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【編集中】否定論

肯定的かつ否定的。――この思索者は、自分を反駁してくれる相手を誰ひとりとして必要としていない。そのためには自分自身だけでこと足りるからだ。
ニーチェ『人間的あまりに人間的』

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否定という概念について考えるということ

私たちの日常的な会話の中にも、また学術的な議論の中にも、「肯定」(affirmation)という概念と共に「否定」(negation)という概念が伴っている。文法構造論上、その人類において発達した多くの日常言語にあっても、「否定」とは最も根本的な、最も文法的機能らしいと感じさせる役割を担っているものと言えるのではないか。

また「否定」という概念が浮き彫りになることによって、言い換えるならば、「否定」を発見することによって、はじめて私たちは「肯定」を発見するとさえいえるのではないか。

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否定に関する諸学問

――抽象化された「否定」の可能性

このことを踏まえたうえで、「否定」という概念を現実の様々な具体的な複雑さの中で取り扱っている学問や考察とは別に、「否定」という概念をその現実の様々な具体的な複雑さの中から抽出し、抽象的に取り扱っている学問について考えたいと思う。

その学問とは何かと問い、その問いに答えるとするのであれば、一つに「論理学」が挙げられるだろう。次にブール演算(boolean operation)やベン図(Venn diagram)、集合論(set theory)などの分野において「否定」が取り扱われているという意味で「数学」を挙げることもできるに違いない。

ただし、「数学」については「論理学」の一分野であるという考え方もあり、また「論理学」と「数学」の違いがどこにあるのか境界線をはっきりさせることは難しい。仮にその境界線がどこにあるのかをはっきりさせたとしても、それは場合によっては主観的な分離であるかもしれないし、上記の通り「数学」が論理学の一分野であるという考えに従うならば、この区別の意味はあまり意味をなさない。

そして、この「論理学」、「数学」とは別角度で「否定」を取り扱っている学問を挙げるならば、「言語学」が挙げられるだろう。私たちが抽象的な概念として「否定」を取り扱う場合、「論理」、「数学」、「言語」といったものについて関心を払わざるをえないだろう。

――具体的状況の中での「否定」を捉えるにあたって

このような抽象的なものとして捉えられた「否定」を、具体的に様々な用法の場において捉える時、「論理」、「数学」、「言語」に対する考察が役立つ可能性があるが、恐らく現実の具体的な複雑なものの中での「否定」の意味合いとは幾分異なっている可能性もまた同時に発生するに違いない。例えば更に「生物学」、「生理学」、「心理学」のような学問からのアプローチを加えた場合、「論理学」、「数学」、「言語学」における抽象的な意味における「否定」の意味では明らかに捉え切れられない部分が残ってくる。

その場合は、様々なアプローチから様々な論じ方を試みればよいのであり、そのことが抽象化された「否定」の意味が無意味であるということまでは意味しないと私には思える。数学的な、あるいは論理学的なアプローチで捉える「否定」は同時に「情報科学」における「否定」の意味を示唆するかもしれないし、そのことが更に先ほど挙げた「生物学」や「生理学」、「心理学」において捉える場合の「否定」の意味を再度点検させる可能性もある。

現実に複雑な状況の中で実際に使用される、あるいは考察される「否定」概念を捉える上で、一先ず抽象的な意味における「否定」を考察してみることは、場合によっては様々な問題における何らかの手がかりを与えてくれる可能性は大いにあるに違いない。

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否定の表記について

否定を現わす論理学や数学またプログラミング言語における表記方法には様々なものがある。否定などの概念の表記方法に関する金字塔的な著作の一つにフレーゲの『概念記法』があるが、現在は様々な理由にもよるのだろうが、ほとんど全く使われていない状態にあるが、その表記方法は今なお記録として残っている。

これに類するものは、私が知らないもの含めると非常に多く存在すると思うが、その表記方法が廃れた理由の幾つかを挙げるとすれば、まずそれらが自生的に生み出され、何らかの絶対的なヘゲモニーの下にあった完全な訂正されることが絶対にないという発展経路を歩んでいないことが挙げられるだろう。

