近江商人考(外村繁)

  • 底本:昭和37年7月20日講談社発行 外村繁全集第六巻

本文

商人の發生

昔の人間がどんな生活をしてゐたか、といふことを考へてみるのは、大へん興味深いことである。どんなものを食し、どんなものを着、どんな家に住んでゐたのであらうか。さうしてそれらの物はどうして作られたのであらうか。
農業は随分大昔から行はれてゐたやうであるし、山野に住む者が鳥獣を狩り、海邊に住む者が魚貝を漁つて食料にしてゐたことも想像出來よう。が、人間が布を織ることを知つたのはいつごろからのことであらうか。さうしてまたそれまでどんなものを着てゐたのであらうか。獣の皮や、木の皮でも着てゐたのだらうか。多分、住居は掘立小屋のやうなものであつたらう。
が、そのやうな大昔のことは暫くおくとして、農業を行ひ、そのかたわら麻や絹を織つて、着物としていた時代のことを考へてみよう。もちろん、その大部分は自給自足の域を越えなかつたであらう。が、その時代になると、國家といふ社會組織も漸く整ひ、その支配者や、僧侶などといふ消費階級が現れるやうになつた。彼等の食料は租税として供出させられたが、彼等はなほ衣料や用具などを必要としたであらう。從つて、彼等の保護の下に、それ等の衣料や用具などを生産する者が現れ、次第に工人として専門化して行つたことは當然のことであらう。
次第に時代が進むにつれ、これらの生産者の間に、餘分の生産品の生じる場合もあらうし、農家の自給自足の生産にも餘剰と不足の生じることも考へられよう。
また、甲といふ男は農具を造ることが非常に上手で、乙といふ女は、布を織ることが巧みであるといつたやうな場合、最初はその技術の、或はその品物の、「交換」といふことの行はれるのも、當然のことであらう。が、このやうな適當な相手の見つからない場合、餘分の製品を持つた者が、神社や寺院などの祭日のやうな日に集つて、その製品を持たない人に「賣る」」といふ商行爲が、初めて行はれるやうになる。つまり「市場」であつて、今日にも「四日市」とか「七日市」などの地名を殘してゐる所以である。
市場の發達は、自分が使用するためではなく、「賣る」ための製品、つまり商品の生産を促した。が、市場で商品を賣る人は多くその生産者であつたらう。しかし、生産者が何かの都合で市場へ行かれないとか、商品が少いとかの場合、それを依託される人が生じて來る。それが後になると、殊に一つの部落で同一の産物が生産されるやうな場合、その中の誰かに依託するか、或は賣つてしまつた方が便利になる。かくして商人が發生し、市場で商品を賣る者は最早生産者ではなく、多く商人の手に移るやうになつた。
しかし市場商業には地理的な限界がある。その地勢や氣候によつて、産物には相違があることは當然であらう。社會が進むにつれ、生産物が增加するにつれ、各地の相異なる産物を交易する必要が生じて來た。商人はこの各地物産の交易に從事するやうになつた。商人の活動範圍が大きくなることは、商品市場の擴大を意味し、その商品の生産を刺戟し、生産の增加は更に商人の活動を促した。また各地の産物が交易されるやうになると、それぞれの地方では、その土地に不適當な産物を廢し、最も適當なものを選ぶやうになり、その生産は增加する。かうして、商人商業時代に入り、日本の徑濟機構の中に商人が根强い地盤を築くやうになつたのである。


