【用語】ホイッグ史観

ホイッグ史観(Whiggish historiography, Whig history, Whig interpretation of history, ウィッグ史観とも)は、歴史を「進歩を担った殊勲者」対「進歩に抵抗した頑迷な人びと」に分け、両陣営の戦いと前者の勝利として歴史を物語的に記述する歴史観である。「成功している我々」や「繁栄している現体制」を歴史的必然、絶対的な運命に導かれるものとして、そこに至る進歩的、進化的、合理的、直線的、連続的な過程として読み替えてしまう、いわば勝利者による正統史観というべきもの。啓蒙主義や社会進化論とも関係が深い。

現代の進歩をもたらした功労者がホイッグ・プロテスタントであり、それに逆らった者がトーリ党・カトリックである。前者の代表がウィリアム3世やエリザベス、後者はジェームズ2世やジョージ3世などによって構成される。

定義

栄田卓弘によるホイッグ史観の定義は以下の通り。

進歩の味方/敵という二項対立で歴史を描く。敵方の勢力・人物は歴史上有害で、歴史的に無意味な存在である。

現在のために過去を研究する姿勢をとる。過去は現在の起源として存在を許され、進歩派がそのルーツであり、その敵は生物進化における絶滅種にひとしい。たとえば、信仰の自由はルターの功績によるもので、我々はルターに感謝すべきであるとする。

歴史家は過去に対する裁判官である。進歩の敵は「容赦なく断罪され」、進歩をもたらした者は歴史的英雄の地位を勝ち得る。歴史家は過去を道徳的に判断する権利と責任を持つ。

こうしたホイッグ流の歴史記述はマコーリーから、彼の姪孫にあたるトレヴェリアンらに受け継がれた。マルクスらの唯物史観はイデオロギーとしては異なるが、同じ進歩史観で共通点も多く、批判・否定よりも同調することが多かった。中世前期史においてもアングロサクソン、特に七王国時代のイングランドはゲルマン的な自由な社会だったと永らく主張されていた。これは一般自由人学説とよばれ、自由主義の広がりを追い風に通説となった。しかしこれは自由主義の退潮と前後して批判を受け、通説的立場を失ってきている。

歴史

元来、英国史の概念で、トーリー党(王党派、後の保守党)に政治的に優越したホイッグ党(議会派、後の自由党、現在の自由民主党)が、自派に有利な歴史記述を行ったことに由来する。トーマス・マコーリー(1800年 - 1859年)『History of England(イングランド史)全5巻』(1848年 - 1861年)がホイッグ史観の代表的な歴史書である。狭義では、ブルジョワジーを擁護し、資本主義発展を目指す自由主義を指す。ホイッグ史観に対する批判を定式化したのは、ハーバート・バターフィールド(1900年 - 1979年)の『Whig Interpretation of History』(1965年、邦訳書は『ウィッグ史観批判:現代歴史学の反省』)である。

バターフィールドは17世紀に大文字の「科学革命」(Scientific Revolution)が生じたと説いたが、トーマス・クーン(1922年 - 1996年)は(小文字の)科学革命論で、科学史を断続的なパラダイムの変化として説いた。異なるパラダイムを客観的に俯瞰、通約する立場は成立しえないという相対主義である。今日、「ホイッグ史観」はクーンと結びつけて、科学史上の概念として語られることもある。

日本への影響

日本が海禁政策解除・明治維新を迎えて西洋の文物を熱心に取り入れようとしていた時期は、ホイッグ史観が正統の地位を得た、まさにその時代であった。蒸気機関などの科学技術を積極的に学ぶ一方で、イギリス帝国の歴史を知ろうとする者もいた──福沢諭吉はその代表格である。

西洋列強に追いつくためにはまずもって技術の吸収が必要であったが、福沢は社会の仕組み、特に議会に興味を示し、理解するためには歴史の参照が不可欠と悟った。こうして書かれたのが『西洋事情』『文明論之概略』などの著書であり、イギリス帝国の繁栄の根本を探るという問題意識から、また当時の入手できる書物という点から、自然とホイッグ史観の歴史書に触れることになった。

いっぽう竹越与三郎のように、専門的で退屈・小難しい歴史をきらい、多くの人にわかりやすい歴史を書くべきという観点からホイッグ史観を選択する者もいた。明治時代の歴史書は実証重視の考証史学と民間史学が分かれており、後者を選択した竹越は『格朗穵(クロムウェル)』『マコウレー』などを著し、日本のマコーリーとの異名を賜った。

福沢・竹越ら多くの知識人によって紹介されたイギリスは、ホイッグ史観にもとづく肯定的・楽天的イメージが伴うものだった。こうしたイギリス理解は、日本人の中のイギリスの印象をほぼ決定づけ、さらに自由民権運動の思想的・理論的下地を提供する役割もはたした。マコーリーらの間接的影響に成立した民間史学は、戦後の唯物史観に受け継がれているとする指摘もある。



【コメント】
日本におけるウィッグ史観というのは、恐らくウィッグの正しい解釈というよりは、マコーリーによるウィッグ解釈がかつてその主流をなし、主にバターフィールドによる批判をもって解釈される史観のことなのだと思われる。必ずしも海外の場合はそうではないのだろうと思われるが、これは訳書の不足にも起因するに違いない。

それはともかく、近代保守主義の祖とされるエドマンド・バークがウィッグ党の党員であったように、いわゆる近代保守主義とウィッグ党は切っても切り離せないだろう。更に、フランス革命以後、バークを中心としたオールド・ウィッグとフォックスを中心としたニュー・ウィッグという概念も生まれている。

ハイエクは自らを保守主義者と見做さずに、オールド・ウィッグと見做したのは、後のトーリー党とウィッグ党が党派分裂や吸収合併を繰り返す中で、後のイギリスの保守党のトーリー党の系譜に見られる思想に対して嫌疑の目を向けているためであろうと思う。経済学者のハイエクにしろ、『推測と反駁』に見られるように哲学者のカール・ポパーにしろバークに対して極めて同情的であるように思える。

私個人としては実はバークのクロムウィル評についてはやや受け入れきれない部分もあるのだが、それはともかく近代保守思想とプロテスタント(イギリスにおける国教会)には深いつながりがあるというのは否定しえない。また、保守主義者として良く名前を挙げられるG・K・チェスタトンに至ってはプロテスタントからカソリックに改宗しているし、更に時代を下ったM・オークショットに至っては宗教色がかなり薄いように感じるのでなかなか評価は難しいところはある。

維新後の日本における知識人たちの中にオールド・ウィッグの影響を強く受けた人物が正統派の地位を得たというのは興味深く思う。サミュエル・スマイルズの『自助論』などがいち早く翻訳されていることなどを見てもそれを覗わせる。しかしながら、歴史における変遷の中でイギリスの市民革命の後に起こったフランス革命の影響は非常に大きく、実質的に現代日本においてはオールド・ウィッグの思想は概ね掻き消されている。

宗教的背景は別として、ニュー・ウィッグとオールド・ウィッグの対立点の中に近代保守思想の根幹があるように思えてならない。ウィッグ解釈は様々あるだろうが、それでもウィッグ党の特定の人物による思想も、その起源の解釈とは別に、というよりはより一層重要な意味合いを帯びているのだろうと思う。
最終更新:2019年08月09日 20:00