記憶
「ジュン、この店好きねぇ」
助手席の水銀燈が笑いながらそう言った。
「そうかな」
「そうよぉ、おとといも来たばかりじゃなぁい」
「ん? ああ……」
僕はなんとなく、歯切れの悪い返事を返す。
「ちょっと前まで味付けが僕に合わないなんて言ってたくせに、どうしたのかしらねぇ」
悪戯っぽい顔で覗き込まれた。
「それもそうだな、今日は別の店にするか」
僕は車をUターンさせる。
「あらぁ、別にここが嫌ってわけで言ったんじゃないのよぉ」
申し訳なさそうな顔で彼女は言う。
「いや、僕も他で食べたくなったからさ。何か食べたいものある?」
「そうねぇ、それならパスタが食べたいわぁ」
僕は二人で何度か行ったことのあるイタリア料理店へ向かった。釈然としない思いこそあったが、ただの勘違いだろうと思い直した。
最近の水銀燈はこういった勘違いをよくするし、特に気にかけもしなかった。
きっと僕ではなく、他の誰かと来たのだろう。
次に僕たちが会ったのはちょうど一週間後、平日の夜だった。
その日、仕事も終わり、帰ろうとしていると携帯がなった。
着信音はCARPENTERSのPLEASE
MR.POSTMAN、彼女のお気に入りだ。それで水銀燈からだとわかる。
「もしもし、仕事おわったぁ?」
「ああ、今終わったとこ。どうした?」
「ねぇ、今から桜見にいかない?」
「今から? もう夜だぞ」
「夜桜が見たいのよぉ、場所はジュンのアパートの近くの公園ねぇ。あそこ桜の木あったわよねぇ」
「そういやあったな」
「じゃあ決まりねぇ、8時に駅で」
それだけ言うと電話は切られた。彼女はいつもこうだ。思いついたらすぐ行動に移す。
だがそんなところに僕は惹かれているのだろう。ともすれば同じことの繰り返しになりがちな僕の毎日に変化をもたらしてくれる。
大人になっても水銀燈は出逢ったばかりの高校生のころのままだった。だからこそ、僕たちの付き合いは今でも続いているのだと思う。
僕は8時より少しはやく駅についた。彼女はまだ来ていないらしい。
彼女が来るのを待ちながら、外から改札を見ていると、仕事帰りとおもわれる人たちが出てきていた。
男と女、年齢の違いこそあっても、人々はみな無表情だった。まるでこの改札を抜ける時はそうしなければいけないと決まっているように。
しばらくして、彼女の姿を見つけた。僕に気付くと微笑みながらこっちに向かってくる。
その微笑みは、行きかう人の暗いオーラの中で浮かび上がって見えた。
「ごめんねぇ、待ったぁ?」
「いや、僕もさっき来たところだから」
「それなら良かったわぁ、じゃあ行きましょ」
彼女は僕の手をつかみ歩きだす。リードするのは決まって僕ではない。
付き合いはじめの頃こそ抵抗があったが、これが僕の、そして彼女の性に合っているのだろうと思いはじめるとすぐに慣れていった。
「それにしても昨日はごめんねぇ」
「昨日? 何かあったっけ?」
「ほらぁ、ごはん食べに行ったじゃなぁい。そこで私酔っ払っちゃって……ジュンにも迷惑かけたでしょう?」
昨日? 昨日は会っていない筈だ。
「ウェイターさんにワインまでこぼしちゃって、家まで送っていくの大変だったでしょう?」
「ああ……どうだったかな」
「もう、覚えてないのぉ?