近江商人發生の原因

近江商人は中郡と呼ばれる湖東の蒲生(がまふ)、神崎、愛知(えち)犬上郡がその中心地であつて、わらぢ、きやはんをはき、天秤棒(てんびんぼう)を肩にして、九州から東北の山奥まで行商に出たのであつた。
交通も不便だつたその時代に、利益を追つて、全國の津津浦浦を渡り歩く行商の旅がどんなに苦しいものであつたか、想像にかたくない。
「主人が行商から歸つてみえても、直ぐに家の中へお入れ申さなんだ。お歸りと知ると、早速お下着かまで新しいのを抱へて行き、すつかり召換へていただいてから、お迎へしたもんや。そんなもの、虱で、虱で」と一人の老婆が語つてくれたことを私は記憶してゐる。が、當時の商人達は意氣高く、先驅者の喜びに勇躍してゐたやうである。こんな話が殘つてゐる。
一人の商人が、同行の一人をかへりみて言つた。
「信濃路もよろしいが、この峠といふ奴がもう少し少いとな」
「いや、わしはまたもう少し多いとよいがと、思うとりますが」
「ほれは、また、どうして」
「すれば、あんさんもお越しなからうで、手前ひとりで、商賣させていただきますわ」
が、それにしても、氣候も温暖で、土地も肥え、水利も良好な滋賀縣の湖東地方に、何故特に近江商人と呼ばれるやうな商人の一群が發生したのであろうか。
その第一の原因とみられるのは、歸化人説である。天智天皇の四年に百濟(くだら)の百姓、男女四百餘人が神崎郡んに移住してゐるし、同じく八年、百濟の百姓、男女七百餘人が蒲生郡に移住してゐる。これ等の移住者である祖先の血が、行商の旅に耐へる忍耐强さと、利殖の才に勝れた、特殊の性格を生じたと、言はれるのである。
が、同時に、考へられることはこれらの歸化人達はそれぞれ何らかの技術を持つてゐて、農業に從事しながら、宮廷や寺院のために、それぞれの製品を生産してゐたのではなかつたか、といふことである。
このことは、中世この地方に君臨し、この地方の市場の保護者であつた佐々木氏が、永祿十一年(西暦一五六八年)織田信長に亡されて以來、急に近江商人の活躍が目立つやうになつたことでも知られよう。保護者を失つた彼等が、新しい道を開拓したのであつて、佐々木氏の滅亡はその直接の原因ではあるが、その以前に、既にある程度の商品が生産されてゐたことが想像されるのである。
「私儀百姓相續、耕作出精致し候かたはら、渡世のため當所産物布、他國へ商賣仕り來り申候儀一重に御役所樣御慈悲を以て(略)」
これは一近江商人が代官所に差し出した願書である。安永七年(一七七八年)の日附になつてゐる。德川幕府時代に百姓が土地を離れ、耕作をおろそかにすることを嚴しく戒めてゐたからであるが、まだこの頃までは、農業に從事しながら、行商に渡り歩いた者が多かつたやうである。近江商人が江戸(今の東京)や、大阪や、京都に店舗を持ち、巨大な富を積むやうになつたのは德川中期以後のことであつた。