また特に「人とコンピューター」との関わりも、表記方法が生き残るか否かに重大な役割を果たしたに違いない。フレーゲの『概念記法』における表記方法は、この「人とコンピューター」との関係性ばかりでなく、直線的ではなく、空間的な表記方法であったが故に、単純な「チューリング機械」のような構造をもったフィードバックが存在する場所において不適格であった点は指摘できると思う。論理学や数学においてよく使用される記号に「¬」が存在している。プログラミング言語においては「!」が日常的な使用方法とは別に使われてもいる。私は以後、否定を論理学的に表現する場合、「¬」を用いる。

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日常会話における否定の位置づけ

私たちが言葉を用いる時、私たちは言葉とは別のものをイメージしている。その別のイメージを説明するために言葉を繋ぐのである。私たちが最もイメージしやすい物事は、目に見えているような物事だと私は思う。目の前に「ある」もの、あるいは「あるべき」もののイメージが浮かびやすい。「目の前」と表現したが人は夢を見る時、起きているときと似たような規制に基づいてイメージすると思うが、夢は視覚や聴覚の働きが弱まり、その代わりにイメージする規制がその外的刺激から切り離されたがゆえに強く心象として浮かび上がるものであると私は解釈しているが、そういった状況と照らし合わせると、「否定」は「ある」もの、「あるべき」ものへの反応であり、二次的な発生要因に由来すると感じる。

文法における「基本文型」と呼ばれるものは、「主語」、「動詞」、「目的語」、「補語」を由来としているが、これは同時に私たちにとって一次的な発生要因に由来して構築されることが多いが故であると思う。言い換えるなら、より直観的な場合が多く、また心象そのものから簡単に言語化した状態である場合が多いのだろうということである。二次的な発生要因に由来するものとして「副詞句」、「助動詞」から構成される「時空間」と、「条件節」によって導き出される「条件法」などが挙げられると思うが、これらの「否定」「時空間」「条件法」は何らかの意味で「直接的な知覚」とは別に「思考」に促されている部分があると私は確信している。

その中でも否定は比較的単純な構造を持っている。場合によっては「時空間」や「条件法」を正確ではないにしても、部分的に意味づけることができる。ただしあまりにも正確さに欠く場合が多いが故に、実際は「時空間」や「条件法」による詳細な表現が求められるのが常であろう。ある意味で「否定」は最も簡易的な二次的なもの、反応されたものとも言えると思う。

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繰り返しや否定的動詞における否定の肯定的感覚

否定が二次的なものと表現したが、繰り返し行われることによっては印象に違いがある場合もある。

例えば、次の二つの表現を比べてみるとしよう。

Aさんは今日来ない。

Bさんはほとんどゴールを外さない。

時間や頻度を表現する単語を補ってはいるが、ここで使用されている意味での否定の意味合いや印象には小さくない違いがあると思う。元々外すという表現には否定的な意味合いがあるという点も含めて、前者は来ることが念頭に置けれているが、後者はゴールを決めることが念頭に置かれている可能性が高いと思われている状況の中では否定表現の印象もまた幾分異なってくると思う。

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集合論の中の否定


集合論を考えるにあたり、ベン図と並行して考える場合が多い。ベン図はその全てがそうであるとは言えないが直方体の中に円が描かれているものが非常に多いのだが、集合論を考える時はこの図式的なものが思考の手助けになっている。ベン図や集合論には言語とは違った形で私たちの表現を手助けする可能性があるだろう。

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(以前の日記より)

集合論的にいえば、ある集合Aが内側に閉じているのに対してAの否定は外側に開いている。Aがアウトラインの内側にあるのに対して、Aの否定はアウトラインの外側にある。一般的にAという対象よりもAの否定の方が指示する対象のエリアが広い。

