寛永大振袖(山本周五郎)

「如何なる結構な御品じゃ」
伊達政宗(だてまさむね)は、恭しく名笛小枝(さえだ)を取上げた。
長丹波守雅典(ちょうたんばのかみまさのり)は自慢らしく、
「延元(えんげん)の昔、越前金崎城に於て尊良(たかなが)親王より当家の祖に贈りたるものにて、青葉、蟬折(せみおり)と共に天下三名笛の一と言わるる名物でござるよ、――歌口の下に枝が出ておりましょう、それを以て小枝と号したかに承わりまする」
「結構なものじゃ、実に結構なものじゃ」
政宗はうちかえし見ていたが、――武将の中でも風流人として聞えた人、殊に横笛にかけては一倍強い執着をもっていたから、むらむらとその小枝の一管が欲しくなった。
「どうでござろう丹波殿」
やがて政宗が顔をあげた。
「かかる名物、一生に一度でも宜しい、心ゆくまで試みてみたく存ずるが、数日のあいだお貸しくださらぬか」
「それは困ります」
丹波守は驚いて、
「なにしろ日本三管の一にて、当家重代の秘宝、門外不出にござりまするでな」
「それは分っております、さればこそお願いを申すのじゃ、ほんの数日、四五日お貸しくだされば必ず大切に返却仕るで……」
「仰せではござるが、こればかりはどうも」
「そう言わずに枉(ま)げて」
押し、返ししている時、客殿の廊下を踏鳴らして駈けつけた近習の若侍が、
「一大事にござります」
と廊下へ平伏した。
「何事だ」
「唯今、お虎が檻を破って逃げ出し、お飼番二人を嚙殺し、大庭に猛り狂っております」
「なに虎が逃げた?――」
丹波守は顔色を変えて立上った。
そのまま客殿の高廊へ出る、政宗もあとから続いて行った。――みると大庭の築山のあたりに、わっわっと侍達がもみかえしている。その遠巻の中に、頭から尾の先まで一丈あまりもありそうな猛虎が、血ぬられた牙をむきだし、ぶきみに咆えながら、それこそ文字通り虎視眈々と尾を振っている。
「吉之介(きちのすけ)、吉之介はおるか」
丹波守が叫ぶと、
「は、御前に」
と言う答えがして、高廊の下へ一人の男が現われた。丹波守は振返って、槍を!と言う、言下に小姓の一人が走って行って、雅典愛用の大槍を持って来た。
「あの虎を仕止めてみい、槍を貸すぞ」
「は、――」
吉之介と呼ばれた男、槍を頂くと大股に築山の方へ行く、――その姿をみて、政宗は思わず奇異の眼を瞠った、色白にして眼涼しく、骨柄逞しき偉丈夫で二十四五ともみえるのに、どうしたことか未だ前髪だちで、しかも派手な大振袖という小姓姿。
(はて奇妙な男があるものだ)と独眼を輝かせながら見戌(まも)っている。
吉之介は悠々と築山の近くまで来た、血を舐めて凶猛になった虎は、脊筋(せすじ)の毛を逆立て眼を怒らせ、低く咆えながら襲いかかる機を狙っている――この虎は先年、朝鮮から幕府へ献上したものであるが、勢猛にして取扱うに法がなく、もてあました結果家光(いえみつ)より丹波守へ下賜されたものであった。
「待て、待て深井(ふかい)」
吉之介が槍を執(と)り直そうとした時、ばたばたと走って来た若侍、深井吉之介とは同年のおさな馴染で、近習御用係を勤める森山勇之進(もりやまゆうのしん)。
「なんだ、勇之進か」
「槍を貸せ、拙者が一槍に仕止めてやる」
「ああそうか」
頷いた吉之介は、思案するでもなく槍を相手に渡すと、
「怪我をするなよ、虎という奴は無分別で、何を考えているか知れぬからのう」
「退け」
「落着いてやれよ、うふふふ」
含み笑いをすると、そのまま振向きもせずに元の場所へ戻ってきた。丹波守はこれを見て廊下を踏みながら、
「どうした吉之介」
「は――」
「格別の旨を以て貸与えた槍、猥(みだ)りに勇之進へ渡すという法があるかッ」
「は、火急の場合是非なく……」