德川時代の商品

それでは當時の主な商品はどんなものであつたらう。何より奇妙なことは、米は直接租税になるものであつたから、その生産者である農民は米を賣ることは出來なかつたといふことである。幕府や大名は農民から年貢として収めさした米を商人に賣つたから、後には米を扱ふ商人は巨萬の富を得たが、肝腎の農民にとつては米は商品ではなかつたのである。同時に、當時の農民に對する課税がいかに非道なものであつたかを物語つてゐよう。
「布(ぬの)」といふ字を辭書で引いてみると、「麻、カラムシ、葛、などにて織れる織物の總稱」おあるやうに、德川時代以前は木綿はまだ殆ど無かつたことが判る。また「布衣(ほい)の人」と言へば身分の低い人の意味であるから、當時の一般大衆は麻の着物を着てゐたことが知られるのである。滋賀縣の蒲生、神崎、愛知の地方は麻の産地であつたから、麻やカラムシ(麻の一種)が近江商人の主な商品の一つであつたことは直に想像されようし、またこれが近江商人發生の一つの原因とも考へられよう。
綿の種がわが國に初めて傳はつたのは延暦十八年(七九九年)であるが、それが漸く蕃殖するやうになつたのは大永年間(一五二一年)以降のこおであると言はれてゐる。が、綿作が麻やカラムシを壓迫しつつ、盛に栽培されるやうになつたのは、漸く戰亂の治まつた德川時代に入つてからのことで、その中期以降に至つては、驚くばかりの發展をとげ、他國への輸出綿作地だけでも次ぎのやうになる。
近畿地方――攝津、河内、和泉、大和、山城、播磨、淡路、近江、但馬、丹波、紀伊、伊勢。
中國地方――備前、備中、備後、安藝、周防、美作、出雲。
中部地方――尾張、三河、遠江、美濃、甲斐。
關東地方――武蔵、下野、下総。
四國地方――讃岐。
綿、綿絲、綿織物も、同じ織物關係であつてみれば、近江商人の重な商品とならないわけはなかつた。むしろこれらの新商品に對する大へんな需要の增加が近江商人に繁榮をもたらしたとも言はれるであらう。
「布」に對して「帛」といふのは帛織物のことであつて、德川以前は上層階級の衣服に使用されてゐたのである。
わが國の蠶絲業は早くから行はれてゐたが、平安朝時代に至つて、著しく發達した。當代は打ち續く平和によつて、上流階級は奢侈にながれ、歴代の朝廷も、絹織物の必要上、蠶絲業を保護奨勵したからである。
わが國の風土氣候が桑の生育に適し、度度蠶の發生をみたやうである。米澤市の白子神社由來記にも、桑林に蠶が發生し、「白きこと雪の降る如し」とあり、神として祭つたと記されてゐる。和銅五年(七一二年)のことである。
ところが平安朝末期から、國は漸く亂れ、打ち續く戰亂のため百姓は安じて農業に從事することが出來なくなり、ましてや蠶絲のやうな贅澤品の生産に力をつくすことは出來ず、漸く支那から輸入した生絲をもつて、絹織物を作つたほどで、わが國の蠶絲業は殆ど亡んでしまつたと言つても言ひ過ぎではなからう。戰争といふものが、いかに産業を亡ぼし、人間の進歩と幸福をはばむものであるかは、この一例でも明かなのである。
が、德川時代になつて、平和が續くと、綿絲市の場合と同じく、需要が增加するに伴つて、蠶絲業も急速な進歩を遂げるやうになつた。從つて、絹絲や絹織物が近江商人の重要な商品となつたことは申すまでもないことである。
最後に、幕末の開港によつて、海外の一大生絲需要が生じ、わが國の生絲業が飛躍的な發展をとげたことを附加することを忘れてはならないであらう。
その他、德川時代の重要な商品というのはどんなものであらうか。當時、江戸の荷主組合で組織してゐた十組問屋といふのは、次ぎの通りである。
塗物店組。内店組(絹、太物、綿、小間物、雛人形)。通町組(小間物、太物、荒物、塗物、藥種店(藥種、砂糖)、釘店組(釘をはじめ銅、鐵類)。綿店組、表店組(疊表、莚、簾)、河岸組(油、紙)、奈良組(紙、らふそく)酒店組。
油といふのは主に燈油のことであつて、油や、らふそくが、電燈やランプのなかつたこの時代にあつては、どんなに重要な商品であつたか、誠に興味深いのであるが、日野町を中心とした日野商人の藥、塗物以外は、近江商人の商品は主として纖維關係のものであつたやうである。


近江商人と勤儉

前にも述べたやうに、德川幕府は百姓が耕作から離れることを嫌つたので、近江商人も初めのうちは耕作のかたはら行商に出る程度に過ぎなかつたが、次第に販路も廣くなり、資本も貯積されるにつれ、京や、大阪や、江戸(今の東京)に店舗を構えるやうになつた。が、本宅は郷里に殘し、妻子をそこに住まはせた。
この止むを得ない風習は、明治時代になつても、いつか近江商人の特種な不文律のやうになり、長く後後にまで續いた。思ふに、これは二つの主な有益な理由があつたからであらう。
その一つは、店主自ら第一線に参加し、家庭のことにわづらはされることなく、商賣専一になれること。もうっ一つは、妻子が都會の風に染むことなく、質實勤勉の習ひを失はないこと。
從つて「お國歸り」と言つて、近江商人が家庭に歸るのは、主人であつても年に二三度、番頭に至つては一度あるかないかである。この「お國歸り」はさすがの近江商人にとつても、丁度歸休兵士のやうに樂しかつたに相違ない。が、このことは逆に、主人が「いかに苦勞してお金を儲けて下さるか」といふことであり、主婦には「しつかり家を守つて、出來るだけお金を使はぬやうにしなければならない」といふことになつたのである。
近江商人の勤儉の風習は、そのこまかい點から考へても、むしろ夫の留守を守る妻達の間から自然に發達したもののやうに思はれる。するとこの非人間的な風習が、近江商人の場合には却つて勤儉の風を助長したとも言はれるのである。
「それそれ、また渡り箸」といふのは、お數(かず)からお數へ箸が渡るのを叱責するものでお數の次ぎは御飯を喰べて、お數を節約せよといふのである。
「それ、のこぎり引き、のこぎり引き」といふのは、近江商人が、のこぎりが木を切るやうに、甲地の物を乙地で賣り、乙地の物を甲地で賣るやうに、往復に仕事をせよといふのである。
物をそまつにすることは勿論堅く戒められた。米一粒も無駄にしてはならなかつた。私の曾祖母などは七十歳を越えてからも、御飯の釜の始末は誰にもまかさうとはしなかつた。御飯粒はいふまでもなく、釜底や杓子についてゐるおねばまで、親指の爪でこそげて喰べねばならなかつたから。
近江商人の儉約は、最早、科學的でさへあつたとも言はれるやうだ。ある時、私の母はコンロをおいて行かうとする女中に小言を言つた。コンロの口を風の方向に向けておかなかつたといふのである。が、やがて火がおこると、母はコンロの口の向きを換へて、口をしめた。母は今でも火鉢の中に生木を埋めて巧に炭を作るやうな人である。
私の郷里、南北五個莊村は近江商人の一つの中心地であるが、近村の人人からは「嫁を貰ふなら五個莊から」、が「五個莊へは嫁をやるな」とも言はれてゐたやうである。


