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微笑み

Jo Blankenburg - Imperatrix Mundi


フリードリッヒ・ハイエクは進化について、生物学的進化と文化的進化の分類を挙げている。私は概ね彼の主張に合意する。

人類は基本的に生物学的進化をほとんど全くと言ってよいほど期待できない。DNAレベルでの変化を私たちは基本的にほぼ望めないのである。

私たちが何らかの変化をもたらされるのは、生物学的進化ではなく、文化的進化によってもたらされる。これはDNAレベルでの大規模な変化ではなく、一つに認識上の変化、そして第二に環境の変化、そしてその総体的現象である慣習の変化によってもたらされると言ってもいいかもしれない。

私たちにとっての認識は、基本的に私たちの環境を十分に説明できません。そしてまた私たちの環境もまた、私たちにとっての認識にとって、必ずしも都合のよいようにはできていません。

私たちの認識は確かに私たちの環境を部分的には理解できますし、部分的に合理的に、その環境に適応できるようには、なっていますが、一方で、私たちの認識は絶えず、得体のしれないものとしての環境、合理的に対処しきれない、適応できないものとしての環境の中で繰り広げられます。

私たちの環境に対する認識は絶えず、私たちの環境と協調し、適応するのに相応しい関係であるかのようなものであるのと同時に、絶えず反目し、敵対し合う関係であるかのようなものですらあります。

私たちが、認識する合理的な考察は、絶えず失敗という返り値の予感を帯びています。私たちの認識は一体幾度、失敗を繰り返してきたことでしょうか。人類が合理的に世界を眺めるようになってから、幾度となく繰り返される失敗の数だけ、私たちは、自嘲的な、世界に対して屈服したかのような表情、つまり微笑みを手に入れたと言えるかもしれません。

私は微笑みというものに、あるいは微笑みと絶えず手を取り合ってきたユーモアというものに、人類が繰り返してきた膨大な失敗の歴史、私たちの認識が、私たちの環境に屈服してきた歴史の姿を見ています。

私たちの認識が、高らかに、その自惚れを含んだ表情で、私たちの環境を支配し、屈服させようとしてきた試みと、ほとんど同じ数の、絶望的顛末と共に、また、再び訪れてた訪問者である失敗という事実を迎え入れるその皮肉めいたあの微笑みを、私たちは同時に、お互いに顔を向け合って、微笑みかけるのです。

あなたも、そして、私も、いずれにせよ、その認識が示した道しるべとは別の顛末によって、また、再び、微笑みを迎え入れざるをえません。しかし、私たちの偉大なるご先祖様たちもそうして来たわけです。その一つの生物学的進化の痕跡が、実に不合理で、よく分からない微笑みというものなのだと思います。
最終更新:2019年08月09日 19:50