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心象と作品

「心象」をここでは単純に「心に映し出されている像」と定義した上で、「作品」という言葉と対比してみよう。

「作品」には次のようなものを念頭に置いてもらいたい。
①文章化されたもの
 文章化の傾向性が強いものとして、小説や新聞、学術書、憲法などが挙げられると思う。
②映像化、画像化、図式化されたもの
 映像化の傾向性が強いものとして、テレビ、映画、画像化の傾向性が強いものとして写真、現実主義的絵画、図式化の傾向が強いものとしてグラフや座標などを挙げることができると思う。

 これらはあくまで傾向性としてまとめたものであって、純粋pureに文章、映像、画像、図式であるといったものでもないかもしれない。

「作品」の目的
主体にとっての「心象」を第三者に何らかの形で、何らかの意味でその「心象」を伝えることを目的としている。(ただし自己確認を含め、時差の自己は第三者として想定されるべきであろう)

「作品」に対して「芸術」というカテゴリに分類するということは、慣習による分類である。そうあるべきものと見做す傾向性に対して懐疑できる。

「心象」と「作品」という対比は、「具象」と「抽象」と関連させて論じたとする。どのように論じられるか。

「心象」を論じる上で、心理学や生物学は最も根底にある基礎であると断定するべきではない。何かを論じるに際してその基礎を想定することは、私たちの図式的なものの考え方の慣習に基づく。

心理学や生物学も私たちの図式的なものの考え方、論理学的なものの考え方、記号の関係性の捉え方を前提としている。

これを仮に記号論として一括りにするならば、心理学や生物学を論じるためには記号論を論じなければならない。また記号論を論じるためにはそのメカニズムを知る必要があるために心理学や生物学を論じる必要がある。

そこで生まれた理屈を前提として再度「作品」と「心象」というものを再点検する必要があるだろう。ここをスタートとして「社会科学」を論じる方法が可能性として存在しうる。

「認知科学」と「社会科学」の総合的考察に向けて

前近代における哲学は、近代的な「自然科学」の議論が乏しいために、様々な乏しい知識を前提として「自然科学」、「社会科学」、「認知科学」が様々な形で議論されてきたが、それはあくまでも前近代的なものにならざるをえなかった。

近代以降、特に「自然科学」の発展に伴い、様々な「科学技術」が発達してきたが、「認知科学」や「社会科学」については近代的な「自然科学」に基づく前提が付与されるのには時間がかかっている。前近代的な諸前提が、それが旧来の比較的神話じみた前提であるにも関わらず、権威をもっているが故であろう。また「自然科学」が「認知科学」や「社会科学」に侵入して来た時に起こる多くの混乱や不安がその侵入を阻んでいると見做すこともできると思う。この種の混乱や不安がどの程度妥当なものであるのか、私には定かではない。

「作品」について、言語化されたもの、映像化されたもの、画像化されたもの、および図式化されたもの、これらは私たちの慣習に基づき、固定化されやすい。

言語化されたもので言えば、新聞、学術書、小説などがそうだし、映像化で言えば、テレビ、映画がそうだろう。画像化は写真などがそうだが、こういったそれぞれの固有の性質を持つ心象の言語化、映像化、画像化は様々な形で、多くの場合様々な形で共存しているが、その使われ方は固定化される。その固定化が何故そのような形で固定化されていくのかという点に関して言えば、その目的に強く影響を受けると見ていいだろう。恐らく目的の変化が生じた時、その新しい媒体もまた自然発生的に増殖してくるのだろう。

私たちが「生」における目的というものを見失った時、「作品」は退廃するのではないか。もし現代がよい作品が生み出されない時代だと見做しえるとしたならば、恐らくそれは「目的」の喪失を原因としている。もしかすると「目的」は存在するかもしれないが、私たちにとって重要な目的ではない可能性はないだろうか。

実例を挙げるならば、「人生を楽しみたい」などもそうだろう。こういった目的が衰退しているのではないかということを私は言っているのだが、ここで私は「自由と隷属」の問題に触れる必要がでてくる。
最終更新:2019年08月09日 20:34