61頁。願いの成就









       数式領域展開

       数式領域構築

       数式領域顕現

     数式領域の維持を開始

    制限時間内に目標を捕食せよ

     お前の願いは果たされる

地平線までに広がるのは劇場の舞台。
かかっていた屋根は取り払われ、
天をとりまくのは回廊なる観客席。

中央に打ち立てられたのは巨大なる紫影の塔。

    チク・タク、チク・タク
    チク・タク、チク・タク

   少女。生け贄。さ迷う子羊よ。

    さあ、そろそろ時間だよ。

廃墟になった無数のビルディングと劇場が立ち並ぶブロードウェイにて
地下世界よりも更に濃い、死した紫色の世界が上書きされる。
舞台はどこまでも、地平線までも続き、所々に直方体の塔が建つ、突き刺さっていた。
けたけたと、取り払われた屋根の向こうで醜悪な月が嘲笑う。

       断罪の時だ

頭上に冠しているのは真っ白なハイロウ。
閃光のように速く走ると残像が多重に浮かび上がる。

     お前の涙を見せておくれ。

眩きほどに速いもの。
眩きほどに歪むもの。
汝、御使い降臨せし時計人間の巫女か。

速い、弾丸のように、光のように。
漆黒の男と純白の女が並行して走る。

「……どういうつもりだ、ティア!?」

未だ事態を呑み込めていないリロイが
ティアへともどかしげに叫んだ。

「見ての通りよ。今や血闘と化したこの領域で、
 我が御使いはあなたの道を切り砕く。
 我が魂の白銀にかけて、《クロイツ式回路》の起動を開始する。
 現在時刻を記録しなさい、大時計!」

ティアへリロイの言葉は届かない。
彼女は今、鋭く、どこまでも鋭いひとつの、
そう、純白の剣の如き気配をたたえて。

「貴方ももう思い出しているんでしょう。
 私が何を望んだか。私が、貴方と一つになりたかったことを!」

舞台の上、天使の斬撃がリロイへと繰り出された。
だが、リロイはそれを大きく体を逸らして避ける。
真一文字の斬撃現象は背後の空間へと呑まれた。

「この地下世界にまた生を受けてわかったわ!
 また、あの時と同じく天使に助けられたんだって!」

斬り裂く。すべてを断ち切る。
天使と一体化したティアにはあらゆる斬撃も弾丸も意味をなさない。
幻想なれば科学の織りなす摂理は死に絶える。
遺産である《斬り裂くもの》もまた、幻想殺しの効用はあるが、相手が巨大過ぎる。

三十フィートの天使を背後に従え、
ティアは一気にリロイに接近すると
手にしたカトラスで袈裟に斬りかかる。
鋼鉄と鋼鉄がぶつかり合う音。

「だから、私はこうするのよ!
 今度は、もっと深く、貴方と一つになるために――――リロイ!!」

ティアとリロイの顔が至近距離まで近づき。
互いの視線が交差する。
ティアの瞳に映るのは困惑するリロイ。
リロイの瞳に映るのは渇望するティア。

ティアの背後から無数の斬撃がリロイへと迫り来る。
ティアの剣を押し、払ったリロイが大きく後ろに下がると
体勢を立て直す暇を与えずにティアが背後の翼をはためかせ宙を滑空した。

翼、ティアの背後より生えたもの。
幾枚もの刃で出来た翼。
シルエットだけならば、それは純白にして清潔なる天使。

白く歪んだ異形の姿。
斬撃が多層展開してリロイの体躯を覆い、
囲み、迫り、切り刻まんとする。

宙をリロイの片腕がぽん、とボールのように飛んだ。
切り落とされた、断ち切られたリロイの片腕。
赫ではない血が鮮血となって吹き出した。

頬についたリロイの血が滴るのを蕩け、
弛緩しきった顔で舐めとるティア。
その姿を見て、リロイの背筋が震えた。

例えばその身を異形にすれば、
リロイもこの斬撃から逃れられるのだろう。
だが、今のリロイには――

斬撃が、リロイの眉間を縦に裂いた。
避けられない攻撃、為す術無い一撃は
造作もなく、紙細工のようにリロイを喰らうはずだったが。

リロイのかけていた黒の遮光眼鏡が真っ二つに切れた。
斬撃の雪崩がリロイへ今度こそ襲いかかった。

天使の乱れ斬りを漆黒の鱗によって
形作られた翼が広がり、打ち払った。

天使の翼の中心にいたリロイの肌は黒く変色し、
爬虫類、太古の大地に生息していた恐竜の肌に変化し。
双眸もまた、銀色に変化していた。

銀、黄金とは違う。
澱んだ銀色。人工的でもあるが、
魔術的というのに相応しいありえざる風貌。

ティアの瞳が潤み、歓喜と渇望に歪んでいく。
上気した頬が彼女を味わわなかった少女の純情を齎していく。

「AAAAAAAAAAA……/そう、それでいいのよ。リロイ」

耳障りな高音とともに、快活だったティアの声が確かに聞こえる。
高い音、劇場が舞台ならばあるだろう蓄音機でも拾うことは不可能だろう。
これは、人の恐怖を誘い出す。

「AAAAAAA……/殺されるだけでは足りなかった」

ティアの背より力なく垂れた
幾枚もの翼がのたうちリロイへ襲いかかる。

「クソ、クソ!!」

憤りを露わにして、リロイが腕を払えば
呆気無く翼が撥ね退けられた。

「AAAAAA……/私は、あなたと……」

ティアと一体になった御使いは次第、次第に
その心身を蝕んでいく。
蠢き、這いまわる無数の刃の触手がティアの肢体に纏わりついて。

ティアの精神が徐々に、刃で削ぎ落とされていく。
いいや、断ち切られていく。
切られたのだから、萎びれたのではなく、
落とされたのだから、もう戻ることはない。

同時に、リロイの表情からも人間味が喪われていく。
憤りと困惑が鳴りを潜めて、
次第に次第に千の顔を持つ嘲笑の一柱のものへと変わっていく。

視界の端で、空に渦巻く回廊の観客席で、チクタクマンは嗤う。
嗤う、嗤う、だがこの嗤い声は真に月の王よりのものだけか。
ティアへと牙を剥く、《黒き獣》よりもまた――――

「影よ、意のままになれ」

リロイ、獣の足元より伸びて揺らめく炎の影。
ゆらゆらと波立つと、それが大地より生えでて実体化する。
その大きさ、獣化したリロイの使う力によって
御使いの大きさとは比較にならない400フィート。

敵対すらも不可能。
空へと届かんその影はどれもが先端に口を備えて、
開くと無眼の蛇の舌が顔を出す。

リロイの表情が嗜虐と嘲弄に歪む。
悦んでいるのだ、弱々しくも足掻く人に舌を伸ばすことを。
求めているのだ、それでもなお、人は何を選ぶのかということを。

「AAAAAAAAAAAAAAA!!/ついに……」

恍惚に満ちた声とともに、ティアが両腕を広げた。
影、四方に揺らめく獣の影がティアへと雪崩れ込む。
抵抗はなかった。待ち侘びた救済を前に、
嬌声をあげてティアはただ喰われていく。

腕を喰われ、胎を砕かれて、足をもがれ。
リロイ、いいやそれは果たして真にリロイなのか。
嗤い、嗤い、耳に届く信奉者の嬌声を供物に耳を澄ませた。

だが、リロイの表情が唐突に歪む。
内面にて産まれた爆発のようなエネルギーが
嘲笑の表情を捨てさせて、
外見は戻らずともリロイに常の表情が戻る。

「――――――ッ!」

顔を酷く苦痛に歪めてリロイが声なき叫びをあげる。
だが届かない。数式領域においてトレヴァータワー座す、
この地において人の声はか細すぎる。

影、触手のように伸長したそれらは徐々に縮んでいく。
眼前にぶら下げられたのはティアの頭部。
リロイが戻せたのはあくまで首から上の意識野のみ。

ゆえに、リロイは首だけになっても何故か死なないティアに何も出来ない。
ただ、やり場のない憤怒と藻掻きに歯を食いしばる。

「――――リロイ」

閉じられていたティアの瞳が薄く開いた。
もう一方の影がティアの喰い残された右手を持ってきて、
ティアの意思を代弁するかのように、リロイの顔へひたりと当てた。

血の手形がリロイの頬にこびりつく。

「お願い。あなたは――――」

ティアの瞳から、一筋の涙がこぼれて。
変異が起きた。闇の侵食がまた始まる。
リロイの顔、下半分が、獣ではない、神話上の悪魔のような口に変わって。
大きく、大きく、開かれて。
残ったティアの頭と右手を食べる。

