものが、彼女からは伝わってこない。
その理由は、桜田さんによって明らかにされた。
「奇遇ねぇ。うちも姉弟の二人暮らしなのよぅ。私はまだ高校生なの」
「そうなんですか?」
「ええ。両親は海外にいっちゃってて。それに、ジュン君も――」
「ジュン君?」
「あ、弟よぅ。中学二年生な――んだけど」
なんか今、言い淀んだ。それまでが饒舌だった分、最後の不自然さが際立っている。
でも、どんな家庭にも問題のひとつやふたつ、あって当然。それを、たかが隣人に詮索できようはずもない。
「だったら、同じ中学校かも知れないですね。案外、同級生になっちゃったりして。あは……」
「……ふふ。そうねぇ。そうなってくれたらねぇ」
なんだか、しんみりした雰囲気。桜田さんの微笑みも、どこか悲しげに映る。
「あの……。長話も失礼なので、じゃあ私これで」
私が苛めたワケでもないのに、なんとなく、いたたまれない気持ち。
この場を早々に切り上げようとした私に、桜田さんは――
「さようなら。落ち着いたら、遠慮なく遊びにきてちょうだいねぇ」
高校生らしからぬ泰然自若とした様子で、にこやかに手を振ってくれた。
でも、私を見つめる瞳には、なにかを期待するような光が見て取れて……それがまた、余計に気まずくて。
私はもう逃げ出すかの如くに、その場を後にしていた。
ほどなく挨拶まわりを終えて戻ると、お兄ちゃんがエプロンを着けていた。
頭にタオル巻いたジャージスタイルの大男にエプロンって、死ぬほど似合ってないんだけど。
「夕飯の支度なら、私がするのに。って言うか、お買い物にいかないと食材がないでしょ」
「蕎麦を茹でた。乾麺があったんでな」
「私は、カレーが食べたいなぁ。レトルトのなら残ってたはずだし。ご飯だって、茹でるだけのがあったよね」
「お前なあ……引っ越しと言えば蕎麦だぞ」
「いやいやいや。食べたい物を、食べたいときに食べる。これぞ長寿の秘訣っス!」
ビシィッ! と言い放った私の脳天に、お兄ちゃんの手刀が落とされた。
これって躾の名を借りた児童虐待じゃないの? ちくしょう。今に見てろよー、このランボーめ。
「黙って蕎麦を喰っとけ」
「むー。こうなったら、意地でもカレー食べるもんね!」
「……勝手にしろ」
「言われなくたって、勝手にしますよーだ」
――なんて、つまらない我を通した結果、私は悔恨の涙を流すこととなった。
カレー蕎麦……死ぬほどマ・ヅ・イよー。カレーうどんは、あんなに美味しいのに……なぜだ?!
※
食事して、お風呂に入って、テレビ見たり、そこそこに兄妹で話し合ったり。
そんなこんなで、慌ただしい一日も終わろうとしていた。
「この辺は、けっこう涼しい風が入るんだね。あは……気持ちいいなぁ」
パジャマ姿でベッドに手足を投げ出した私の上を、そよ、と風が過ぎてゆく。
運ばれてくる蝉の声は、まさしく夏の風物詩。昼間に聞くそれとはまた趣が違って、いいものだ。あと半年も経つと、この騒がしさが懐かくなる。
夏は窓を開け放して眠るのが好き。防犯の点で難ありだけど、クーラーはどうも苦手で……。
風通しのいいようにカーテンも開けて、窓辺を覆うのは薄いレースだけ。
月の明るい夜ともなると、眠ってしまうのが勿体なくなるくらいに幻想的だ。
「んー。夏休みが終われば、いよいよ学校だー」
大きく伸びをして、これからのことに想いを馳せる。
二学期からの転校生なんて、珍しがられるだろうなぁ。それはそれで、構ってもらえてるワケだし、いいことかも知れない。
最も怖いのは、異物として排除されることだ。両親がいないことをネタに、陰湿で執拗なイジメが始まらなきゃいいけど……。
「あーもう、やめやめっ! ネガティブになったらキリがない。私らしく、飛び込んでいくだけだよね」
今までだって、そうしてきた。そりゃあ、出会う人すべてが善人と言うことはなかったし、トラブルも少なからずあった。
同じ言語を使っているのに、言葉が通じない人だって、思った以上にいる。
でも、だからって世を儚んでしまうのは、やっぱり間違ってると思う。
それらはイレギュラー。ごく僅かな確立で発生しうる例外にすぎない。そんなものに振り回され、自分の生き様を見失うなんて馬鹿げている。
――もし、この世に生まれる人すべてに、役割が与えられているのだとしたら……。
そう。たとえば、オーケストラの奏者として、それぞれの楽譜が与えられているのだとしたら。
人は、もっと気楽に居きられるんじゃないかな。だって、自分の為すべきことが解っているんだもの。それだけを目標に努力すればいい。
ソロで演奏したい人もいるだろうけど、結果的には同じことだ。演奏しようと努力することに、代わりはない。
結局のところ、いい生き様とは、素晴らしい人生とは、つまりその楽譜どおり演奏しきった者のみが享受する達成感なのかも知れない。
「達成感、かぁ」
じゃあ、私は、どこに向かって進めばいい? どこがゴールなの?