ジュンはそんなに飲んでないと思ったのに」
昨日は仕事が長引き、部屋についたころには日付が変わる時刻だった。水銀燈とは会う約束すらしていなかったのに。
僕ではないとしたらその相手は誰なのだろう。
そんなことを考えながら、彼女の話に適当に相槌をうってやりすごした。
公園につくと、桜は葉桜になりかけていたが、まだ綺麗に咲いていた。
それほど大きな公園ではないため、特別ライトアップされてはいなかったが、街灯の光だけでも雰囲気を出すのに十分だった。
「ちょっと遅かったみたいねぇ、でもこういうのも悪くないわぁ」
「そうだな、僕も満開の桜よりこんな散り際のほうが好きだよ」
二人で桜を眺める。その時僕は何故か、風を受けて少しずつ散り、緑の葉に変わっていく桜が二人のことを暗示しているような気がした。
「でも……今年も来れてよかったわぁ」
「今年も?」
「そうよぉ、一昨年と去年の今日も二人でこうして夜になってから来たじゃない。それで今年も見たくなったのよぉ」
「……」
何も言えなかった。僕たちは二人で夜桜を見たことは一度もない。今日がはじめての筈だった。
この公園には前にも一度だけ二人で来たことがある。だがその時は明るい時間だった。それについては間違いない。
彼女だってその時のことを忘れるわけがないんだ。
しばらくして、彼女はそろそろ帰ると言った。
「ほんとはジュンの部屋に泊まっていきたいけど明日も仕事なのよねぇ」
彼女のことを駅まで送っていく間も、彼女は何か話し掛けてきたが、その内容も、僕がどう答えたのかも覚えていない。
僕が「あること」についてずっと考えていたからだ。
次の土曜日、水銀燈は僕の部屋に泊まりにきた。ソファに二人で座り、彼女は本を読み、僕は持ち帰った仕事を片付けていた。
だが仕事はほとんど進まない。「あること」を確かめることで僕の頭が一杯だったからだ。
「なあ水銀燈」
「なぁにぃ」
読みかけの本を置いてこたえる。
「水銀燈から僕の携帯に電話がかかってきた時の曲、なんていったっけ?」
「ねぇジュン……それは私からの電話が少ないって言いたいのぉ?」
声が少し低くなる。自分で気付いているかわからないが、機嫌が悪くなるといつもこうだ。
そういう意味で取るのも仕方ない。普通なら自分の携帯のことなんだから忘れるほうがどうかしている。
「違う違う、普段マナーモードにしてるからさ、つい忘れちゃって」
「もう、しっかりしなさいよぉ。CARPENTERSのTOP OF THE
WORLDでしょう?」
「そう……だっけ」
「そうよぉ、ジュンがこれにするって言ったんじゃない。古い曲だけど気に入ってるって。
だから私の携帯にジュンからかかってきた時もこの曲にしてるのよぉ?」
彼女は呆れたように言った。
「ごめんごめん、そうだったな」
何でもないようにこたえたが、僕の中でそんなことがあるわけがないと打ち消し続けてきた「あること」が確信に変わった。
彼女から僕の携帯にかかってきても、僕が彼女の携帯にかけても、流れるのPLEASE
MR.POSTMANなのだ。
この曲は、女の子がボーイフレンドから手紙が来るのを待っている曲で水銀燈の好きな曲、そして着信音にしたがったのも彼女のほうだった。
僕が歌詞の内容を聞いて、おまえらしくないなと冗談のつもりで言ったら半泣きになって拗ねたのを覚えている。
なだめすかして許してもらうのに一時間はかかった。
結局その日一日、表面上はにこにこと笑いながら過ごしたが、僕の心は暗い気持ちで一杯だった。
それからの日々は僕にとって辛いものだった。彼女の勘違いに決まってると、僕は試すように昔のことを何度も何度も尋ねた。
だが彼女からかえってくるのは、僕の知らない二人の思い出ばかりだった。
僕が浮気をして大喧嘩になったこと、私と真紅どちらがいいのかと僕に詰め寄った時のこと、どれもこれもが偽物の記憶。
彼女のほうが正しくて僕が間違っているような気さえしてくる。
いつか……そう遠くないいつか、彼女の中から二人の思い出は全て消え、僕のことも忘れてしまうのかもしれない。