否定系の名辞を多用するということは、悲観的な世界観を生み出すとは必ずしも言い切れないだろう。

むしろ、Aの否定が何であるかの指示なしに展開される肯定系の名辞を多用することによって、論理の像を矮小化してしまいかねないとも思う。

否定系の名辞はその対象をひとまず意識の中に入れつつも、その対象の否定、つまり開けた世界を会話の主題に置こうとする試みとも考えられる。

否定は単に封鎖でもなければ、単に抑圧でもない。単に抹消でもなければ、単に悲劇でもない。

言語の性質上、われわれは名辞の肯定系を連関させることによって、物事を説明しようと試みているところが大きかったように思う。繰り返して言うが、肯定系の名辞は絶えず閉じている側である。われわれの単純な錯覚として、肯定は何か良さげな、否定は何か悪いような印象を受けがちであるように感じる。そんな印象とは別に、私は肯定の閉じているという性質と、否定の開けているという性質を指摘しないわけにはいかない。

否定系の名辞を連関させることとはつまり論理の像を鮮明にするということである。肯定と否定に関係性があるという至極単純な命題に対して、忘却しないように、肯定系の名辞によってぼやけている論理の像を、またわれわれの手元に引き戻すためにも、われわれは名辞を否定することを躊躇ってはいけない。

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否定概念が生み出す論理演算の世界

私たちは日頃から、様々な物事について思考し、様々な意見を表明している。何かについての方法や計画について自分の意見を述べたりすることも、また何か政治的なあるいは経済的な物事についての考えや賛否を提示したりする。私たちはそういったことを表明すると同時に、その表明とは別に、その裏側を見てみれば、私たちが具体的な出来事についての意見というのは、私たちが組み立てている貴方自身による「論理的考察方法」を曝け出しているというのが実際の所なのではないか。それは政治や経済、社会などについての構造論であるよりもずっと、貴方の精神構造の暴露である。

否定概念と程度への言及

程度がどのような程度のものなのか、また頻度がどのくらいのものなのかということは、文法表現における肯定と否定からは生まれない。私たちが仮に何らかの程度や頻度などについてのバロメーターを提示するには肯定と否定とは別に言葉を盛り込まなければならない。表現の癖として肯定と否定を中心に論理を組み立てられるということはよくあることだと思う。ただ、そうすることによって可能性に関する問題の多くを無視していると断定していいだろう。私たちは論理演算に見られる肯定と否定によって作られる論理を中心に論を組み立てるが、そういった構造が表現しない、表現しえない領域というのは確実にある。その一つが「程度」の言及である。程度を含めた論理が現実の忠実な写像であるとは私は思わない。ただ、同時に程度を含まない論理は、それ以上に現実の何の写像でもない。肯定と否定にのみ形作られた言論は、初歩的な論理学の写像が、ただ日常言語に置き換えられているだけのものであり、そこには現実に感じられる、あくまで直観的な私たちの時間も空間もまるで存在しないかのような世界なのではないか。程度や頻度などに一切言及していない言論は、そもそも、例えばだが、「何が起こるか解らない」という世界観を無視しがちである。

論理演算が自律的に時空間を伴わない問題に関して

論理の初期的な構築段階には時空間が無視されやすいということ

条件法の前提条件が否定の存在である

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(以前の日記より)

【テクスト】
否定というものを考える上で、集合論やそれに類する理論を以て考察するということは一般的によく見受けられる。そしてまた集合論を展開する上で、それに付随して使用されるものにVenn図というものが存在している。他には真理表というものも目にすることができる。Venn図を思考上の指標にする場合の多い集合論的思考方法に基づけば、ある集合Aが内側に閉じているのに対してAの否定は外側に開いている。ここでは一先ず開いている、閉じているという表現が何を意味するのかを具体的に検討することを保留する。

【表記法】
以下においてはC言語の文法に従って、集合Aを<A>、集合Aの否定を<!A>としよう。<>を使用するが、これは単に文章中で<!>が隣接する文字によって見づらくなるのを防ぐために使用する。ここで何故C言語の文法に従う事にするのかについての理由は、単にディスプレイに表示するにあたり数学で使用する式よりもプログラム言語に使用している式を用いる方が表示しやすいと思うからである。だから必ずしもこれらプログラム言語の表記法に従うべきであるとは思っていない。

