蓋を開けて



 夜半、独りでピアノを弾いていた。
 黒塗りの巨大な楽器は、指に導かれるがまま奔放に歌っている。
 音色はデタラメ、調律まで狂っている。
 当たり前だ。
 生まれたこの方、俺はピアノなんて弾いた事はないのだから。

 家にピアノがやってきたのは、俺がまだ小学生の頃だ。
 小さな妹に買い与えられた、不釣合いな巨大楽器。
 無邪気に演奏する姿が、どこか怪物に食われているように見えたのを憶えている。
 そんな俺の感想はともかく、妹は毎日のようにピアノを弾いていた。
 怪物に食われているように見えたものが、いつしか怪物を手懐けているように見え出して。
 何よりも優先して、ピアノへ没頭するようになってしまった。
 だから、きっと。
 手懐けているように見えたのは、俺の勘違いでしかなくて。
 小さなピアニストは、ピアノという怪物に飲み込まれていた。
 今になって自覚する――俺はこの時、既に妹を失っていたのだと。

 妹が死んだと聞かされても、だから俺は泣かなかったのだろう。
 特別、仲がよかったわけでもない。
 どこにでもいる、ごくごく普通の兄妹だった筈さ。
 だから普通は、死んだと聞かされたら、少しぐらい泣くんだろうけど。
 死ぬ前からいなかった妹が死んだところで、悲しくなかった。
 ただ、それだけの話。

 ――なのに。どうして俺は、ピアノを弾いているのだろう。
 こんな物、俺は弾けもしないのに。
 デタラメな音ばかり立てて、何をしているのだろう。
 ……違う。俺は、捜しているんだ。
 ピアノの中に、音楽の中に。
 あいつは今でもいるんじゃないかって、捜し続けているんだ。
 未練がましく。
 泣けもしなかった兄貴が、面影を探して鍵盤を叩いている。

 ああ、分かっているさ。
 こいつはただのピアノで、怪物なんかじゃない。
 妹を食ったわけでも、飲み込んだわけでもない。
 どんなに会いたくたって、あいつはもう死んでしまったんだから。
 それでもやりきれない何かが、俺にピアノを弾かせている。
 狂ったように、狂ったように。
 虚しい音色を、響かせ続けている。

 あいつを取り戻して、心から泣くために。