更衣室に着くころには、巴は大体の事情を理解していた。
昨夜の出来事の恐ろしさと、真紅の寝不足状態、この2点を考えれば、今真紅を眠りから覚まそうとするのは自殺行為以外のなにものでもないということを。
「起こしても、真紅の意識が完全に覚醒するとは限らない」
体操着に着替えながら、蒼星石はなおも言った。
「もし『半分寝ていて半分起きている』状態になってしまうと・・・・・・恐ろしいことになる。
たぶん行動にセーブがかからないんだ。昨日はまさにそんな状態だった」
昨日。巴は真紅から翠星石が受けた仕打ちについての説明を思い出し、赤面する。
あれで『大筋』なのだとしたら、細かいところでは一体どんなことをされたというのだろうか。
「だから僕たちはそんな危険を冒してまで真紅を起こすより、起こさなかったことで後から怒られる方を選んだ」
巴以外の6人(薔薇水晶以下略)は沈痛なおももちである。真紅は普通に怒ってもけっこう怖い。
それを『まだまし』だと判断するなど、もはや昨夜の真紅の状態については完全に巴の想像力を超えていた。
だいたい全員が着替えを終えたころ、ふいにチャイムの音が鳴り始めた。
「やばいかしら!」
「減点なのー!」
「急ぐわよぉ」
「・・・・・・おはしを守って」
今鳴ったのは始業5分前の予鈴である。何だかんだやっているうちに休み時間が終わりつつあったのだった。
体育の授業は集合に遅れると減点があり、さらに遅刻が連続するとグラウンドを走らされたりもするので、全員そうはいくかと急ぎ始める。
「まずいね、巴ちゃん、急ごう」
蒼星石が呼びかけてくれたが、巴はまだ着替えを終えていなかった(あれこれ想像していたせいで)。
「あ、私鍵を閉めていくから、先に行ってて」
それからでも時間的には間に合うから、と巴は蒼星石たちを促した。
「わかった、じゃあ悪いけど先に行くね。・・・・・・翠星石、しっかりして、行くよ!」
「うぅ・・・・・・蒼星石、手を、この手を離すんじゃねーですよ・・・・・・」
こうして6人は更衣室から出て行った。翠星石の様子がなんだかおかしかったが、やはりまだ昨夜のダメージが残っているのだろうか。気の毒なことである。面倒を見ている蒼星石も大変なことだ。
やがて巴も着替えを終えると、ここの鍵を手にして外へと通じるドアを開いた。
そこに真紅がいた。
「あら・・・ごきげんよう、巴」
巴はびくりと身をひきつらせた。あまりのことに声も出せず、目前の影を凝視する。
「やってくれたわね、みんな・・・・・・よく私を夢の世界へ置き去りにしてくれたわ」
真紅の不気味なまでに穏やかな声を聞いて、巴の脳裏には様々なイメージが浮かんでは消えていった。
寝不足、サッカー、凶行、恐怖、胸囲杯、胸、皆、皆は先に行ってしまった。ここには自分が1人。独りきり――
その事実を認識して、巴は激しい恐怖にかられた。全身が小刻みに震えだす。
と、真紅がいきなり一歩こちらへと近づいてきた。思わず「ひ」と短い悲鳴。縮こまるように身構える。
5秒か、10秒ほどの間。何も起こらない。固く閉じていた目を開く。横目で見ると、真紅の視線は巴の背後、更衣室の中へと向けられていた。
「6人の姿が無いわね・・・・・・あなたを置いて行ったの?どうしてかは知らないけれど、ちょっと薄情じゃないかしら・・・・・・」
先ほどよりもだいぶ近い距離・・・・・・30センチと無い・・・・・・で2人は向き合った。
ちょうど廊下の窓からさす日が逆光となって、真紅の表情は影の中に浮かんでいるように見えた。
こちらを見上げる目は半眼。どこか焦点の合っていない瞳。巴は思った。
まさか、これが蒼星石の言っていた『半分寝ていて半分起きている』という状態では・・・・・・。
「それにしても、あと一息のところで教室から出られなくなるところだったわ・・・・・・
みんなには残念だけど、私はもっとかしら・・・・・・」
そうだ、教室。一体どうやって真紅は教室から抜け出したのだろうか。扉は両方とも確かに薔薇水晶が鍵を閉めていた。
他に出られる場所など・・・・・・そこまで考えて、巴は一つの可能性に思い当たった。
まさか、窓から・・・・・・?
そういえば、確か以前に金糸雀が壁をつたって外から教室の窓までやってきたことがあった。
となると、その逆・・・・・・窓から出てどこかに降りることも・・・・・・。
「はじめてだわ・・・・・・」
真紅は変わらず穏やかな声で言葉を紡いでいく。
「この私をここまでコケにしたおばかさん達は・・・・・・」
そして、徐々に、徐々にその頬に笑みがかたちづくられていく。
「まさかこんな結果になろうとは思わなかったわ・・・・・・」
結果。結果って何。ああ、そうか。ここには、今、自分がひとり。ひとりきり。
最終的に真紅を起こさなかった、真面目な真紅に授業を受けさせないようにしたのは私も同じ。
つまり、裁きを与えるのはまず私から、という、意外な、ほんとに意外だわ。結果。
「ゆ・・・・・・ゆるさない・・・・・・」
そして、真紅が、ついに断罪の言葉を、
「ぜったいにゆるさないわよ巴!!!!!!
じわじわと○○○○○にしてあげるわ!!!!!
ここからは一歩も逃がさないから覚悟するがいいのだわ!!!」
巴の絶叫と、授業の開始を告げる本鈴の音がちょうど重なった。
※
「巴ちゃん、どうしたのかな」
「さぁ・・・・・・トイレでも行ってるんじゃーねーですか」
「トゥモエ、来ないの」
「いきなり月モノが来ちゃったとかぁ」
「お、お姉さま・・・・・・はぁ、はぁ・・・・・・」
「ちょ、薔薇水晶、そこは興奮するところじゃないかしら」
なんとか遅刻せずにすんだ6人は、授業が始まってからしばらくたっても一向に巴の姿が見えないことに気づき、心配していた。
「何事もなければいいけど・・・・・・」
蒼星石は呟きながらふと校舎の方向に目を向けた。生ぬるいいやな風が髪をさらっていく。
何とも言えず、不穏な空気を感じるような・・・・・・。
蒼星石はしばらくその場に棒立ちになっていたが、ふと誰かの呼ぶ声に気づき、後ろへと振り返った。
「蒼星石ー、おいてっちゃうのよー!」
「何やってるです、翠星石から離れるなとあれほど言ったですのに!」
見れば雛苺たちがこっちに向かって手を振っている。その向こうではいつの間にかクラスメイト達が体育教師のもとへと集合していた。
どうやらホイッスルを聞き逃したらしい。
「あ、待ってよみんな、って翠星石、君の方が僕を放って行ったんじゃ・・・・・・」
蒼星石は慌てて皆のもとへと駆け出していった。そして、この時にはもう、先ほどのふとした予感はきれいさっぱり忘れてしまっていた。
結局、蒼星石も、誰も、その時までに何も知ることはなかったのだった。
授業の終了まで、あと40分28秒。
6人が、更衣室の奥で倒れている巴の姿を目撃するまであと44分32秒。
6人が、半裸の巴がすでに生ける屍となりはてたことを確認するまであと44分40秒。
6人が、後方で扉に錠が下ろされる音を耳にするまであと44分43秒。
6人が、笑顔の真紅に気づくまで、あと、44分44秒――
『世界杯の夜』了
最終更新:2006年06月21日 01:01