3-567 永久に。



 気がつくと見知らぬ雀卓のほうを見つめていた。
 県予選で戦ったあの試合会場とは少し違う。漂う雰囲気も、卓を囲んでいる人たちも、全てがまるで記憶にない光景だった。その中で唯一見覚えのある桃色の髪が視界の奥で揺れていた。
 和ちゃんだ! ほっとした咲は試合会場に足を踏み入れようとする。が、足は床に貼りついたまま動こうとしてくれない。会場の明かりが消え、それぞれの面子が卓から離れる。和もやや遅れて椅子から立ち上がる。
「え……」
 咲は思わず言葉を失った。こちらを向いた和の表情が、ひどく暗いものだったからだ。
 どうしてあんな顔をしているのだろう。気のせいか目尻には涙まで浮かんでいるように見える。あの気丈な和が……泣いている。
「の、和ちゃん」
 一歩ずつ距離を縮めてくる和に、咲は慎重に声をかけた。何を言えばいいか解らず頭の中がぐるぐるしていたが、何か言わなければならないという漠然とした予感だけは胸に宿っていた。咲の声を聞いても和が顔を上げる気配はない。
「お疲れ様。その、元気出し……、」
 桃色の髪が、咲のすぐ横を通り過ぎた。
「え?」
 台詞半ばで口をつぐみ、咲は目を見開く。
 あたかも咲のことなど最初から見えていなかったかのように、和は重い足取りで廊下を歩いていってしまった。会場の入り口で咲は一人ぽつりと佇む。何が起きたのか本気で理解できず、ただただ呆然と和の背中を眺める。
「ま、待って和ちゃん!」
 我に返り、咲は和に大声で呼びかけた。足は相変わらず動かない。その間にも和との距離はどんどんと離れていってしまう。胸の前で拳を握りありったけの声をぶつけるも、一向に反応らしい反応は返ってこない。
 いつの間にか咲の頬を一筋の涙が伝っていた。
 どうして止まってくれないの? どうして振り向いてくれないの? どうして……。
「嫌だよぉ……」
 嗚咽にまみれた声で喘ぐ。
「和ちゃん、言ってくれたのに……こんなの、ひどいよぉ……」
 ぼやけた視界はそのまま暗闇の底に落ちていった。目の前から消え失せた少女に対して咲は延々と言葉を放ち続けた。和ちゃん、嫌だよ……お願いだから戻ってきてよぉ……。一人にしないでよぉ……!

