Debussy, Claude: Reverie
andy fillebrown
2015/10/08 に公開
2013年12月06日
この文章に出会う前からずっと「散文」と「詩」というものについて考えていたのだが、詩的傾向性が強い散文と言ってもよいかもしれないがニーチェのこの表現は正直よく表現されていると思った。
私が表現に対して詩的であるという時、否定的な意味はない。全くないかといえばもしかすると嘘かもしれないが、それは恐らく退屈の代名詞たる散文への想いからの悲哀であり、憧憬である。
2010年07月09日
<引用>
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散文と詩。――散文の大家がほとんどつねに詩人でもあった――公然であるとあるいはもっぱら秘密裡の・「私室」むきにであるとを問わず――ということに、注意されるがいい!まったくのところ、ひとが立派な散文を書くのは詩に直面したときだけだ!というのも散文は、詩との絶え間ない礼儀正しい戦いだからである。
散文のあらゆる魅力は、それが絶えず詩を避け詩に抗するというところにある。
抽象的言辞のいかなるものも、詩に対する悪ふざけとして、いわば嘲笑的な声で朗読されるであろうすべての無味乾燥と素気無さは、愛らしい詩の女神を可憐な絶望におとし入れる羽目となろう。
しばしば詩と散文との束の間の和親と宥和がおこる、が直ぐにまた突然の反発と嘲笑がくる。ちょうど女神が彼女の薄明と朧色を楽しんでいるというのに、いばしば窓掛けが引き揚げられ眩い光がさし入れられる。
しばしば女神の口から言葉が奪いさられ、彼女のその優美な手で優美な小さい耳を覆わずにおれないようなメロディーで歌がうたいだされる、――このように、非詩的な人間、いわゆる散文的人間の輩の全くあずかり知らぬような、幾千ものさまざまな戦い――敗北をもふくめて――の悦楽が存在する。
――これら散文者流ときたらただもう拙劣な散文ばかり書いたり話したりするだけだ!戦いは一切のよき事物の父である、また戦いは良き散文の父でもあるのだ!――今世紀において散文の巨匠の域に達したのは四人のまことに非凡な真に詩人的な人間だけだった、――すでに示唆したがごとく、今世紀は、そのポエジーの欠如のゆえに、およそ散文に誂え向きのものではなかったのだが。
ゲーテは、彼を生んだその世紀の人間とみるのが当然であるから、これを除くとして――私の見るところでは、ジャコモ・レオパルディ、プロスペル・メリメ、ラルフ・ワルドー・エマスンおよび『空想談話』の作者ウォルター・サヴェージ・ランダーだけが、散文の巨匠と呼ばれるにふさわしい者と思う。
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ニーチェ『悦ばしき知識』
第二書 92
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2017年08月08日
叫び
「散文のあらゆる魅力は、それが絶えず詩を避け詩に抗するというところにある。」
――F・ニーチェ
詩論において、散文、詩、物語などについて論じてきた。F・ニーチェが見たように、散文とは詩との絶えることのない戦いであるという見方は、恐らく間違っていないだろう。散文家は、詩人のようには叫ぶことができない。しかし散文は散文家たちの叫びである。しかし散文家の叫びは詩人の叫び、さらに言えば歌手の叫びのように聴衆を魅了しない。
散文家の叫びが魅了できるのは、散文家と読者という関係性においてである。散文家は聴衆を動かさないし、動かせない。散文家にはその力がない。散文家の叫びはこの点に関しては、詩人や歌手には到底及ばない。
散文家は詩の女神ミューズのメロディーとリズムとハーモニーの前で屈服せざるをえない。その韻律に圧倒されざるをえない。そしてミューズの美しく、優雅な、そして時に力強い叫びに打ちのめされるほどに、散文家は散文家となるのである。散文家が詩人や歌手のもっている力を手に入れられないように、詩人や歌手もまた散文家のもつ力を手に入れられない。