丁稚から番頭まで

四月の頃になると、父親に伴はれた小僧達が、方方の町や村から丁稚奉公に上つて來る。彼等は先づ本宅で庭掃除、風呂焚き、ランプ掃除等、つまり働くといふことの基本を教へられる。同時に、大奥さんや奥さんからやかましく儉約思想を叩き込まれることは言ふまでもない。かうして、短くて數ヶ月、長くて一年、本宅での修養を終ると、京や、大阪や、東京の店へ次次に配屬されるのである。希望に燃える少年達にとつて、その日がどんなに待ち遠しかつたことであらう。一人の丁稚が、折から歸國してゐた主人に、まるで直訴をでもするやうに一枚の紙片を差し出したことがあつた。その紙片には次ぎのやうに書かれてゐた。
「身は金堂(字(あざ)の名)心は東京の御支店へやらしておくれよ旦那さま」
近江商人は纖維類の問屋を營む者が多く大阪の本町筋、東京の日本橋、京都の中京邊にその店舗を並べてゐる。丁稚達は初めの中はお茶汲みや商品の出し入れなどを手傳はされるが、馴れるにつれて、市内の配達、地方への荷物の荷造りなどがその主な仕事になる。
リヤカーや、オート三輪などといふもののなかつた時代には、それらの店先には、その名も哀しく丁稚車と呼ばれてゐる荷車が並べられてゐる。朝になると、屋號のついた呉服びつを積んだ荷車を丁稚が引き、番頭が氣取つた樣子でその後を附き添つて東京なら、淺草、下谷廻り、本所、深川廻り、芝、麻布廻り、山の手廻り、といつた風に四方に散つて行き、夕方になると、それぞれの方面から疲れた足を引きずつて、つて來たものだつた。
夜の問屋街は至つて靜かである。主人は居間に退き、若い番頭も一人去り、二人去り、大抵街へ出て行つてしまつたやうである。店の間では、丁稚達に算盤の稽古をさせてゐる店番頭の物憂いやうな聲が聞こえてゐるばかり。
「ええと、願ひましては、八錢なり、十五銭なり、一圓飛んでパー錢なり、お引きが七十七銭なり、またお引きが二十ゴン錢なーり、今度は、お足しか、大きく二十一圓ゴン十銭なーりー」
が、老番頭の聲は次第に途絶え勝ちになり、たうとう居眠りを初めてしまつた。さあ、かうなると、もう丁稚達の天下である。睨みつこをするもの、指相撲を戰はせるもの。「グーパーチョキ」遊びを初めるもの。が、一人の丁稚が紙よりで老番頭の鼻の中をくすぐつたのだ。
「ハックション」
丁稚の給料は手渡されることはなく、帳場で積み立てられる。その代り、四季施(しきせ)と言つて、衣類から手拭に至るまで、一切が主人から與へられ、正月やお盆やその他の祭日にはいくらかの小使ひが渡される。
番頭は主人に代つて商行為の全般を行ふ者であるが、手代といふのはある商行為に限り番頭の代りをする者で、番頭、手代、丁稚の順になるが、明治になつてからは手代の身分にははつきりした區別はなくあつた。丁稚が滿二十歳にんあると番頭になり、羽織を着ることが許される。さうして昔の徴兵検査を機會に、「初歸り」と言つて、初めて故郷へ歸るのである。
「あの時ばかりは、まるで脚氣病みみたいに、どうしても足がいふことをききよりませなんだ」と、一人の老番頭が「初歸り」の時んおことを語つたこともあつた。
番頭達の役目は帳簿方、仕入方、販賣方に分かれる。帳簿方は實直ではある。商人としてはあまり敏腕ではないやうな人が廻り、仕入方は支配人か、支配人格の人が當るので、若い番頭の多くは販賣方である。東京店であれば、市内廻り、千葉廻り、京濱廻り、近縣廻り、信越廻り、東北廻り、奥羽廻り、北海道廻り、と、昔彼等の祖先が天秤棒を擔いで歩き廻つたやうに、彼等も全國の津津浦浦を渡り歩くのである。
二十年以上も東北廻りをしてゐた番頭があつた。彼は獨立してからも、店は自分の弟にまかせ、まるでどうしやうもない習癖のやうに東北の町から町へ歩き廻つてゐた。彼は例へば夜中目をさましても、汽車の動揺や、カーブの仕方で、汽車が今どこを走つてゐるかが判る、と語つてゐた。彼は東北廻り四十年、いかにも彼らしく、旅先きの宿でなくなつた。
番頭の前には、病氣や、酒食の誘惑や、金錢上の失敗などが待ち受けてゐて、脱落する者も多かつた。が、無事に勤めを終つた番頭達は、思ひ思ひに問屋なり、或は新開地を求めて小賣を開いたりする。明治から大正へかけて、わが國の資本主義の發展期には、そんな彼等がその郷里に白壁つきの家を建て、村人達の目を驚かしたこともそれほど珍しいことではなかつた。
從つて、近江湖東地方の少年達の理想は丁稚に行つて、立派な商人になることより他になかつた。その母親達は無理をいふ子供等に、かう言つたものだ。
「そんなことを言ふと、もう丁稚にやらんからな」


