Story 青玉 ◆cEc2P5uewI 氏
Illust 青玉 ◆cEc2P5uewI 氏
「雛苺が? ……ええ……ええ……じゃあ今日はオフになったのね?」
私がいつもどおり練習の支度をしていたときに突然電話が鳴った。
雛苺が風邪をひいて今日は出られないらしく、一日オフにするというものだった。
『うん、ゆっくり羽を伸ばすことも大事だからね。
あ、お見舞いには僕と翠星石が行くから。それじゃあ』
受話器ごしの声の主は蒼星石だった。
「……」
一日の予定が狂い、急に手持ち無沙汰になる。
「本当にしかたのない子ね」
予定が狂うことが大嫌いな私は、実に不愉快な気持ちになり、独り言をもらした。
そこへ再び私の名前と同じ色をした携帯電話が着信を知らせる電子音を鳴らす。
あら、薔薇水晶からだわ。
あの子がかけてくるなんて珍しいわね。何の用かしら。
通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『もしもし……』
スピーカーから発せられたのは小さな小さな声。
まるでつぶやいているかのような、本当に小さな声だ。
「何の用?」
予定を狂わされて不機嫌な私はいつもより声のトーンを下げて尋ねる。
『銀ちゃん……今日は……別の用があって……遊べないの……』
きっと病院だろう。
水銀燈は暇さえあれば、必ずと言っていいほど病院暮らしの柿崎めぐの許(もと)へと足を運ぶ。
私は彼女の優しさを知っている。
「それで? 私に何の用?」
『だから……真紅……今日の10時に……第3スタジオに来て……鍵は持ってるから……』
第3スタジオといえば、おもにピアノやオルガン、キーボードなどの鍵盤楽器が置いてあるスタジオだ。
『……来れる……?』
壁にかかったくんくん時計を見る。番組の懸賞で当たったもので、私のお気に入りグッズのひとつだ。
くんくんの左手……長針は5を、右手……短針は9の少し上を指している。つまり、今は9時25分。
スタジオまでは歩いて20分ほど、ゆっくり歩いても十分間に合う距離だ。
「……ええ、行かせてもらうわ」
『ありがと……待ってる…………』
もう朝食は摂ったしモーニングティーも頂いたので、あとはコートを着て靴を履いて玄関の鍵を閉めるだけだ。
玄関のドアノブに手をかけてひねる。
硬い靴底がアスファルトを叩き、コツコツと心地よいリズムを刻む。
途中、私に気づいたファンらしき男性がサインと握手を求めてきた。
「応援してくれてありがとう。Rozen Maidenをこれからもよろしくね」
「はい! ありがとうございました!」
小さくなってゆく後姿を見送り、スタジオへとさらに歩を進める。
9時52分、私は目的地に到着した。
すでに鍵は開いていた。それはとりもなおさず彼女がもう来ているということを揶揄していた。
「……おはよう……早いね……」
「おはよう。貴女こそ早いじゃない。それで、今日は何の用?」
「真紅……ピアノ……弾けたよね……?」
「ええ。それがどうかしたの?」
「キーボードとピアノは……似てはいるけど……実はけっこう違うよね……? それで……真紅、ピアノ弾けるから……」
「ピアノを教えてほしい、と?」
何も言わずにこくりとうなずいた。
「ふぅ。分かったわ。そこで聴いていなさい」
ふたたび何も言わずにこくりとうなずき、たたんであったパイプ椅子を組み立て、ちょこんと行儀よく座った。
空調でつねに適温を保っているこの部屋の6分の1ほどもある漆黒のグランドピアノ。
鍵盤の前に据えられた木製の華奢な椅子に腰かけ、高さを調節する。
これもまた磨かれてピカピカのカバーを開けると、規則正しく並んだおそらく象牙製であろう真っ白な鍵盤が露になった。
あまりの美しさに思わず感嘆のため息とともに率直な感想が口をついて出てしまった。
「きれい……」
そのピアノは、まったくずれていない、完璧なチューニングが施されていた。
ただ、音を合わせるだけ。実に地味な作業ではあるが、それと同時に非常に重要な作業でもある。
この辺りからどんなことにも決して手を抜かないRozen Maidenスタッフの優秀さが伺える。
それに、相当な歳月を重ねてきた代物であるにもかかわらず、その全体がまばゆいばかりにつややかな光沢をはなっている。
スゥー……
鍵盤に連動して跳ねるハンマーに弾かれた真鍮巻きのピアノ線が、軽快で深みのある美しい音色を次々と奏でてゆく。
「……」
コクコクとうなずきながら、表情をまったく変えずにリズムに乗っている。
そんな彼女を横目に第一楽章を弾き始めると自然と気持ちが和らいできた。
穏やかな空気の流れる中、約20畳の部屋にピアノの強く優しい音色が響き続けた。
200年以上前の聾唖(ろうあ:耳が聞こえず、そのため話すこともできない者)の偉大なる
音楽家によって命を吹き込まれた、3章からなるピアノソナタ。約17分間の演奏が終わる。
「……どう?」
「…………すごい…………」
見ると、彼女は涙を流していた。
表情こそ変わらないものの、拭っても拭ってもとめどなく溢れ流れる涙。
「……真紅……あの……ね……」
「何かしら」
「いろいろ……訊こうと思ったんだけど……グスッ……
なんだか……ぜんぶどうでもよくなっちゃった……」
なおも涙を流し、泣きじゃくりながら彼女はそう告げた。
「そう……ならよかったわ」
「え……?」
少しずつ落ち着いてきたようで、鼻をぐすぐす鳴らして顔を上げ、こちらを見る。
上げたその顔は、さっきまでの無表情ではなかった。
「いい? 本来音楽は他人(ひと)に教わるものではないの。
何より大事なのは、技術や人気なんかじゃなくて、
自分の心をどれだけ演奏に込められるかなのだわ。
貴女は、私の演奏を通じて私の心を感じとってくれた。
それだけで十分じゃない? 他に何が要るかしら?」
「うん……うん……」
「さあ、次は貴女の番よ。ピアノでもキーボードでも、伝えたいものがあればおのずと伝わるものよ」
「うん!」
満面の笑顔を見せる薔薇水晶。
(フフ……いい顔じゃない……本当はその気持ちだけで十分なのだわ)
その後の彼女の演奏は、思ったとおり私の心へとまっすぐに届くものだった。
再びこの部屋に旋律が流れ始める。
私は、実を言うとCDの売り上げなんてあまり興味がない。確かに売れれば嬉しいけれど、それより何より、
生で伝えたいものがある。だから、私は売り上げよりライブでの観客との意思疎通を大事にしたい。
私の目の前で楽しそうに鍵盤を叩いてるこの少女のように、まっすぐ人の心を打つことが大切だから。
おわり
最終更新:2006年04月17日 10:44