「なにが火急だ、貴様、臆したな!」
「うへッ虎は怖い」
呟くように言うと、吉之介はのっそり渡り廊下へあがって行く、嚇(かっ)とした丹波守、呼止めようとしたとたんに、庭先でどーっとあがる歓声。思わず振返ると、今しも森山勇之進が、虎の喉笛へ一槍入れたところであった。
「わーッ、わっ」
とあがるどよめき、
「あっぱれ勇之進、やりおったな」
と雅典も我を忘れて叫んだ。――併(しか)しそのとき、伊達政宗は鋭い独眼で、渡り廊下の片隅に立っている吉之介の顔を眤 (じつ)と眙(みつ)めていたのである。


新谷(しんや)靱負(ゆきえ)老人はかんかんに怒っていた。
「ばか者め、貴様いったいどういうつもりでいるのじゃ、その大きな体をして、虎は怖い……よくもそんな戯言がぬかせたものだ、怖いとはなんじゃ、怖いとは」
膝を叩いて叫ぶ。
吉之介は畏入った恰好で温和しく頭をさげるばかり。――叱っている方が人並はずれて小柄な老人、叱られている方は六尺に余る筋骨逞しい男だから、対照の妙実に珍中の珍である。
「返答せい、本当に貴様虎が怖いか」
「どうも、性に合わない」
にやにや笑っている不敵な顔。靱負老人まさに匙をなげた。
「ばか者、どこの世界に虎と性の合う者がいるか、体ばかり一人前でもまるで思慮は少年同様な奴だ。――それにひきかえ勇之進をみろ、あっぱれ猛虎を仕止めたうえ、御槍を頂戴致し、即座に百石の御加増とある」
「百石、百石は多過ぎる」
「余計なことを言うな、御同席の中将政宗公からも過分のお言葉があったそうじゃ、御当家としても面目、百石は至当な御加増だ、――それに貴様は」
と再び靱負は膝を乗出す、
「臆面もなく虎は怖いなどとぬかして、――第一その前髪大振袖が、貴様には恥かしくないのか、元服しようという気はないのか」
「どうも、殿のお差止め故……」
「それだから言うのだ。今日みごと虎を仕止めておれば、お差止めの許されるのは必定、それを知らぬ貴様でもあるまい」
お差止めとはどういう訳か、簡単に話すとこうである。
吉之介は幼少の頃、時疫のために父母を喪い、それ以来伯父に当る新谷靱負に引取られた。靱負には由紀(ゆき)という娘が一人あって、これと兄妹同様に育ってきたのである。――十二歳の年に初めて小姓にあがったが、生来おっとり者の吉之介、主君雅典侯がまた一倍癇の強い方で、逆と逆とが合うのであろう、ひどく雅典の気に入った結果、
――吉之介はいつ頃も小姓として側に仕えよ、予が吉之介の前に両手をついて謝ったという時がくるまで、その前髪をおろすことならんぞ。
というお沙汰が出たのである。大名の我儘でどうにも仕方がない、それ以来二十五の今日まで大振袖に前髪だちという、珍奇な姿を通してきたのだ。
「貴様がその化物のような恰好をしている間は、由紀に婿をとりこともできはせぬ、――貴様にしたところで、一日も早く綾江(あやえ)どのと婚礼をして深井の家を再興せねばならぬ筈、少しは真面目に考えてみろ」
「危いな」
「なにが、危い――?」
「どうも危い」
吉之介しきりに頭を捻っていたが、やがて顔をあげて、
「伯父上、あなたはお側におられたので御承知でしょうが、今日殿には御家宝の名管、小枝を伊達殿へお貸しなされたそうですな」
「…………」
靱負老人は呆れて、暫く吉之介の顔を眙めるばかりだった。――こいつ、温和しく意見を聴いていると思ったら、
(てんで他所(よそ)事を考えてけつかったのか)
老人はもう怒る元気もなく、
「それがどうした」
「どうも、殿はお人が好いから困る、勇之進の武勇を褒められたので気を好くされたに違いないが、――危い」
「だから何が危いと訊いておるではないか」
「ここで言っても仕方がない」
けろりとしている。
「勝手にしろッ」