進取と自主

德川時代の資本主義勃興期の近江商人には進取と冒險の精神があつた。武士階級に對する反抗の精神があつた。さうして封建制度といふ時代の中では少くとも進歩的な存在であつた。
F家の妻女は、襖一面に映った網目の中に夫の靑ざめた顔が沈んで行く夢を見て、眼を覺ました。F家の主人が北海道の鮭の漁場で遭難した報がF家に着いたのは一ヶ月餘り後のことであつた。またK家の主人は箱根の山中で切り殺されてゐた。が、その息子はその報に接した翌日、商用の旅に上つてゐるのだ。
近江商人達は一本の天秤棒をかついで、何の保護もなく、何かを夢見る人のやうに山を越え、海を渡り、先へ先へと進んで行つた。殊に北海道は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、當時は松前といはれてゐた函館附近が僅かに開けてゐるばかりで、殆んど人跡未踏の蠻地であった。德川時代の資本主義徑須濟は急速に進歩したが、鎖國時代であつたから、その需給が飽和狀態(生産と消費がつり合つてゐて相方伸長の餘地がないこと)に達してゐた德川末期には、北海道こそ好ましい新市場であつた。しかも北海道には珍しい物産があつた。鮭がある。鰊がある。こんぶがある。或は熊の毛皮なども珍しからう、その上住民やアイヌ人達はどれだけ、綿や綿布や、盬や、油を必要としたことか。
水の色をかへて押し寄せてくる鰊の大群、千古おのを知らぬ大密林、それらの前に立つて近江商人達は吐息にも似た歎息を洩らしたことだらう。が當時、北海道に渡つてゐた人人の中には、内地で犯罪を犯した人や浮浪人が多かつた。彼等が近江商人の懐中を狙つたことは當然ぜあらう。事實、殺傷された近江商人は、明治時代に入つてからも相當の數に上つた。が、彼等夢を抱いた人の群はその後を絶たなかつたのである。
奮い時代の反抗者であり、新しい時代の開拓者である近江商人達に、自主獨立の精神が强かつたのは當然のことであらう。頼まれもせぬが、頼みもせぬ――これが、彼等の一貫した精神であつた。
が、明治時代に入り、わが國の資本主義が順調に發達して行くにつれ、近江商人達も二代目、三代目となり、いつか時代の反抗者でも、開拓者でもなくなつてしまつた。
私の曾祖父は江戸で木綿呉服問屋を營んでゐたが、横濱開港となるや、早速生絲貿易に從事したやうな人であるが、既に祖父になると次ぎのやうな言葉を殘してゐる。
「荒地を耕し、種をまいて、御苦勞して下さつたのは御先代であつて、自分はその實つた物を取り入れたばかりである。自分としては、その収穫を大切に守つて行くより他はない」と。
これだけでも明らかなやうに、成功した近江商人達は、最早進むものではなく、守るものになつてしまつた。自主ではなく、自守の精神である。頼む必要はなくなつた代りに、頼まれることを極力恐れるやうになつた。この守る精神が、内には儉約の思想となり、外には利己主義ともなつて現れた。その上、近江商人に共通はひつつこさが、この特殊な習俗をいよいよ助長させて行つたのではなからうか。
ある年、私の家の野菜が不作で、母が祖母のところから分けてもらつたことがあつた。父は母の家の番頭で、母が分家したのであるから、祖母は母の實母である。が、その月末には、祖母から母のところへ「ねぎ一錢五厘、かぶ三錢……」といつた請求書が來た。
「例へ親からでも、商人は理由なく物を貰つてはなりません」と、母は言つてゐた。僅かに自主の精神の殘滓とも言はれようか。


