Story ID:QXZdiR7P0 氏(334th take)
バンドのヴォーカルを始めた真紅は、より上手く歌えるようになりたいという意志から、楽器屋に足を向けていた。
「本を買うと言っても、どれが良いのかしらね…」
真紅はコールユーブンゲンやソルフェージュの並ぶ棚を見たが、どうも違う。
向きを変えてみると、発声練習のタグがつけられた棚があった。
「この辺よね、多分」
壮大な背表紙の風景の中から、良さそうなものに手を伸ばした。
はじめに
やりますか やりませんか
おめでとうございます!!!
貴方は何万冊もある多数のヴォイストレーニングの本の中から的確な判断にて
この本を選び出した、幸運な未来のヴォーカリストです!!!
!!!お金は1200円くらいかかります!!!
最初のページには、著者からのメッセージが書かれていたが、とても奇妙だった。
「何だか妙な本ね…」
いぶかしげに思いながらも、ページをめくってゆく。書き始めの奇妙さに比べて、中身はまともだった。
「案外しっかりしているわね。そんなに高くもないし…これにしましょう。
そこの店員! この本を頂くわ」
「え? ああ、はい、お会計はこちらになります」
本を整理している店員は作業を中断して、真紅をレジの前に案内した。
◇
夕食をとり終えた真紅は早速自室で、買ってきた本を読み始める。
腹式呼吸の原理や練習法などを読み終えると、体作りについて書かれているセッションがあった。
ヴォーカリストは、もちろん発声練習をすることも重要だが、発声するための体を創り上げることも重要である。
ヴォーカリストは喉だけを使って歌っているのではなく、腹筋や背筋はもちろんのこと、肩、腕、足など、全身の筋肉を使っていると言っても過言ではない。
また、ライブの途中で息が上がってはお話にならない。
そのために、定期的な運動をすると良いだろう。
特に水泳は上半身をベースに全身の筋肉を鍛えられる上、肺活量も鍛えられるため、お勧めである。
次点はジョギングで、……
「運動? 運動ね…私は何もしてないから、軽くしておいた方が良いかしらね…」
中盤まで読み終えた後、真紅は最初の呼吸法のトレーニングを軽くしてから、眠りについた。
◇
それから二日が経ったころ、水銀燈、翠星石、蒼星石、真紅の四人は、市が運営するプール場に足を運んでいた。
更衣室の手前にある休憩所では十数人が休んでおり、混んでいる事が予想された。
「ずいぶん混んでいるわね」
「そうねぇ。まあ夏だし、日曜日だしィ」
「水泳なんて久しぶりですぅ」
「そうだね。高校じゃプール学習はないみたいだし。泳げなくなってたりしてね」
四人は更衣室に入る。幸運にも連続して空いているロッカーがあった。
真紅、蒼星石、水銀燈、翠星石の順に並び、おのおのが着替えを始める。
「あれ? 水銀燈、水着替えたのかい?」
「ええそうよぉ。以前久々に着たら合わなくて」
水銀燈が手に持っていたのは、黒いリボンがついたビキニだった。妙に値が張りそうなデザインである。
そしておそらく、この通りなのだろう。
「こんな市民プールにはもったいない水着だね」
「フフ、でも、翠星石も割といい水着じゃない?」
「いい目してるです、水銀燈! この水着は特売品ではなくてですね、デパートの……え゛?」
翠星石は、緑を基底としたホルターネックのビキニをつけた胸を自慢げに張りながら喋り始めたが、何かグロテスクな生き物でも見つけたかのような声を上げ、押し黙った。
水銀燈と蒼星石はその様子を見ていたため、当然、翠星石の視線の先を追って、振り向いた。
「そんな…まさか…現実? ねえこれ現実なの? それとも二次元なの?」
