あまり好きではなかったけれど、麻雀は私達にとってとても大事なものだった。
だって、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、そして私という4人の家族は、
東南西北に分かれてぴったり麻雀卓におさまって、すぐ近くにお互いを感じることが出来たから。
勿論、お小遣いを巻き上げられたのは今思い返しても嫌な思い出だけど、
でもみんなで卓を囲んでいた時はやっぱり幸せだったんだって、今はそんな風に思う。
みんなで同じ時間を共有して、沢山話をして、一杯笑って。
あの頃は麻雀卓の上に広がってそんな光景を当たり前のものだと思っていた。
いつまでもそこにある、決して失われないものなんだって。
でも、それは違ったんだ。
お父さんとお母さんの仲が上手くいかなくなってから、家族が揃うことなんて滅多になくなった。
それに連れてみんなで麻雀をすることもなくなって、同じ話題を共有したり、沢山話したり、一杯笑ったり、
卓の上にいつもあったはずのことが少しずつ失われていった。
私達家族を繋いで絆が音を立てて切れていくようにさえ感じていたあの頃、
私を支えてくれたのはいつもお姉ちゃんだった。
眠れない夜に抱いてくれたのも、悲しくて流れた涙を拭いてくれたのも、全部お姉ちゃんだった。
「りんしゃんかいほうって何?」
「麻雀の役の名前よ。森林限界を超えた高い嶺にも花が咲くことがあるという意味」
「私の名前と一緒!」
「咲、お前もその言葉のように強く咲けば……」
その時は難しいことを知っているお姉ちゃんに単純な憧れを抱いただけだったけれど、
強く咲く……
というあの言葉を誰よりもお姉ちゃんは自分に言い聞かせていたんだって、そんな気がする。
お姉ちゃんが高校受験を翌年に控えた3年生の春に、私も同じ中学校に入学した。
「麻雀のインターミドルを目指そうと思う」
そう聞かされたのは始業式から間もないある日、まだ桜が散る前の通学路を一緒に歩いていた時だった。
「私達家族を繋いでいた麻雀で私が好成績を出せば、お父さんもお母さんも
きっと昔のことを思い出してくれると思う。みんなで仲良く卓を囲んでいたあの頃のことを」
春らしい暖かな南風に吹かれて桜の花びらが舞う中、
雲一つない青空を見上げてはっきりと口にしたお姉ちゃんを私はとても頼もしく思った。
「私もお姉ちゃんと一緒に頑張る」
つられて言った私を見つめる優しい眼差しが嬉しかった。
きっと家族はもとに戻る筈だって、そう思った。
インターミドルの出場資格は個人戦で一人。
私とお姉ちゃんは揃ってその舞台へと勝ち進んだ。
迎えたオーラス、1位はお姉ちゃんで2位は私。
その差は二千点足らず、十分トップを狙える位置につけていたこともあって
5巡目に早速テンパイしたけれどリーチにはいかなかった。
役はタンピンドラ1、しかも2・5・8索子の3面張で
リーチにいって警戒されるのがもったいない手だった。
だから余剰牌を切った後は、静かな対局室で自分の耳にだけ聞こえる胸の鼓動を聞きつつ、
じっとダマって捨て牌が河に流れていくのを見守った。
視界の先で下家が北を切り、対面が7筒子を切り、上家が1萬を切った後の自摸が3索子。
胸に浮かんだ落胆や苛立ちを何食わぬ顔で隠し、それを切った直後、
棚から突然ぼたもちが落ちてきたみたいに下家から2索子が出た。
その瞬間、沸騰したんじゃないかって思う位に体が熱くなったけれど、でも、私はそれを和了しなかった。
だってその牌を切ったのが他でもないお姉ちゃんだったから。
その後2・5・8索子が河に流れることは二度となくて、自摸ることも出来なかった。
結局お姉ちゃんが和了して優勝したのだけれど、でもそのことを悔しいなんて思わなかった。
だって、お姉ちゃんにインターミドルに出て欲しいって思っていたから。
「良かったね」
心の底からそう言ったのに、お姉ちゃんは何だかあまり嬉しそうじゃなかった。
不思議な思いで見つめていると、お姉ちゃんは私の手牌を倒してそこに並んでいる牌を確かめ、
凄く悲しそうな顔をした。
「また昔みたいに家族の心が一つになればいいと思っていたけれど、