老人憤然として洟(はな)をかんだ。――もう小言は済んだのである、吉之介は叩頭(おじぎ)してさがろうとした、老人は口惜しそうに振返って、
「貴様はいま、殿はお人が好いとぬかしたがな、世間で聞いてみろ、貴様のお人好しはもっと有名だぞ」
「うふふふ」
吉之介は含み笑って、
「君、君たれば臣、亦(また)臣たり」
と言いながら伯父の部屋を出た。――自分の部屋へ行こうとすると、廊下の角にふっとなまめかしい肌の香がして、従妹の由紀がそっと寄ってきた。
「どうした、こんな所で……」
「どうなることかと、ずいぶん心配いたしました。――厭な吉之介さま」
と由紀は笑いを袂に包んだ。


「なにが厭だ」
「まるで父様をからかっていらっしゃるのですもの」
「由紀……」
ふっと吉之介は振返った。
「吉之介がこんな格好でいる間は、そなたに婿をとってやることができぬと、伯父上は怒っておられたが……」
「厭、厭ですわ、そんなお話」
吉之介の部屋の前まで来て、由紀はくるりと背を向けた。そして囁くような声で、
「吉之介さまだって早く綾江さまをお娶りなさるように、言われていらしったではありませんの……?」
「うふふふふふ」
吉之介は静かに振返って、
「それには、この前髪をおろし大振袖をぬがねばならぬが、どうやら当分そんな仕合せもなさそうだ」
綾江というのは長家江戸邸老職松井(まつい)準曹(じゅんそう)の娘、縹緻自慢で気の強い評判の我儘者だが、どういう風の吹き廻しか吉之介をみそめ、是が非でもというので婚姻の内約だけした間柄であった。――併し、前髪大振袖の小姓姿では結婚もならぬから、元服する時を待って式を挙げようということで、それからもう二年も経つのである。
「だが、どうだ由紀、そなたには吉之介のこの恰好が気に入らぬか」
「否え、お立派ですわ」
由紀はそっと眩しげに見上げて、
「いつ迄もそのお姿でいらっしゃる方が宜しいわ、その方がずっとお似合いですもの」
「うふふふ、似合うか」
擽ったそうに袖をひろげ、
「おれも、そう思う」
と言うと、すっと部屋へ入って行った。
伯父の小言は済んだが、世間はそのままで済まなかった。なにしろ「虎は怖い」などという愉快な言葉が弘(ひろ)まらぬ筈はない、三日と経たぬうちに家中どこへ行ってもこの噂でもちきりの有様、――殊に浮っ調子な奴は、吉之介の姿を見えると出て行って、
「怖い怖い、虎は怖いぞ」
大声に喚きながら、頭を抱えて逃げる真似をする、同座の連中手を拍(う)って、
「わあ――っ」
という騒ぎである。併し吉之介はにやにやするばかりで、どこを風が吹くかとばかり通過ぎてしまうのだった。
四五日は経った。――ある時、吉之介は丹波守に侍して庭を歩いていたが、
「憚りながら、お伺い仕ります」
「なんだ」
雅典は牡丹畑の方へ足を向けた。
「伊達様より御家宝の一管、お戻しに相成りましたか」
「未だ戻らんが、どうかしたか」
「危のうござりますな」
「危い、――?何が危い」
丹波守は足を止めた。
「とかく、かようなことは約束の期日が大切、うっかりすると貸し下されになります」
「ばかを……中将侯ともある者が」
「否、――」
吉之介は頭を振って、
「世に例なきことではござりませぬ、――先頃、真田(さなだ)信濃守(しなののかみ)様が重代の宝物、宋朝伝来の青磁の香炉、蕭韻(しょういん)と銘ある珍什を酒井(さかい)雅楽頭(うたのかみ)様にお貸し申し、そのまま僅󠄀の金子にて横領同様に取られましたこと、お聞き及びにござりましょう」
「うむ、――聞いておる」
「誰にしても、永く珍宝を手許に置けば、これを手放すが惜しくなるは必定、これ人間の情でござります。――もし中将政宗様が、奥州六十余万石の権柄を以て、横車を押されるような事があっては面倒でござります」