散文家の野心は詩の女神ミューズを圧倒し、屈服させることである。その望みが本質的にかなうものなのかどうか分からないが、言語空間における戦いの背後には、比喩的な表現ではあるが、このような世界が展開されているようではある。
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2014年01月11日
散文と詩を対比的にとらえて考えることが慣習化している。
散文と詩との関係性に焦点を当てていた人物は恐らく歴史上沢山いただろうが、F・ニーチェもそうだが、歴史家のJ・ブルクハルトや言語学者のローマン・ヤコブソンなどからも散文における詩の意味を見出した文章を見出すことができると思う。
多くの物事を哲学的に、あるいは批評的に表現した散文も、実際に詩に見られるような微妙な「言葉の配置」には気を配られるのではないかと思う。言語表現とは「正しい言葉」の積み重ねではなく、正しいか正しくないかはともかくも言葉と言葉の、文章と文章との微妙な距離感に気を配られるものであるように思う。詩に限らず短歌などは非常に短い文章で表現することが前提とされている遊びの要素があると思うが、その中で具体的か抽象的かはともかくも、如何に多くのものを相手から引き出すかが求められているのではないかと思う。散文の行間を埋めるものは、詩のそれにも似ているに違いない。
それは読者が感じていること、思っていることを、全く会ったことがないにも関わらず感じ取るということが前提となっている。散文に見られる表現は、詩における表現と同様にコモンセンスに対する洞察が必要であろう。
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2017年08月08日
世界には様々な文章の書き方がありますが、その中でも「散文」と「詩」は対極にある表現スタイルです。
「散文」は韻律を持たない、定型のスタイルのないものをいい、「詩」における「韻律」、「スタイル」、「歌」などの性質が削がれた文章ということができるかもしれません。しかし19世紀前半にアロイジウス・ベルトランの「散文詩」が登場し、「韻律」も「スタイル」も、また「歌」でもない「散文」のような「詩」が見出されるようになります。
「散文」に見られる「論理」的な様式が排除され、「歌」ではないけれど、「歌」の持つ隠喩や換喩などの豊かな表現が「散文詩」には見て取ることができます。
20世紀前半にアメリカ生まれで後にイギリスに帰化した詩人T・S・エリオットが登場します。T・S・エリオットの評論の影響などは小林秀雄などにも見られ、戦後日本の文芸評論方面において活躍された保守思想などにも影響をあたえています。
T・S・エリオットの『荒地』は有名な「四月は残酷きわまる月」という言葉と共にはじまり、詩全体に見られる過剰なまでのメタファーによって彩られています。このため一部ではモザイク的であるという批判も浴びています。日本ではこのエリオットの『荒地』、『四つの四重奏曲』という作品の原文、訳文、解釈という三段階の構成によって紹介されているものが大修館書店からでています。
修辞学において、ある対象を説明するための方法には、概念の隣接性あるいは近接性に基づいて、語句の意味を拡張して用いる換喩という表現と、類似した特徴を持った異種のものの並置による対象または概念の説明する隠喩という表現があります。
ヒトの認識には、ある対象を認識する上で、どのような物事と関りがあるものなのかという、物事の隣接的、近接的関係から対象に意味を与える方法と、どのような物事に似ているのかという、物事の類似的関係から対象に意味を与える方法とがあります。
文学的表現のうち、物語と呼ばれるものは、時間的または空間的な隣接関係や近接関係に主に焦点が当てられます。一方で詩はより直喩として表現するのか隠喩として表現するのかはともかく、例えを引き、類似関係を示すことによって表現するスタイルが多様されます。
一部では女性は隣接関係から物事を把握するのが得意であり、男性は類似関係から物事を把握するのが得意であるという考え方もあります。男女間の会話には、言語の限界から互いに相手を拡張させるという意味合いがあるという意味合いもあるのかもしれません。異性間の会話には、ある種の神秘的感覚を覚えるのもそのためかもしれません。
