Story  イギリス人 氏
 この世界は嘘や矛盾で満たされている。
けれど僕は、一つだけ信じられるものがあることを知っている。
皆と紡ぐ音楽だけは、誰よりも何よりも素晴らしく尊いものだということを。
そしてまた今夜、僕らは混沌としたうねりの中に身を投げる。
それがさも当たり前のように。
ステージに立つと、スポットライトに身を焦がし、オーディエンスの声で奮い立つ。
そして饗宴が終わる頃には、心地良い解脱感に包まれ、そして爪先から頭の先までゆっくりと幸福感が降りて来る。
これが幸せなんだと思う。
 僕らは決して止まることのない列車のようなもの。
それはガソリンが切れるまで動き続ける。
でもふとした瞬間こう思う。

 『僕らはあと何回この夜を過ごすことができるのだろうか』

 時間は有限であり、僕らも歳を取る。
ずっと一緒、なんて叶うわけがない。
いつかは皆と離れ離れになる。
そんなことを考えてしまう自分に吐き気が――やめよう。
今は満たされたこの感覚を受け入れよう。
 だから僕はそっと目を閉じた―――

 「――石」
 遠くで誰かが何か言っている。

 「――星石」
 少しづつ声が大きくなっ、

 「――蒼星石!」
 「うわぁぁっ!!」

 驚いて思わず大声を出した。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
周りを見渡すとそこは見慣れた教室だった。
 「ようやく目を醒ましたですか。全く蒼星石はお寝坊さんですぅ」
 この聞き覚えのある声は―――
 「……翠星石?」
 「何ですか、その初めて知ったみたいな声は?」
 よっぽど寝ぼけた声をしていたみたいだ。
 「いや、ごめん。ちょっと寝てたみたい」
 「そんなこと見ればわかるです。ほら行くですよ」
 行く? 何処へ?
 分からないという顔をしていると、翠星石は深い溜息を吐いた。
 「まだ寝ぼけてるみたいですぅ……練習ですよ、れ・ん・しゅう!」
 練習……そうだ、今日はバンドの練習日だった。
 「ごめん、ちょっと頭から抜けてたみたい」
 「ハァ…これは頭が痛くなるですぅ…。とにかく急ぐですよ!遅刻でもしたら真紅の野郎に何言われるかわからねぇですぅ!」
 そう言いながら力強く僕の右手を取って翠星石が走り出した。
 僕はそれに付いていくしかない。 

 「ちょ…ちょっと!カバンは!?」
 「そんなの置いといてもノープロブレムですぅ!」
 翠星石は振り返りもしないでグングン前を進む。
 問題はあると思うけど…まぁいいか。
 僕の手を引いてくれる翠星石の背中を見つめながら呟く―――ありがとう、と。

 「ん?何か言ったですか?」
 急に翠星石が振り返った。僕はそれを見て笑った。
 「いや、何も」
 「何笑ってるですか…ああもう時間がないですぅ!走るですよ、蒼星石!!」
 走りだした翠星石に合わせて少し前のめりになりながら僕も走った。
 走りながら思った。
 さっきまで見ていたのは夢。
 でも決して遠くないはずの夢。
 今はまだそれでもいい。
 いつかそれを僕たちが現実にする――そう思ったら、胸の中があの時のような感覚に包まれた。

 終


最終更新:2006年11月23日 02:52