駿河館 (するがだて) | |
所在地 | 喜多方市慶徳町新宮字熊野 |
別称 | |
築城年 | 永享年間(1429-41)か |
築城者 | 西海枝駿河守 |
城主変遷 | 蘆名氏[西海枝氏、平田氏]… |
廃城年 | 不明 |
現状 | 耕作地 |
駿河館は福島県喜多方市に所在した城館跡であり、近隣に所在する新宮熊野神社と関係の深い館である。
築城年代は不明であるが、新宮城を中心に耶麻郡西部に勢力を拡大した新宮氏が永享五年(1433)に滅亡した後、蘆名氏より熊野神社の守護を任ぜられたと考えられている西海枝(サイカチ)氏が構築、居館したものと考えられている。明応九年(1500)及び文亀二年(1502)の熊野神社の棟札に西海枝駿河守の名が見え、その居館であったため駿河館と称されたという。
西海枝氏は蘆名氏一族と考えられており、天文七年(1538)蘆名氏本拠黒川城下が大火に見舞われた際、共に西海枝氏の屋敷も焼失している。このことから西海枝氏は黒川城下にも屋敷を構える蘆名氏の重臣であったと考えられている。なおこの大火の2年後、焼失した黒川諏訪神社が再興されているが、その棟札には西海枝宮内大夫盛輔の名が見られる。盛輔は駿河守の子息であるという。
しかし永禄六年(1563)の新宮葺替棟札には「寺奉行 平田常範」とあり、西海枝氏の名前が見られない。その頃には新宮熊野神社の守護を解任となり、駿河館にも平田氏が居住していたものと考えられている。
国指定重要文化財指定の熊野神社長床の北、大同寺裏手に所在する単郭方形の平地館で、東西約70m、南北約90mの規模を持つ。郭の周囲には土塁、その外側には堀が巡らされたと考えられ、現在も西辺がほぼ完全な状態、北側も土塁が半分以上崩されてはいるが遺っている。以前は南側にも土塁が見られ、逆コの字状に土塁が巡っていた様だが、現在は南側の土塁も崩されて残っていない。周囲を巡っていた堀は、幅7~8m、深さ1.5~2mであり、現在も西側の杉林の中に確認することが出来、東南北は水田となって残っている。