私には、なにも見えてない。演奏すべき楽譜や楽器が、きちんと手元にあって、そのコードを辿っていけてるのかどうかさえも。
私はまだ、世界の広さに惑わされてばかりだ。
それにしても…………寝付けないなぁ。
環境が変わった興奮ゆえか、身体はクタクタに疲れているにも拘わらず、目が冴えてしまっている。
早く眠らなきゃと思えば思うほど、余計に眠れなくなる悪循環。
熱帯夜で寝苦しいワケでもないのに、私は何度も寝返りを打っていた。
「むー。難しいこと考えてれば眠くなるかと思ったけど、うまくはいかないもんだねぇ」
明日は月曜日。とは言え、どうせ夏休み中だし、寝坊したって構わないんだけど。
お兄ちゃんは仕事だから、いつもどおりに起きて朝食の支度とお弁当を作ってあげなきゃいけない。
それが、両親に代わって私を養うために、高卒で働かざるを得なかったお兄ちゃんへの、私なりの恩返しだ。
……なんだけど。そんな使命感が、またぞろ意識を高ぶらせてしまう。夜闇の中、見つめた時計の針は、午前零時を回っていた。
こういうときは難しい本でも読めばいいんだろうけど、荷ほどきが済んでないから、どの段ボール箱に入っているのか判らない。
それを探して夜中にドタバタするのは、さすがに迷惑だろう。却って眠気も飛んじゃいかねないし。
無駄に寝返りを打つだけなら、いっそ眠くなるまで、夏の星座でも眺めていよう。
半身を起こしてベッド脇の窓に肘を乗せる。その途端、私の闇に慣れた眼が、明々と灯された照明によって眩まされた。
それは隣家の二階――桜田さんのお宅の一室。開け放された窓の向こうに、あどけない少年の横顔が見えた。
夕方の記憶が甦ってくる。桜田さんは、中学二年生の弟がいると話していた。
名前は、ジュン君。女の子っぽい名前だなと、聞いたときに思ったものだ。
勉強机に置いたパソコンを使っているらしく、彼のかけるメガネが、ときどきディスプレイからの光を反射している。
思い出したように右腕だけが微妙に動くのも、マウスを操作しているからに違いない。
――声を掛けてみようかな?
