「お綾や、お謝りなさい」
「登場人物」
菱吉01「お綾、お綾、お綾ったら」
お綾01「はあーい」
菱吉02「お綾、お前どうしてこんなことをしたんだい」
お綾02「こんなことって?」
菱吉03「この竹のことさ。この高塀に竹立てかけたのは、お綾、お前がやったことだろ?」
お綾03「あら、この高塀に竹立てかけちゃいけないの?私がこの竹立てかけたのは、この高塀に竹立てかけたかったから、竹立てかけたのよ」
菱吉04「ふーん。それじゃ、この手ぬぐいはどうだ。雨に濡れた濡れ縁の上に、主(ぬし)の無い濡れ手ぬぐいがあるなんて。どうせお綾、お前がやったことだろ?」
お綾04「あ、それは私の手ぬぐいよ。でも濡れ手ぬぐいだなんて、この手ぬぐい濡れてなんかいないわ、ちっとも」
菱吉05「でも縁側は濡れてるぜ」
お綾05「だったらこうして拭けばいいでしょ?あら、こんなところに釘が出ているわ。兄さん、これ抜いてよ」
菱吉06「どれどれ、こりゃずいぶん引き抜きにくそうだね」
お綾06「いくら引き抜きにくいといっても、釘抜きで引き抜いたらいいでしょ?」
菱吉07「だめさ。古栗の木の古切口の古釘だもの」
お綾07「なあんだ、古栗の木の古切口の古釘一本引き抜けないなんて。だめね、兄さんは。おしゃれのほうはずいぶんだけど」
菱吉08「何?お前の前髪の下げ前髪だって、ずいぶん変だぞ」
お綾08「いいじゃないの。私の前髪がどんな下げ前髪だって」
母親01「お綾、お綾」
お綾09「あ、お母さんだ」
母親02「こんなところにいたのかい。お綾や、八百屋に行って来ておくれないかい?」
お綾10「あら、またおつかい」
母親03「またですって?」
お綾11「そうよ。この間だって、ちょっと立って手伝って頂戴。って言ったんで立ったとたん、立ったついでだ、炭団(たどん)を取って頂戴。って言ったでしょ。お母さんたら本当に人づかいが荒いんだから。色々と言えば言うほど嫌になるわ」
母親04「お綾、母親に向かってなんという口の聞き方ですか。お謝りなさい」
菱吉09「そうだよ。お綾や、母親にお謝りなさいよだ。第一お綾は、イライラするから笑われ、照れるからからかわれ、ダラダラするから侮られるんだよ」
母親05「菱吉は口をはさむんじゃありません。菱吉には別口がありますからね」
お綾12「そーらごらんだ。それで、何を買ってくるの?」
母親06「今晩のおかず。六軒屋(むのきや)の方が安いからね、六軒屋で買うんだよ」
お綾13「六軒屋?」
母親07「そう、六軒町の曲がり短い曲がり目から六曲がりして、六軒目の曲がり目が六軒屋だからね」
お綾14「六軒町の短い曲がり目から六曲がりした六軒目の曲がり目が六軒屋なのね。分ったわ。じゃ、行ってくる」
母親08「お綾、お金は?」
お綾14「あ、そう、一文無し」
菱吉10「いつでもお前のがまぐちは空がまぐちじゃないか」
お綾15「いいわよ。いくら空がまぐちだってちっとも困らないから」
母親09「じゃ、これだけ持っておいで」
お綾16「はい。行ってきます」
母親10「菱吉、武時(たけとき)はどこへ行ったね」
菱吉11「さっき、特許許可局と、農商務省特許局と、日本銀行国庫局に行くといって出かけましたよ」
母親11「特許許可局と農商務省特許局と日本銀行国庫局になんか、何しに行ったの?」
菱吉12「特許許可局の局報略号表を見せてもらって、中小商工振興会議に出て、市中(しちゅう)の輸出輸入の状況調査ですって」
母親12「それじゃお前だけで行っておくれ。高崎の先の北高崎の美容院の嘉平さんが怪我をして病院に入院中だそうだからね。
お見舞いに行ってきておくれ」
菱吉13「北高崎の嘉平さんなら、親も嘉平子も嘉平、親嘉平子嘉平子嘉平親嘉平、どちらの嘉平さんです?」
母親13「子嘉平さんのほうよ。病院は高畑病院だそうだからね」
菱吉14「高畑病院?上高畑(かみたかはた)ですか、下高畑(しもたかはた)ですか、それとも中高畑(なかたかはた)ですか」
母親14「高畑病院といえば、上高畑でなし、下高畑でない、中高畑に決まっているじゃありませんか。それでね、これはお見舞いのよもぎ餅ですからね。容れ物は返してもらってくるんですよ」
菱吉15「はいはい。しょうがないなあ」
母親15「なにがしょうがないの。お前のようなものを駒込のわがまま者というんですよ」
菱吉16「いいよ。駒込のわがまま者でも、中野の怠け者でも。行ってきまーす」
菱吉17「ごめんください。やあ嘉平さん。いかがですか、お怪我なさったそうですが」
嘉平01「いや、たいしたことありませんよ。怪我(けが)負け怪我勝ち大怪我小怪我といってね、話ほどじゃありませんよ。ただ、箸にも棒にもかからぬ酔っ払いが、橋を渡って川の端に降りたとき、ちょっとつまづいてね。傷が水にずくずくに濡れて、ズキズキ痛んだもんだから、つい大げさになっちゃって」
