「どうして……あっちは男湯だったんじゃ……」
溜息を吐き、今にも口にショットガンを咥えて引き金を引きそうにな顔をしている少年。
何も彼は望んでいた成功を手にしたと思ったら逆にそれが原因で挫折したヤク中だったりするわけではない。
どこにでもいるただの中学生。同級生の活発な女の子に淡い恋心を抱いている純粋な少年に過ぎない。
そんな彼の名前は藤岡。下の名はまだない。
「まさか……南の裸を……」
そう。彼は期せずして何度妄想の中で思い描いたか知れない想い人、南カナの全裸を見てしまったのだ。
安らぎを得るはずの温泉旅行で、今まさに彼が得ているのは戸惑いと気まずさという安らぎとは最もかけ離れたものだった。
しばらく浴場前の廊下で悶々としたあと、藤岡は仕方ないので今度こそカナと遭遇した方とは逆の温泉に入ることにした。
このまま廊下で悶々としていても仕方ないし、戻っていずれ風呂から出てくるだろうカナ達と合流するのは更に気まずいからだ。
とりあえずの己の隠れ場所として、男湯を選んだのだ。
先のような失態がないよう、藤岡は腫れ物に触るかのようにおそるおそる浴場の戸に手をかけた。
覗き込むと、浴場はガラガラだった。唯一、小学生くらいの少年らしき人影が湯船に使っているのが見えるだけだ。
少年は何故か「マコちゃん」に似ている気がしたが、今の藤岡にはそれ以上深く考える余裕がなかった。
ついでに言えば先に入っているはずのトウマもいない――。
それに関しても、男の子らしい、随分なカラスの行水だということが思考を少し掠めただけだった。
藤岡が身体を流し、湯船に浸かると、先に入っていたはずの少年は何やら慌てたような様子で、
そそくさと逃げるように出て行ってしまった。が、今の藤岡にはそれすら思考の端にも引っかからない。
思い出すのはつい先刻、己の目に焼きついてしまったカナの裸体だけ――。



(南……想像してたよりもずっと……胸があって……しかもピンクで……腰も抱きしめたら折れそうなくらい細くて……)
熱い湯船の温度に浮かされたのか、藤岡の思考が火照る。そして火照ったのは思考だけでなく……、
「うわ……痛いくらいにビンビンだよ……」
彼の愚息もまた、しっかりと熱を帯び、硬くなってしまっていた。
濁った湯船の中でも、いきり立つその肉棒のシルエットが黒くグロテスクに浮かんでいる。
「だめだ……このままじゃそれこそ鼻血がでそうだ……」
とりあえず風呂から上がり、外の風にでも当たって気持ちを落ち着かせよう。
そしてなるべく南に逢わないよう気をつけて部屋に戻り、今日はさっさと寝てしまおう。
藤岡はそう考え、湯船から上がるとそそくさと浴場を後にした。
身体を拭き、着替えて適当に髪を乾かした。
「流石に南達ももう出て部屋に戻っているだろうから……」
ここで気まずい遭遇はまずない。そう考えて暖簾をくぐった藤岡が見たものは、
「随分と……長風呂だったじゃないか」
浴衣に着替え、髪は下ろしたままのカナだった。心なしか顔も上気している。



