アットウィキロゴ
Story  ID:t88JBGnT0 氏(12th take)
音楽は人の心を映す鏡である。
生き様、好み、考え方…曲にも詞にも現れる。
様々な葛藤、感情、苦悩を映すもの。ここにも、また一つ

          -Coffee~琥珀色の音楽~-

琥珀色の香りの中で響く、軽快なサックスが耳に心地良い。
ふと頭をあげると、ウェイトレスが注文したコーヒーを手にしていた。

「ありがとう」

微笑んでコーヒーカップのセットを受け取ったのは、ショートカットとオッドアイが特徴的な女性─蒼星石である。
香りを楽しんでから、カップに口をつける。
「こんな苦いものをそのまま飲むなんて狂気の沙汰です」と双子の姉は言うが、蒼星石本人はミルクやシュガーでマイルドにした味よりも、ブラックコーヒーのストレートな刺激が好きだった。
ほどよい苦味と僅かな酸味が、煮詰まり気味で薄れ掛かった創作意欲を掻き立てる。
ソーサーの上にカップを戻す。その傍には五線譜とルーズリーフ。遠目には、彼女は喫茶店でレポートを仕上げる学生のように見える。
しかし、彼女はれっきとしたミュージシャン。気分転換がてらこの店へと足を運び、新譜用の曲作りをしている最中であった。
彼女の曲作りは、真紅や薔薇水晶のような「整合性」を重視したものよりも水銀燈の作る「感性」を重視したものに近い。
ふと浮かんだフレーズを書き止め、それを組み合わせて一つの曲にするというものだ。
五線譜には、いくつかのフレーズが既に書き込まれていた。
ふんふんと鼻歌を歌いながら音符を組み合わせて行く。
そうしているうちに、五線譜の上に影が落ちた。

「曲作りは進んでいるかい?」
「─ええ、マスター。ちょっとペースは遅れ気味ですけど」

影の主は初老の紳士。この店のマスターであった。
曲作りに詰まると蒼星石はいつもこの店のコーヒーを飲みに来る。
漂うコーヒーの香りとサックスの音色を暫く楽しんだ後、コーヒーを一杯注文してから曲作りを再開するのが常であった。
落ち着いた雰囲気と、騒がしくない程度の人の入り。路地裏にある小さなこの店を蒼星石は気に入っていた。
初めて訪れたのが何時だったかはもはや覚えていない。それほど長い期間通っている訳ではないのだが、この空間がしっくりと来過ぎるせいか、もう何十年と通っているような気分にさせられる。
蒼星石はマスターの素性を知らない。名前も、年齢も解っていない。
だが、それであっても比較的気安く接することが出来るのは、店の雰囲気とマスターの人柄のおかげだろう。
いつからか、蒼星石が訪れても注文を取りに来なくなった。注文する時は、常にマスターに直接声を掛けている。
うーんと伸びをすると、首のあたりがコキリと鳴った。
気付けば窓の外は夕焼けに染まっている。時計に視線を向けると間も無く午後六時であった。
注文したコーヒーはすっかり冷めてしまっている。

「うわ、もうこんな時間…」
「ははは。作業に没頭しすぎたようだね。どれ、コーヒーを代えよう」
「あ、いや。悪いですよ」

カップを下げようとするマスターを、慌てて蒼星石は制止しようとした。
これはいつもの事なのだが、毎度毎度申し訳なく感じてしまう。

「冷めたホットコーヒーは旨くない。私としては、そのような物をお客様に飲ませるわけにはいかないのだよ」


「ううん。じゃあ、二杯分伝票に」
「伝票には一杯分しか書かんよ」
「そんな」
「その代わり、新譜が出たらサインをおくれ」
「えっ」

好意の押し合いの中提案されたその言葉は、全く予想をしていないものであった。
意図を図りきれず、マスターの目をじっと見てしまう。
その瞳は年齢のせいかやや濁ってはいるものの、実直な人間の持つそれである。

「実は孫の友人が君達のファンでね。孫から頼まれてしまったのだよ」

いやはや申し訳ない、と白くなってしまった頭をこりこりと掻くマスター。
その「孫の友人」に類する年代──恐らく10代だろう──の者がこの周辺に居ない事から見ると、どうやら孫とその周囲にはきちっと言い含めてあるようだ。
それもこれも全て気遣いの為せる物である。訪れる者には安らぎを、がこの店の経営方針だった。

「そういう事ですか。それなら、是非。僕達の音楽を好きで居てくれる人は大事ですからね」

微笑みながら頷き、「何でしたら他のメンバーのサインも貰ってきますよ」と付け加える。
ありがとう、とマスターは笑ってコーヒーカップを手に取った。

新たに運ばれてきたコーヒーと、小腹がすいた為に注文したサンドイッチを摘みながら曲作りを続ける。
フレーズを書き止め、別の五線譜でそのフレーズを組み合わせてゆく─何度繰り返したか解らないその作業は、ゆっくりと、しかし確実に曲を形作っていった。

「っし、と…こんな所かな」

数枚目の五線譜を埋め、顔を上げる。窓の外は既に夜の帳が降りていた。

「時間は…っと」

時計を見ると、針は午後9時半を指していた。外は夜の帳が降り、街が徐々に眠りへとついてゆく。
帰る頃には翠星石は入浴を済ませ、リラックスしている時間だろう。サイレントドラムを叩いて貰うには少々忍びない。

「…仕方ない、今日はここまでにしよう…」

ごそごそと鞄に筆記具と譜面を仕舞い、立ち上がって伝票を手に取った。
肩の凝りを解すように軽く右肩を回し、マスターに伝票と代金を手渡すと、蒼星石は帰途へとついた。
遅くなりすぎたから翠星石は心配してるかな─そんな事を考えながら、夜道を鼻歌交じりに歩く。
それは、新曲のギターラインであった。


最終更新:2006年04月06日 23:40