 その日の朝。史上最悪の寝覚めと共に、咲は生まれてはじめて和の夢を見た。

   ○

 全国出場が決まって一週間が経ち、清澄高校麻雀部はある程度の平穏を取り戻していた。
 清々しい早朝の通学路を歩きながら、和は今後のことについてあれこれ思考を巡らせていた。
 平穏を取り戻したと言ってもそれはあくまで束の間のことだ。部長の作った全国用の特訓は今日から始まることになっているし、大会自体も徐々に開催日が迫ってきている。
 一日一日が過ぎるごとに麻雀部全員の表情が引き締まっていくのが解った。部長も染谷先輩も優希も、咲も。全員がそれぞれの想いを胸に抱いて。
 決勝三校で行った合同合宿は様々な思い出を残してくれた。昨日の敵は今日の友と言うが、それを心底実感できた数日だった。そして何より神社でのやり取りは……今思い出しても顔から火が出そうになる。もちろん嬉しかったことに変わりはないのだけども。
 咲とはまだ出会って半年も経っていない。その現実にただただ驚くしかなかった。もうずっと長いこと一緒にいるような感覚さえする。この先もっと仲を深めていけたらいいのだが、しかしそのためには……。
「和ちゃん!」
 背後から聞き覚えのある声が届いた。和は思考を中断して後ろを振り返る。
 ブロンドのショートカットに円らな瞳。なんとも愛らしい外見の少女が息を切らせてこちらに駆け寄ってくるのが見えた。まさに噂をすれば何とやらというやつだ。
「おはようございます、咲さ――」
 ぽすん。全てを言い終わる前に、咲がものすごい勢いで胸に顔を埋めてきた。
 抱きつかれたという事実に数秒遅れて気がつき、和は胸元を慌てて見下ろす。
「さ、咲さん?」
「よかった……」
 心の底から安堵したような口調で言われ、和はついつい首を傾げてしまった。顔を上げた咲と目が合う。
「和ちゃん、ちゃんといてくれた……」
「あの」
 話がよく見えないんですけど。そう言うより早く咲が何の躊躇もなく手を絡めてきたので、これにはさすがの和も驚くしかなかった。
 こんな早朝、しかも通学路のど真ん中で手を繋ぐというのはその、今さらという感じもしなくもないがやっぱり恥ずかしいもので、いや本当に今さらなのだけど。
「咲さん」
 このままでもいいかという衝動を理性で制し、和はやんわりと手を解いた。
「一応ここは通学路ですから。他の人も見てますし」
「和ちゃん……」
 咲の顔色がみるみるうちに曇っていく。「ち、ちょっと咲さん」半べそになった咲を前に、和はすっかりうろたえるほかなくなってしまった。震える肩を抱きながらどうしたものかと必死に頭を働かせる。
 どうにも状況が把握できない。この人はこんなに情緒不安定だっただろうか。
 全国行きが決まったときにおかしな浮かれ方をしていたのは覚えているが、今回のこれはそれとは全く別のもののように思える。一体彼女の身に何が……。
 結局手を繋ぐことは諦めさせたものの、代わりに学校に着くまで制服の裾を握られる羽目になってしまった。
 これはこれで恥ずかしかったが正直に言ってしまうと咲が本気で泣きかねなかったので黙っておいた。しかし彼女のおかしな行動はこれだけでは終わらなかったのである。
「やだ……」
 昇降口を抜けた先で咲は足を止めた。本来ならここで別れることになっているのだが、彼女は頑なに和のそばから離れることを拒絶していた。
「でも咲さんの教室は」
「わかってる。わかってるけど、でも……いやなの」
 とりつく島もないとはまさにこういう状況を指すに違いない。思わず溜め息をついてこめかみに指を当てた。本当に今日はどうしてしまったのか。
 心配な気持ちを抑えつつ、和はあえて声色を厳しいものに改めた。
「咲さん」
 びくりと咲の肩が上下する。
「昼休みにまた会いましょう。それに部活もあります。それまで我慢、できますね?」
「……はい」
 頼りない返事と共に、制服の裾を掴む指が離される。おぼつかない足つきで反対方向に歩いていく咲を和は不安な心境で見送った。
 あの過剰な甘え具合……できれば昼までには治っていればいいのだが。


 治っていなかった。いやむしろさらに酷くなった。
 普段なら横に座るくらいの距離だったのが、今日に限ってはぴったりとすぐ隣にくっつかれている。
 これだけあからさまに甘えられると羞恥心も麻痺してくるうえ、和も嬉しさを覚えていたのは事実だったので、その日の昼休みはもう思う存分甘えさせることに決めた。
 今朝は意識していなかったが今日の彼女は何か危うい可憐さに満ちていたのだった(当然優希と須賀君には驚愕の視線を送られた。無理もないと思う)。
「今日の咲さん、なんだか様子がおかしいです。どうかしたんですか?」
 昼休みも終わりを迎えかけた頃、和は意を決してそう問いかけてみることにした。しばらく口ごもってから咲はぽつりと、
「和ちゃん……どこにも行ったりしないよね?」
 そんな一言を返してきた。……どこにも?
 それってどういう――言葉の意味を訊き返そうとしたとき、折悪しくチャイムの音が校庭に響き渡った。
 返事のタイミングを逃した和は後ろ髪引かれる思いを感じながらも「戻りましょう」と短く促す。
 どきりとした。咲の放った一言に。まるで心の中を見透かされたかと思ったから。