花と商人

自主獨立の精神といふものは決して非難すべきものではない。むしろ人間の美德の一つに數ふべきであらう。小僧から番頭へ、彼等は唯その日のために働き通したと言つていい、獨立開店の日、彼等の喜びは何に例へるものもなかつたであらう。
彼等は働いた。自分の仕事を限りなく愛した。多くない資本で、激しい競争に打ち勝つためには、文字通り身を粉にして働いた。彼等は店員達は勿論、自分自身の人權さへ省る暇はなかつたのである。
「三等でも勿軀ない。せめて四等でもあつてくれたらと思ひますわ」
一代で産をんあした、Kといふ大店の主人はいつもそんなことを言つてゐた。
「商人には學問はいらぬ」と、多くの近江商人達は信じてゐた。彼等は頑固な經驗主義者であつた。が、彼等は何より自分の仕事を愛してゐた。從つて、その仕事に關する限り、彼等は勝れた經驗の持主であつた。彼等の指先は布地をひねつただけで、その材料を言ひ當てるだけの經驗を持つてゐた。
ある時、新案のほろがやを持つて來た人がゐた。そのほろがやはまん中が普通の布地になつてゐて、上下が龜甲織の蚊帳地になつてゐた。つまり煙突の理を應用したもので、かやの中には換氣作用が起り、通風がよいといふのである。が、その問屋の仕入掛りは江州辯で言つた。
「ほらあかん、赤ちやんの顔が見えんが。ほれに、ほないに理屈こねんならんやうなもん、あきまへんわ」
後、そのほろがやは某デパートで賣り出された。が、その成績はあまり香ばしくはなかつたやうであつた。少くとも商賣に關する限りでは、小學校を出ただけのその仕入方が勝れた母性心理學者でもあつたわけである。
私の義兄はセル屋であつた。セルと言つても今は知らない人もあるかも知れないが大正から昭和へかけて流行した和服用毛織物である。義兄も丁稚から出世して、獨立セル工場を經營して成功した人であるが、その義兄が工場の片隅に花壇を作り、草花に水をやつてゐるのを、私が見たことがあつた。金、金、金ばかりの義兄のそんな姿が私にはひどく不思議に思はれた。
後、自分で柄見本を作る義兄が、色の配合のヒントを得るためであつたことが判り、商人嫌いの私も、この時ばかりは、少しく心を動かされたものだつた。
ある時、義兄と日本橋の通りを歩いてゐると、義兄は前を行くセルを着た女性の後姿を指さして、
「あれ、私の新柄です」と言つたりもした。
が、このやうな異常とも思はれる近江商人の性格は多く初代の人のことであつて、富が積まれ、代が重なるにつれ、丁度血が衰へて行くやうに、その商魂も次第に弱まつて來るやうである。
獨立した父の後を繼いだのであるから、初めから獨立心の持ちようはなかつた。以前は、近江商人の子供は富家の子でも、他家へ見習奉公に出されたものであつたが、それにしても、自ら求めた苦勞ではないから身に染むはずがなかつた。先づ最初に人權を要求したのはその子供達であつたといふことが出來よう。彼等は先づ商店の所在地にその家庭を持つやうになるのは當然のことであらう。かうして彼等は都會生活が始まるやうになる。先代の時代には、主人と使用人とは、少くとも精神的には同じ階級の人間であつた。が、最早、同じ階級ではない。が、何よりいけないことは、彼等が先代達のやうに商賣が好きでないといふことであつた。
前に述べた、四等に乗りたいと言つたK家の二代目の主人は一念發起、大阪と東京の本支店の往復に、夜行の三等に乗るやうになつた。が、そこの老支配人は言つた。
「ほんなことやおまへん。うちの大將が二等に乗らうが、一等に乗らうが、構ふもんですかいな。ほれより問題は、中身のことですわ」