ふと、思いつく。これからは隣同士だし、なにより同い年という気安さがあった。
仮に通う学校が違ったとしても、挨拶ぐらいは早めにしておくべきだろう。こういうことは、間を空けてしまうと、し辛くなるものだ。
夜中に大きな声を出すのは憚られるものの、隣家との距離は五メートルくらい。
加えて、この静けさ(蝉の声には邪魔されるけど)ならば、ちょっと囁くぐらいの声量でも届くんじゃないかしら。
「おーい。ジュンくーん」
口元に両手を添えて、気持ちばかり、声に指向性を与えたつもりになる。
それが功を奏したのかはともかく、隣家の少年は、ふと顔を上げた。マウスに置いた手を止めて、そわそわしだす様子が可愛い。
折しも夏の夜のこと。もしかしたら、オカルト系サイトでも見ていた真っ最中だったのかも……。
私は調子に乗って、夏に相応しい台詞で更に呼びかけた。
「八ツ墓明神の~祟りじゃ~」
今度は、声のした方角を捉えたようで。
「やっほ~ぃ」と笑いながら手を振る私を見るや、苦笑するどころか露骨に顔を顰め、問答無用でカーテンを閉ざしてしまった。
……そこまで忌避しなくてもいいんじゃない? 凹むなぁ。
でもまあ、考えてみれば仕方ないか。きちんと挨拶してたワケでもないし、ちょっと馴れ馴れしすぎたよね。
それに私だって、いつの間にか他人に私生活を覗かれてたら、やっぱり気分が悪くなるだろうし。
……うん。今のは私が悪かった。明日にでも、なにか手土産を持って謝りに行こう。善は急げだよね! 一緒の学校に通うとしたら、尚更だ。
「手土産かぁ。男の子って、どんなものをプレゼントされたら喜ぶんだろう」
なにを隠そう、私はお兄ちゃん以外の男性、それも同年代の男の子にプレゼントをしたことがない。バレンタインデーのチョコでさえも。
その気もないのに、恒例行事だからと義理で渡すのも、なんだか相手に失礼かなと思ってしまうのだ。
友だちには、『たかがお祭りじゃん。なにマジになっちゃってんの?』とバカにされたけど……。
でも、それを言っちゃうとオリンピックだってスポーツの祭典なのに、参加選手たちは全力本気なワケだしねぇ。
「うん。私は私だもん。これでいいのだ」
――なんて、ちょっと天才バカボンのパパ風に独りごちると、私はベッドに倒れ込んだ。
目を閉じ、ジュン君の喜びそうなものについて、真剣に考え始める。
やっぱりパソコン関連かな? でも、私に買える程度の市販品なら、彼も買えちゃうし。
と言って、手作りするにしても、私ってなんの取り柄もないからなぁ。どうしよう。
「……ぁふ」
気持ちのいい夜風に包まれているところで、柄にもなく頭を使い続けていたら、やっと猛烈な眠気が襲いかかってきた。
もちろん、必死で睡魔に抗わねばならない理由など、私にはない。
ジュン君へのプレゼントは夏休みの終わりまでに考えるとして、とりあえず、今は眠ろう。ひたすら泥のように。
その夜に見た夢で、私は劇を演じていた。
主演ではなかったけれど、私は主役だった。
翌朝、バッチリ早起きをしてお弁当を作り、いつものようにお兄ちゃんを送りだした。
我ながら、なんて甲斐甲斐しいんだろう。これなら私、いつでもお嫁に行けるね!
……なんてことを言って、またあのランボーに手刀をお見舞いされたのは、お約束。
その後、引っ越しの荷ほどきや掃除をしていた私の脳裏に、ふと、昨夜の夢が甦ってきた。
それは、とても不可思議で……。はっきりと夢であることが解っていながら、胸の空くような快感を覚えたのだ。
あまりに楽しすぎて、危うく寝坊しそうになった。
眩くて熱いライトを一身に浴びながら、ステージを縦横無尽に飛び回って、演技する私。
今まで、そんな場面を夢に描いたことなどなかった。生きていくのに精一杯で、演劇なんて、興味すらなかったのに……。
なんだろう、この気持ち。
奇妙に胸が騒ぐ。夢だけじゃなくて、本物の舞台に立ってみたい。その衝動が、私の中で確かに芽生え始めている。
あるいは、昨夜のあれは――
「ひょっとして、予知夢だったりして?」
……まさか、ね。さすがに、それはないだろうけど。
でも、私の心は決まっていた。掃除が済んだら、桜田さん宅を訪ねよう。そして、ジュン君に演劇部があるかどうかを訊ねてみよう、と。
なにかが始まろうとしている予感。走りだす理由は、それだけでも充分すぎた。
私はポジティブに生きてきたし、これからだって、その生き方を変える気なんかないんだから。
<了>