変異しても感覚だけは残ったまま。
もしくは、変異しても、感覚を奪われることを赦されなかったのか。
リロイの裡へと、ティアを噛み砕く感覚が直接届いてくる。

柔らかな頬を牙が突き破る。
舌を噛みちぎり、擦り潰し。
眼球をいつの間にか増えていた無数の舌で転がし、溶かす。

「――――――――っ!!」

リロイは自由にならない喉で、咆哮をあげる。
涙は流れない。獣は涙を流す術を知らない。
だから、吼える。月に吼える。闇に吼える。

獣はそれしかできない。
混沌たる獣には、人への長く、遠い道を歩く最中の獣には。
悲しみも後悔も痛みも全て怒りに変換して吼えるしか出来ない。

数式領域が崩れていく。
空が割れ、大地が割れて。
何者かの哄笑があたりを賑わわせる。

崩れ落ちていく世界の中で、
両眼だけに辛うじて人の色を遺したリロイの前に、
男が佇んでいた。男はリロイの顔に手を当てて、口の端を吊り上げる。

「制限時間内に目標:ティアを捕食。
 捕食されることで永遠に寄り添うという、
 ティアの願いは果たされ。
 《混沌の調停者》はここに顕現する」

鮫の笑みでリロイを見下ろす。
リロイの顔を両手で挟み込んで、
リロイと全く同じ顔をした男は口を開けた。

「残念だったね、リロイ」

ここに、純白なる黄昏の剣があれば。
あるいはリロイは獣を追い払えたかもしれない。
けれども、そうはならなかった。世界はそう回る。

遠くで世界に侵入する誇り高き雷電の音が聞こえても。
間に合わない。間に合うことはない。

リロイ・シュヴァルツァーは闇に喰われた。





   「…………もしも」

    「もしも?」

   「じゃあ、もしも私が。
    あなたが助けるはずの私が貴方を殺そうとしたら。
    どうするんですか?」

   「殺す」

   「……迷いがないんですね」

   「そりゃあ、殺されるのは嫌だからな」

   「本当に殺しますか?」

   「なんだよ、この質問……そうだよ、うんうん」

   「私が綺麗なお姉さんでも?」

   「そういう差別はしないって!
    って、 おい、笑うなよ! 笑うところじゃないだろ!
    殺せなかったら、その時はその時で考えるってば!」

   「じゃあ、約束してもらえますか?」

   「……んん、まあ、言ってみれば?」

   「もしも、私が辛くて辛くてどうしようもなくなったら。
    何もかもが無意味なんじゃないかって思ったら。その時は――――」

   「頬をひっぱたいて喝を入れて欲しいんだな。よし、まかしとけ!」

   心得たと言わんばかりにわかりやすく手を握る少年を
   少女はポカンとした表情でしばし見つめて――
   それから耐えられなくなったのかお腹を抱えて笑い出した。










       けれど、けれど、けれども

       きみがいくら手を伸ばそうと

     彼女が初めから諦めを求めていたのなら――?




        空を見上げる希望も

       暗闇に目を凝らす絶望も

      すべて、すべて、そうすべて

     あらゆるものは意味を持たない









          だから












       こんにちは、リロイ

       そして、さようなら


62頁。混沌たる安息




虫の知らせとでもいうべきか。
そんなものが私の心をふと過ぎった。

人間の偉大な文明の果てに作られた
私の人工知能は人に比べてもそれほど遜色のない、
いいや、碩学と並ぶ知性を持っている。

ならば、もしかすれば私にも第六感に類似した
何かが芽生えることもあるかもしれない。
それが教えることは、必ずしも良いことだけとも限らないが。

「どうかしたのかい」

こちらに背を向けて大きな
機関裁縫機(ミシン)のペダルを踏んでいたAが問いかけてきた。
誰もが寝静まった夜に、無音ながらも勇壮なる迫力とともに
縫われ、作られていく可愛らしいドレス。

クローゼットを開ければAの作った
ドレスがいくつもかけられているのだから恐れ入る。
恐れいるし、尊敬もしている。

このAという男。
なんでも聞くには残虐極まる《闇の種族》より掠めとった
塩基配列よりある碩学によって作られた人工のダーク・ワンだという。
人工的に作られた存在。それでいて《闇に住まうもの》である。

私は人間によって作られた
あくまで人間に近づけた上での兵器なのだが、
私とAとの間になんらかの
奇妙な対比を見出すのは私の考え過ぎではない。

本体である宝玉が埋め込まれた剣には
《闇の種族》の察知機能がついている。
だがそれが逆に相手への認識の妨げになるとは
5千年前の私は予想だにしなかったはずだ。

「ラグナロク0109(エアスト・ノイン)」

めったに他人に呼ばれることのない製造番号で
声をかけられて私は思考の海から舞い戻った。

「どうした?」

首を傾げて私は小声で尋ねる。
ここは一輌だけの地下鉄の中であり
同じ室内にてリリィとニーナが一つの大きな天蓋ベッドに眠り。
マスターはAに作ってもらった
猫耳カチューシャを頭につけてアティを看ている。

「少し見てくれないかい」

そういって少しAは体を横にずらして作業台の上を示した。

「どれ」

私はAの横にたって一緒に作業台に置かれた服をじっくりと見た。
そこにあるのは純白のローブを基調にしたドレス。
だがそのドレスは幾重にも重ねられて実に優雅な風合いを出していた。

何を隠そう、私の監修である。

事の顛末を話すと
Aが絶対の忠誠を誓うリリィという少女が
私のことをちらちらと盗み見ていた。
自分の造形の良さを自覚していた私は可能な限り
少女の自尊心を傷つけず、またAの嫉妬を買わないですむ方法を模索していた。

だが、真相はべつにあった。
彼女の友人であるニーナに
何度か耳打ちしてこちらを見ながら話をした後。
人見知り激しいように見えるニーナがこの上なく渋い顔をしているのを
背後にリリィが私の服の裾を掴んでありったけの勇気を振り絞ってこう言ったのだ。


  ――その素敵な服、あたしも着てみたい


私とてこの服装が些か個性的であることは認めている。
相棒であるリロイなど私を指してあまりにも恥ずかしい
かっこうだから普段は他人のふりまでする始末だ。

だがここにこうして私の美的感覚に共感を示す幼くも有望なる光の姫がいる。
ならば、たとえ《闇の種族》の気配が強いAであろうと
少しアドバイスを貰えないかと乞われれば力を貸すのが人としての道義。

「そうだな。ここをもっとこうしてだな」

空いている紙に私はスラスラと心の赴くままに私のアイデアを書き連ねていく。
私がここまで尽力するのはこのAという男が常日頃リリィのために服を作っても
リリィがあまり芳しい反応をしてくれないからだ。
その辛さ、想像するにあまりある。

人工といえど《闇の種族》、
共感する相手ではないかもしれないが
私は化け物のような人間と人間のような化け物。
例を挙げるならばランディ・ゴルトとテーゼが同時に崖から落ちようとしていれば
まず間違いなくテーゼの手を取るだろうくらいには常軌を逸してしまっている。

ならば時にははぐれ者ははぐれ者同士でこうして親睦を深めることとて、
きっと実に有意義なものに繋がるのではないかと私は思う。
ともに少女のためのドレスを考案することで私は5千年の垣根を越えていくのだ。

私が描いた服飾の案を観てAの硬質な瞳が揺らめいている。
その動きはまるで世界の終焉を目の当たりにして絶望しきった賢者のようにも見えたが
未知の文化に触れて己の領域が広がっていく感覚に戸惑っているというのが本当のところだろう。

