コロポックル

コロポックル(korpokkur)は、アイヌの伝承に登場する小人である。アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解される。アイヌ語では「p」と「b」の音を区別しないことから、コロボックルとも言われる。アイヌの小人伝説は広く北海道や南千島や樺太に流布しており名称もこのコロポックル・コロボックルのほかにトィチセウンクルとかトィチセコッチャカムィとかトンチ(これらはみな「竪穴に住む人」の意)というふうに呼ばれることもある。



伝説

アイヌ人の小人伝説は北海道や南千島、樺太に広く流布しており地域によって差もあるが大体次のようなものである。

アイヌがこの土地に住み始める前からこの土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。
彼らは情け深くアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが姿を見せることを極端に嫌っておりそれらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。
あるときあるアイヌの若者がコロポックルの姿を見ようとそのものを差し入れるを待ち伏せ、贈り物を差し入れるその手をつかんで屋内に引き入れてみたところ美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青があったという(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれている)。
コロボックルは青年の無礼に激怒し、以降アイヌの人々がコロボックルの姿を見ることはなくなった。現在でも土地のあちこちに残る竪穴や地面を掘ると出てくる石器や土器は彼らがかつてこの土地にいた名残である。
この伝説中地域によってたとえば「コロボックルは怠け者でアイヌが彼らに食べ物を与えていた」とか「コロボックルの手にあった刺青は捕らえたアイヌの人々が奪還を懼れて施したものであって元来からアイヌの風習である」という風な変化が見られる。

コロボックル論争

1886年(明治19年)、渡瀬庄三郎が『人類学会報告』創刊号にて札幌周辺に見られる竪穴住居の跡とみられるものがコロボックルの手によって作られたものであり、アイヌ人の前にコロボックルがかの地に居住していた証拠であるという旨の発表を行い、それに坪井正五郎が『人類学会報告』第9号にて大筋賛成という意見の表明を行った。しかし『人類学会報告』9号にはさらに白井光太郎による匿名での坪井への反論が掲載され以降、小金井良精・浜田耕作・佐藤伝蔵・鳥居龍蔵・喜田貞吉など多くの研究家がこの議論に参加した。結局この論争は1913年(大正2年)、坪井がロシアのペテルスブルクで客死、コロボックル実在説が衰えるまで続く。しかしこの論争はアイヌ研究学の方向を、アイヌ民族が先住民族でないという説(プレ=アイヌ説)からアイヌ民族こそ先住民族であるという説(アイヌ説)に持っていくこととなっただけでなく、広く日本の人類学や民俗学や考古学を飛躍的に発展させるに至ったのである。

コロボックルをテーマにした作品

1959年に佐藤さとるがコロポックルをテーマにした「だれも知らない小さな国」を出版。現在のコロポックルのイメージの礎となっている。この作品は「コロボックル物語」としてシリーズ化され、「豆つぶほどの小さないぬ」「星からおちた小さな人」「ふしぎな目をした男の子」などの続篇が書かれた。1973年には「冒険コロボックル」としてアニメ化もされている。
最終更新:2006年05月02日 00:39
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