@史学史



■1.用語説明



◆1.「史学史」


しがくし【史学史】
(ブリタニカ国際大百科事典)
歴史学はおおよそ①物語的歴史、②教訓的歴史ないし実用的歴史、③発展的歴史の順に発達してきた。
物語的歴史の典型とされるヘロドトスの『歴史』 Historiai には多くの説話や見聞が真偽の検討なしに記述されている。
教訓的歴史ないし実用的歴史の典型はツキジデスのペロポネソス戦争を中心とする『戦史』 Historiai (8巻)である。
人間心理の洞察、史料の批判などによって、本書は世界最初の学問的な歴史書とされているが、ツキジデスは過去の政治や軍事を、将来の類似の事件に際してとるべき行動の指針にしようとする立場で書き、行動する人物の心理的動機からすべてを説明しようとした。
ローマの地中海世界征服の過程を記述したヘレニズム時代のギリシア人ポリュビオスは、この史風を継承しつつ、さらに一歩を進めた。
ローマのユリウス・カエサルやタキツスの歴史記述は、ともに実用的意図から発し、政治家の手引ないし行為の規範として役立たせようとするものであった。
ゲルマン民族大移動の嵐のなかで書かれたアウグスチヌスの『神の国』 De civitate Dei は、史料批判の点では後退しているが、神学的目的論に基づく必然の理念に支えられ、ここに初めて③発展的歴史の誕生をみた。
これに科学的批判性が加わった近代歴史学はルネサンス時代に始まる。
この時代にはマキアベリや、F. グィッチャルデーニらが現実的・世俗的な史風を展開し、歴史を「神学の碑」としての地位から人間の手に解放した。
18世紀の啓蒙主義は反歴史的傾向をもったが、モンテスキュー、ボルテール、E. ギボンらによる歴史記述は近代歴史学の進歩のために大きく貢献した。
19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれるほど歴史研究は各国で大いに発達したが、特にL. ランケを生んだドイツは指導的地位を獲得した。
同世紀中頃までは政治、軍事を主とする政治史が記述の主内容をなしていたが、スイスのJ. ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』 Die Kultur der Renaissance in Itaklien(1860)などによって文化史の意義が認識されるようになり、次いで社会経済史の分野も開発されて今日にいたっている。
【史学史】(しがくし)
(山川世界史小事典)
歴史学の歴史をさす。
歴史叙述は東洋・西洋の古代から存在するが、
歴史が宗教、物語、道徳をはなれて学問となったのは、文献学の進んだ18世紀のヨーロッパであり、特に19世紀のドイツでは、ランケによって史料批判にもとづく近代歴史学の観念および研究方法が樹立され、各国の大学に影響を与えた。
(1) その観念は当時の支配的風潮である国民国家の建設と不可分であり、国民国家を単位とする政治史・外交史がアカデミズム歴史学の内容となった。
(2) これに対して、19世紀末の産業社会の発達、労働運動の興隆につれて社会経済史が大学・民間でしだいに盛んになり、マルクス主義もこの風潮のなかで力を増してきた。
(3) 歴史研究は隣接科学の方法を採り入れるようになり、20世紀には社会学や人類学の方法を入れた「社会史」さらには「心性史」の分野が開発された。
この新傾向には、フランスの「アナール学派」の功績が大きい。
旧来の「政治史」が出来事中心の叙述となる傾向があるのを批判して、新しい「社会史」は構造分析を重視するが、近年は政治史の再評価に傾いている。
日本では、明治初期に英米の啓蒙的な「文明史」が民間史家に、ついでランケ史学が大学に導入されて近代史学が始まった。
ついで、ドイツ歴史学派経済学、マルクス主義の影響で、発展段階論が強まったが、西洋中心主義の発想から脱しなかった。
第二次世界大戦下には、一時「皇国史観」が力を得たが、戦後はマルクス主義とヴェーバー主義を組み合わせた「戦後歴史学」が支配的となった。
しがくし【史学史】
(日本歴史大事典)
史学は歴史学と同義であり、史学史は史料の蒐集・編纂・歴史叙述の方法などに加え、歴史観・歴史認識などの軌跡を歴史家の思想にまでさかのぼって追求し、歴史学の歴史を系統的に解明しようとする。
(1) 歴史学を単なる歴史叙述、また歴史意識を持つことにまで認めるとすれば歴史学は古代から存在したといえる。
(2) しかし、厳密な史料検討で史実を明らかにし、多様な歴史観の存在を認めつつ、客観的な叙述で一定の歴史像を導き出すことが歴史学と考えるならば、それは19世紀のドイツに始まりレオポルド・ランケ(1795-1886)により大成された。
(3) 日本においても近代的な歴史学はベルリン大学でランケ史学を学んだ御雇外国人教師リースを媒介とするランケ流ドイツ実証主義と修史館系の考証史学とを結合することにはじまった。
<1> 1869年(明治2)に明治政府は史料編集のための史料編輯国史校正局を設置、これは 1872年太政官に歴史課(1875年に修史局、1877年に修史館となる)が設けられる基となった。
1889年には帝国大学の史学科に国史学科が設けられるなどアカデミズム史学は研究体制が整備され、1900年代に入ると、欧米留学で史学を学び、比較史的視点から日欧社会発展の類似性を追究した記念碑的作品として、内田銀蔵の『日本近世史』(1903年)、原勝郎により『日本中世史』(1906年)が書かれた。
また、1901年(明治34)からは、『大日本古文書』、『大日本史料』といった歴史研究にとって基本史料となるものの刊行が開始されている。
そして、官学だけではなく、福沢諭吉の文明論『文明論之概略』や田口卯吉の『日本開化小史』、民衆を重視した徳富蘇峰や山路愛山らの民友社系など、民間においても近代歴史学の基盤が築かれていった。
<2> やがて、大正デモクラシーの機運は、政治史に偏りがちであった歴史学の文化価値重視への転換を促した。
津田左右吉の『神代史の新しい研究』(1913年)、『文学に現はれた我が国民思想の研究』全4巻(1916-1921年)、柳田国男の日本民俗学の開拓、さらには伊波普猷(いはふゆう)の沖縄学の樹立などが、アカデミズムの外で精力的に開拓された。
アカデミズム内部でも文化史学、日本思想史学の前進がみられた。
『日本文化史』全12巻(1922年)の発刊などは大正期の文化史研究の状況をよく表わしている。
<3> 第一次大戦後から1930年代にかけては、社会経済史研究が活発化し、1930年に社会経済史学会が設立された。
日本資本主義の危機が激化し、労農運動が発展するなかで、1920年代後半に成立したマルクス主義史学(唯物史観史学)は『日本資本主義発達史講座』全7巻(1932-33年)に結実した。
しかし、戦時体制とファッショ化の進行により、マルクス主義史学は弾圧され、超国家主義思想の皇国史観が勢力をのばした。
<4> 第二次世界大戦の敗北後、マルクス主義史学が復活し、主流を形成した。
しかし、1950年代半ばから、戦後歴史学の方法に対する批判や反省が強まり、マルクス主義史学の問題点が意識化された。
1960年代半ばに登場した、民衆思想史、そして1970年代以降、民衆史研究は運動史から生活史にまで領域と視野を拡げていく。
また、考古学、民俗学、文化人類学など諸分野との交流・連携の拡大、社会史・女性史などの研究の進展により、歴史観・歴史学の方法は著しく多様化するにいたっている。
<石井浩志>
最終更新:2020年01月31日 14:15