近江商人の衰亡

獨立心の强い近江商人達は、他人への助力は勿論、協力を求めることも潔しとしなかつた。例へ協力を求めたとしても、自らの人權さへ省ないやうな彼等と協力しようとする者は容易に見出せなかつたのであらうけれど。
この弱い自主精神は、その反面である偏狹な排他の精神ともなつて、資本主義經濟での、最も必然的な形態である株式會社への發達を阻止したのである。もつとも近年、近江商人達も株式會社の形を採る者も多くなつたが、それも形式上のことであつて、内容的には個人企業に等しく、株主は獨立心のあまり强くない、つまりあまり有能でない一家一族から成り立つてゐて、その株式が株式市場に上場されてゐたものは一二を數へるに過ぎなかつたであらう。
このやうな前世紀的經營が成り立つてゐたといふこと、つまり近江商人のやうな奮式な商人が存在し得たといふことは、わが國の纖維工業の特殊性によるもののやうに思はれる。
和服に用ひられる織物は、品質の種類も多く、その柄も多種多彩で、到底大量生産の對象としては採算が合はなかつた。從つて、その生産は中小機業家の手に委ねられ、各地の風土氣候などといふ、極めて微妙なものの特徴を生かして、益々その日本的な特殊技術に發達を遂げて行つたのである。
和服に用ひられる織物の生産が中小工業家に委されてゐたと言ふことは、同時に、それを生産してゐる限り、中小工業家以上になることは出來ないといふことを意味してゐた。從つて近江商人の個人的資本を以てしても、いつまでも彼等中小工業家を守り得たし、それぞれ微妙な特長を持つてゐる商品の販賣には、近江商人の特殊技術を必要としたのである。
「商人はわが子と思へ。誇つてもいけない。が、卑下してもいけない」といふのが問屋商人のモットーでもあつた。小賣店の仕入方と問屋の外交達の間には、屢々次ぎのやうな會話が繰り返されるのである。
「高いね」
「さよか」
「高いよ。丸喜のより、×圓も高い」
「ほう、っほうでつしやろ。丸喜はんのは丸喜のもん、うちのはうちのもん、かはいさうに、ほんなん、こいつ、泣きよりまつせ」
ところが、わが國の男女も多く洋裝するやうになつた。洋服に用ひられる織物は無地物か、無地物の加工品が大部分で、大量生産されるやうになつた。從つて、わが國の纖維工業は中小工業家の手から、初めて大企業に移されるやうになり、中小機業は急速に衰へ、近江商人の個人資本を以てしては、到底大企業家には對抗出來なくなつた。また、洋服に用ひられる織物の性質上、売格なども總て計算によつて決定され、近江商人の特殊技術など何の役目にも立たなくなつてしまつた。
そこへ戰争、戰後の混亂時代となつた。近江商人は德川中期から明治中期へかけて勃興した者が多く、三代目四代目の主人達であつたので、全く手を拱いて、没落して行つた者が少なくなかつたのである。