言語表現を豊かにする一つの方法は、修辞学的表現スタイルを拡張することです。小説に見られるようなより隣接的関係に焦点が当てられた表現や、詩に見られるような類似的関係に焦点が当てられる表現などの、その修辞的位置を確認するだけでも、表現の幅は拡がります。
世界には様々な表現者がおり、詩人はその中でも修辞学的表現スタイルを巧みに使い、時には私たちが捉われている常識や慣習の意味を打ち破り、新たな世界の地平を開かせる場合もあります。修辞学的表現の幅は非常に広く、特に詩と距離をおいて生活している現代人にとってみれば、自分が如何に表現のスタイルに偏りがあるのかを知る手掛かりにもなることでしょう。
若者がしばし詩に魅了され、大人になるにしたがって詩との適性な距離を保とうとするのには、その若者の表現スタイルに、つまりは彼の物事の認識する方法に偏りや欠如があるためかもしれません。私も20代前半に詩に魅了された側の人間ですが、それは私自身の物事の認識の方法そのものに、偏重があったからなのかもしれません。
T・S・エリオットの現代詩劇『寺院の殺人』は、カンタベリー大司教トマス・ベケットが国王の刺客に暗殺されるエピソードが題材となっているお話です。誘惑者の誘惑とトマス・ベケットとのやり取りには、聖職者として生きることの葛藤というよりむしろ、一人の人間として生きるものとしての葛藤が描かれているようでもあります。
詩劇は、『荒地』や『四つの四重奏曲』とは異なり物語としての性質があり、過剰なメタファーも存在せず、物語としての読みごたえもあります。言い換えれば詩劇は「詩」と「物語」にみられる修辞的特徴が絡み合う表現スタイルでもあります。詩劇は評論などにみられる「散文」とも対極的な表現スタイルではありますが、詩劇に見られる表現スタイルは、場合によっては散文である評論における表現の幅を広げる可能性を持っていると思います。
評論を主としたSNSにあって、詩、物語、散文などに言及するのは、評論の修辞的な幅が拡がる可能性を模索しているためです。少しでも表現スタイルの幅が拡がるきっかけになればと思うのですが、どうでしょう。
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2018年02月14日
私たちは日常的な生活の中で、様々な文章を見聞きして生きているわけですが、その中でも、おそらく、とりわけ、個性的な文章を書かれる方にお目にかかる機会があるのではないかと思われます。
ここでいう個性的である、というのは日本語の、あるいは日本語に限らず、論文やエッセイなどと呼ばれるものを含めた表現が一般的なスタイルからかけ離れたものを指してそう呼ぶことにします。
例えば、文章がパラグラフによって分かれておらず、文章の書き出しから書き終わりまで、句点によって文章が分割されずに、一つの文章が一つのパラグラフになっているような文章がありますが、これを指して私は個性的な文章と言っています。
また、過剰な類推ばかりによって構成されており、散文であるにも関わらず、詩以上にメタファーが過剰な文章も、個性的な文章と呼べると思います。
他にも、一般的な用語が用いられず、個人が創作した言葉を、その使用例や、意味または定義を示さずに、過剰に使用されているなどの文章もあります。これも個性的な文章と言ってもよいかもしれません。
言葉には句読点が存在していますが、物事を認識する人間あるいは人間以外にも知能を有するものにとって、情報が、しっかりと分割されていること、あるいは小さな一まとまりの文章が積み重なって表現されているということは非常に重要なことです。
人工知能も、命令の終わりには必ずその命令が終わったという記号、例えばセミコロンやコロンなどを差し挟む必要があり、日常言語以上に鍵括弧の役割も重要になっています。
日常言語の場合、過剰な鍵括弧は一般的ではありませんが、句読点を用いてしっかりと文章を構成することによって、広く人々に読みやすいように構成されるようになるわけです。
また、基本的には言語は公共性をもったものであり、言語一般には基本的に著作権のような独占権は認められません。それだけ、個人にとっても、集団にとっても、言語はなくてはならないものであり、長い歴史のなかで少しずつ形を変えながら進化してきた文化であると言ってもよいかもしれません。