「…………」
雅典は暗い顔になった。
「約束の期日も、過ぎたこと故、催促を遊ばずが宜しゅうござりましょう、如何?」
「よいよい、考えるであろう」
雅典は頷いて庭を去った。
なにしろ尊良親王より拝領の家宝、万一のことがあってはそれこそ大変である、早速に使者を伊達家へ差立てた。――すると、
「いま暫く拝借」
という返辞である。さてこそと思ったから中一日置いて、追っかけるように催促の使を出したが、これにもまた、
「もう二三日どうぞ」
というばかりであった。
とかくするうちに五月になった。毎年五月五日、端午の節句には、長家に於て能を催し、雅典自ら『小枝』をしらべて家臣に聴かせるのが例になっている。
――その当日もま近に迫る、五月二日となってしまった。


雅典はかんかんに怒っていた。
「今日こそ是が非でも小枝を受取ってこなければならぬ、万一の場合には中将殿と差違える覚悟で、――誰ぞ使者を志す者はおらんか」
「恐れながら」
と言下に吉之介が滑り出た。
「私に仰付けくださりませ」
「吉之介か――」
と雅典は苦い顔をして、
「誰ぞ外におらぬか」
と振返った。――なにしろ相手は奥州の独眼竜、一代の英雄豊太閤(ほうたいこう)も一目措(お)いた傑物である、これとのっぴきさせぬ掛合に行く役目だから、頓(とみ)には私がと名乗って出る者もない。
「誰も、志す者はないか」
もう一度雅典が言う、すると森山勇之進がつ――と進み出た。
「は、恐れながらこのお役目、手前へ仰付けくださりませ」
「うむ、勇之進だな」
雅典はにっこり頷き、
「その方なれば伊達殿にも、先日の武勇を見知っておらるる筈。よし行って参れ、大切な役目である、心してやれよ」
「は、命に賭けて仕りまする」
「あいや暫く、暫く」
吉之介が膝行して言った。
「恐れながら、この度のお役はお家の為には至極の大事、ぜひとも吉之介に仰付けくださるよう、枉げてお願い仕りまする」
「吉之介控えろ」
雅典がにこにこしながら制した。
「差出がましき言を申すでない、相手は名に負う独眼竜、その方などの手に合う仁ではないぞ、龍は虎よりずんと怖いでな」
列座の面々がどーっと笑いだした。
吉之介は顔も得あげず、そっと自分の席へ戻る、勇之進は勢いたって伊達邸へと出掛けて行った。
ニ刻あまりの後、勇之進はみごと小枝の一管を受取り、欣然として帰邸した。雅典の悦びがどんなであったかは、即座に五十石の加増を与えたことで分るだろう。
その夜のことである。――吉之介がさがってくると、すぐに靱負の部屋へ呼びつけられた。行ってみると老人毎(いつ)もに似ぬ悲痛な顔をしている。
「お呼びにござりまするか」
「もっと進め」
靱負は容を改めて、
「先刻、老職松井殿が御自身でこれへみえられた。用件はかねて内約であった綾江どのとその方との縁談、破約にしてくれとの話だ」
「ははあ、到頭来ましたか」
「ばか者ッ何をぬかす!」
靱負は嚇怒して喚いた。
「到頭来たかとはなんだッ、内約とはいえ武士と武士とが言い交したる縁談、破約を申込まれて耻辱とは思わぬか、ばか者め」
「は、それは、勿論、実に、――」
「何が実にじゃ、本来なればこの靱負、皺腹ひとつ掻切っても’’’うん’’’と言うところではないぞ、併し先方の申分には条理がある」
松井準曹の理由は、――いつ迄待っても吉之介の前髪をおろす当がない、小姓姿で結婚もさせられず、といって娘の年には限(きり)がある。しかも近来の評判(虎は怖い、という噂であろう)からみても、この辺で一時縁談を見合せたいと思うから。――と言うのであった。
「それでもと押切る口実があるかッ――残念ながら歯嚙みをして破断の儀承知した、この苦しさが貴様に分るか」
「…………」