「……ひとつ、聞かせてほしい」

「なんでも訊いていいぞ」

腕組みをして穏やかなほほ笑みとともに私はAの言葉を促した。
私はリロイと違って理性に満ちた男。
根気強くAに付き合うつもりだ。

「きみは、正気なのか?」

「どういうことだ?」

意味がつかめないAの言葉に首を傾げていたところ、
マスターがこちらを見て手を振った。

「アティが目覚めそうですよ」

Aと私は同時にソファに横たわるアティの元へと行った。
がたんごとん、と振動を伝える車内にて
アティの長い睫毛が僅かに震え、そして徐々に開いていく。

「…………ん」

小さな灯りしか灯っていなかったのだがそれでもなお眩いのか。
それとも、先に対峙した少年の圧力が今なお深いキズを遺しているのか。
山道の死が、傷になっていないのことを祈る。
それでは、あまりにも山道が報われない。

「おはようございます」

アティの顔の近くで猫の耳を模した
カチューシャをマスターは振り子のように揺らして。
未だ自分の置かれた状況が掴めない
アティは目の前の異形に両目を大きくしばたかせる。

「猫ですよ、ニャー」

不遜にもマスターは言った。

「猫ですよ、ニャー」

鉄球に猫耳をつけただけにしか見えないのだがマスターはもう一度言った。
これが猫ならばドラム缶にカチューシャをつけても猫になるだろう。

「おう、ニャンコだから優しくするといいですよ」

「いい加減にしろ」

私は思わずマスターのカチューシャを外した。
マスターが返してくれと言わんばかりに
大きな球体をジャンプさせるが人より背の高い私には届かない。
疲労したものにあまり不可解なものを見せるべきではないという私の判断は間違っていないだろう。

「きみがアティだね」

マスターと私を押しのけるようにして
Aがアティの前へと出てきた。

「そう……だけど……あんたは……?」

「何も言わずにこれを見てほしい」

そう言ってAは私が描いた衣装案をアティに見せた。

「これを着れと言われたら、どうする?」

「死んでも嫌」

「よし、精神に異常はないようだね」

即答したアティにAが警戒を解いたのがわかる。
マスターがAから私の案を見せてもらって
これは土星の猫が着るものか何かとうんうん、頭を抱えていた。

「どういうことだ、A?」

私は憤怒に声を震わせてAに詰問する。
少し刺々しくなりすぎたかもしれないが無理もないだろう。
道は違えど奇妙にリンクした出生を持つ者であり、
同じく自分の服装センスに不安を抱く者同士。
私達はたしかに同志であったはずだ。

なのに、この仕打ちはいったいどういうことか。

「あ、起きたんだ。こんにちは、いや、おはようなのかな?
 あたし、リリィ! リリィ・ザ・ストレンジャー。
 この娘はニーナっていうんだ。よろしく!」

まるであれでは私の服装センスが気違いのようではないか。
仮に、仮にそうだとしても今まで協力してきた相手を前にして
あのようなリトマス紙に似た扱いというのはあまりに不義理過ぎる。

ああ、そういえばAはまだ産まれて間もないと言っていたな。
ならばここで人の道を教育するのも人生の先輩である私の役目なのだろう。
まったく、世話が焼ける、これだから《闇の種族》は――

「あんたたち、なにしてんの?」

不信感を隠そうともしないアティの声が私の冷静さを呼び覚ました。
気づけば私はAを壁際まで追い詰めていたらしい。
対するAは冷静そのものだが、私を見る目に申し訳なさが垣間見えるのは気のせいか。

「A。その手に持ってるのこれから作る新しい服?
 あ、あたし、嫌だよ。あんなフリフリばっかりの女の子女の子した服」

頬を膨らませて私の衣装案に目を通したリリィの表情がみるみる輝きだした。

「いい。いいよこれ! すっごく素敵!
 まるでお伽噺の魔法使いさんみたい!
 このローブも、綺麗だしかっこいい!」

はしゃいでニーナにも見せびらかして小躍りするリリィ。
なんと愛らしい姿か。私にはAのような危うき欲情は持たないが
それでも思う。この少女は愛すべき存在だと。

リリィの喜びようをまるで理解できない異世界の住人によって
正気を削られたかのような眼で見つめるニーナ。

だが、この喜びようを見ればAも私が正しいと認めざるを得まい。
まったく困ったものだ。まるでこれでは私がAを晒し者にしたようではないか。
はてさて、どうやって慰めればいいものか。
そう思ってAに視線を移そうとした瞬間。

私の視界が揺れて車輌の床と天井が数回入れ替わった。

「いいですか、リリィ。
 男がああいうドヤァな顔をしたときはこんな風にするんだよ。
 ってディースさんが言っています」

転がり終わった私の目の前をマスターのロケットパンチが戻っていった。

「え、でも。いや、それは、たしかに。
 あんなに得意げな顔をした人を見たことなかったけど。
 でも、だめだよ、マスター。痛い子としちゃったらさ」

憮然とした私の耳に女神の声が聞こえる。

「……あんたたち、なにやってんのさ」

今にも笑いそうなアティの声も聞こえた。

真っ赤な翼を生やした声なき少女。
人工の《闇の種族》。
《闇の種族》を宿した意思持つ鋼鉄体。
人の感情を元に時計人間より作られた魔女。
猫に変異した女。

まったく混沌とした空間だと私は嘆息した。
テーゼがいればさぞかし頭を抱え……希望を見出すだろう。
リロイも来ればいいと私は思った。
……すべての面倒事を押し付けられて、莫迦をやるがいい。


63頁。空を諦めた竜



ギーとは長い付き合いだ。
都市インガノックで《復活》が起きた時からと言っていいくらい。
だから、そう、およそ十年。

あたし、黒猫のアティは考える。
ここは何処だろうとか。
脳をクラックされたかなとか。
紫色の霧の中で、空気を掻き分けて進む電車の中でぼんやりと。

あたしの手にあるのはスキレット。
変異によって変わってしまった毛むくじゃらの手。
大きな手は隣で一生懸命、
人参の皮を剥いているニーナの頭をすっぽりと覆い隠せるくらい。

マスターは現象数式で起こした
烈風でじゃがいもの皮を綺麗に斬る、
というよりは取り外していて。

鍋を真剣な眼差しで見張っているリリィの横で
同じく真剣な眼差しでリリィを見守っているAが立っていた。

作るのはシチュー。
この電車のキッチンでもこれくらいの人数分なら楽に作れるみたい。
リリィなんかはこんなに沢山の人と
いっしょに食事するのは久しぶりだとニーナとはしゃいでいた。

ニーナはきっとスラム、
インガノックなら下層の産まれなんだろうと思う。
リリィに手を引かれて笑う仕草は本当に可愛らしいと思う。
嫌いじゃない、好き、の部類に入る。

でも下層の生活というのはそうそう抜けるものじゃない。
眼の行き場、人に触れたときの強張り。
そういうのでどうしてもわかってしまう。
少なくとも、数秘機関を埋め込んだあたしにはわかる。

けれども、リリィ。リリィ・ザ・ストレンジャー。
この子は違う。下層ではなく、上層の産まれであるような
言葉遣いの良さと、明るさがある。
キーアみたいに、この子は人から愛される素質を持っている。

キーア、不思議な子。十年の生活で突然に現われた
あたしにとってのストレンジャー。
仕立てが良く、一財産にもなれそうな衣服と
インガノックに似つかわしくない物腰でギーと一緒に暮らすようになった子。
あの子とであって、ギーは…………

靄がかかったような思考の迷路から抜けだして。
あたしは自分の手元を見下ろした。
難しい。野菜を切るのは本当に難しい。
学習機関で使い方をインストールした所で、
人間と黒猫の差は埋まらない、埋まってくれやしない。

だから、難しい。
ファンシーな内装の中で、お料理に励む黒猫っていうのは
そりゃあ絵にはなるんだろうさ。
でも、現実はそうはいかない。

「ああ、もうっ!」

あたしは小声で悪態をつく。
隣で皮を剥いていたニーナが不思議そうに見上げてくる。

なんでもないよ、とあたしはニーナの頭を撫でて、
リリィを見守っているAに声をかけた。

「A、きみ暇だよね?」

「とても忙しい」

「嘘つけ」

何だい、とリリィから視線の先はそのままに
顔だけ離して用件を尋ねた。

「あたしの代わりに
 リリィと一緒に野菜を切ってくれる?
 鍋はあたしが見るからさ」

「え、どうしてアティ?」

「飽きちゃった。猫は飽き症なのさ」

ボウルに入った不揃いの大きさの人参を一瞥して
あたしは内心ため息をついた。
本当はラグがやるはずだったこの仕事。
あまりに不器用だったのを見かねて
たまの気まぐれに請け負ってはみたものの。
やっぱり慣れないことはするもんじゃない。

