厨川柵 (くりやがわさく) | |
所在地 | 盛岡市天昌寺町 |
別称 | |
築城年 | 平安時代 |
築城者 | 安倍氏 |
城主変遷 | 安倍氏…工藤氏… |
廃城年 | |
現状 | 天昌寺 |
厨川柵は岩手県盛岡市に所在した城館跡であり、平安時代に陸奥国に勢力を拡大した俘囚長安倍氏の城柵の一である。
前九年合戦の際、嫗戸柵とともに安倍一族最後の拠点となった城柵である。長い間嫗戸柵(安倍館)が厨川柵と擬定されていたが、現在は天昌寺付近を厨川柵、安倍館を嫗戸柵とする見解が一般的である。
平安時代、陸奥国の俘囚長である安倍一族は、衣川柵を中心に奥六郡(磐井、江刺、胆沢の胆沢三郡、和我、稗縫、斯波の志波三郡)に大きく勢力を拡大したが、当主頼良は朝廷への叛意を見せる事なくひたすら恭順を示していた。しかし陸奥国府多賀城にあった陸奥守藤原登任は、安倍氏の持つ莫大な黄金を手にしようと、永承六年(1051)出羽国秋田城介平重成の助勢を得て戦を仕掛け、鬼切部(宮城県大崎市鳴子町)合戦で破れ去った。元々は登任の私欲から始まった合戦ながら、この抵抗は国府への反抗と見なされてしまう。その結果朝廷より頼良追討の命が下り、源氏の棟梁源頼義が陸奥守に着任、陸奥国内に領土的野心を持つ頼義は合戦の準備を進めるも、翌年大赦が布告され頼良も赦免となり事なきを得た。
赦された頼良は、名が陸奥守である頼義と同じ読みであることを憚って頼時と改名するなど、以後も恭順の意を表し続けた。しかし陸奥守の任期が切れる前に事を構えたい頼義の策謀により、天喜四年(1056)再び戦を仕掛けられ、遂に頼時も国府、朝廷を相手に戦うことを決意した。合戦は安倍軍優勢で推移するが、翌年頼義の嫡男八幡太郎義家に通じた一族の安倍富忠を説得に赴いた頼時が矢傷を負い、それが元で鳥海柵で命を落とす。しかしその後も頼時の跡を継いだ次男貞任、そして三男宗任、国府軍から安倍軍に身を投じた女婿の亘理権太夫藤原経清らの活躍で持ちこたえ、依然として戦は安倍軍優勢のまま進んだ。
この局面を打開すべく国府軍は調略を進め、その結果康平五年(1062)出羽国の俘囚長清原氏が国府軍に合流、これで形勢は逆転する。安倍軍は次々と柵を破られ、最後の拠点である厨川柵、嫗戸柵に籠もるが、当主貞任は討死、宗任、経清らは捕らえられ、遂に国府軍の勝利となった。合戦後、宗任は伊予国配流となり、経清は頼義の憎悪により鋸引で斬首されたという。これを前九年合戦という。
その後、永保三年(1083)の後三年合戦を経て、藤原経清の嫡子清衡以後3代が平泉を拠点として奥州に君臨するが、文治五年(1189)源頼朝の奥州合戦で滅亡する。藤原氏滅亡後、この地の地頭職に任ぜられた鎌倉御家人工藤小次郎行光は、以後栗谷川氏を称して厨川城を拠点に勢力を拡大するが、11代光家の代に南進する南部氏の勢力化に入った。
現在の天昌寺付近が厨川柵跡と擬定されています。なお嫗戸柵跡に擬定されている盛岡市安倍館とは至近にあるため、どちらが後世の厨川城の主要部分なのか判らない…。両柵跡の解説板の記載も似た様なモノなんですよねー。様子からすると嫗戸柵跡の方がそれっぽいのですが、真偽のほどは?