「貴様のような白痴(たわけ)を甥に持てばこそ、この年になって掻かでもこの耻を掻く、――ああ残念じゃ」
怒り極まった悲しさであろう、老人は拳を顫わせながら外向いた。
「伯父上」
「行け、これだけ申せば用事はない」
吉之介は平伏した。
「申訳ござりませぬ。私のために耻を受けたとのお言葉、胆にこたえてござります、併しこれにはちと仔細のありますること」
「言い訳聞きとうない、さがれ」
吉之介は面をあげ、眤と伯父の横顔を眙めていたが、やがて静かに部屋を滑り出た。――自分の居間へ入る、あとから由紀がそっと来て、憂わしげに眉を寄せながら、
「吉之介さま、――お話は?」
「ああ、由紀か」
と振返った吉之介、
「なあに、松井の娘から縁談の破約を申込んできたのだ」
「まあ、どうして……?」
「由紀」
吉之介の顔は晴れ晴れと笑っていた。
「吉之介の小姓姿を似合うと言ってくれるのは、どうやらそなた一人らしいぞ」


雅典は、お能師忠治(ただはる)を相手に、明日に迫っている端午の節句の、祝宴に調べる『小枝』の笛の稽古をしていた。
雅典が千鳥の一曲を終った時である、
「申上げます」
と言って、拝聴していた吉之介が平伏した。
「なんだ吉之介」
「恐れながら他聞を憚りまする大事、お人払いを願います」
吉之介の顔には、かつてみぬ鋭さが閃いている、雅典は頷いて、
「みなの者、暫く遠慮せい」
「あいや、お能師忠治殿、勇之進の両名だけはお留めを願います」
と言う。そこで忠治と森山勇之進の両名だけを残し、一同は座を退いた。
「なんじゃ吉之介」
「忠治殿にお伺い申すが」
吉之介は向直った。
「唯今、殿お調べに相成った一管――当家御重代の小枝とはいささか違うように存ぜられまするが、そこ許には如何思われまするか」
雅典はぎょっとした。
「な、なにを言う、吉之介」
「わたくし幼少の頃より存じまするに、小枝の名笛は律呂の位高く、殊に呂の音の深淵にして神韻縹渺たる、実に古今稀なるところにござりました。――しかるに唯今伺いますれば、韻の凡俗なるは勿論、呂音独特の神韻影もとどめず、訝しき極みと存じます」
お能師忠治は黙って聞いていたが、吉之介の言葉が終ると同時に、
「恐れながら、拝借仕りまする」
そう言って、雅典の手から笛を受取った。勇之進は顔色を変えて、――どうなることかと忠治の顔を眙めている。
「御免――」
と言って忠治は歌口をしめし、静かに音を調べ始めたが、すぐに笛を措いた。
「どうじゃ忠治」
「は、驚き入った深井殿の御鑑定、これはまさに偽物でござります」
「うーん」
雅典は思わず呻いた。
「能楽を以てお手当を頂く身が、お小姓衆に教えられて、初めて偽物と気付きましたる段、まことに面目次第もござりませぬが、――改めてみまするに、如何にも音色と申し、塗り巻き藤と申し、巧に似せて拵えたる偽物に相違ありませぬ」
「勇之進ッ」
雅典は顫声で叫んだ。
「貴様ッ、貴様――」
「暫く」
吉之介が静かに遮った。
「お怒りは尤もながら、勇之進へのお咎めは後の事、まずお笛の儀を」
「笛は笛だ――勇之進」
雅典は膝を叩いて、
「貴様、覚悟はあろうな。命を賭して致すなどと申して、かような大事を仕出来した罪軽からんぞ!」
「恐入り奉りまする」
「目通りならん、下れッ、後とも言わず唯今から食禄召上げる、追って沙汰致すまで慎みおろうぞ」
「は、――」
勇之進は蒼白(まっさお)になって退出した。
「吉之介、近う」
「はは」
「先日、その方が使者を願いでたる時の言葉、今こそ思い当ったぞ。それにしても憎むべきは伊達中将、どう致したらこれを……」
「申上げます」
吉之介は顔をあげて、
「恐れながら、事表向きに相成っては面倒、就いては唯今より私を、伊達殿お邸へお遣しくださりませ」
「何ぞ思案があるか」