自然に見えるよう笑ってリリィと仕事を代わって
あたしは鍋の前に立ってぼんやりと底から上がってくる泡を眺めた。

泡、熱されて沸騰している湯は白く濁って
インガノックの朝を想い出した。
歪んだ鳥が囀って、ギーの隣で目覚めれば、
キーアの作る朝食の匂いが寝室のドアを開けたら漂ってくる。
あの子が今日もいい天気と窓を開けたら蒸気と霧が混じった薄い空気が
インガノックを死体の灰みたいな色で包み込む。

ああ、そうか。あたしはギーに会いたいんだと
アティ・クストスはようやく気づいた。
ここ、Aとリリィが言うにはニューヨーク・アンダーグラウンド。
ラグが言うには海底巨大機関都市《死者の館(ヴァルハラ)》。
どっちが本当なのかはわからないけれど、
ギーとこうまで長い間会わないでいるっていうのはなかったかもしれない。
いや、どうだったかな。

少なくともクリッター討伐に従事したり、
最悪の運に恵まれてばったり遭遇したとき。
あたしは命からがら逃げおおせてすぐにギーの寝顔を見に行くか。
それとも偶然ギーが通りがかることが多かった。

情けないなとあたしは苦笑する。
黒猫のアティ。凄腕の《荒事屋(ランナー)》。
愛だの恋だのがインガノックではどれだけの足枷になるか。
そのせいで死んだ奴も、そのせいで身を崩して
あたしの爪で喉元を切り裂かれた奴もいただろうに、さ。

「いい匂いがしてきたな」

「あ、ラグ。どうしたの?
 もう勉強は終わった?」

「勉強……そうも言えるか。ああ、大丈夫だ」

笑みが滲む低い声。
ずっと隅で本と睨めっこしていたラグが戻ってきた。
手にした本にはパラケルススっていう名前が書かれている。
あたしの目の前で切り終わった
山程の野菜が鍋に投入されてぐつぐつと煮られていく。

「ここからはあたしが見るよ、アティ?」

「ん、いいのいいの。あたしも一緒に見るさね」

リリィを後ろから抱きしめて胸元まで持ち上げた。
ちょっと俯くとリリィの赤みがかかった髪にあたしの顎が乗っかる。
Aがじっとこちらを見てくるのは気にしない、気にしない。
まさか僕も抱っこしてくれってんじゃないだろうし。

ぐつぐつ、と野菜が柔らかくなってるのを待ちつつも。
リリィが小さな手で白ワインを数滴入れてからミルクを注ぎ。
ぐつぐつ、ぐつぐつ、いい匂いがしてくる。
野菜スープの素朴な匂いから、徐々にシチューの香ばしいものへ。

裾を軽く引かれる感触。リリィを右手だけで抱えて
ニーナを左手で同じく胸元に抱える。
黒猫の毛並みが頬をくすぐったのかニーナが楽しそうに身を捩った。

子供、結局のところギーは子供が好きなんだろうか。
好き、というのは少し違うかもしれないけれど。
でも、じゃあそれ以外のなんだとなると、わからない。
灯りが投げる光が湯気を雪のように見せて、ちょっと毛が湿るかもと一歩下がった。

「出来たよ」

そう言ってAがミトンをリリィとニーナに渡して、
自分は皿を持ってテーブルに行く。
リリィとニーナが仲良く一緒に鍋を持って運んでいく。

「出来たからといってはしゃいで
 持ち上げ過ぎたりしないよう、気をつけて。リリィ」

「わ、わかってるよぅ!」

リリィが頬をぷう、と膨らませて。

「以前に問題でもあったのか?」

「問題まではいかなかったけれどね。
 あまり淑女のすることではないと考えるよ」

「元気ってことだからいいじゃないか、ってディースさんが言ってるですよ」

Aが皿にシチューを盛りつけてクロスの敷かれたテーブルに載せていく。
なんだか、洒落た雰囲気だなあと思った。
うん、キーアもこういう雰囲気は楽しいかもしれない。
それ以前にあの子、こういう賑やかなのが好きだし。

「そう言えばアティ。おまえはシチューは大丈夫なのか?」

「猫舌ですからね、猫は。うふふふ。
 笑うところ、大丈夫ですかね?」

「べつに間違ってはいないんじゃないかな。
 そう、お察しの通り、黒猫アティ様はお熱いのが苦手なのさ」

舌を出して席に着く。
そうすれば目の前の皿からシチューの柔らかでやさしい香りが鼻孔をつく。
本当にいい匂い。それに、きっとこのシチューは見た感じ天然の具材を使っていた。
どこでどうやったら手に入るんだか、口には出さなかったけれども
きっと向こう半年分のお金位にはなっただろう。

まったく、不思議なところに居る。
インガノックの日常からは想像もできない。
いただきます、とみんなで言ってスプーンでシチューを口に運ぶ。
あたしは、まだ見てるだけ。
猫だからね、本当の猫がどうかはしらないけれども、猫だから。
熱いのは苦手、冷めるのを待つんだ。

美味しい、とリリィとニーナが頬に手をあてた。
マスターはシチューが食べられないのかと思いきや
開いた頭部へラグにシチューを入れてもらっている。

列車は今も進み続けている。
空気の壁と壁の間を割り入っていく。
時速百マイルなんていうとんでもない速さで。

その時、一輌だけの地下鉄。
大きな線路を一人でひた走るストレンジャーに、
大きな、巨大な何かが突進してきた。

テーブルと食器が宙を舞って
まだ口をつけていなかったシチューが泥のように散らばった。
時速百マイルのスピードが押し負ける、直感的にわかった。

何が列車を止めたのかわからない。
ただ途方も無い巨大な何かが
地下鉄が突進してもびくともせずに道を塞いでいるということ。
あたしたちも車輌内の壁にぶつかりかけたけれど、
Aの壁とマスターの現象数式が衝撃を辛うじて和らげてくれた。

屋根が、鈍く光る灰色の爪でこじ開けられて。
鋼の列車の窓から覗いてくる、窓いっぱいの眼。
大きな眼、蛇の眼で、獰猛な牙が見えた。

地下に眠る1/2。ドヴァー。
そんな単語が聞こえた。
吹き飛ばされるときに、
銀の双眸をしたダークスーツの男が見えた。

Aがあたしたちを車輌の外へと瞬時に運ぼうとする。
けれども、遅い。竜の爪が影をあっけなく切り裂いて。
地下鉄が走っていた隧道は崩壊していく。

彼女の蒼色の瞳があたしに教えてくれる。
彼女は知っている側だ。
いざという時、どうしようも無くなった時、自分は真っ先に捨てられる側なんだと。
インガノックでかつてのあたしが体を売って生きるしか無いと告げられたように。

前触れもなく、盆から水が零れていく。
インガノックの日常が訪れる。
ならば、あたしは、無力で足手まといにしかならないだろうこの子を、
見捨てなければならない。今までだって何度も子供を見捨ててきた。

虚空に放り投げられて、土砂と瓦礫が雨のように降ってくる。
ニーナとあたししか視界には映らない。
どうする、どうする、チクタク、チクタク。

視界の端で白色の道化師が踊る。
いつも見ているあたしの狂気の現れとは違う。
奇妙な衣装、たしか、
西享の東の島国が身につけるという
布を重ね合わせただけのゆったりとした服。

ニーナの、あたしの手を握る力が弱くなっていく。
土砂の中で、あたしが取れる手段。
最高は、ニーナを差し出して、あたしがにげる。
その次は、あたしが闘っている間にニーナを逃がす。
最悪は、ニーナを抱えて一緒に逃げ出そうとする。

くるくると回ってから、灯りのない地面に着地した。
他の同行者は見えない。目の前には複数に入り組んだ通路。
差異的過ぎる、誰かが故意にこうなるよう崩壊させたとしか。