早速咲に嘘をつかせてしまったみたいだね………」
ぽつりと聞こえてきたその言葉にびっくりして、
「そんな、嘘なんてついてないよ!」
大きな声で言ったけれど、でもお姉ちゃんは悲しそうな顔をするだけだった。
「こんな風に勝つよりも、咲に全国に行って欲しかった。
…………………………………」
何か言いたそうに見えたけれど、でも言葉が紡ぎだされることはなかった。
重苦しい沈黙の中でお姉ちゃんは唇を噛みしめ、やがて背を向けて去って行った。
その後すぐ、きちんと話も出来ないままお父さんとお母さんの別居が決まって、
私とお姉ちゃんは離ればなれになってしまった。
暫くしてから会いに行ってみたけれど、お姉ちゃんは対局後のあの沈黙が続いているみたいに、
何も答えてくれなかった。
もう麻雀なんてしないって、私はその時心に決めたんだ………。
(嫌な夢を見ちゃった………)
寝ている間に沢山汗をかいたみたいで、目が覚めて最初に感じたのはパジャマの張り付く不快な感触と、
今でもまだその時の傷跡が癒えないお姉ちゃんとの別れを思い出してしまった後味の悪さだった。
この所、頭に浮かぶこともなかったのに………
(原村さんに嫌われちゃったからかな…)
その原因を考えて胸が痛んだ。原村さんにはあの日以来一言も話して貰えないまま。
どうやって糸口を見つければいいのかわからなくて、はけ口のないまま悲しみが胸に積る一方。
ここ何日かですっかり回数の多くなった溜息が、無意識にまた一つ漏れ出てしまった。
(原村さんと会えたから、全国大会を目指そうという気になったのに……)
(お姉ちゃんとちゃんと話をしようって思えたのに……)
(全部嘘だったみたい……)
重たい体に鞭を打ってベッドから起き上がると朝日が眩しかった。
「ロンだじぇえ!!」
元気な声と共に倒された優希ちゃんの手配は18000点の高め。
私は1万点棒と5千点棒を一本ずつ渡してから、もう持ち点がないことに気付いた。
「あ、飛んじゃった………」
ぽつりと言うと、
「最近の咲ちゃんはらしくないじぇ」
「確かにそうね」
「まったく、しっかりしんさい」
「もうすぐ全国大会だぞ。俺の分まで頑張ってくれよ」
本当はわかっている筈なのに、みんな強いて明るい口調で言ってくれた。
でも気遣いが何だか苦しい。
原村さんが卓外からその様子を無表情に見ていたから、対局が終了となって、
点棒がまた25000点に均されていくのに、私の心は沈んだままで…………。
もうどうしていいかわからなくなった。
スカートの裾を握りしめて俯いていると
「本気を出して下さい」
という聞き覚えのある言葉が耳に入って、反射的に顔が上げる。
目が合ったけれど、でもその顔にあの時のような感情は籠っていなかった。
(原村さん……)
冷たい視線に射すくめられて息が詰まる。時が止まってしまったみたいに感じられた。
それで、逃げるように目をそらしたら、
「和、なんでそんなこと言うの? あなたも最近何か変よ?」
「一体どうしたんじゃ、和?」
部長や染谷先輩が窘めるように言う声や
「のどちゃん、咲ちゃん……」
優希ちゃんの心配そうな声、そして
「ただ、全国に向けてちゃんと集中して欲しいだけです。いけませんでしたか?」
原村さんの少しも迷いのない声が次々に響いて、
それが麻雀卓の飛び交うのをぼんやりと聞いていたら、不意に壊れていった家族団欒のことが思い出された。
(私が悪いんだよね………。私が駄目だから………)
(強くならなくちゃ………。みんなのために………)
「大丈夫です……」
そんなに大きな声で言ったつもりは無かったけれど、その瞬間部室が静かになった。
(強くなればいいんだ……)
(私が強くなれば、こんな風に誰かが傷ついたりしないですむんだ……)
泣きたくなったけれど、その気持ちを抑え込んで強くなることを胸に誓う。
原村さんにも、お姉ちゃんにも、もうどんなことにも心を動かされたりしない。
「ちゃんと全国に向けて頑張ります。大丈夫です」
(ううん、本当はもう傷つきたくないんだよ?………原村さん………)
最終更新:2010年04月24日 19:00