   ○

 放課後の部室でも咲は相変わらずだった。
 和の傍らを離れない咲を見て、部長が戸惑った表情を浮かべた。
「ねえ和、一体これって」
「それが私にもさっぱりなんです」
「咲ちゃん、まるで赤ちゃんみたいだじぇ」
 優希のそんな言葉にも咲は顔を伏せるだけで和の隣からどこうとはしない。部長共々顔を見合わせて深く嘆息。
「どうするんじゃ、これ」
「どうするって言われてもねえ……」
 みんなの視線が一点に集中する。咲は涙目のまますっかり俯いてしまっていた。理由は解らないがその姿があまりに痛々しくて、半ば無意識に咲の頭を撫でてしまう。
「どのみちこれじゃ全国用のメニューなんてこなせないわ」
「じゃあ今日は……」
「普通に打つしかないんじゃないかのう」
 染谷先輩がそう言った途端、咲が身じろぎして和から身体を離した。袖で涙を拭いてから対面の席に腰を下ろし、
「……ごめんなさい。その、もう平気です」
 とてもそうとは思えない弱々しい笑みを周囲に向ける。膝の上で拳を作りながら絞り出すように言葉を紡ぐ。
「私のせいで全国の特訓ができなくなるなんて……嫌ですから」
「咲さん……」
 言い表しようのない苦しげな笑みが胸に刺さった。
 咲もまた何かと戦っているのだろうか。胸の内に秘めた大きな不安や恐怖といったものと。
 先ほどの問いを思い返す。なぜ咲があんなことを訊いたのかずっと不思議で堪らなかった。自分は何か、咲を不安にさせるようなことをしてしまったのかもしれなかった。
「やれるのね、咲」
「はい」
 部長の言葉に咲は首肯する。部長はぱんと強く手を叩いた。
「はい、じゃあみんな注目して! 今から全国に向けての特訓を始めるわよ!」
 ホワイトボードを見つめる咲の横顔が、やけに儚く和の視界に映った。


