太郎丸西館 (たろうまるにしだて) | |
所在地 | 喜多方市豊川町米室字館跡 |
別称 | |
築城年 | 応永十一年(1404)頃か |
築城者 | 太郎丸盛次 |
城主変遷 | 蘆名氏[太郎丸氏]… |
廃城年 | |
現状 | 耕作地、宅地、八幡神社 |
太郎丸西館は福島県喜多方市に所在した城館跡であり、蘆名氏家臣太郎丸氏の居館であった。
猪苗代氏一族の三浦河内守盛次が築いたと伝わり、自身の童名をもって村名を切勝村から太郎丸村に改め、以後これを称したとされる。構築年代は不明ながら、太郎丸盛次が入道後に正乗を称し、太郎丸集落の長泉寺を建立したのが応永十一年(1404)と伝わっており、その頃の成立であろう。なお村名の由来については、八幡太郎義家の宿陣があったため太郎丸とされたともいう。
また太郎丸集落には館跡が2箇所伝わっており、『新編会津風土記』『会津鑑』『会津古塁記』の何れも猪苗代氏一族三浦(太郎丸)氏の居館と伝えている。現在は太郎丸西館、太郎丸東館と呼び区別しているが、古文書の記載には両館に若干の混同もある様で、年代的な差異があるのかも知れない。また「福島県の中世城館跡」の太郎丸西館の項目には、永禄十一年(1568)太郎丸河内守盛次が築いたとあるが年代的に合っていない。
太郎丸氏は黒川城主蘆名氏累代の家臣であり、天正十三年(1585)関柴館主松本(関柴)備中守輔弘が伊達政宗に通じて叛した際、政宗の占領下にあった檜原への備えとして太郎丸掃部が小田付村へと派遣された。しかし掃部はそのまま政宗の下へと奔り、天正十七年(1589)摺上原合戦では伊達勢の一翼として鉄砲足軽を率いて参陣している。合戦は伊達勢先陣の猪苗代盛国勢が切り崩され、二陣の片倉景綱勢も崩れて蘆名勢の優勢となり、ここで援軍として掃部率いる鉄砲隊200が蘆名勢の先陣富田将監隆実の横へと撃ち掛かった。しかし敵将隆実は蘆名家中でも勇将として知られた武将であり、敢えなく逆に討ち取られている。
太郎丸西館は江戸時代後期に描かれたと思われる絵図が残っており、東西27間、南北22間の規模を持ち、周囲に土塁、堀を巡らせた単郭の平地方形館であることがわかる。現在は圃場整備により遺構は見られないが、明治時代の地籍図などによって方形の区画が確認出来る。現在畑地として利用されている畑地、字館跡が主郭部であり、北西端に八幡神社が鎮座する。字館跡の南には字屋敷下の地名が残り、圃場整備以前は1mほどの段差が見られたといい、その中央部東寄りに虎口が開いていたことが前述の絵図に描かれている。また圃場整備前には、館跡を東西に二分する南北の農道と、南辺の東西の道路が垂直に交わる地点に、手洗清水を呼ばれる湧水があったという。これは八幡神社参拝のための手洗として語られている。