アットウィキロゴ
慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までの時代は、江戸時代と呼ばれた。関が原の合戦に勝利し、征夷大将軍となった徳川家康は、江戸幕府を開いた。大坂の役で豊臣氏を滅ぼした後に、大名だけでなく朝廷や寺院に法度を適用して統制を強め、徳川政権の権威を確固たるものにした。

徳川家光の頃に参勤交代制度、島原・天草一揆によるキリスト教の禁止強化、鎖国制度の完成へとつながり、幕府の政治体制が確立された。なお、鎖国後も長崎の出島でオランダと中国との交易は続けられ、琉球王国と蝦夷地の支配も大名を通じて行なわれた。朝鮮とも朝鮮通信使により交流が続いた。

耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらし、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。

社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀中期に元禄文化が栄えた。18世紀に入ると幕府の財政が慢性的に悪化し、徳川吉宗が幕府の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進め、成功させた。その後も体制維持および、再び悪化した財政再建の努力は断続的に行われた(寛政の改革、天保の改革)が、成功せず幕府の権威は徐々に衰退していく。この時期、都市町人を中心とする化政文化が花開いた。しかし、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化、雄藩と呼ばれる藩が藩政改革に成功するなど、幕藩体制は次第に動揺していった。

19世紀には、国内の社会矛盾と外国の圧力により、幕府は大きく揺らいでいた。そんな中、アメリカの黒船来航を契機に200年近く続いた鎖国制度は解かれ、外国との交易が再開された。一方で、公武合体による朝廷の権威増大、尊皇攘夷や討幕運動の高まりなどで幕府の権威は地に落ち、大政奉還が行なわれた。徳川慶喜が政治的巻き返しを図ったが、反発する薩摩藩や長州藩などの倒幕派を中心とする新政府と内戦(戊辰戦争)が勃発。旧幕府勢力を退けた新政府が勝利し、徳川政権は崩壊。新たな首都として江戸を東京と改め、明治政府が樹立した。

江戸時代は、文化の担い手が庶民に拡がった。歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、庶民の間でも寺子屋や藩校で広く教育が行われていた。一部の大名や学者の間では、鎖国の中で蘭学が普及した。
最終更新:2008年12月18日 10:56
添付ファイル