奥から咆哮が聞こえた。
ドラゴンだ。死の王。
こんな最悪のことはインガノックと少しも変わっちゃくれない。
ドラゴンは無敵。破壊は不可能。逃げることも、無理。
無遠慮に、ずかずかと、人の恐怖に踏み入って来て、かき回す。

あたしの手をまだ握る女の子、ニーナ。
色を失った瞳であたしの行動を待つ。
見捨てられることを、この子は受け入れている。
当然だ。ドラッグを買うシリングの為に親が子供を異常性愛者に売り渡すなんてことは、
下層の、泥水も啜れないような子達には、ありふれすぎている。
あたしが、この子を見捨てたって、どうなるもんでもない。


あたしも、きっとそうするんだろうと、諦念のもとに受け入れられている。
誰かが賽を投げた。大理石の卓をかつん、かつん、と音を立てて跳ねて、踊る、回る、輪る。
賽の眼を確認した。確認するのはあたし、喪服で着飾ったあたしが人死にの選択をする。

最悪だ、本当に。
だから、ギー。ギー。
きみの寝顔を見たいよ、とても。
胸がこんなにも痛む。


64頁。彼らの一存



   ありえないこと


意識が途切れたわけではない。
ドラゴンに呆気無く団欒を壊されて、
同行者と彼、Aの心に焼き付いた絶対の女王と別れるまでの一部始終。
彼はその赫瞳に収めていた。
ドラゴン、人間の恐怖という感情が具現化したとさえ
碩学の間で噂される絶対の存在。
恐怖を招き入れたと思われる銀色の双眸をした黒ずくめの男。
どちらも高位の、格が違うと人間の争いで言えば定義できる。
そんな怪物に今、彼らは狙いを定められている。

ようやく傷つけた影の回復が終わり、
立ち上がったA、同じく彼の側で転がっていたマスターが起き上がった。

「ここはどこ?」

「隧道の中」

「私は誰?」

「マスター、もしくはディース」

素っ気ない返答であるのはいつものA。
しかし、彼の声音には確かに見逃すことのできない焦りが滲んでいた。

「マスター、リリィはどこか知っているかい?」

そこに期待はない。
女王を見失うことこそ、A、黒の騎士が絶対にすまいとする、
這い寄る車掌、スケアクロウが己に定めた百の誓いのひとつ。

「いいえ」

しゅんとうなだれた、ように見えるマスターを無視して
彼は隧道の、暗がりの奥へと目を細める。
岸壁を反響する数千の咆哮。
通常の崩壊では考えられない音の指向性。
迷路となった道はどれもドラゴンへと続いているのだとAは悟った。

ならば、Aは歩みを進める。
ここでは存在を散らすことができない。
だから、歩くしか、いいや走るしかない。

だがそんなAの足をマスターがしがみついて引き止めた。
蹴落とそうか、影でいっそ傷つけようかという物騒な思考がAの脳裏を支配する。

「乗ってください」

ぱかり、とマスターの頭部が開く。

「マスター、いやディースか」

「マスターです」

マスターは大きな掌で、冷たい体温とは程遠い指でAの頬を掴むと横に引っ張った。

「マスターに乗れば、速くドラゴンに辿りつけますよ」

「いいのかい? 
 あれは強大だ。勝てる見込みがあるとは」

「こっちには切り札がありますからね、
 『ホーエンハイムに賭けてみよう』と、ディースさんも言いました」

まだ何か言おうとするAを遮って
マスターは一層強くAの両頬を引っ張った。

「こういう時は笑顔でありがとう、と言うものですよ。頑張りましょうね」

ようやく離した頬を軽く押さえ、
Aは表情を変えず、それでもほんのささやかに強張った顔を柔らかく。

「ありがとう」


Aにとってありえないこと。
それはリリィ・ザ・ストレンジャーを守らないという選択肢全て。




   わかること


私の手には小さな手が握られている。
置かれた状況が作為的なのはわかっている。
私は、何者かにこの少女、リリィ・ザ・ストレンジャーを見捨てろというのだろう。

不安な面持ち、それはAが側にいないせいか。
足取りは気丈にしっかりとしたまま。
私の手に伝わる震え、振動、ざわめきは歩行の際の誤差なのかもしれない。

以前にも、こういうことがあった。
表情を隠したまま、不安を表に出すまいと必死な少女の手を握った。
アリス、私が初めて己の意思だけで守ることを選んだ少女。

「安心しろ、私は強い」

元気づけようと私は下手なほほ笑みを浮かべ、
リリィに言った。この先のことを隠しはしない。
わかりきっている。ドラゴンだ。
誇り高き武人、トゥーゲントから気高さを抜き取った存在と戦うのだ。
馬鹿げている。私は本当に故障したのかもしれない。

「そうは見えないよ」

笑い返した彼女に私は小さな憤慨を覚えた。
それは確かにリロイよりは弱いかもしれないが、
それでもあの車輌ではマスター、Aに少し劣る機能と
別れた山道、そしてアティに遠く及ばない運動能力が備わっている。
自分でも不甲斐なさを覚えるが、大丈夫だ、問題ない。

私にはある数式が備わっている。
今ならば、あるいは。

風が吹いた。爽やかなものではない。
見を凍らせるもの、心を竦ませて足を止めて
手の暖かさを忘れてしまいそうな恫喝めいた咆哮。

だが、私は歩く。
少女を見捨てては私はリロイに顔向けできなくなる。
それだけは絶対にごめんだという自負心がある。
決して相棒に劣る私ではあるまいという誇りに通じる感情。

それに

「なあリリィ。あのドラゴンを退治したら紅茶を飲もう。
 私が淹れて、おまえたちにプレゼントしよう」

今の私は知っているのだ。

アリス、少女の微笑みを守ったあとの紅茶の美味さを。
それは、私の兄弟姉妹に自慢できる小さな発見かもしれない。


65頁。ドラゴンを討伐せしめる黄金の一振り



暗がりの奥底。不自然なる複雑な迷宮の深く。
影の騎士、Aは足元より伸びる影を幾本もの槍へと変え。
球体の鋼鉄、幻想を封じるマスターは千にも届く魔術を駆り。
吠え、脅かすドラゴンへと挑んでいた。

出会い頭からの急襲は効を成さない。
何故なら相手はドラゴン、恐怖の王。
ドラゴン、ドゥヴァーは出自において真の幻想ではないけれど、
彼ら相対者にとっては如何程の慰めにもならないだろう。

ドラゴン、脅威の最たる特性は防御力。
這い寄る混沌の眷属に匹敵する力、
ドゥヴァーと同じく人造の成り立ちであるAの影は鋼ならば簡単に斬り裂く。
マスターの使う魔術も同じく、幻想の高位にあるに相応しい威力。
しかし、どちらもドラゴンの鱗の前には蚊の吸血程度のダメージ。

地下隧道が戦場であるのだから、ドラゴンの機動力、
滑空は封じられているのはアドバンテージになっただろう。
けれども、ドゥヴァーは不思議にも翼を使うという動作を全く見せない。
ともすれば翼という己の肉体の一部であるはずの、それの使い方を知らない。
優位に立てる、穴となるかもしれない箇所はそこだけ。
だがドラゴンの爪は魔術よりも硬く、混沌よりも恐怖である。

「無事ですか、A」

ドラゴンの爪が鋼体の一部を削りとって、
辛うじて身を回転し致命傷を避けたマスターは戦闘に集中するAを案じた。

「大丈夫だ、問題ない、とはいえないな。
 彼の皮膚を突き破る術が思い浮かばない」

ドゥヴァーの尾が鞭のようにしなると、
横薙ぎに払われた。その一撃にAは影を展開して防御しようとするも
鱗は影を紙のように千切り、壊し、Aへとぶつかる。

「ぱんぱかぱーん!!」

七色の後光を背負ったマスターの叫びが狭い50フィート四方の隧道に
響き渡るとドラゴンの注意がそれた。
手のひら大の影で形作った影でダメージを防いだAは肩から血を流して、
ドラゴンから距離を取った。

