八戸城 (はちのへじょう) | |
所在地 | 八戸市内丸1 |
別称 | 中館 |
築城年 | 建武年間(1334-36)頃、寛永四年(1627)頃 |
築城者 | 南部信助、南部利直ら |
城主変遷 | 根城南部氏(-1627)-南部氏(1627-64)-南部氏(9代・1664-1869) |
廃城年 | 明治六年(1873)か |
現状 | 三八城公園 |
八戸城は青森県八戸市に所在した城館跡であり、根城南部氏(八戸南部氏、八戸氏)の支城として築かれた後、江戸時代には八戸藩南部氏の府城となった。
建武元年(1334)南部師行が根城を築城し本拠としたが、その後間もない頃に孫の信助が築いた中館がこの城に当り、八戸城の起源であろうと考えられている。
根城南部氏は8代政光より八戸氏を称し、一時は宗家である三戸南部氏を超えるほどの勢力を有した。しかし天正十八年(1590)三戸南部信直が豊臣秀吉より糠部七郡領有の朱印を受けた後は宗家の支配が強まって行き、信直の子の2代藩主利直によって寛永四年(1627)遠野鍋倉城へ移封となってしまう。
利直は八戸を直支配地にすると、自ら縄張りをして城と城下を普請、整備し現在の市街の原型を築いた。しかし本格的な整備は八戸藩の成立後である。
八戸藩の成立は、盛岡城へ移った3代藩主南部重直が、寛文四年(1664)後嗣の手続き不備のまま逝去し、南部氏断絶の危機がきっかけであった。幕府は、南部氏は鎌倉時代より続く甲斐源氏の名族であり、また2代利直の忠功浅からざるものがあり、として家名存続を許し、重直の遺領10万石のうち弟七戸隼人重信に盛岡8万石、中里数馬直房に八戸2万石をそれぞれ分け与え、重吉に盛岡藩を継がせ、直房に八戸藩を立藩させたのである。従って八戸藩と盛岡藩は本藩、支藩という関係ではない。
直房は寛文六年(1666)八戸城に入城、以降八戸藩主南部氏は、幕府5代将軍徳川綱吉の側仕えに取り立てられ、福島藩5万石を与えられながら固辞した2代藩主直政など名君を輩出、9代信順の代に明治維新を迎えた。なお八戸藩は、表高2万石に対して実高4万石を誇る裕福な藩であったため、"相良に小南部"と俗言されたという。
明治二年(1869)版籍奉還により八戸城は政府の管理下に置かれたが、後に子爵南部利克所有となり、同十一年県社三八城神社が創建された。往時は二重の堀などが巡らされた平城だったが、現在は八戸市街地の中心部に当たるため面影はあまりみられない。しかし大手前には八戸藩御者頭、煙山治部右衛門が寛政九年(1797)に建てた角御殿表門(古桜門)が残っている。
JR八戸線本八戸駅前に所在し、現在は三八城(ミヤギ)公園となっています。訪問したのが10年以上前なので、正直なところ良く憶えていないんですよね…(^-^; ふらふらっと遊びで行かれる距離でもないですし、営業に従事していた頃は良かったなあ…。