このような言語空間にあって、個人的な利便性ゆえに新語を使って物事を表現しようと試みる個性的な方がたまにいらっしゃいますが、私はこのような個性的なスタイルには、あまり賛成の立場に立つことはないでしょう。
現在、私たちが用いている言語は公的にも数万もしくは数十万もの単語が、その意味や定義、その使用がどのようなものであるのかが模索されており、私たちが伝えがたいと思っている観念あるいは概念については、これら膨大な単語のなかでも、おそらく平易な単語を用いても表現することができるようなものであることが多いわけです。
わざわざ個人的な利便性のために新語など用いる必要はありません。新語を用いる必要性があるとすれば、より専門的な技術や知識が求められ、さらに新しい技術革新が求められる理工系の専門書などが、主要なところではないかと思われます。
それ以外のケースにおいて、どんなに新語を用いても、基本的にはそんな言葉は他の誰にも用いられることもなく、顧みられもしないことがほとんどです。
時々、若者の流行言葉として新語が用いられることがありますが、このような流行言葉はメディアが伝えなければ、それは地域性によっても限定され、さらには流行している期間も限定されたものであり、その新語はこれといって言及するほどのものでもない場合がほとんどといってもよいかもしれません。
このような個性的な表現は、言語一般が持つ伝統的な意味合いにあって、ほとんど幼稚な遊びとしての意味合いくらいしかないものと思います。このような観点から、イギリスの詩人トーマス・S・エリオットや彼の影響を受けた小林秀雄などは、伝統のなかにあっては、個性は滅却されなければならないと言ったわけです。
この種の個性というのは心理学的にいえば、防衛機制における幼児性もしくは病理性の一種とそれほど遠いものではないのではないかと思われます。
言葉の役割というものは現在にあって、その役割の分類もしくは体系的な理解が十分すぎるほど進んでいると言ってもよいでしょう。否定文についての解釈や疑問文についての解釈、形容詞や副詞の役割、条件文、比較、程度、句、主語と述語、目的語、補語などなど、文法の理解はかなり進んでいます。
また伝統的なレトリックについても、その意味合いが分析的に考察されており、一般的に、散文と詩のあいだには、それらのレトリックの使われる頻度や傾向にも違いがありますが、その使われ方の傾向性は、すでに伝統によって確立されているのです。
散文に過剰にメタファーが用いられないのは、誰かが規定したわけではなく、膨大な試みの中で、過剰にメタファーが用いられない文章が評価されてきた、あるいは人々に受け入れられてきたとみるのが普通なのです。経済学者のF・ハイエクは伝統と自生的秩序の関係性を指摘しましたが、伝統の中で受け入れられてきた言語的表現もまた自生的な秩序が働いているとみるのが普通でしょう。
どのように人間の個性を尊重しようとも、伝統の中にあっては、過剰な個性をもった、幼児性もしくは病理性を含んだ言語表現は受け入れられないのです。
しかしながら、人間社会における伝統もまた歴史の中で絶えず姿を変えて進化を続けています。これについては、伝統のなかにあって個性が認められたためではないかと考える人もいるかもしれませんが、おそらく違います。
そうではなく、自生的な秩序として発達・発展する余地があったために作り出された言語表現というものは、一般的な幼児的もしくは病理的な個性とは別物です。それは一般的な個性とは異なり、公共における利便的な価値を有しているものであり、伝統の中にあってしか模索されようがありません。
それはある伝統と別のある伝統とが、必要に迫れらて融合するような時に発生するのであって、これらの活動を個性的な活動と呼ぶのはおそらく適当ではないでしょう。一般的な意味での個性とは別物だからです。
日記には日記の、あるいはエッセイにはエッセイの、学術書には学術書の、詩には詩のスタイルというものがあり、それらのスタイルは伝統の中にあって確立されてきました。そして人々がこれらの日記、エッセイ、学術書、詩などと初めて向き合うときには、私たちは私たちの個性によって、幼児的もしくは病理的な表現によって、まず苦しめられるかもしれません。