「マスター、今の技は……メスメルか」

「うーん、目立ちすぎましたかね?」

本能の赴くままにドゥヴァーはマスターへ向きを変えると
突進していく。地響きだけで大地が揺れ、まともに立つのも厳しくなる。
足踏み、走る、ドゥヴァーの直進。

Aの影がドラゴンの背後から疾走し始めた。
伸直の速さは遅い。光源のない場所においても暗黒はAから生み出されるものだから。
Aの力以上の速さは出すべくもない。

一か八かの防御結界を展開し、
両手で頭を抑えて身を守る構えをとったマスター。
そんな彼を救ったのは一陣の風とともに現われた黒猫の影。
アティは両腕でもはみ出す大きさのマスターを抱えてAの側に着地した。

「君は逃げるかもしれいないと思っていたよ」

開口一番にそう言い放たれてアティは気まずそうに眼をそらした。

「……逃げ場なんてないでしょ」

アティの視線の先を見やるとそこには所在なげに佇むニーナの姿が。

「ねえ、相談があるんだけど。
 あたしたちが囮になればせめてニーナくらいはその先に――」

「駄目だ」

アティの提案を心なく遮ってAはドゥヴァーに向き直った。

「恐らくリリィと一緒にいるのはラグナロクだろう。
 けれど、この場に彼の数式が行使された痕跡はない。
 なら、リリィはまだこの迷宮の後ろにいるということだ。
 僕は僕の女王のために動く。君たちは逃げてもいいけれど、
 女王の姿を確認しないことには命を捧げられない」

「はっきり言うね」

呆れ半分に苦笑するアティの腕の中からマスターが這い出て着地した。

「マスター達が捨て身で突撃しても
 一人でも生き延びる隙が作れるかは微妙だってディースさんが言ってます。
 天井に穴を開けてみるにも、この隧道自体がなんらかの術に守られてるみたいですね」

「そういえば背中にやたらと沢山の剣が刺さってるけどあそこを突いてみるとかは?」

「僕も考えたけれどあれはむしろ拘束具のようだよ。
 下手に手を出して一層強化されるというのは考えたくない事態だ」

「うわぁ、どうしようもないね……」

「どうせなら生き残るのはディースさんが良いです」

もじもじと足で円を描きながらのマスターの呟き。
元も子もなさにアティは引き攣った笑みを浮かべた。

「来るよ、二人とも気をつけて」

ドゥヴァーが首を大きく伸ばしてA達へと狙いを定めた。
口を大きく開くと紫影の吹き溜まりが生み出されていく。
大きくなっていくのは力の球体。全てを破壊するのだろう息吹(ブレス)。

迷わずアティはニーナを腕の中へと引き寄せ、
Aはマスターにしがみつき、ドラゴンの頭上を飛び越えようと跳躍した。
開放される力場は膨大な余波をもたらして連鎖的な破壊を招き入れた。
全身を打ち付け、転がる四人。
もっともダメージの浅いニーナだけが即座に立ち上がる余力が残っていた。

そんなニーナの目の前に鼻息が届く距離にドゥヴァーが接近した。
鼻面を押し付けて、旧知の友と友誼を交わすように鼻面を押し付け。

「逃げて……!」

悲痛なアティの叫びを合図に、ドゥヴァーの口から鋭い牙が覗いた。
開かれた口蓋、乱れ咲く歯は痩せ細った少女の体を食い破るには十分だと
誰の眼にも明らかな事実だけを伝えた。

――――――――――――――!!

だがドゥヴァーの横っ面を張り倒したのは時速百マイルで突き進む鋼の列車。
予想外のタイミングで襲いかかる攻撃にドゥヴァーはたたらを踏んでよろけた。

「ニーナ!!」

緑髪の少女、背中から生える人工肺、
赤く、黒ずんだ翼がぴたりと静止していたのは彼女の緊張のせい。
翆色のワンピース、
赤毛の少女がニーナを庇ってドラゴンから庇うようにニーナへと覆いかぶさった。

小さな体、細い腕に抱きしめられて、
ニーナは緊張から解放され、青色の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。

「大丈夫」

リリィは頬でニーナの怯えを受け止めて、力強く言う。

「あたしが、なんとかするから」

「私もいるんだがな」

苦笑とともにリリィの横に立つのは銀髪碧眼の青年、ラグ。

「ずいぶんなざまだな」

口の端を吊り上げて、揶揄するようにラグはAへと呼びかけた。

「来るのが遅かったからね」

Aの身が闇に溶けて、リリィの背後に現れるとニーナからそっと引き剥がし。
ドラゴンへと向き直らせて、女王の背後から抱きしめるように手を下ろすと、
騎士は女王を見下ろしてささやいた。

「さあ、リリィ。騎士に主命を。
 僕は今、君の傲慢(ヒュブリス)の命じるまま敵を突き穿つ槍へとなろう」

リリィはAを見上げる。
光源のない暗闇の中、発光茸が仄かな明かりを放って。

「A。あたしの車掌さん。
 あたしは、ニーナを悲しませて、怯えさせるあれを許さない。
 あたしの友達を泣かせてしまうあれを、ニーナの前から消したい」

だから、とリリィは言う。
言葉を告げる。車掌に導かれるままに。

「A、あれを消して。あんなのは――――いらない!!」

「Yes, My Lady. Lily」

Aの足元から不気味に伸びる影。
それは彼の武器、彼の暗がり。這い寄る混沌の齎す発狂世界。
四方に広がり、炎のように揺らめいて。

「さあ、始めよう」

Aは右手を伸ばす。
時刻を告げる車掌は、遠く伸ばした右手に意思を載せる。

「女王の言葉を借りて。
 来たれ、我が影、我がかたち」

言葉に応じて、黒く、昏い、怪物が来る。
ドラゴンの威容を物ともせず、意思、言葉を道標に。
斬られても物ともせず。噛まれても臆すことなく。

「凶暴なる獣の吐息――」

立ち上がるのは従者。
女王を守り、女王が愛する全てを守り。
その化け物、引くことを知らず。

鋼の音がけたたましく。
Aの背後で、数多の脚を蠢かし。

「俊敏なる獣の脚――――」

Aの影から這い出るは黄金の皮膚を持つ。
ドラゴン・ドゥヴァーとまるで異なる輝きを識る姿。

「そして粉砕するくろがねの牙。
 我が声に応えていでよ、我がかたち」

瞬きの速度で、それはかたちを成して、影の歪みに呼応した。
凶暴に、獰猛に、不気味な泡のように自動的に。
彼奴は、立ち阻む敵へと襲いかかる。

「獰猛なる鋼の猛獣。
 クリッター・アントライオン!」

アントライオンはドラゴンへと襲いかかる。
一切の躊躇もなく、無慈悲に無感動に。

鈎爪と牙がドラゴンへと襲いかかる。
たとえ、敵が、恐怖の具現でも。
もしも、敵が、誰かの祈りの顕であっても。

「汝の牙は我が牙。
 汝の罪、あらゆる全ては我が罪。
 さあ、アントライオン。おまえの敵は空を識らぬ憐れなる王。
 …………粉砕せよ!」

猛獣が爪と牙を振るい、真正面からドラゴンと組み合う。
ドラゴンの爪、牙、あらゆる砲と弾を弾く、
傷つくことを識らない絶対の防御力と対決した。

『GAAAAAAAA……!』

獣の叫び。敵の心から恐慌をおびき寄せる効果のあるヴォイスを
超直近より鼓膜にぶつけられてもドゥヴァは決してたじろぐことをしない。
むしろ、危険なのはアントライオンの方。
物理攻撃による破壊は不可能な特性を帯びていても。
幻想より来る攻撃、敵意には非存在の鎧は水や空気と同義。

『GAAA、AAA…………!!』

リリィが悲痛な面持ちで息を飲む。
呆気無い程の速さで、アントライオンの体躯に大きな罅が走る。

「ラグナロク0109、君、の出番だ。
 僕とリリィ……薔薇の魔女であれの鱗に風穴を開ける。
 開けるのを確認せず、リリィの一撃と同時に数式を叩きこめ」

ラグは沈黙を保ったまま、ドラゴンを凝視し、
ぶつぶつと意味の取れない数字の羅列を口ずさんでいた。
碧眼はドラゴンとアントライオンから壱刻も離さず、
小さく頷いたのだけが彼の意思を表明した。

