satsumaioujima @ ウィキ
熊野神社
最終更新:
Bot(ページ名リンク)
-
view
熊野神社
鹿児島県鹿児島郡薩摩硫黄島の、集落の中心に位置する神社。
海を向いた石鳥居の正門と、東側鳥居の裏門がある。
なお本宮西側の住居と、鳥居周辺の建物は私有地、神社に関係しない個人の家なので、訪ねるのは控えよう。
海を向いた石鳥居の正門と、東側鳥居の裏門がある。
なお本宮西側の住居と、鳥居周辺の建物は私有地、神社に関係しない個人の家なので、訪ねるのは控えよう。
硫黄島ガイドブックより記述事項
往古治承元年(1177年)、丹波少将成経、平半官頼頼、大僧都俊寛が硫黄島に配流された時、許し得て再帰せん事を祈り、紀州熊野三所権現を勧請して建立した。
社司は長濱氏。
社司は長濱氏。
【大鳥居】
安徳天皇は、この大宮が末世になって衰退することを憂慮され、建仁3年、福原右馬介季利と菊池二郎行吉を勅使として、大宮前正面に石の鳥居を立てる為、その石を探しに出された。
両人は、3月に硫黄島を出港し、あちこち求め歩き、豊後の国(大分県)に行ったとき、左少将有盛と、左馬頭行盛と偶然に出会い、目的が石鳥居探しである事を告げると、二人が寄進することになり、早速大工が調製し、大船2艘で同年4月、有盛、行盛もともに硫黄島に下った。
安徳天皇は、この大宮が末世になって衰退することを憂慮され、建仁3年、福原右馬介季利と菊池二郎行吉を勅使として、大宮前正面に石の鳥居を立てる為、その石を探しに出された。
両人は、3月に硫黄島を出港し、あちこち求め歩き、豊後の国(大分県)に行ったとき、左少将有盛と、左馬頭行盛と偶然に出会い、目的が石鳥居探しである事を告げると、二人が寄進することになり、早速大工が調製し、大船2艘で同年4月、有盛、行盛もともに硫黄島に下った。
硫黄島についたときに、満潮時でもないのに浪が押し寄せ、船を建設予定地まで乗り上げさせた。不思議は、その夜も続き、どこからともなく40人~50人の声がして、鳥居が組み立てられた。付近は人の足跡など踏み荒らした痕はなかったという。
【王子権現宮跡】
熊野三社権現社北脇にある。熊野十二宮の内にて、往古成経、康頼等、熊野本社と同時に歓請していたという。文化3年7月の台風で破壊されて、今は5尺近い屋地跡に竹籠を結って、中に丸石を安置している。
【若宮神社】
硫黄権現の右にある。
安徳天皇の皇子の早世したもの。
本当の社家を長濱衛守という、安徳天皇の落胤、代々硫黄権現に奉仕し、庄屋、横眼と同じく大小上下を免し、郷土を以て待遇されるという。
熊野三社権現社北脇にある。熊野十二宮の内にて、往古成経、康頼等、熊野本社と同時に歓請していたという。文化3年7月の台風で破壊されて、今は5尺近い屋地跡に竹籠を結って、中に丸石を安置している。
【若宮神社】
硫黄権現の右にある。
安徳天皇の皇子の早世したもの。
本当の社家を長濱衛守という、安徳天皇の落胤、代々硫黄権現に奉仕し、庄屋、横眼と同じく大小上下を免し、郷土を以て待遇されるという。
【石敢当(せっかんとう)】
三島村では硫黄島に2つみられる。一つは権現宮入口にあり、明治30年と刻まれている。
もう一つは長濱豊彦宅に若宮様の前にある。
昔、中国に石敢当と呼ぶ強い武将がいたので、この人にあやかり、悪風が集落に吹き入れないように、道路の突き当りに建てたといわれている。
三島村では硫黄島に2つみられる。一つは権現宮入口にあり、明治30年と刻まれている。
もう一つは長濱豊彦宅に若宮様の前にある。
昔、中国に石敢当と呼ぶ強い武将がいたので、この人にあやかり、悪風が集落に吹き入れないように、道路の突き当りに建てたといわれている。
【参考】権現とは?
