神々が飛び交う合理主義へ向けて

(冗談半分ということで話半分で読んでいただけるとありがたいです)

自称・プラグマティズム系の「記号論者」として言えば、生きることとは「記号」と付き合うこと。ひとえに「記号」といっても分類としては様々だろう。その中で一つの特筆すべきもの「偶像」あるいは「幻影」(イデア)との付き合いである。場合によっては「文化」とはこの「偶像」あるいは「幻影」と呼ばれるものをどのように社会に溶け込ませているかという点にあるのかもしれない。例えば「千羽鶴」との付き合いだったり、「墓」との付き合いだったり、人類はずっとそういうものと付き合ってきた。宗教や芸術が特に関わってきたものだが、少なくとも観察を愛する科学が付き合いを怠ってきた面、宗教や芸術の方がずっと人類に寄与していたかもしれないようなそういった側面を、新たに模索することで何か可能性が見えてくるかもしれない。

「祭り」はもっと神々しいものであるべきだと思う。以前に音楽について書きかけて全く書かなかったが、かなり古い歌で「瑞穂踊り」という歌があって、そこから個人的に妙な哀愁を感じるのだが、そこにある「陽気さ」とそこに隠れた「畏怖」を再確認する必要もあるのではないかというのは個人的な感想である。昔の「浮世絵」などを見ると少し色あせているようなものが多いが、当時はかなり華やかな色合いだったと思う。神仏に関わっていたものも恐らく今では古臭い印象があるが、実際、当時は華やかなものだったはずだ。そういった華やかさが文明には確かに必要だと思う。かつては「浮世絵」などのように紙に書いたり、あるいは提灯などで華やかにもしたのだろうが、現代は現代らしい華やかさを持たすことができる。「侘び寂び」の情緒に富んだ霊妙な美をまだまだ色あせさせずに浮かび上がらせることはできるのではないか。

活気のある街というのは華やかさが必要だ。恐らく「観念」としては「神」や「仏」とは少し違ったものであろうが、恐らくそういった「観念」に現代的なアプローチをかけつつ、日常という「イズム」に塗れた世界観を忘れる時間というのは確かに人には必要であるように思う。

人は(究極的な意味での)「真実」を「知る」ことはできない。ありもしない「真実」をお互いに主張し、罵倒しあうというのも恐らく人間らしい活動なのかもしれないが、そうではなく「偶像」や「幻影」とでも表現したくなるような世界でどのように生きていくのかという模索にも目を向ける必要があるように思う。ある種の「批判的常識主義」とでもいおうか。「ルサンチマン」は「昇華」されなければならない。その「昇華」の方法を模索する方法を広範囲にわたって探求する必要はあると思う。
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コメント
1番~2番を表示 1
2011年
07月31日
03:06
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「ルサンチマン」に限らないのですが、
「昇華」の方法を模索するという一点について私が思い起こすのは、露伴の「努力論」です。
「努力して努力する、それは真のよいものではない。努力を忘れて努力する、それが真の好いものである」
「芸術」と呼ばれるものが、「芸術」足りうるとすれば、露伴の言うような「昇華」を遂げたものだと思っています。

そういう現代の「芸術」を「発見」したら、回天までご一報あれ^^

2011年
07月31日
15:23
2: 初瀬蒼嗣コメント返信ボタン

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回天さん

「好きこそものの上手なれ」じゃないですけれど、本当の「努力家」は苦痛の積み重ねから生まれたものというよりは、喜び、楽しさの積み重ねによって成熟しているように思えますよね。普遍化はすべきではないとは思いますが、そういうところはやはりあるように思えます。全てがすべて生計とは繋がらないかもしれませんが、そういった活動諸々が少なからず国益に寄与している面は日本に限らず普遍的な次元で多く見られるようには思えますね。

「芸術」が「自然」観や「宗教」観や「歴史」観や「伝統」的な意識に依拠していると考えれば、先にそちらを再発見すれば自生的に・・・などと考えています 笑。
最終更新:2019年08月09日 20:35