「御家宝の一管、取戻して参ります」
「併し、――」
雅典は不安そうに、
「偽物を作る程の中将、むざと返しは致すまいが」
「いや、いささか法がござります」
吉之介はにやりと笑った。雅典はその笑顔を見ると、何となく救われたように思い、大きく頷きながら、
「よし行って参れ、くれぐれも頼むぞ」
「過分のお言葉恐れ入ります」
平伏した吉之介、そこにある偽の笛を取って箱に納めると、御前を拝辞して唯一人、伊達の邸へと向った。
ところで吉之介が玄関脇を門の方へ出ようとした時である。いきなり物陰から、
「吉之介、覚えたか!」
と叫びながら、勇之進が抜打ちに斬りつけた。は!と一歩左へ転ずる吉之介、鼻っ先をひゅっ!とかすめる白刃、
「待て、勇之進」


「くそッ」
喚いて、踏込みざま真向へニの太刀。吉之介危く体をひらく、のめった勇之進、片手なぐりに胴へばっと、
「イえーッ」
「危い、待て、待て勇之進」
声を殺して制するのを、耳にもかけずむにむざんに斬りこんでくる。吉之介はさっと二三歩とびさがると、つけ入った勇之進。
「やっ」
袈裟がけにくる剣、ぱっと体をひねって、流れる龍手をむずと摑む、思いの外の豪力でぐっと逆に捻じあげながら、
「待てと言うに、肯かぬか」
「うぬ、放せーッ」
「声を立てるな、人に聞かれたらどうする」
と言いながら木陰へ押しつけて、
「ばかだなあ森山」
と顔を和げ、すばやく四辺(あたり)を見廻して、
「時と場所を考えろ、今こんな所でやれば、乱心者と言われるばかりだぞ、――とにかく今日は止せ、勝負が望みなら厭とは言わぬが、改めて時と所を定(き)めてからにしよう、分ったか」
「…………」
勇之進は肩で呼吸(いき)をしていた。
「よいな、短慮をするなよ」
吉之介は相手の眼に、殺意が無くなったのを見たので、そう言いながら手を放した。――勇之進は黙って、門を出て行く吉之介の後姿を見戌っていた。
芝口御門外の伊達邸へ着いた吉之介は、暫く控えの間で待たされた後、若侍の案内で政宗の前へ進んだ。
広間には伊達家の家中、豪勇の士がずらりと並んでいたが、入ってきた吉之介の風俗をみると、一同奇異の眼を瞠るのであった。――六尺ゆたかの偉丈夫で前髪だち、派手な大振袖というのだから、初めて見る者が驚くのも無理はない。上段にいた政宗も、独眼を輝かせながら微笑して、
「ほう、来おったな」
と言う。――吉之介は平伏して挨拶を述べる、それが済むのを待兼ねたように、
「して、今日の要件は何じゃ」
「恐れながら」
吉之介は包を引寄せて、
「中将様に御鑑定を願いたき品有之(これあり)、憚りながらこれへ持参仕りました」
「ほほう、予に鑑定せよと言うか、――」
「枉げてお願い仕りまする」
吉之介は包を解き、蓋を開いて笛を取出した。――見るなり政宗はさてこそと顔をひきしめた。なにしろ自分が作らせた偽物である、――欲にからんで偽(し)たことではないが、名器に対する愛着は時に人を盲目にするものだ。笛には一倍の執着をもつ政宗、はじめは小枝の写しを作らせて手許に置くつもりであったのが、あまりに良くできたので悪戯半分とりかえたのである、無風流な丹波守などに持たせておくのはもったいない、――そういう気持も半分はあったのだ。
「これは――」
と政宗は笛を取って、
「先日返却した小枝の笛ではないか」
「そう思召されまするか」
吉之介は平然と、
「とにかく一応、音をお調べくださるよう」
「調べるまでもあるまいが」
と言いながら、政宗は歌口をしめして、やおら律呂をしらべ始める、と、――吉之介は暫しも聞かずに制した。
「如何にござります」
「仔細あるまいと思われる」
「小枝に相違ないと仰せられまするか」
政宗は黙って頷いた。吉之介はにやりと笑って、