「み……南……」
そう言ったきり、藤岡は二の句が全く浮かんでこなかった。
それも当然であろう。
つい先だって全裸を見てしまった異性に対し、藤岡のような初心な少年がこの場で口に出せるような気の利いた台詞など何もない。
とにかくこのまま浴場に引き返し、服を着たままでもいいから湯船に飛び込み、そのまま熱湯に埋まってしまいたい気分だった。
そして藤岡の脳内を占めていたもう一つの思いは、なぜカナがここにいるかということだった。
裸体を見られてしまった相手の前になど、普通は姿を見せることなんて出来ないはずだ。
「私がどれだけお前が出てくるのを待っていたかわかるか? 風邪でもひいたらどうしてくれる」
「……………」
藤岡はいまだ言葉を発せなった。
「それにして……まさかお前があんなに堂々と女風呂を覗く変態だったとはな」
が、カナのこの一言で藤岡は我に返った。とにかく何よりも先にいわねばならぬ言葉があるはずだ。
「南……そのゴメン。あれはわざとじゃなくて……」
「わかってるよ――不幸な事故だった、そう言いたいんだろう?」
カナは落ち着いてそう言い切った。
実のところ、カナにも藤岡が女風呂の戸を開けた理由は想像がついていた。
トウマとマコちゃんの実の性別とそれに関する藤岡の認識――それら全てを把握した上で操っている主犯格にとっては、
藤岡がどういう経緯で男湯と女湯を間違えるという勘違いに至ったかを導けるのも当然のことだろう。
「それでもしばらくは全く冷静になんかなれなかったけど……」
「え……南、今なんて……」
「何でもないよ。それより藤岡――」
カナはさっきまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら、威圧感を持った視線で藤岡を射抜いた。



「過程はどうあれ……結果としてお前は見てはいけないものを見てしまった」
「あ……」
「乙女の柔肌――神秘のベールに包まれた禁忌の果実をお前は暴いてしまったわけだ」
「う……」
「そして私は期せずしてお前の半裸まで見せられてしまった――プールの授業とはわけが違う、風呂場という特別な状況だ」
「お……」
「これは……生半可なことじゃないぞ――重罪だ」
「……………」
カナの毅然とした物言いに、またもや藤岡は黙り込んでしまった。
そして心の中では死刑宣告を受けたに等しき絶望が渦巻いていた。堪え難いほどの絶望が、だ。
それは自分が変態扱いされたことでも、それについて責められていることに対してでもない。
想い人であるカナに、これで完全に自分は嫌われてしまったのだ――藤岡には何よりもそれが堪えられなかった。
もう学校で気軽に顔を合わせることも、笑い話に興ずることも出来ない。
ましてや家に招かれ、食卓を共にし、行動を共にし、時にはその気まぐれに巻き込まれることも、もうない。
藤岡は目の前が真っ暗になった。
(ああ……本当にこのまま風呂に引き返して、温泉に埋まってしまおうかな……)
そんな考えが浮かんだ――が、事態は藤岡の思わぬ方向に動くこととなる。
そのキッカケは次のカナの一言だった。
「だから……責任を取れ」
心なしか顔を赤らめていたように見えたのは、風呂上りで上気したからというだけの理由ではない気が藤岡にはした。



「責任……」
「そう、責任だよ」
「そんなことを言ってもどうすればいいのか……」
「人の裸を見ておいてそんなことを言うか」
「……ッ! でも、俺にはわからないよ……。
 確かに南の言うとおり、いくら事故とはいえ、自分がとんでもないことをしたってのはわかってる……。
 でもどうすればその……南が納得してくれるかなんて……俺にはわからないよ……」
もしそんな魔法のような方法があったなら藤岡も最初から使っている。
寧ろそれで一向に自分に向かないカナの気持ちをも、何とかすることさえ出来るかもしれないと思った。
「藤岡がそんなんじゃ、私だって困る……。私にだってそんなこと、わかるわけないよ……」
すると今度はカナがこの世の終わりのような憂鬱に表情を曇らせ、俯いてしまった。
「「…………」」
しばらくの間、両者の長い沈黙が辺りを支配した。
不思議と温泉に入ろうと通りすがる他の客も全く現れなかった。
(やっぱり……もうダメなのかな……)
沈黙の余りの気まずさに耐え切れず、とうとうその場を逃げるように離脱しようとした藤岡。
すると、カナが何かを決意したかのようにキッと藤岡を見据えると、
「じゃあこうしよう……。 お前の裸を――私が見る!」
これまた、トンでもないことを言い出した。

最終更新:2008年03月12日 15:24