加減乗除や=といった記号でさえも必ずしも普遍的な絶対性を持った使用法が確立されていると断言することは難しいと思うが、集合論で使用される言語に至っては尚更普遍的な表記法を見いだすのは困難であると思う。そう言った表現形式に伴う煩わしさはそう簡単には除去されることはないように思われる。

【表記法についてのひとつの前提】
これはわざわざ書くべき内容ではないかもしれないが、プログラム言語とは異なる日常言語において、否定は例えば日本語ならば「ない」という表記、世界的に標準語の地位にある英語では「not」という表記が一般的である。品詞や修飾の関係で単にそれぞれの言語内において「ない」、「not」が否定の全表記、絶対的な表記とは言えない所はある。例外こそあっても、基本的に否定は否定を含まない文章や名辞、つまり肯定文や肯定名辞に否定するための記号を付与することによって否定文、否定名辞をつくることが多いと考えていいだろう。

【否定固有の要素】
話を戻すが、<A>がアウトラインの内側にあるのに対して、<!A>はアウトラインの外側にある。一般的に<A>という対象よりも<!A>の方が指示する対象のエリアが広い。これは定理とは言えないが、少なからず否定には肯定が持ち合わせていない一つの大きな要素があるということを指摘したい。

一般的なVenn図の図式を見ると、集合Aだけを扱っているVenn図には境界線が二つあることを見ることができる。一つは<A>と<!A>との境界線であり、もうひとつが<!A>の外側にある境界線である。Venn図というのも一つのモデルであるから、これが物事の否定と肯定を普遍的に表現するもの、整合化するものであるとは、実際は私はそうは思っていない。ただ、一般的なVenn図の使用においてはそのように扱われているという事実に基づいて指摘しているだけにすぎない。

【否定と無限観】
第二の境界線には一つに認知機制に関わる要素として、感覚というもの、特に視覚、視覚的想像が持っている要素の某かを示しているように思える。それは有限と無限という概念とも無関係ではない重要な要素であるように感じる。

私たちが一つの帰納法的な思考方法によって無限という概念生まれえたというのは一つの私の推測であるが、基本的にa=∞という表現は表現として適さないと見てよいだろう。数学などでもx→∞という表記は見ることはあっても、x=∞という表現には無理があると思う。例えば<=>という表記にはC言語においては代入という役割が与えられている。この代入には基本的に限界があり、メモリの許容する範囲内で代入が可能であるに過ぎないのである。

【感情と否定】
少し論点を変えてみよう。次の二つの感情に関わる名辞を否定してみよう。

①楽しい→楽しくない

②哀しい→哀しくない

否定する前では「楽しい」は楽観的な表現に感じるが「哀しい」は悲観的な表現に感じる。「楽しくない」というのも悲観的な印象を受ける。「哀しくない」という表現は悲観的な印象を否定しているにも関わらずそれほど楽観的表現には感じない。

【否定と悲観】
一般的に否定を多用する事によって、悲観的、悲観主義という批判を単純な印象によって受けるというのは、私としてはそれほど驚くべきことであるとは思わない。例えば否定的な表現が徹底している古典にナーガールジュナの『中論』などがある。この著書において否定はかなり際だって多用されている。『中論』の思想には学術的に中観派という名称が与えられており、この思想には西欧の思想家から悲観主義、否定主義、虚無主義、相対主義など否定的な批判がされているという事実があるらしい。しかし否定を多用するということは、悲観的な世界観を生み出すとは必ずしも言い切れないのではないかと個人的には思う。私は個人的に『中論』において表現されている論理が正しいとは思っていない。しかしながらこういった思考実験さえも否定され、黙殺されてしまうことには強い危惧を覚える。

【論理的正しさについての補足】
補足として、私は「論理的な正しさ」が「行動の正しさ」や「倫理的な正しさ」あるいは「絶対的な正しさ」を示すとは全く思っていないこと、「論理的な正しさ」を「真理」と見做すというゲームにも頷けない、参加し難いと私が思っているという点は一応ながら書いておくことにしよう。