「それを承って安堵仕りました。しからば甚だ勝手ながら、小枝の名笛に相違なしとの、極書(きわめがき)を一札お認め願います」
「なに――極書?」
政宗はぎくりとした。
「天下に諸侯多しといえども、風流の道に達せられしは伊達中将様を以て随一たること、世に隠れなき定評にござります、――殊に笛に於ては一代の堪能に在らせらるる中将様、その御方の極書がござりますれば、後に至っても万一にも笛の真偽を疑わるる場合ありとするも、百千の論に及ばぬ証拠」
「うーむ」
政宗は思わず呻いた。
小枝に相違ない、と言わせておいて、――のっぴきさせず極書を書かせようという。もしこんな偽物の笛に極書を付ければ、後世に至って政宗の鑑識が人々の嗤(わら)いを受けるは必定である。さればといって小枝の名笛に相違なしと断定した以上、極書を書かぬ訳にはゆかず、――併し、こんな偽物には書けず。
まさに急所を押えられてしまった。
「如何、――?」
吉之介はぐいと膝を乗出した。


政宗は吉之介の顔を見た、吉之介も政宗の独眼をきっと見上げた。
張切った弓弦(ゆずる)のような、息詰る一瞬――、
「よし、よし、書くであろう」
政宗はにっこと笑って、
「暫く控えておれ」
と言うと、笛を持ったまま立上って、静かに奥へ入って行った。――笛を取換えに行ったな、そう思って吉之介はほっと肩をおろした。程もなく政宗は戻ってくる。
「書いたぞ、――許す改めてみい」
と言って近習の若侍に、笛と一札を渡す、吉之介はそれを受取ると、まず笛の方を手に取って検めた後、にっこりと笑って平伏。
「ははっ、正に極書頂戴仕りました。これにて名管小枝も一段の箔、長家の家宝末代までの名誉にござりまする、――しからばこれにて御免を蒙ります」
「ああ待て、吉之介とか」
政宗が声をかけた。
「その方猜い奴だな」
「は、――」
「あのとき虎は怖いなどと言いおって、今日はまんまと龍を生捕ったでないか、あはははは伊達の家来なれば千石の手柄じゃ」
「恐入り奉る」
「健固でおれ、また会おうぞ」
政宗は拝湒して退った。そのうしろ姿を見送る政宗の隻眼は、――良い男だのう、というように、惚れ惚れとうるんでいた。
帰邸した吉之介は何よりも先に勇之進へのお沙汰の有無を訊いた。お沙汰は既にさがっていた、端午の節句済み次第切腹と、聞いておいて丹波守の御前へ出た。
「おお待兼ねたぞ、近う」
「御免――」
吉之介の進むのを待兼ねて、
「首尾はどうじゃ、吉か、凶か」
「御家宝の一管、相違なく受取って参りました」
「おおやったか、あっぱれでかした」
雅典は膝を打って、
「それにて雅典も面目じゃ、見せい」
「は、――」
吉之介は箱の中から、小枝の笛を取出し、雅典の方へにじり寄ったが、きっと眼をあげて鋭く丹波守を睨みすえた。
「殿、勇之進へ切腹のお沙汰と承わりましたが、相違ござりませぬか」
「沙汰したが……何としたぞ」
聞くより吉之介、いきなり小枝の笛を取って膝の下へ枝に入れる、膝をおとせば笛は折れるばかりにしたから、雅典が驚いて、
「これッ、吉之介なにをする」
「何をするとは知れたこと、この一管を折り捨てまする」
「な、な、何、――?」
「殿、貴方様はお情なきお方でござりますな。御家宝如何に貴くともたかがこれ一管の笛、万一これに過ありとて、家臣の食禄を召上げ切腹を申付くるという法がござりますか、――一朝事ある時に、笛が馬に乗りまするか、笛が太刀を持ちまするか」
「…………」
「武士の本文にこそあれ。戦場御馬前に於て討死すべき武士の一命と、一管の笛との価値さえお分りなき殿、――かようなお情なき御方の臣として命を永うること、吉之介武士として本望ならず。この場に於て笛を折り捨てます、お手討ちになと何なと遊ばせ、――御免」
