洲島城 (すのしまじょう) | |
所在地 | 東置賜郡川西町洲島字館之内 |
別称 | 栖島館 |
築城年 | 鎌倉時代か |
築城者 | 冨塚氏か |
城主変遷 | 伊達氏[冨塚氏、湯目氏]… |
廃城年 | 不明 |
現状 | 耕作地、宅地 |
洲島城は山形県東置賜郡川西町に所在した城館跡である。
創建時期は不明だが、天文十一年(1542)以前には伊達稙宗家臣富塚近江守仲綱が当館及び周辺を知行していた。しかし仲綱の本拠地は伊達郡森山館であり、また洲島郷は冨塚氏の一円知行地ではなく他に7名の地頭領主がおり、所領も錯綜しているため、代官を派遣していたものであろう。
天文の乱以降は伊達晴宗家臣湯目雅楽允に引き継がれたが、冨塚氏同様他5名の地頭領主が所領を安堵されている。
最上川と鬼面川の合流点西側に所在し、現在の洲島集落一帯が城跡である。館の内と呼ばれる主郭部は畑地となっており、その周囲には水田地となっている水堀跡が明瞭に確認出来る。南東隅には櫓台であろう土盛りが現存し、雷神の小祠が祀られている。また北東隅にも張り出しが見られ、同様に櫓などが置かれたものであろう。東西120m、南北150mの規模を持つ。
洲島集落の長福寺、仏性寺から東側一帯が城跡です。集落内をふらふら~と走っていると集会所?に案内図があり、そこに「洲島城」の記載がありますが特に案内板などはありません。集会所裏に前述の櫓台と思われる土盛りがあります。
近くで農作業していたお父さんにお話を伺うと、現在は農地となっている館跡東側の一帯は以前は全て川だったため、毎年水害に悩まされる地域だったとのこと。現在は河川改修で立派な堤防が築かれていますが、その一帯は集落周辺の土とは異なり川で運ばれて来た砂のため、作物も育ち難い~なんておっしゃっていました。