それがとても怖かった。彼女のことを心の底から愛していたし、ずっとそばにいてほしいと思っていたから。
そんな僕の気持ちを嘲笑うかのように、二人の記憶は次々と別のものに変わっていった。
水銀燈の今年の誕生日は平日だった。お互いに次の日も仕事だったため、水銀燈はディナーの後で少しだけ僕の部屋に寄ってから帰ると言った。
駅から部屋に向かう途中、僕たちは公園に行くことにした。
公園の桜はすっかり散っていた。
「桜も散った後はただの木ねぇ、前に来た時はあんなに綺麗だったのに」
花の散った桜を見ながら呟いた。
「水銀燈、これ……プレゼントだ、受け取ってくれ」
僕は、彼女の誕生石のついた指輪を差し出した。彼女はそれを受け取り、指にはめると月の光にかざした。
宝石が光をまとって煌めく。
「……うれしいわぁ」
そう言って俯く。そのまま何度か頷いていた。再び顔を上げた時、目には涙がたまっていた。
「何も泣くことないだろ、大袈裟」
言い終わる前に彼女は抱き付いてきた。
「ちがうの、ちがうのよぉ……最近ジュンが私と一緒にいても寂しそうな顔してることが多かったから。
もしかしたら冷めちゃったかなって、別れてほしいなんて言われるかと思ってたのよぉ」
彼女は声をあげて泣き出してしまった。
何も言ってあげることが出来なかった。ただ、たよりなく彼女の背中に手をまわしているだけだった。
僕が水銀燈の記憶のことで悩んでいるのに気付いていたのだ。
嬉しかった。それだけ彼女は僕のことを見てくれていたのだ。
そう思う反面、不安な気持ちも大きくなっていく。
僕のことを大事に思ってくれる僕の大事なひと、そのひとの中から消えたくはなかった。
どうすればいいのか、どうするべきなのか、何も思いつかない。
「それにしてもジュンもキザねぇ」
半泣きの彼女が顔をあげて言う。
「わざわざこの場所で渡すなんて」
「え?」
「この公園にはじめて来た時のことよぉ。あの時も私の誕生日だったわよねぇ」
「どうして?」
僕は呆然としながら呟いた。どうして記憶が正しいのか。
「私たちが就職してあまり会えなくなった時、私がもう別れたほうがいいのか聞いたわよねぇ。
……でもあなたは言ってくれたわぁ。一緒にいる時間が減ったって僕の気持ちは変わらない、これからも私だけを愛し続けるって。
私が抱き付いたのもあの時と一緒ねぇ」
彼女は涙のかわききらない顔で微笑んだ。
「……時々一人でここに来ることもあったわ」
「一人で?」
「その頃慣れない仕事のせいか喧嘩することが多かったじゃない。そういう時にねぇ」
「そうなのか、知らなかったよ」
「ここに来て考えてみるの。大学を卒業する時に別れておけばよかったのかって、あなたと出逢わない方がよかったのかって」
「……どんな答えがでるんだ?」
彼女は僕の顔を見て呆れたように笑って言った。
「馬鹿ねぇ、今ここでこうしてるのが答えじゃない。……きっとジュンの二度目の告白のおかげねぇ」
僕は腕に力をこめ、しっかりと彼女を抱きしめる。
彼女もそれに応えるように、今までより強く僕を抱きしめかえしてきた。
二人の記憶のズレはこれからも続いていくのだろう。いつ終わるかもわからないし、もしかしたら一生このままなのかもしれない。
楽しかった思い出も、辛かった思い出も、今ではほとんど消えてしまった。これからもこのことで悩み、苦しんでいくのだ。
それでも僕は彼女のことを愛しいと思う。
思い出がなくなっていくならそれに負けないように新しくつくっていけばいい。
たった一つ、この公園で僕が誓った時の記憶が二人にあればやっていける、そう思った。
人の記憶なんて歴史の教科書の年表なんかとは違う。
振り返ってみてその全てを正しく思い出せる人などいない、彼女はその間違いがひとより多いだけだ。
たとえこの瞬間も、二人の間で別の歴史がながれているとしても、これからも彼女と共に歩んでいきたい。
その気持ちだけで、今の僕には十分だった。
僕は彼女を抱きしめ続ける。
fin
最終更新:2006年05月17日 21:07