 一度麻雀を開始すると咲の様子はどんどん元に戻っていったので、打ち筋に影響するかもという和の心配は杞憂に終わった。だが、
「はい。今日はここまでね。みんなお疲れ様ー」
 部長の声がかかった瞬間、咲はすぐさま和の腕に自らの腕を回してきた。どうやら元に戻ったのは本当に部活中だけだったらしい。
 なんだかここまで来ると甘えんぼうの咲がとてつもなく愛おしくなってきて、和も赤面を隠すのに必死になっていた。こんな一面なかなか見られたものではない。これはこれで……いいかもしれない。
 ところが咲の顔色がまただんだんと陰ってきたのを見て、和はすぐに自身の考えを恥じた。
 やっぱり何とかしないといけない。甘えてもらえなくなるのは悲しいが、このまま咲が笑ってくれないのはもっと悲しかったから。
「今日の部活」
 帰り道、ぴったり身を寄せてくる咲に向けて和は柔らかな笑みを浮かべた。
「よく頑張りましたね。本当はずっとこうしていたかったんでしょう?」
「うん……でも」
 部活中とは違った安堵の微笑みで咲は言葉を返してくる。
「部活の間は、和ちゃんが一緒の卓にいてくれたから大丈夫だったよ。だけど授業中とかは……ずっと不安だった。和ちゃんに触れていないと、怖くて怖くて壊れちゃいそうだった」
 思った通り、咲は何か強い不安を抱いているようだった。その不安が彼女をこれほどまでにか弱くさせてしまっていた。
 普段の咲を取り戻すために、自分はその理由を聞かなければならない。
「話してくれますか、一体何があったのか」
 咲はこくりと小さく頷いて、暮れの夕陽に視線を移した。すでに上空には夜のとばりが落ちはじめ、鮮やかな橙と紺のグラデーションが描かれようとしている。
 夏の匂いを含んだ風が横を通り過ぎていく。
「――夢を見たんだ」
 ひときわ強い向かい風に互いの髪が煽られる。「夢、ですか?」和の問いかけに咲は無言で首を縦に振った。
「あれは、全国の舞台だったのかな。和ちゃんが試合会場で知らない人たちと卓を囲んでた。私はそれを入り口で見つめていて……」
 試合が終わり、卓から立った和はひどく暗い顔をしていたのだという。咲の呼びかけにも応じず、元気のない足取りで廊下を歩いていってしまう和。
 咲にはそれが、和と離ればなれになる暗示に思えてしまったらしい。
 笑えなかった。それはまるで……予知夢なのではないかと。和は愕然とする気持ちを抑えて咲の話に耳を傾けた。
「朝目が覚めて、今のが夢でよかったーって思いと、でも現実になったらどうしようかって思いがごちゃごちゃになっちゃって、そのときのことを考えたらすごく怖くなっちゃって……」
「それで、あんな……出会い頭に抱きついてきたりしたんですね」
「うん。何度も離れようとしたんだけどダメだった。ごめんね、迷惑だったよね?」
「いえ、そんな! むしろ、」
 その後に続く台詞は間一髪ごくりと呑み込んだ。しかし咲には「むしろ」の部分がしっかりと聞こえていたようだ。不思議そうに顔を覗き込まれた。
「むしろ……なに?」
「い、いえ。聞かなかったことにしてください」
「えー、教えてよ。気になる」
 ついには絡めた腕を引っ張られてその場に留めさせられてしまった。真剣な光を宿した咲の双眸が真っ直ぐに和を見据える。しばらくそのままお互いに見つめ合うこと、数秒。
「私はね、嬉しかったよ。和ちゃんが神社で、ずっと私と一緒にいたいって言ってくれたとき。私も心の底からそう思った」
「咲さん……」
「だから私が見た夢は……現実にはならないよね?」
 確かめるような口調の質問に、しかし和は口を閉ざさずにはいられなかった。
 真実を話せるほどの勇気は、もしかしたら転校するかもしれないと伝えるだけの気力は、今の和の中には存在していなかった。
 解っている。いつか、いつかは話さなければならない日が訪れるということは。だからせめて今だけは、たとえ束の間でしかなかったとしても、咲に満面の笑顔を取り戻させてあげたい。
 彼女の笑顔が大好きだから。目の前の少女を……自分はどうしようもなく愛してしまったから。
「もちろんです」
 今はまだ、未確定の甘い夢に身を委ねて。辛い未来が少しでも霞むように。
「私はずっと咲さんと一緒にいます。神社でそうお願いしましたからね」
「よかった。本当にずっとだよ? 高校だけじゃなくて、その先も、さらにその先も……」
「ずっと、ずっとですね」
 いつしか日は沈み、空気も冷えて、通学路を虫の音が包み込んでいる。お互いしっかりと頷き合ってから再び足を前に踏み出した。恋人繋ぎで繋がったそれぞれの利き手から、不意に泣きたくなるほど温かいぬくもりが伝わってくる。
「やっぱり、嬉しいです」
 視線は前方に向けたまま、和はぽそりと呟いた。
「咲さんに触れられていると、胸がどきどきします」
「……じゃあ」
 頬の表面を柔らかい感触が襲ったのはそのときだった。唇の触れた場所が痛いくらいにじんじんと反応を起こしている。本当にただ触れるだけの遠慮がちなキス。
 振り向くと、はにかみ顔の咲と目が合った。
「今のはどうだった? どきどき……した?」
「……」
 それについての答えは声に出さず、行為で直接示してあげることにした。
 暗闇を察知した街灯が明かりを灯し、一つに重なった影を映し出す。虫の音が祝福の音楽を奏で、頭上には満天の星空と半分に欠けた月。夏の風がスカートの裾を翻す。
 はじめての味は切なさと不安定さと、そして狂おしいほどの幸福感で満ち溢れていた。繋がる箇所が二つになって、気づいたときには二人とも嬉しさのあまり涙を流していた。そこでやっと「好き」という言葉が、ごく自然に口からこぼれた。


 現実は時に鋭利な刃となって多くのものを切り裂こうとする。しかし永久の約束を交わした二人の絆が途切れることは、もう永遠にない。

 二人がこの世にいる限り。



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最終更新:2010年04月23日 15:47
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