戦後、一貫して人間の個性というものが礼賛されてきましたが、人間の個性とは見方によっては、それ相応に致命的な欠陥があるものです。私たちが繰り返し伝統を学ぶのは、このような私たちが私たちの個性と格闘するためにも、必要なことであるというのは、案外に言及されないことと言えなくもないかもしれません。
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2018年05月30日
それぞれの文章にはそれぞれの癖がある。
私の文章にも、また他の方の文章も、
その修辞法には偏りがあり、自己流の修辞法のために、
そのロジックもまた限定されていく。
ロジックの方法が同じであるというのは、
一見して一貫性があるかのようにも思えるが、
しかしながら、実際のところ、
その論理的方法による論証の脆弱性が固定化されることを意味する。
私たちが論理的仮説において用いる、
三つの方法である演繹法、帰納法、アブダクションは、
常に間違いを伴う可能性があるという可謬性を秘めている。
私たちの議論は不完全であり、間違いやすく、誤解に満ち、
幻影に翻弄されながら、心理操作されやすい、そんな代物なのだろう。
如何に特定の議論を巧みに批判できたとしても、
決してそれは完全な否定でも、また自説の正しさも保障しない。
このような世界で、私たちの描く散文は、
一種の抒情詩ないしは叙事詩のように、
あるいは悲喜劇を演出する詩劇のように、
具体性と抽象性の判別もつかない曖昧な詩的な世界へと放り込まれる。
作文による散文は、最終的には筆者から切り離され
心から切り離されて、作品へと転じる。
ニーチェが言ったように、散文と詩との弛まぬ
格闘であるという表現は実際に否定しがたいものがある。
かつてイギリスの詩人T・S・エリオットが、
そしてエリオットの口ぶりを真似て文芸評論家の小林秀雄が、
個性の滅却というものを解いたが、
作文における才能とは、偏重したレトリックを是正すべく、
個性を極力排除することと繋がっているという解釈には、
相応に重い意味があると思われる。
言葉は公共性を帯びており、どんなに私的に使用しても、
その言葉が生み出された風土と歴史が言葉から抜けることはない。
言葉は、人類が意思の疎通をより高度に、
それゆえに複雑に構築する上で、
多くの人間たちによって、様々なドラマを生み出してきたものであり、
言葉を使用するが故の、一種の混乱と葛藤さえも生み出してきた。
そんな中にあっても、人が言葉を、巧みに表現しようとしてきた。
人類の言葉の歴史は、そういった先人たちの言語使用における
格闘の歴史と見ることもできるかもしれない。
しばしば、古典的な文学や哲学に見られるような表現から、
私たちは思いもかけない表現や、あるいは言葉にし難い表現を、
発見することがしばしばある。
言葉にし難い世界が巧みに言語によって表現されている、
そういった世界には、そういった世界にしか見えない風景がある。
私たちは今一度私たち自身のレトリックと向き合い、
そのレトリック故に衝突しないわけにはいかない障壁に、
気がつく必要がある場合がしばしばあるかもしれないが、
しかしおそらく、いくら自らのレトリックと格闘しても、
その障壁を乗り越える方法は早々には見つけられないに違いない。
作文の一つのセオリーだが、私たちは
過去にどのような表現が存在していたのか、
その表現を探求する方法というものは確かに存在しているようである。
他者の文章を読めば、およそ相手がどのような著作を読んできたのか、
実際にある程度推測することができる。
そして、同時に何故その障壁を乗り越えることができないのか、
そこには彼が見向きもしない、
一種軽蔑の対象としてさえ見ている世界がそこにはある。
入り口は既にそこにあるにも関わらず、
通り過ぎる世界というものが確かに世の中には存在するようである。
これは誰に限ったものでもないし、私についても言えることだろう。
作文とは、個人的な才能であるよりもずっと、
実際は弛まぬ個性の滅却にあるという逆説的な詩人の論理には、
それ相応に言い分があるようである。
最終更新:2019年08月09日 19:49