私たちは日常的な生活の中で、様々な文章を見聞きして生きているわけですが、その中でも、おそらく、とりわけ、個性的な文章を書かれる方にお目にかかる機会があるのではないかと思われます。
ここでいう個性的である、というのは日本語の、あるいは日本語に限らず、論文やエッセイなどと呼ばれるものを含めた表現が一般的なスタイルからかけ離れたものを指してそう呼ぶことにします。
例えば、文章がパラグラフによって分かれておらず、文章の書き出しから書き終わりまで、句点によって文章が分割されずに、一つの文章が一つのパラグラフになっているような文章がありますが、これを指して私は個性的な文章と言っています。
また、過剰な類推ばかりによって構成されており、散文であるにも関わらず、詩以上にメタファーが過剰な文章も、個性的な文章と呼べると思います。
他にも、一般的な用語が用いられず、個人が創作した言葉を、その使用例や、意味または定義を示さずに、過剰に使用されているなどの文章もあります。これも個性的な文章と言ってもよいかもしれません。
言葉には句読点が存在していますが、物事を認識する人間あるいは人間以外にも知能を有するものにとって、情報が、しっかりと分割されていること、あるいは小さな一まとまりの文章が積み重なって表現されているということは非常に重要なことです。
人工知能も、命令の終わりには必ずその命令が終わったという記号、例えばセミコロンやコロンなどを差し挟む必要があり、日常言語以上に鍵括弧の役割も重要になっています。
日常言語の場合、過剰な鍵括弧は一般的ではありませんが、句読点を用いてしっかりと文章を構成することによって、広く人々に読みやすいように構成されるようになるわけです。
また、基本的には言語は公共性をもったものであり、言語一般には基本的に著作権のような独占権は認められません。それだけ、個人にとっても、集団にとっても、言語はなくてはならないものであり、長い歴史のなかで少しずつ形を変えながら進化してきた文化であると言ってもよいかもしれません。
このような言語空間にあって、個人的な利便性ゆえに新語を使って物事を表現しようと試みる個性的な方がたまにいらっしゃいますが、私はこのような個性的なスタイルには、あまり賛成の立場に立つことはないでしょう。
現在、私たちが用いている言語は公的にも数万もしくは数十万もの単語が、その意味や定義、その使用がどのようなものであるのかが模索されており、私たちが伝えがたいと思っている観念あるいは概念については、これら膨大な単語のなかでも、おそらく平易な単語を用いても表現することができるようなものであることが多いわけです。
わざわざ個人的な利便性のために新語など用いる必要はありません。新語を用いる必要性があるとすれば、より専門的な技術や知識が求められ、さらに新しい技術革新が求められる理工系の専門書などが、主要なところではないかと思われます。
それ以外のケースにおいて、どんなに新語を用いても、基本的にはそんな言葉は他の誰にも用いられることもなく、顧みられもしないことがほとんどです。
時々、若者の流行言葉として新語が用いられることがありますが、このような流行言葉はメディアが伝えなければ、それは地域性によっても限定され、さらには流行している期間も限定されたものであり、その新語はこれといって言及するほどのものでもない場合がほとんどといってもよいかもしれません。
このような個性的な表現は、言語一般が持つ伝統的な意味合いにあって、ほとんど幼稚な遊びとしての意味合いくらいしかないものと思います。このような観点から、イギリスの詩人トーマス・S・エリオットや彼の影響を受けた小林秀雄などは、伝統のなかにあっては、個性は滅却されなければならないと言ったわけです。
この種の個性というのは心理学的にいえば、防衛機制における幼児性もしくは病理性の一種とそれほど遠いものではないのではないかと思われます。
言葉の役割というものは現在にあって、その役割の分類もしくは体系的な理解が十分すぎるほど進んでいると言ってもよいでしょう。否定文についての解釈や疑問文についての解釈、形容詞や副詞の役割、条件文、比較、程度、句、主語と述語、目的語、補語などなど、文法の理解はかなり進んでいます。
また伝統的なレトリックについても、その意味合いが分析的に考察されており、一般的に、散文と詩のあいだには、それらのレトリックの使われる頻度や傾向にも違いがありますが、その使われ方の傾向性は、すでに伝統によって確立されているのです。
散文に過剰にメタファーが用いられないのは、誰かが規定したわけではなく、膨大な試みの中で、過剰にメタファーが用いられない文章が評価されてきた、あるいは人々に受け入れられてきたとみるのが普通なのです。経済学者のF・ハイエクは伝統と自生的秩序の関係性を指摘しましたが、伝統の中で受け入れられてきた言語的表現もまた自生的な秩序が働いているとみるのが普通でしょう。
どのように人間の個性を尊重しようとも、伝統の中にあっては、過剰な個性をもった、幼児性もしくは病理性を含んだ言語表現は受け入れられないのです。
しかしながら、人間社会における伝統もまた歴史の中で絶えず姿を変えて進化を続けています。これについては、伝統のなかにあって個性が認められたためではないかと考える人もいるかもしれませんが、おそらく違います。
そうではなく、自生的な秩序として発達・発展する余地があったために作り出された言語表現というものは、一般的な幼児的もしくは病理的な個性とは別物です。それは一般的な個性とは異なり、公共における利便的な価値を有しているものであり、伝統の中にあってしか模索されようがありません。
それはある伝統と別のある伝統とが、必要に迫れらて融合するような時に発生するのであって、これらの活動を個性的な活動と呼ぶのはおそらく適当ではないでしょう。一般的な意味での個性とは別物だからです。
日記には日記の、あるいはエッセイにはエッセイの、学術書には学術書の、詩には詩のスタイルというものがあり、それらのスタイルは伝統の中にあって確立されてきました。そして人々がこれらの日記、エッセイ、学術書、詩などと初めて向き合うときには、私たちは私たちの個性によって、幼児的もしくは病理的な表現によって、まず苦しめられるかもしれません。
戦後、一貫して人間の個性というものが礼賛されてきましたが、人間の個性とは見方によっては、それ相応に致命的な欠陥があるものです。私たちが繰り返し伝統を学ぶのは、このような私たちが私たちの個性と格闘するためにも、必要なことであるというのは、案外に言及されないことと言えなくもないかもしれません。
最終更新:2019年08月09日 19:51