新宮城 (しんぐうじょう) | |
所在地 | 喜多方市慶徳町新宮 |
別称 | 大城 |
築城年 | (天平十五年(743))、建暦二年(1212)か |
築城者 | (吉田光房)、新宮時連か |
城主変遷 | 新宮氏(1212-1420) |
廃城年 | 応永二十七年(1420) |
現状 | 耕作地 |
新宮城は福島県喜多方市に所在した城館跡であり、耶麻郡西部に勢力を拡大した新宮氏の居城であった。
文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げた佐原十郎左衛門尉義連は、源頼朝より会津の地頭職任ぜられた。その子遠江守盛連は6人の息子にそれぞれ所領を分け与えたが、耶麻郡西部を与えられた六男左衛門尉時連が建暦二年(1212)に築城したのが新宮城の起源とされる。また天平十五年(743)に吉田中将藤原頼房の子吉田外記光房が一盃館を築き、建暦二年に盛連がその古館を修築して新宮城としたともいうが、何れも信憑性は乏しい。そもそも新宮氏を蘆名氏の同族とすること自体に疑問があり、未だ解明には至っていない。
会津各地に分封された佐原一族は、次第に同族間で勢力争いを繰り広げる様になり、新宮氏も宗家である黒川城主蘆名氏ばかりでなく佐原(加納)氏、北田氏らと合戦を展開した。正平四年(貞和五・1349)新宮明継は小松原で蘆名直盛と戦っているが、この小松合戦に先立って新宮熊野神社に戦勝祈願の大鐘を奉納、その銘に平朝臣明継の名が見られる。その明継は、天授五年(康暦元・1379)北田城主大庭(北田)上総介政泰との合戦で討死している。応永九年(1402)新宮次郎盛俊は青山城主佐原(加納)新左衛門実詮を攻め滅ぼし、次いで大庭政泰と結んで蘆名盛政と争った。しかし翌年の正月晦日、逆に盛政によって新宮城を攻められ落城、盛俊は支城の小布瀬城へ籠もってなおも抗戦し、同年5月に和を乞い許されている。さらに盛政は応永十五年、十六年(1408-9)の二度にわたって北田城を攻め、政泰をはじめ北田氏を攻め滅ぼした。この北田氏の滅亡により、会津盆地北部で蘆名氏に背くのは新宮氏のみとなった。
応永二十年(1413)、盛俊は新宮城西方約1kmほどの地点に高館城を築き、備えを固めた上で蘆名氏の郡代を先制攻撃した。対して盛政は、同二十二年(1415)塔寺八幡に戦勝祈願の上、高館城を囲んで激しく攻め立てるが、その守りは固く攻略を断念、以降新宮氏と蘆名氏は毎年合戦を繰り広げた。同二十六年(1419)には新宮勢が蘆名氏方の越後国津川城を攻略する一方、蘆名勢も新宮氏支城の小布瀬城を攻略し、ついに翌二十七年(1420)、蘆名氏によって総攻撃を受けた高館城は落城、新宮氏一党は奥川城、次いで越後国五十公野へと落ち延びた。その後新宮氏は五十公野にあって再起を図り、永享五年(1433)会津侵攻の拠点とすべく津川城へと攻め寄せるが、城将金上兵庫介盛勝によって撃退され、一族はことごとく自刃、討死し滅亡した。
現在はそのほとんどが耕作地となっており、本丸をかすめるように旧県道が通り、その一角に城跡碑が建つ。本丸は東西約120m、南北約130mの方形で、周囲を土塁が巡り、一段高くなっている四隅には櫓台が置かれたと考えられている。本丸の周囲は幅約15mの堀跡が水田として残り、南側に二の丸、西側に三の丸が置かれた。また二の丸の南東部には「おんまやしき」と呼ばれる郭、北東部の新宮新田集落は字小館の地名、北には北城の地名が残り、それぞれ外郭があったものと考えられている。従って新宮城は、東西、南北ともに約400mの規模を有した複郭式の平城であった。
周囲は現在も発掘調査が行われており、平成十八年には非常に貴重な陶磁器や木組みの井戸跡などが発見されています。数回参加したことがありますが、主郭付近ばかりでなく全体を見回すと、平地館ながらさすがに新宮氏の本拠地だなーと実感する規模を有しています。