仏教が輸入された結果、様々な神仏習合の現象が起こり、神と仏が混ざり合って仏神という考え方ができた。「神宮寺」というのは神社に寺を建てたもの。
当時は多くの天皇が仏法に帰依していて、神社でお経を読み、神を供養することが行われた。
神社で仏を祀るという「権現さま」も、神仏習合の一つの例
仏教が輸入された結果、様々な神仏習合の現象が起こり、神と仏が混ざり合って仏神という考え方ができた。「神宮寺」というのは神社に寺を建てたもの。
当時は多くの天皇が仏法に帰依していて、神社でお経を読み、神を供養することが行われた。
神社で仏を祀るという「権現さま」も、神仏習合の一つの例
【参考】一説によると。
熊野神社は硫黄大権現宮と呼ばれる安徳天皇晩年の住居跡といわれている。
流刑になった俊寛、成経、康頼のうち、成経と康頼は早く都に帰りたい一心で、紀州熊野三所権現を祭った。鹿児島大学野中先生の研究によると、紀州熊野三山によく似た地形がこの硫黄島にあったから。
この熊野神社が河の河口近くにあることから熊野三山の新宮で、俊寛堂が本宮にあたる。
熊野神社は硫黄大権現宮と呼ばれる安徳天皇晩年の住居跡といわれている。
流刑になった俊寛、成経、康頼のうち、成経と康頼は早く都に帰りたい一心で、紀州熊野三所権現を祭った。鹿児島大学野中先生の研究によると、紀州熊野三山によく似た地形がこの硫黄島にあったから。
この熊野神社が河の河口近くにあることから熊野三山の新宮で、俊寛堂が本宮にあたる。
【参考】
文禄元(1592)年の豊臣秀吉による朝鮮出兵に硫黄島からも参加している。
長濱権之丞吉延を長として、岩切長右衛門、渡辺長左衛門が従士となって3名が従軍している。吉延はこの時点で42歳であったが鉄砲隊に入った。
島津義弘とともに朝鮮に渡った後は、金化城や春川、晋州と連戦し、文禄4年(1597年)には、秀吉の命により義弘は帰国することになる。
しかし、そのあと和議不成立となり、再度の出兵命令が出され、慶長2年(1597年)に朝鮮半島に渡る事になる。その中で従士であった岩切は、全羅道の合戦で急病死、渡辺は碁石浜の戦いで討ち死したという。
吉延については慶長4(1599)年に敵の弾丸で股を射抜かれたものの帰国。8月18日には硫黄島に帰り、岩切や渡辺、敵味方両方を弔った高麗神社を祭った。吉延は髭をたくわえた大男であったという。
また、義弘からは褒美として硫黄島権現宮の再興を許され、鎧や兜、太刀などの奉納を受けている。
文禄元(1592)年の豊臣秀吉による朝鮮出兵に硫黄島からも参加している。
長濱権之丞吉延を長として、岩切長右衛門、渡辺長左衛門が従士となって3名が従軍している。吉延はこの時点で42歳であったが鉄砲隊に入った。
島津義弘とともに朝鮮に渡った後は、金化城や春川、晋州と連戦し、文禄4年(1597年)には、秀吉の命により義弘は帰国することになる。
しかし、そのあと和議不成立となり、再度の出兵命令が出され、慶長2年(1597年)に朝鮮半島に渡る事になる。その中で従士であった岩切は、全羅道の合戦で急病死、渡辺は碁石浜の戦いで討ち死したという。
吉延については慶長4(1599)年に敵の弾丸で股を射抜かれたものの帰国。8月18日には硫黄島に帰り、岩切や渡辺、敵味方両方を弔った高麗神社を祭った。吉延は髭をたくわえた大男であったという。
また、義弘からは褒美として硫黄島権現宮の再興を許され、鎧や兜、太刀などの奉納を受けている。
境内内案内看板より
この神社は、硫黄大権現宮とも呼ばれ、安徳帝晩年の皇居跡とも伝えられている。
治承元年(1177)、鹿ヶ谷事件で平清盛の怒りを買った成経、康頼、俊寛はここ硫黄島に流された。帰洛の事を祈るのに一心であった成経、康頼は、早く許されて都に帰れるようにと、紀州熊野三所権現を歓請してここに祭った。のちに文治元年(1185)、安徳帝が居住されてから、来萬三種権現と改められ、三種の神亀を内陣に祭られた。桂庵尚書の棟札によれば、明応8年(1499)島津忠昌により社殿を修復したとある。さらに慶長3年(1598)年の朝鮮の役のおり、安徳帝の末裔長濱権之丞吉延が島津義弘の危機を救った礼として島津氏の崇敬を受け、奉納品も多かった。
以後修理の費用も島津家から出され、天保10年(1839)年まで5回の修理がなされている。
現在この建物は、老朽化したため、昭和62年(1987)12月に改築されている。
治承元年(1177)、鹿ヶ谷事件で平清盛の怒りを買った成経、康頼、俊寛はここ硫黄島に流された。帰洛の事を祈るのに一心であった成経、康頼は、早く許されて都に帰れるようにと、紀州熊野三所権現を歓請してここに祭った。のちに文治元年(1185)、安徳帝が居住されてから、来萬三種権現と改められ、三種の神亀を内陣に祭られた。桂庵尚書の棟札によれば、明応8年(1499)島津忠昌により社殿を修復したとある。さらに慶長3年(1598)年の朝鮮の役のおり、安徳帝の末裔長濱権之丞吉延が島津義弘の危機を救った礼として島津氏の崇敬を受け、奉納品も多かった。
以後修理の費用も島津家から出され、天保10年(1839)年まで5回の修理がなされている。
現在この建物は、老朽化したため、昭和62年(1987)12月に改築されている。