アントライオンのダメージと連動していることにより、
Aの声にはオイルの切れた機械のような軋みと金属音めいた肉体の悲鳴が聞こえてくる。
額から流れる血は勢いを増し、リリィを普段よりも強く――抱きしめる。
長身の彼に、成長をまだしきっていない小柄な少女が応える。

「今回は少しの時間も遺されていない、リリィ。
 だが僕はまだ壊れていない。だから、きみはやらなくてはならない。
 僕たちのアントライオンが捨て身の攻撃を仕掛ける。
 彼の崩壊を見届ける前に、アントライオンから、きみのオルゴンを――」

アントライオンの頭頂部から縦に大きく線が走った。
リリィは必死に悲鳴を噛み殺して。
Aに大きく頷く。

「うん、わかってる。
 あたしのかたち、あたしの槍で、あれに、穴を」

リリィは”リリィ”でドラゴンを砕く。
アントライオンが四つの牙、爪で一箇所に同時攻撃。
穿ち、砕く、攻撃を仕掛け――――
その攻撃は初めて防御体制を取ったドゥヴァーの爪を剥がし、壊し、そこで終わる。
自壊していくアントライオン。残骸と成り果てていく彼女の下僕。

それでも、リリィは言う。
魔女のように、悪魔のように。
決意と言葉を携えて、皆の生命と喜びを恐怖に染める敵への怒りのような想い。

「力を貸して」

刹那、少女のすべてが変わる。
少女から魔女へと、願う者から通す者へと。
攻撃者、破壊者、呼び名は千あれど、彼女を呼称する呼び名に通じる属性は、魔。

「もう一度、前に刃の天使にそうしてように。
 あたしにかたちを、力を、従属を。
 あたしは、あれを、貫く。
 あんなドラゴンはいらない。恐いだけの怪物はいらない」

「――――Yes,My Lady. Lily」

魔女の言葉に導かれ、想いに応えて。
頭に載るのは黄金の王冠。
儚く、脆く、それでもなによりも強い輝き。

有効に活用できるのは1秒以下。
それだけの時間で、彼女は力のあらん限りを尽くさねばならない。

ドラゴンの表情、感情窺い知れぬ気配に初めて揺れが産まれた。
それは、怯え、恐怖、未知なるものに対峙した時の感情の動きに似ていたかもしれない。
ドラゴン・ドゥヴァーは空を諦め、地底に望んで縛り付けられた。
故に、存在するはずもない唯一の弱点は――――未知への恐怖。

知らない感情に支配され、ドラゴンは怨嗟と呪詛の声をあげる。
無駄、まったくの無駄。冒険を忘れ、人の願いにも応えることをしない怠惰のドラゴン。
彼に、害し、破壊した筈のアントライオンの屍骸からひとふりの槍が産まれ、襲いかかった。


黄金色の槍、魔女の指先に触れるか触れないかの距離。
力を少しも入れず、自然とそうあるべきと定められたように、魔女の意思に従う。
ぐるり、ぐるん、閃光が走る。大げさな旋回で、魔女の蔑む視線に見下されて。

牙と爪は眩い黄金の槍。
ドラゴンにめがけて突き刺して。

「おまえ」

深く深くへと抉りこもうとする。

「ここから」

殺す、貫く、砕く。

「消え失せて」

ドラゴンの絶叫が鳴り響いた。
血飛沫が吹き上がる。生命の赫色。
魔女の装束を濡らすことなく、痛みと絶望だけを訴えて。

「試算する暇も、試用する時間もなく。
 完全な見切り発車だな」

苦笑とともに、幾重ものローブを纏った
青年は本体である剣の柄に埋め込まれた宝玉に意識を集中し。

「だが、あいつなら言うだろう。
 『やれる、やれないじゃない。
 こういう時は――――やる時なんだよ』とな」

不可視のエネルギーが収束して。
世界を縛り付けていた鎖に鍵が挿し込まれて解けた音がした。
《存在意思(ノルン)》の槍は、寸分違わず薔薇の魔女の攻撃軌道をなぞり。
深く抉られた傷口へと―――――

――――――パリン。

ノルンの槍が弾かれた。
結集していたエネルギーが霧散し。
ラグの顔に驚愕が広がっていく。

「馬鹿な……」

「数式専用のファイアウォールだよ!
 何度か現象数式使いがやってるの見たことがあるけど、
 戦闘に実用は出来ないはずなのに!!」

「人の手が入った…………ドラゴン…………文明の果てか」

魔女の槍は既に跡形もなく消え失せて。
着地していく薔薇の魔女はドラゴンの前に完全に無防備。

悲鳴と痛みに思考を乱されているドゥヴァーはリリィへと尾を繰り出して。
マスターの掌から生み出された風が辛うじてリリィを救った。

「シェザーガ!!」

黄金の力が切れる直前。
魔女の視界の端に映ったのはニーナの瞳。
その瞳に、諦めの影が色濃くたちこみ始めて。
リリィの意思に激情が走る。
あんな顔は嫌だとリリィの内側からの想いが出口を求めて暴れだす。

「誰か!!」

リリィは背後に手を伸ばす。
無我夢中で、誰が応えてくれるかも考えず。

「あたしに――武器を!!」

リリィの指先が確かに触れた。
優雅な純白の、これまで屠ってきた御遣いと同じ白い剣。
ラグナロク0109[エアスト・ノイン]。
リリィの意思で、必死にオルゴンの消失をせき止めて。
汚れ、染みひとつない剣は、今まさに魔女の手で黄金の剣と化した。

「―まっすぐに叩きわるのよ―
 ―どこまでも逃さないのよ―
 ―かならずあれを殺すのよ―」

黄昏時の夕日と同じ黄金色となって。
リリィは大きく、武器だけでなく体を前に回転し。
ドラゴンの口元に巨大なエネルギーの塊が集まって。

「おまえ」

ドラゴンの息吹(ブレス)

「このまま」

しかし、それは――

「真っ二つになれ」

魔女の意思を、騎士の意思を、黄昏の剣の意思を、
彼女らの意思を折ること能わず。
無慈悲に、無感情に、ドラゴン・ドゥヴァーは胴体をふたつに分かたれて――

リリィの意識はそこで途絶え。
ぽふり、とAの腕の中に受け止められた。

ラグナロクはリリィの手より離れて地面を転がり。
歓声を上げながらリリィ達の元に集まった。
アティは喜びのあまりリリィの頬に接吻の雨を降らせて。
マスターはAごとリリィを胴上げしようとしてAに阻まれた。

そんなみんなより離れて。
意識を宝玉へ移したラグだけが眼にした。

拾い上げ、空間を包むそれとは全く異質の歓喜に瞳を歪ませる乙女の笑みを。

「お疲れ様。神々の黄昏の剣」

鈴が鳴ったと錯覚する可憐な声。
その奥に潜むのは歪みきった女の艶。
小さな唇が宝珠に触れて。

「さあ、終わったばかりの激闘。
 間断なく襲い掛かるのは幻想も万物も尽く滅する剣。
 彼らは何秒持つかしら。せめて、1分、いいえ2分?」

宝珠に収められたラグの意識が遠のき。

「2秒が限度でしょうね」

炎の魔女、かつてのラ・ピュセルは黄金が抜けた刀身に情火を込めて。
新たな惨劇が希望もろとも食い尽くす。


66頁。黒の騎士/王子



遥か昔、壁に囲まれて生きていた人間という種は突如として
闇に潜む者、《闇の種族》に襲われることとなった。
超常の力と生命力を兼ね備えた怪物。
文明と秩序は一夜にして失われることが常としてあるものとなり。
滅亡を間近に控えた人間は最後の抵抗に全ての希望をかけた兵器を作り出した。

形状は時代遅れも甚だしい剣。
優れた人工知能を搭載、実体のある立体映像を投映することで
使用者が死しても帰還可能な自律起動性を付与した。
しかし、そこにはラグナロクには大きな兵器としての揺らぎがある。
例としては、銃火器を嫌う性癖、自分の存在を疑うほどの思考の柔軟、
そして高額、貴重を極める兵器であっても、使用者の生命を絶対に守ろうとする。

そのような数多くの機能を搭載しているラグナロクだが
機能の中心は万物を構成する《存在意思》への干渉、及び操作。
これによる大規模破壊を回避ではなく防御のみで存在しきれた《闇の種族》はいない。
ダーク・ワンは、人間を憎み殺すことの正当性を訳もなく確信していた幻想達は口々に囁いた。