「ま、待て、待て吉之介」
あわや膝を押当てんとするさまをみて、雅典はぞこへ思わず手をついた。
「あやまった、予が悪かった、許せ、この通りじゃ、許せ、――」
「否、一時逭(のが)れは肯きませぬ」
「嘘ではない、雅典たしかに謝ったぞ」
吉之介は眤と見て、
「しからば勇之進のお咎めは」
「おお、食禄相違なく差戻す、切腹の沙汰も取消すであろう、許せ」
「ははーッ」
吉之介は、ぱっと身を退く、笛と極書を御前へ直して、自分は遙にさがって平伏した。
「それでこそ殿は御名君、あっぱれの御武将、これにてお家は万代の栄えと存じ奉る」
叱りつけたり’’おだて’’たり、猜い男である。雅典はほっとして、
「貴様、ひどい奴だな」
「は、――」
「見ろ、冷汗をかいたぞ」
雅典は額を拭きながら、
「この書付は何じゃ」
「小枝の名笛に相違なしとの、政宗公の極書にござります」
「ふふふふさては独眼竜もやられたな」
雅典は心地よさそうに笑った。


「今日の手柄抜群である、褒美をやりたいが何ぞ望みがあるか」
「三つござります」
「欲張っておるな、申してみい」
吉之介はにやりとして、
「かねてお約束にござります、第一に元服の儀お許し願います」
「あ。そうか、謝ったと申したのう」
「第二には、勇之進へ御赦免のお沙汰、わたくしに伝達お許し願います」
「仔細あるまい、許す」
「第三に、――」
と言って、吉之介の頰がぽうと赧くなった。
「なんじゃ、――第三は何じゃ」
「は、恐れながら」
と再び口籠ったが、
「御、御意を以て」
「うん」
「伯父新谷靱負の娘由紀を、手前の嫁に」
「あははははははは」
雅典は膝を叩いて笑った。
「猜いぞ猜いぞ吉之介、あはははは、そうであったか、こいつめ、そうであったのか。あはははは」
雅典は腹をゆすって笑う。
「虎は怖いなどとぬかしおって、まんまと準曹長に一杯喰わせたな。――綾江との縁談が破約となったと聞いたので、さぞ貴様もくさっておろうと思ったに、実は靱負の娘を嫁にしようとの計略であったのか、憎い奴め」
「は、それは、その、実に」
「赧くならずともいいぞ、三ヶ条とも許す、由紀との婚姻には、予が仲人をしてとらせる、併し、――吉之介」
と雅典はさもしてやったりという顔で、
「貴様の赧くなったところを初めて見たが、案外そちも人が好いのう」
「うふふふふ」
吉之介も含み笑いをして、
「臣――亦臣たり」
と答えた。――併しこいつは雅典には分らなかったに相違ない。
吉之介が斜面の達をもたせた時、勇之進がどんなに感謝し、自分の不所存を詫びたかという事は、改めてここに書く要はなかろう。準曹と娘の綾江は臍を嚙んで口惜しがったし、靱負老人は小さい体を躍りあがって喜んだ。そして由紀は、元服した吉之介と、丹波守雅典の仲人という、破格の栄誉を以てめでたく結婚したのである。――その後、政宗から再三にわたって、吉之介を貰いたいと言ってきたが、これに応じなかったのは勿論の事だ。


附記

長家の子孫は現存し、数年以前のことであるが、重代の宝物と共に『小枝』の名誉を奈良の帝室博物館へ納めたところ、塗と藤の巻き方、その他に多くの疑問があるため、『小枝の笛』としては預かれぬとのことであったと聞く。筆者の無学識るところに依れば、正倉院御物の中に『小枝』と号する名笛が御所蔵になっているかに承る。されば尊良親王より長家に伝来したという『小枝』の笛が、如何なるものであったかは今日知ることができない。――とにかく、長家の家譜には明かに『小枝の笛を伊達政宗に貸した』ことが記録されているという。

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最終更新:2021年04月05日 15:53