【肯定のみの論理像】
むしろ、<!A>が何であるかの指示なしに展開される肯定を多用することによって、論理の像を矮小化してしまいかねないとさえ私には思える。

人は否定する時、否定する前の肯定としての対象をひとまず意識の中に入れつつも、その対象の否定、つまり開けた世界の側を意識下に捉えようとする試みのように感じる。

【否定観の否定】
否定は単に封殺でもなければ、単に弾圧でもない。単に却下でもなければ、単に悲劇でもない。言い換えると、封殺、弾圧、却下、悲劇などは肯定を中心とした表現によってさえも十分に展開されていると言える。否定が単に否定であるという理由で使用が憚られることには、思うに全く意味のないこと、根拠のないことであると断じてもよいのではないかと指摘したい。

【言語および認知における肯定】
言語の性質上、あるいは認知の性質上、われわれは否定を伴わない表現、つまり肯定的表現を連関させることによって、物事を説明していくのは確かに一般的であり、気軽で無理がなく、日常的であるとさえいえる。

【否定の要素の強調】
繰り返して言うが、肯定というのは閉じている側である。われわれの単純な錯覚として、肯定は何か良い印象、否定は何か悪い印象を受けがちであるように感じるというのは確かにあるし、否定しようがない。そんな印象とは別に、私は肯定の閉じているという性質と、否定の開けているという性質を指摘しないわけにはいかない。

【否定の可能性】
否定を連関させることとはつまり論理の像を鮮明にするという要素があるという点を強調したい。肯定と否定に関係性があるという至極単純な命題に対して、忘却しないように、肯定によってぼやけている論理の像を、またわれわれの手元に引き戻すためにも、われわれは否定することを躊躇ってはいけない。もし私たちが肯定ばかりに目を奪われてしまったならば、そこには批判しがたい同語反復ができあがってしまう事だろう。否定することは必ずしも敵対することではなく、人格否定することでもなく、あくまでも否定する方法を模索することによって何かしらの可能性が生まれてくるのではないかと推測する。

【補足として】
ここまで肯定と否定について論じてきたが、その基礎に集合論やVenn図を用いた。しかし、私自身の中には集合論批判というものも同時に用意されている。ここで論じられてきたことを部分的にか全体的にかその評価は難しいところではあるが、幾分批判的に論じる必要性があることを私としても意識は持っているという点はあくまで書き記しておきたいと思う。

そこで用いる道具について触れておけば、一つに境界設定問題、一つに条件分岐の思考法などがある。前者はカラー、グラデーション、レイヤーについて展望されており、後者は可能性についての論理、時間の概念などを展望している。


≪追記≫文章の前後関係を考える必要もさほどなさそうなので、追記にとどめる

【肯定と否定の概念の非独立性】
肯定と否定について考えるにあたり、一つ注意すべきことがあるのではないかと思う。一般的に肯定と否定というものは、様々な他の表現形式から切り離され、何か特別な、他の表現形式が入り込む余地のないような扱いを受けているように私には見受けられる。確かに肯定と否定には文法上特殊な役割が与えられている。しかしもし私たちが一つ一つ肯定と否定の使用されている有り様を見たならば、他の表現形式の有り様に類似している像を見出すことができるのではないかと私には思える。

【集合論上に位置付けた肯定と否定】
肯定と否定を考察するにあたり集合論、Venn図、真理表、論理演算などを扱う場合がある。このとき、私たちは一般的にnotと品詞が異なる様々な単語を集合論から見出すことができる。例えばandやorなどは論理演算、集合論において重要な役割を与えられている。これらは接続詞であるが、集合論を論じるにあたりnotと深く関わってくる。これ以外にもone、some、other、another、others、などの表現も集合論的に示すことができる。つまり単純に肯定と否定という二元的な図式を想い描いたとしても、そこには様々な点の表現形式と類比や比較が可能であるのだと私は思う。