菱吉18「そうですか。でも大したことがなくてよかったですね」
嘉平02「そう。そばで見ていた人が、渋谷から日比谷へ必死で疾走してくれたからね。それを聞いて、急ごしらえの救護班が救急箱を肩に急きょ救急車で旧友の救援に駆けつけたというわけさ」
菱吉19「なるほど。ところで、これはほんのおしるしですが召し上がってください」
嘉平03「ほう、お志はありがたいがお心の底が恐ろしいといったら失礼ですかな。何ですか、中身は」
菱吉20「よもぎ餅とかいってましたが」
嘉平04「ほう、それはぼくの大好物ですよ。早速お皿のおよもぎ餅、お呼ばれしたいものですね」
菱吉21「どうぞどうぞ」
嘉平05「じゃ、遠慮なくいただきますよ。……ほう、こりゃおいしい」
お綾17「ごめんください、ごめんください。六軒屋さん、誰もいないの?」
六軒屋01「いらっしゃーい。えーと、何になさいますか。今日は、生豆、生麦、生米、生卵、何でもありますよ」
お綾18「今日は生豆生麦生米生卵なんて何にもいらないわ。それより……と、あ、とろろ芋があるわね。これ、もらっていこうかしら」
六軒屋02「とろろ芋ね。このとろろ芋は、取るときとっても苦労したとろろ芋ですぜ」
お綾19「でも、とろろ芋を取る苦労よりもとろろ芋からとろっとするとろろ汁を取る苦労のほうが大変なのよ」
六軒屋03「はいはい、とろろ芋と。それから何になさいます?」
お綾20「何か果物をもらっていこうかしら。すももかももはないの?」
六軒屋04「あいにく、すもももももももう売り切れて、ないんですよ。梨なんぞどうです」
お綾21「でもこの梨、芯ばっかりじゃないの?」
六軒屋05「いいえいいえ。梨の芯とナスの芯はナスの芯と梨の芯だけ違いますし、ナスの芯と梨の芯は梨の芯とナスの芯だけ違いますからね、そんなことは絶対にありませんよ」
お綾22「そう?でも梨はまたにして、お花をもらっていくわ」
六軒屋06「はいはい。野撫子(のなでしこ)に野石竹(のぜきちく)、どうです、きれいじゃありませんか」
お綾23「野撫子や野石竹じゃしょうがないわ。それより、そっちの菊をちょうだい」
六軒屋07「菊ですか。白菊、黄菊、
赤菊、どれになさいますね」
お綾24「取り混ぜて六本」
六軒屋08「はいよ。菊桐菊桐三菊桐(みきくきり)、菊桐菊桐三菊桐、合わせて六菊桐と。どうぞ」
お綾25「はい。菊桐菊桐三菊桐、菊桐菊桐三菊桐、ちょうど六本あるわ。じゃ、さようなら」
六軒屋09「毎度あり。……おや、あの人ったらせっかくのとろろ芋を忘れて行っちゃったじゃないか」
お綾26「お母さん、ただいま」
母親16「おや、お綾かい。早かったね。何を買ってきたの?」
お綾27「とろろ芋よ。あ、いけない。六軒屋に置いてきちゃったわ。行ってきまーす、もう一度」
母親17「お綾。……あら、もういないよ。お綾のあわてものったらないよ、ほんとに」
菱吉22「ただいま」
母親18「おかえり。菱吉、容れ物は?」
菱吉23「あ、すっかり忘れてきちゃった。すぐ取りに行ってきますよ」
母親19「あーあ、菱吉も菱吉だよ。ほんと」
武時01「ただいま、お母さん」
母親20「今度は武時かい?」
武時02「そうですよ。どう、こんなもの拾ってきたけど」
母親21「おや、猫の子の仔猫じゃないか」
武時03「そう、猫の子の仔猫ですよ。これ、隣のじゃないと思うけど」
母親22「お隣の仔猫は三毛の仔猫ですからね。けど、そんなものどうするつもり?」
武時04「しばらく飼ってみようよ。面白いよ」
母親23「しょうがないねえ」
武時05「ねえお母さん、お茶立ちょ茶立ちょちゃちゃっと茶立ちょ、青竹茶筅(ちゃせん)でお茶ちゃっと茶立ちょ。お茶一杯くれない?すっかり喉が渇いちゃった」
母親24「お茶立ちょ茶立ちょちゃちゃっと茶立ちょなんて、そんなふうにいくもんですか。ああ、あの猫ったら」
武時06「どうしたんです?」
母親25「備後(びんご)から来た上等な屏風をボロボロに破いちゃったじゃないか」
武時07「いいじゃありませんか、屏風のひとつくらい」
母親26「いいえ、お前は知らないかもしれませんけど、あの屏風はね、大奉書(おおぼうしょ)、中奉書、小奉書と、青巻紙、赤巻紙、黄巻紙とを張り合わせて、その上に書写山の社僧正(しゃそうじょう)と備後の坊主が、丈夫に貧乏な坊主の絵を描いた上等な屏風なんですからね」
武時08「でもねえ、ごらんなさいよ。仔猫があんなところで拝んでるじゃありませんか。猫が拝みゃがる、犬が拝みゃがる、馬が拝みゃがる、かわいいじゃありませんか」
母親27「あーあ、お前たちはどれもこれも、のらくらのらくら、のら如来のら如来三のら如来じゃないか。ほらごらんよ、お母さんはもう口がまわらないよ」
最終更新:2024年11月12日 18:19