澪標 (外村繁)

  • 底本:昭和45年7月15日筑摩書房発行『現代日本文學大系63 梶井基次郎・外村繁・中島敦集』

本文

私が生れたところは滋賀県の五個荘(ごかしやう)である。当時は南、北五個荘村に分れてゐたが、今は旭村と共に合併して、五個荘町となつてゐる。
村の西南部には小山脈が連(つらな)つてゐる。繖(きぬがさ)山脈と呼ばれてゐる。その一峰に、往昔(わうせき)、近江(あふみ)守護、六角、佐佐木の居城のあつた観音寺山(くわんおんじやま)がある。その山頂にある観音寺は西国第三十三番の札所である。西方の一峰は明神山と呼ばれ、その中腹に古刹(こさつ)石間禅寺がある。観音寺山と明神山の狭間(はざま)の峠を、俗に「地獄越」と呼んでゐる。観音寺山城が織田氏の軍に攻略された際、城中の婦女子の逃げ落ちた、阿鼻叫喚(あびけうくわん)のさまを伝へてゐるといふ。
北東部には遥かに田園の風景が開け、北方には伊吹山、東方へかけて、霊仙山、鈴ケ岳、竜ケ岳、釈迦(しやか)ケ岳(たけ)、御在所山等、滋賀、三重両県境の山山が望まれる。
旧北五個荘村の北東部を愛知川(えちがわ)が流れてゐる。源を県境の山山に発し、琵琶湖(びはこ)に注いでゐる。その上流は風光明媚(めいび)は渓谷であるが、中流から次第に流れは細り、下流では平時は水はなく、石と砂との河原になつてゐる。また、繖山脈の谷水を集めて、小川が村の中を縦横に流れてゐる。川水は少くなく、川底の小石が見える程度に澄んでゐる。川添の家は門前に多くは花崗岩(くわかうがん)の橋を掛けてゐる。
周囲はどこにでも見られる平凡な農村の風景であるが、いはゆる近江商人の主な出身地で、村の中には白壁の塀を廻した大きな邸宅も少くない、木立の間から、白壁の格別美しい土蔵も見られる。これらの家の主人は、殆(ほとん)どが大都会に出て、商業に従事してゐ、妻が子供達と共に留守を守つてゐる。
新村宗左衛門家は代代百姓であつたが、新村家の家乗(かじよう)には、元禄十三年、初めて布を商(あきな)つた記録が残つてゐる。同じく十五年には麻苧(あさを)を仕入れてゐる。正徳三年には名古屋へ行商に行き、享保十一年には江戸に入つてゐる。同年、文庫蔵を建築、元文二年には本宅を改築、更に延享三年には隠居所を新築してゐる。宝暦三年、名古屋では定宿を取り、その商売形式は完全な問屋卸しとなつてゐる。天明六年、霖雨(りんう)。米、麦、綿等暴騰し、施米(せまい)してゐる。寛政九年には弟、孝兵衛に新宅を持たせた。
新村孝兵衛家は、寛政九年、宗左衛門家から分家したが、共同で商売をしてゐる。文化十年、独立し、京呉服、木綿の卸商を始めてゐる。文政十一年には上州桐生(きりふ)市に糸質店を構へ、天保十二年には江戸堀留町に開店してゐる。同十三年、苗字(めうじ)帯刀を許され、文久二年には彦根藩(五個荘は郡山藩である)へ金千両を調達してゐる。安政三年、江戸店が新大阪町へ移転してゐる。慶応二年には京都店を開き、明治六年には横浜に貿易店を開いてゐる。
私の母は、明治十一年、三代目孝兵衛の長女として生まれた。兄弟は五人、母は一人娘である。従つて、母は母の父や、祖父の寵愛(ちようあい)を受けて育つたといふ。十八(数へ年)の時、母は私の父を婿養子に迎へて、分家した。
私の父は、明治元年、滋賀県の長浜の早川良平の二男に生れた。長浜は縮緬(ちりめん)の産地で、早川家も古くから縮緬の地方問屋を営んでゐたが、父の父が早世したので、家業を廃した。父は父の祖母に育てられたが、ひどく腕白者であつたらしく、小学校でも原級に留められたこともあつたといふ。が、とにかく小学校を終ると、直ぐ新村孝表へ家へ丁稚(でつち)奉公に上つた。父は新村商店に十数年間勤続し、明治二十八年、母と結婚し、新村姓を名乗つた。明治四十年、父は漸(やうや)く独立を許され、東京新大阪町に開店した。