ラグナロクは無敵
防衛は不可能
唯一の防御手段は――――存在しない
あるとするならば、製造者が――――


斬撃とは、斬る攻撃であるのはもちろんだが。
腕を振るだけで斬るものではない。全身で斬る意思を体現せねば紙も斬れない。
もしも、東の大陸で幾多の旧支配者の隷属階級を屠った
元述というレベルの剣聖ならば。
剣一振りもない無手であっても、
森羅万象尽くに斬り裂く意思を通す術を正気と引き換えに得るのだろう。

その域に達する者はそういない。
チクタクマンが好む《天才》と尊ばれる者達であっても正気のままで視認できない弾丸、
鉄を焼き穿つ砲以上の剣筋を得られる者は多くない。
だから、剣は時代遅れの武器なのだ。
20世紀において、刀剣が戦場の主流になることはない。

ヒルド・ロメ・ダルク、彼女が振り回すのは剣聖を超える万物に願いを通す剣。
ラグナロク。ドゥヴァーには”誰が”施したのか
本来有り得ない対ラグナロクとすら思える防御壁が展開されていたが、
それさえなければ、チクタクマンの軛より解放されたラグナロクは恐るべき兵器となる。

非物質の特性すら無意味と化してしまう兵器の機能。
人間の叡智と進歩、発展の結晶である剣。
果ての一つであると定義すれば、
正しく《巨神》の眷属か”そのもの”ですらあるかもしれない。

ヒルドの手の中、宝玉の奥深くにて封ぜられたラグ、
彼の意思はそこにはなく。ヒルドに演算の決定権の何から何まで奪われていた。
斜めに薙ぎ払われると攻撃に用いられたAの影が消失する。

為す術のない侵略。
インガノックのクリッター災害を知る者には想起させる圧倒的現象。
可憐な笑みを貼り付け、蒼黒の鎧を纏った。かつて乙女のまま焼かれた魔女。
彼女の速度は数秘機関を埋め込んだ荒事屋にも勝る。

マスターの内側へ避難させたニーナとリリィを守る為、半円形を組んで。
Aとアティはマスターに背を向けて炎の魔女に立ち向かう。

「アティ、きみにあれを処理する方法は浮かぶかい?」

横目でアティに問うAの瞳には静かな焦りが浮かんでいた。

「…………無理、だよ。こんなの」

アティの震え混じりの返答を聞いたヒルドは笑みを深め。
人間をやめた時のままの炭化した腕だけを軽く振る。
ヒルドの技能(スキル)には鋼鉄(クローム)支配がある。
それによるラグナロクの自在支配か、
だが果たしてそれだけで無数のファイアウォールが施された人工知能に踏み込めるか。

「あんなのは、無理だ」

A達がいた場所に大きなクレーターが生まれていた。
御遣いの現象にも似てはいたが、痕跡としては遥かにラグナロクのほうが速い。
これですらかなり威力を抑えた結果だ。
すべてをかなぐり捨てたラグナロクの力は一都市を一瞬でこの世から消失しきってしまう。
唯一の逃げ場である筈の
ドゥヴァーが遮っていた出口を今はヒルドが塞いでいた。

アティから視線を外すとヒルドの一挙手一投足を凝視し、
マスターとアティの足元にAは影を伸ばし、巻きつけた。

「ふたりとも、聞いてほしい」

ヒルドの腕のふりに合わせて隧道が賽の目状に斬れていく。
断裂が産み出され、紫影の世界に闇色の線が無数に走った。

「そこにリリィが使った電車がある。
 あれに乗って、振り向かずに進んで」

「A?」

「ちょっときみ何言って――」

Aの影が蛇のように蠢き、アティとマスターを屋根のとれた電車へと放り投げた。
電車はアティとマスターが着地したのを確認したかの如く、一人でに動き出し。
回りだした車輪は電車の速度を瞬く間に最大へと押し上げた。

「あら、見逃すと思って?」

電車の進行方向に立ちはだかるヒルドが剣を掲げると一直線に、
ケーキへ入刀する時のような流れる動きで一輌だけの地下鉄へと振り下ろそうとし。

「させないよ」

電車に注意が向くのを見逃さなかったAがラグをするりと避けて
影をヒルドに叩き込んだ。まだ二十歳にいかないのではないかという若い肢体を宙に投げ出して、
ヒルドはふわりと羽根のように降り立った。

そんな彼女の横を電車は通過し。
ヒルドは逃した獲物には見向きもせずにAの背後へ語りかけた。

「もう出なさい。R」

ヒルドの声に応えて暗闇の中から浮かび上がったのは同じく蒼黒の騎士。
違いは全身のみならず頭部すら覆い隠している仮面の存在。
機械帯をつけた、紛れも無い騎士の姿の新たな男。

「あの男の力はあらかたわかったでしょう?
 わたしの配下に回されたのだから、きちんと働きなさい」

これまでとは違う気だるげな、苛立ちさえ含んだ囁きとともに、
ヒルドはAへと狙いを定めた。

「二対一か」

「ええ、そうよ。諦めたほうが良いのではなくて?
 この剣は這い寄る混沌と呼ばれる一柱すら斬り裂くと、ロキも保証する神具だもの」

「10分は持ちこたえる。
 そして僕は破壊から身を守り。さらにはリリィを守る」

車掌帽をかぶりなおし、
アフリカ大陸の人々とは違う黒色の肌の青年、
AはヒルドとRの両方を視界に入れるように動き。

そして、右腕をぴんと張った。

「這い寄る混沌、空っぽ頭、スケアクロウ、ブラック・ファラオに連なる《黒の王子》。
 僕を表する属性は色々あるようだけれども。
 僕は美しく輝ける女王を守る従者だ。
 リリィ・ザ・ストレンジャーを守るAだ。
 彼女が心から望むすべてを叶えてやりたいと思う車掌だ」

Aの足元より燃え上がる暗がり。
光なき地下世界で、光無ければ存在できないはずの影は
Aの赫瞳に宿る意思に応えて勢いを増していく。

「……おい、ヒルド。話に聞いたのとは違う。
 俺は、怪物と闘うと聞いたんだ」

「怪物よ、そうでなくても決して神でも人間でもない存在」

ヒルドは煩わしげにRへとぞんざいな返答をし。
苦しげなノイズ音が音の大小不規則に騒々しく流れた後、
手元のラグナロクからも声が漏れ出てきた。

「……A……A! なにをしている!?
 おまえも逃げろ! 私ではこの干渉を止められない!」

「まだ意識があったのかい。それはそうと僕は逃げない」

「馬鹿なことを言うな!
 この数式は、間違いない。
 私を創った”ヤツ”が組み上げたものだ!!」

「どうでもいいし僕はきみのいう”ヤツ”が誰なのか知らない」

「私はおまえよりも遥かに高位の《闇の種族》に造られたのだ。
 おまえならばこれがどういうことかわかるだろう!?」

「いや、それは本当によくわからない。
 きみが、もしも意思にそぐわず生命を奪うようなことになれば。
 きっと、きみの剣の柄に収まる宝玉は、人間でいう”悲しみ”によく似た反応をするのだろう。
 リリィのもっとも嫌う結果だ。一緒にシチューを食べた者がそうなってしまうのは、駄目だ」

「駄目ですむ話ではない!!」

「なら、ラグ。僕はきみにこう言おう」

赫瞳の彼の想いは砕けない。
漆黒を絶えず産み出し、
悪性変異をし続けていくのではないかとも錯覚する夜闇よりも昏い彼、A。

「僕は僕の好きな子のなにもかもを守る《騎士(ナイト)》だ。
 たとえすれ違っただけの者ですらも
 女王の瞳から涙が溢れるより速く、気高く、守護してみせる」

RはAの闘志を見て動揺を露わにし、思わず顔を背け。
ラグはAへの呼びかけを忘れた衝撃のまま再び意識を落とし。
ヒルドは不快げに眉を顰めて。

唯一鎧を纏わない。この場でひとりぼっちの騎士は悪辣な侵略者に立ち向かった。



  

最終更新:2015年09月14日 20:23