天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とは、-三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣(くさなぎのつるぎ)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)とも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。



神話での記述

須佐之男命が出雲国で倒した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきた太刀で、天叢雲という名前は、八岐大蛇の頭上に常に叢雲が掛かっていたためとしている。剣は須佐之男命から天照大神に奉納され、天皇家に天照大神の神体として八咫鏡とともに手渡されたとしている。

そのようにして皇居内に天照大神の御神体として八咫鏡とともに祭られていたが、崇神天皇(紀元前148年-紀元前30年)の時代に皇女豊鋤入姫命により八咫鏡とともに皇居の外に祭るようになり、途中で垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女倭姫命(ヤマトヒメのみこと)に引き継がれ、あわせて約60年をかけて現在の伊勢神宮内宮に落ち着いた。(詳細記事:元伊勢)

その後、倭姫命から、蛮族の討伐に東へ向かう日本武尊(ヤマトタケル)に渡された。討伐の後、尾張で結婚した宮簀媛(ミヤズヒメ)の元に剣を預けたまま伊吹山の悪神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまった。宮簀媛は剣を祀るために熱田神宮を建てた。

なお、古語拾遺の岩戸隠れの段において、天目一箇神が金属製の武具を作ったとの記述があり、また、古事記の同段で登場する天津麻羅が何をしたのかが書かれていないことから、このときに天叢雲剣も作られていたとする説もある。そうであれば、このときに三種の神器が全て作られたことになる。


地方・その他に於ける記述


出雲国の記述

八岐大蛇を倒した場所は出雲国で、現在でも鉄鋼の生産で有名な島根県安来市の山奥、奥出雲町で天叢雲剣を須佐之男命が獲得したと古代製鉄と八岐大蛇神話の深い関係を伺わせる。また、簸川上(ひのかわかみ)鳥髪峰(現;鳥上山=奥出雲町船通山)に須佐之男命が高天原より降り立ち八岐大蛇を退治したことから、この神事を祝い船通山宣揚祭が毎年開かれる。須佐之男命が獲得した時は都牟刈の太刀(偉大な力を持つ太刀)と呼んでいた。また、出雲国風土記においても、意宇郡母里郷で「越の八口」を退治したとの記述も見られる。


伊勢国・志摩国の記述

伊勢国、志摩国に伝わる伝説では、鍛冶の神である天目一箇命(当地ではダイダラボッチと同神とされる)が作ったとしている。日本武尊の東国遠征に参加した大伴部氏の領地である志摩国名錐郷(三重県志摩市)から伊勢国の桑名(三重県桑名市)にかけて伝わる伝説である。但し、志摩国を建国した人物は出雲笠夜命であり、同地で行われるわらじ祭りの神事は出雲国の神事と形式が酷似していることなどからも出雲国との関連をうかがわせる。但し、この地方のダイダラボッチは出雲のダイダラボッチとは無関係である。紀伊山中に住んでいた一目連(ひとつめのむらじ)を蹈鞴法師と呼び、かなり後世になり「でいたらぼっち」、「だんだらぼっち」と呼んだ。後に、発音がダイダラボッチと酷似している為、総じてダイダラボッチと呼んでいるにすぎない。


剣の名前の由来
諸説有り、実際は余り判っていない。


天叢雲剣

八岐大蛇由来説
一部の日本書紀にある説より。大蛇の頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた。日本武尊が伊勢神宮でこれを拝受し、蝦夷討伐へ向う途上、駿河でこの神剣によって野火の難を払った。そのため草薙剣という名前を再命名した。

有名な説だが、神剣を気軽に倭建命に預けてしまう点、神剣で草を薙ぐなどあり得るかという疑問などから、「天叢雲剣」「草薙剣」の二剣が歴史的には別の剣ではないかという議論が起こった元にもなっている。


天目一箇命由来説

東海地方の伝承では、天叢雲剣を作ったとされる天目一箇命(ダイダラボッチ)は暴風雨の神様も兼ねているからとも言われている。実際、日本武尊が倭姫命から天叢雲剣を受け取って遠征に赴くのだが、この際に倭姫命が建立した伊雑宮(いざわのみや)の御食地にはダイダラボッチの伝説が残っている。さすがに神剣と言うだけ有って、この地から宮中の神事を司っていた大伴部氏(膳氏)が遠征に同行している。


草薙の剣

「草を薙いだ剣」
上記の遠征時に、日本武尊が野火攻めから脱出する為に、この太刀で草を薙いだ事から。この説の方が、一般には知られている。


「蛇の剣」

クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」であるという説。研究者の間では、こちらの方が通説。神話の記述でも、この剣は大蛇である八岐大蛇の尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。


現在の所在諸説

神話上重要な剣であるため、この剣は模造、偽造、盗難、消失、水没と様々な遍歴を辿った。結果、現在の所在については諸説語られている。


熱田神宮説

熱田神宮の奥深くに神体として安置されているという説。神話の記述の通りであればこうなる。

668年に新羅の僧・道行が熱田神宮の神剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした。しかし船が難破して失敗し、その後は宮中で保管されていた。688年に天武天皇が病に倒れると、これが神剣の祟りだということで熱田神宮に戻された。

江戸時代の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。それによれば長さは2尺8寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。神剣を見た神官は祟りで亡くなったとの逸話も伝わっている。現代になってNHKが熱田神宮に取材に行っているが、問題の神剣は見せてもらえなかった。(『古代史の謎に挑むⅠ』より)

また、熱田神宮に祀られている神剣と皇室(大和王権)とは元々関係ないが、これを皇室を結びつけるために神話の記述が作られたという説や、逆に大和王権が尾張氏を取り込むために剣を贈り、これが神剣となったとする説などがある。


壇ノ浦水没説

平家滅亡の折に、二位の尼が腰に差して入水し、そのまま上がっていないとする説。『太平記』などにみえ、古くから唱えられた説のひとつである。

この時に所持していた物は宮中で元々使用されていた模造品という説がある。元々三種の神器はご神体でもあるので置く地は神託により定められている。つまり常時宮中には置けない。また移動する際には特別な行事が必要であるが行われた記録はない。

この説の元となっているのは伊勢神宮を司る忌部氏(いんべし)が持統天皇に鏡と太刀を渡した事に由来する。この時の太刀が天叢雲剣と八咫鏡ではと言うところから出ている説であるが、伊勢神宮では天皇の即位の際に必ず須賀利御太刀(すがりのおんたち)と御鏡を天皇家に奉納する。つまり、この太刀と御鏡を所持する者が正統な天皇という証でもあるが、これらの太刀と鏡が混同されているのではとも言われている。また、この説は、権力が武士に移ったことを、武力の象徴である剣に喩えて作られた話ではないかとする説もある。


宮中安置説

宮中儀式に使われているものが本物だという説である。

役割的に見た場合、「ここで使われる剣を皇位継承の象徴とする」という意味では正しいが、この儀式に使われているのは伊勢神宮から献上される須賀利御太刀であるので、歴史的には誤りである。
最終更新:2006年04月25日 03:41
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