「インポッシブル!(ありえない!)」
三人の視線の先には真紅がいた。その胸の上には、燦然と輝く『3-2-21 真紅』の文字があった。
その後、水銀燈は当然真紅をからかい、真紅はそれをとっちめようと、顔を真っ赤にして追いかけ始めた。
あまりに足場がすべり危険だと思ったのか、自由遊泳プール内に飛び込む水銀燈。
同様に真紅も、大勢の人が気ままに動き回るそのプール内に飛び込んだ。
「まぁーったく、準備体操もせずに何やってるですか…」
「アハハ、仲がいいよね」
翠星石と蒼星石はその様子を眺めてあきれたように笑っている。真紅はとても必死なようだった。
「追いかけるのは良いですが他の客を押したりなんだりするのはどうかと思うですぅ。しぃーんムグッ」
呼び止めようとした翠星石の口を押さえる蒼星石。その目は楽しそうに笑っている。
「まあまあ、二人の間のことだから、いいじゃないか」
「ですけどぉ…水銀燈の方が泳ぐの上手いですし、放っておいたらずっとやってるですよあいつらは」
「そうだね…」
「まあ蒼星石がいうなら大目に見てやるですぅ。さあ、準備体操するですよ! ってあれ? 蒼星石?」
目を離した少しの間に、蒼星石はいなくなっていた。自由遊泳プール、競技用プールのどちらにも見当たらない。
途中、水銀燈の姿を見つけたので、何とはなしにそれを眺めた。
水銀燈は本当に泳ぐのが速く、その背泳ぎは真紅のクロール並の速さかもしれない。
泳ぎを止め、足を付くと、余裕に構えて真紅を見、手招きしている。
しかし、真紅がある程度近づいた頃、何か異変に気がついたのか、足元のほうを見て慌て始めた。
そしてそのまま、泳ぎ始めることもなく、真紅に捕まった。そこから先は、水銀燈アワレwwwwwwwとしか言えなかった。
「はぁー。あのふたりは一体全体、何がしたいんですかねぇ」
「ほんとだね!」
「わっ、蒼星石! どこ行ってたのです?」
「いやちょっと…うん、洗浄シャワーをもっかい浴びてきたんだよ、うん」
そう言う蒼星石の体は、しかし頭の先まで思いっきり濡れていた。そして準備体操をし始める。
「まず手始めに、競技用プールで一緒に潜水しないかい? 今日は深さ3メートルらしいよ」
「それはいいですね! 陽もちょうどプール内に落ちてますし」
◇
そして帰路、水銀燈は切り出した。
「急に誰かに足を掴まれたのよぉ。」
「へぇ。それは、ちょっと怖いね」
「足を掴まれたのですか。だからあんなに慌ててたのですか」
「あらぁ? 見てたのぉ?」
「ええ、準備体操しがてら観てたですよ。」
「僕と一緒にね!」
「ふぅん…」
返事をする水銀燈だが、あまり得心行かぬようだ。
そして翠星石は怪訝そうな顔をしていた。蒼星石と一緒に? 果たしてそうだったろうか?
「じゃあほんとにただの偶然で足を掴まれたのねぇ。この私の足を掴むなんて…」
「水銀燈の脚は細くて綺麗だからね…」
「なによぉ、急に」
「え? いや、なんでもないよ。なんでもないさ…ねえ、翠星石?」
蒼星石は水銀燈に向けていた顔をぐるりと回し、翠星石に向けた。不自然に笑っている。
「はいなのですぅ!」
翠星石はそれに応えて、笑顔で答えた。彼女達は、双子である。
ぼうっとしていた真紅が遂に口を開いた。
「明日からジョギングでもするのだわ。もうプールには行かないわ」
「なぁに言ってるのよ真紅ゥ。また週末にでも行きましょう?あの水着は似合ってたわよぉ。私じゃ絶対に着こなせないわねぇ、ウフフ」
「…っ!!!」
ふたりは再び、追いかけあい始めた。
(おしまい)
最終更新:2008年06月30日 00:27