近江絹絲の場合

S紡績はやはり近江商人の手で經營されてゐた。社長は六代目で、至つて温厚な紳士であつたが、その株式の大部分を持つてゐて、兄弟親戚にも持たせなかつた。専務は「いいえの松さん」、小僧出身で、一度「いいえ」と言つたら、雷が鳴らうが、槍が降らうが、「いいえの」一點張り、といふ大久保彦左的存在であつた。他の取締役も同じく小僧出身で、末席取締のMさんだけが、技術家で學校出身者であつた。
戰時中、S紡績はT紡績と合併し社長は空襲の危險もあつたので、(近江商人魂から言へば、かういふ機會こそ逃してはならないのであるが)引退してしまつた。
近代資本主義の組織の中に併呑されてしまつた新會社では、小僧出身の重役達がいかに異色的な存在であつたかはいふまでもない。同時に、主人を失つてしまつた彼等にとつて新會社は決して居心地の良い職場ではなかつたであらう。「いいえの松さん」を初め、小僧出身の重役は皆身を退いてしまつた。
敗戰後、獨占禁止法により、S紡績は獨立し、Mさんが社長になつた。
至つて人の好い前社長は、いつかMさんが迎へに來てくれるものと期待してゐた。が、いつまで待つても、Mさんは迎えに來なかつたのである。
技術者で、近江人でもないMさんは、至つて合理的な(つまり前社長を迎へるやうな古風な人情を振り捨てて)方法で、現在もS紡績を經營してゐる。
以上、述べたことによつて、現在の何代目かの近江商人達は、百數十年の傳統の中に、自然に衰へて行く血のやうに、上品ではあるが、無能であり、善良ではあるが、何の役にも立たぬ存在になつてしまつたかといふことが判るであらう。同時に、近江絹絲の夏川社長が、それとは凡そ正反對のやうに思はれるS紡績の社長の、その先祖達とあまりにも似てゐることに驚かされるであらう。
近江絹絲の株式が夏川一族によつて占められてゐたこと、或は占められねばならなかつたこと、使用者は勿論自分の人權を省ないやうな、夏川社長の異常なまでの事業欲、その販路を求めて終始海外に旅行したこと、等等、善いにつけ、悪いにつけ、その似てゐる點は數へ切れないのである。
殊に、見逃すことの出來ないことは、近江絹絲が大發展を遂げたのは、戰前戰後の混亂の中であつたといふことである。「峠がもう一つあれば、一人で儲けさしてもらへるから、いいと思ふ」と、言つた近江商人の先祖の考へ方、つまり「空襲のあるやうな、人人にとつて危險な時こそ、絶好の儲け時である」といふ考へ方と、實に相通じるものがあるではないか。
この時、この人、このやり方で、近江絹絲は發展した。さうしてその一つを缺いても今日の近江絹絲は存在しなかつたであらう。その證據には、漸く時代の混亂が始まつてみると、近江絹絲の存在が、今日の社會にとつて、いかに異物的な存在であつたかといふことは、この度の争議が、世人からまるで食物の中に混つてゐた異物を吐き出したやうに當然視されたことでも判るのである。
夏川社長の唯一の崇拝者は中小機業主であると聞く。かつて近江商人達を得意先に持ち、近代資本主義大企業のために衰亡の運命を辿つた中小機業者としては當然のことであらう。が、彼等が今日の社會にとつて異物視されるには、あまりにも無力であつた。すると、夏川社長の悲劇は、戰後の混亂に乗じ、近江商人といふ異常な血統が突然に返り咲いたといふことであらうか。
現代で正しいといふことは、社會と個人の對立に於て考へられるべきではない。社會正義は個人の確立によつて保たれることはいふまでもないが、社會の正義を考へない個人の正しさなどあり得ない。
夏川社長は勞働者の犠牲によつて、日本の貿易を振興させようとしてゐるのかも知れないが、このやうなことがわが國に幸福をもたらすものでは決してない。むしろ更にわが國の勞働者に不幸を强ひ、世界の勞働者の怒りを買ふ結果ともなりかねないのである。

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最終更新:2017年12月18日 11:23