私自身は通貨発行権の自由化には懐疑的なところもあるが、一方で、通貨発行権が特定の組織によって限定されている全体主義的な通貨発行権についても同様に懐疑的である。
現在の国際社会は、特定の組織によって通貨発行権が限定されている、やや全体主義的な経済体制の下で経済活動が展開されている。
江戸期の通貨発行権については、自生的に、通貨発行権の自由化と制限が繰り返されるメカニズムが発生していたように思える。その一つの例が諸藩による藩札の発行と幕府による制限の関係である。諸藩において通貨発行権を行使するというのは、現代日本でいうならば都道府県や市町村が勝手に通貨または商品券を発行するようなものだが、特に力の弱い藩にとっては必要なツールの活用であったように思える。
現代の社会においても、通貨発行権の自由化についてはF・ハイエクが主張し、かつてはM・フリードマンもその主張と同じ主張をしていたようだ。自由主義者M・フリードマンはその後、自由主義者であるにも関わらず、FRBによる通貨発行権の独占を認めるようになったが、私の目にはM・フリードマンがFRBの御用学者へと転じたようにどうしても見えてしまう。FRBとフリードマンに強いコネクションが生まれていたとみても、特に驚くべきことではないだろう。
現在の通貨発行権に基づく貨幣は山口薫氏の言葉を借りるならば「債務貨幣」と呼ぶにふさわしく、一方で藩札などに見られる通貨発行権は、それとはまた違った貨幣メカニズムを有している。これをここでは「私的貨幣」(プライベートマネー)とでも呼ぶことしよう。
山口薫氏は藩札のような自由主義的な通貨発行権ではなく、また「債務貨幣」のような金融業者による通貨発行権の独占のみにその権限をゆだねるのでもなく、国家が通貨発行権を行使する「公共貨幣」論を展開している。
通貨発行権は構造主義的な考察に基づくと、特定の金融業者によって行使される「債務貨幣」、特定の国家によって行使される「公共貨幣」、ありとあらゆる組織にまで通貨発行権が認められる状態下の「私的貨幣」という広い拡がりの中で考察されうる。
繰り返しになるが、現代社会における通貨発行権は特定の私的団体によって独占されている。これに対して特定の公共団体、あるいはすべての私的団体にも通貨発行権が認められる制度について、私たちは本来ならば自由に議論を行えるはずなのだが、私たちはアカデミーとマスメディアによって、「債務貨幣」システムしか存在しえないかのような錯覚した状態のもので、通貨発行権について考えているようなのである。
現在の世界の通貨は借金をすることによって流通するようにできている。そしてそうであるが故にGDPを増やす最も基礎的な要素は借金をすることによって、その借金返済の期日に追われることによって人々が労働し、その労働の結果として借金を返済するというシステムが構築されたのだが、逆説的にだが、私たちはこの借金を返済することによってGDPを減らしてしまうというメカニズムへと放り込まれているのだ。
人間は確かに借金返済の期日に追われることによって、労働をしなければならないという心境になる側面はあるかもしれないが、しかしそればかりでもないだろう。私たちはGDPを増やすという目的のために借金をし続けているのだが、実際は個人ばかりでなく、政府もしているのだが、実際はこのトリックから抜け出す、あるいは緩和する方法は現在の貨幣システムとは別のところにある、現在の中央銀行による通貨発行権の独占の下では、私たちが解決したい問題を決して解決できない可能性が十分すぎるほどあるということを、私たちは念頭においておく必要があるだろう。
現在の通貨発行権の在り方は歴史的に見ても例外的事例である。
最終更新:2019年08月09日 19:48