安倍晴明

安倍晴明(あべのせいめい、あべのはるあきら、延喜21年(921年)? - 寛弘2年9月26日(1005年10月31日))は、平安時代の有名な陰陽師であり、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖である。

当時最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ったエキスパートであり、平安貴族たちの信頼を受けた大陰陽師で、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。道摩法師(蘆屋道満)とはライバル関係にあった。また、平将門の子の平将国が安倍晴明ではないかと言う説もある。

後世に陰陽道の経典となる秘伝書『簠簋内伝』(ほきないでん、別名『金烏玉兎集』)の著者に仮託されている。

史実上の晴明

安倍晴明は、安倍氏の伝える系図によると、大膳大夫の官にある下級貴族安倍益材(あべのますき)(安倍保名)の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれた。阿倍仲麻呂の子孫を称するが、系図では竹取物語にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の直系の子孫であるとされている。いずれにしても古代から続く名門の家柄に生まれている。生年は定かではないが、寛弘二年九月(1005年)に85歳で亡くなったと記録されていることから逆算して延喜二十一年(921年)生まれと推定される。幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたということになっている。

確かな記録に現れるのは960年で、当時天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられた。出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺われる。その後、天文博士の官に任ぜられる。

979年、59歳の晴明は皇太子(のちの花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から分かる。

陰陽師として名声を極めた晴明は、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官を歴任し、位は従四位下にのぼった。さらに天文博士や陰陽助(陰陽寮の次官)に晴明の二人の息子吉昌と吉平が任ぜられ、安倍氏は晴明一代の間に師忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となっていった

墓所・霊廟・神社・末裔

墓所は京都嵯峨にあり、渡月橋の近くにひっそりと眠っている。安倍晴明を祀る神社は、屋敷跡に建てられたという一条戻橋近くの晴明神社や、生誕地の大阪市阿倍野区に建てられたとされる安倍晴明神社など全国各地に存在する。

また子孫では平安時代末期の安倍泰親と室町時代初期の安倍有世が優れた陰陽師であったと言われている。有世は足利義満から信頼され、その推挙で陰陽師では初めて公卿となった。有世の子孫は室町時代後期頃から土御門家を名乗り陰陽道のみならず神道や暦などの分野にも大きな影響力を持つ事になる。
最終更新:2006年04月29日 03:41
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