【論理は集合論の範疇に収まるとはいえない】
私は論理は必ずしも数学で扱われるような集合論、論理演算、Venn図、真理表などの範疇内でのみ整合性を判断されるうるものであるとは思っていない。このことは何度繰り返し言っても言い過ぎではない位に重要なことであると思う。少なくとも一つのモデルとして説明の便宜上用いるのであって、論理の範疇はこれら集合論の範疇と一致するとは言えないというのが私の根本的な考えである。

【否定の導入】
ある文章を考えるとしよう。

例えば、
「率直にいって、私は綺麗な女性に魅力を感じる」
という文章があったとする。

この文章の中には暗示が込められている。この文章にあっては単純に「率直にいう」の否定が強く暗示されている。「率直にいわない」ということはこの文章において割と重要なことである。また「綺麗ではない」女性というのも副詞句における否定と同程度暗示されている。そこに肯定あるいは否定がある場合、肯定ならば否定が、否定ならば肯定にこそ強い意味合いが込められる場合が多いのである。ちなみに私は女性は性格が一番であると思っている。

副詞句と形容詞のストレスを排除するとどうなるか。

「私は女性に魅力を感じる」

この場合、私は女性ではない、つまり男性には魅力を感じないのだということが暗示されている。この文章を読んで「私」は女性ではないか、と考えるのは「男性に魅力を感じない」という書かれていないはずの内容から導き出された推測であるに違いないのである。


否定系の連関




肯定と否定および階調

2010年10月31日

落書き程度に

論理は人間によって構築されるものであり、誤解を怖れずに言えば、われわれの認識を超える領域を含むということはない。論理は人間的な愚かさあるいは賢さの中で(本音をいうとわれわれが賢かろうが愚かだろうが、わたしにはどうでもいい)構築されるものである。

ここでいう階調というのをより解りやすくいえば、グラデーションのことである。いわば〈程度〉に言及するときの下地としてのレイヤーみたいなものと考えてもらえるとありがたい。

ある言及に対して、それを肯定できるかあるいは否定できるか明確に分離できるかどうかの結論など私には実際はどうでもいいことであるが、われわれはしばしこういった表現を用いる。

たとえば、10%は正しいとか半分くらいは賛成できるとか、正誤の判定、あるいは賛否の判定に程度を絡めて評価する。私にとってこういった方法を用いることが正しいかどうかということもまたどうでもよいことである。何がいいたいのかといえば、現に認知機制の中でそのような評価を実際に下しているという事実があるということのみが重要であり、その程度を絡めて評価を下すことの賛否など実にどうでもいい。

しかもわれわれがこういった階調を用いて賛否の評価あるいは正誤の評価をした場合の程度の度合いは間違いなく出鱈目であるということもここで指摘する必要があるように思う。そこに現れる程度の度合いは、慣習に基づく出鱈目であるのか、あるいは著しく主観的な出鱈目であるのか、私にはこれもまたどうでもいい判定であるが、われわれは何らかの確か(何をもって確かというのかという問題もあろうが)とは言いがたい根拠を持ち出して程度に言及する。

私はこういった評価に対する程度言明を成すべきではないというつもりは全く無い。それは間違いなく錯覚だと思うし、また同時に何らかのイデオロギーを根拠とするともいえるかもしれないが、われわれのこの種の錯覚、この種の偏見こそが恐らく人間が付き合わざるを得ない判定方法であり、私はこの判定方法を抜け出せないと確信している。

またこの種の階調を用いることは少なからず感情への単純明快な方法による、あくまでも正しい方法というつもりは全くないが、配慮とも受け取れる。

さて余談だが、ここに書かれていることは私が書いているようにその出鱈目で単純明快な方法によって書かれているわけであり、正しいことなど書かれていない。繰り返すが、私は正しいことを告げることを試みているわけでもないし、何らかの間違いを訂正したいとも思ってもいない。

私が行いたいことは、ある種の示唆であるが、また同時に、場合によってはある種の落とし穴に落とすことでもあるのだろう。ついでながら言えば、ある種の落とし穴に落ちているわれわれにとって、別の落とし穴に落ちることなど一種の滑稽くらいなものでしかないと、わたしは密かに思ってもいる。
最終更新:2019年08月08日 11:13