明治三十五年十二月、私は父、信太郎の三男に生れた。私は七ケ月の早生児で、祖母の肌に懐(いだ)かれて、漸く産声(うぶごえ)を上げたといふ。それでも私はどうにか肥立(ひだ)つて行つたらしいが、色の白い、女の子のやうな弱弱しい子であつたといはれる。しかしその頃の記憶は全くない。
私が数へ年の四つか、五つの時のことである。私の朦朧(もうろう)とした記憶の中に、より黒い影のやうな祖父の姿が浮かんで来る。母に手を引かれて(これは後からの想像であるが)確かに私は本家の内玄関の土間に立つてゐた。そこへ奥から祖父が出て来たのである。唯それだけの記憶である。更にその記憶には、祖父の顔ははつきりしない。強(し)ひてすれば、その顔の輪郭は描き得ないでもないが、それは後年、祖父の写真や、母の顔や、私自身の顔から類推した、記憶の修飾にならう。記憶の限りでは、祖父らしい者といふ方が正しいかも知れない。
この私の記憶はかなり信憑性(しんぴようせい)があるやうに思はれる。実際にも本家の内玄関は薄暗い。祖父は奥から逆行線を受けて出て来たものであらう。更に母の話によると、日露の戦捷(せんせふ)を祝う草競馬が行はれ、本家の桟敷(さじき)が組まれ、その借用を願ひに行つた時のことであらうといふ。すると祖父は既に胃癌(ゐがん)に犯されてゐたはずである。祖父の姿そのものも、俗にいふ影が薄かつたのではないか。
それはともかく、これが私の脳裡(なうり)に残つてゐる唯一の祖父の姿である。同時に、私の最も古い記憶のやうである。祖父が亡くなつたのは明治三十九年五月であるから。
祖父の葬儀の時の記憶もある。雨が降つてゐて、叔父達が木の枝に照る照る坊主を吊つてゐたのをはつきり覚えてゐる。しかしこんな他愛のない一齣(ひとこま)を残して、私の記憶は断ちきられ、その前後には深い昏迷(こんめい)の世界が拡がつてゐるばかりである。
祖父の葬儀の当日、私は白張(しらはり)提灯(ぢやうちん)を持つて葬列に加はつた由であるが、女中の背中で眠つてしまったといふ。幼い日のことである。このやうな時にも眠つてしまつて、全く記憶を刻まなかつた場合もある。しかしまた、幼い脳裡のことである。記憶は刻まれても、直ぐ忘れてしまつたことも極めて多からう。が、私にとつて、私の過去は決して空白ではない。記憶は失はれたが、幼いながら、数多い日日が埋もれてゐる。空白ではなく、深深とした闇の感じである。さうしてその闇の中には、形は見えないが、さまざまなものが潜んでゐるはずである。時には一瞬、ぼんやりその影を映すかと思ふと、忽(たちま)ち底深く沈んでしまふ。
私はお化(ばけ)が恐しかつた。鬼も恐しかつた。幽霊も、人魂も、死びとも恐しかつた。しかしそれ等の恐しいものは、決つて暗いところにゐたやうで、もとより視覚的記憶はない。二丈坊(ぼう)や、ろくろつ首の記憶にしても、仮りにその形を描き得たとしても、それは後年の修飾である。しかし幼年期の、形のない、あの漠然とした恐怖の記憶は、今も朦朧と、しかし確かに残つてゐる。
六つの時、母が大病になつた。ある夜、母が私の手を引いて、祖母の夢枕に立つたといふ。つまりそんな危険な状態がかなりの間続いたらしい。しかし母の大病や、その危機感についての記憶は全くない。その時、私達兄弟は祖母の許に預けられてゐた由であるが、その記憶もない。しかしその時も、その所も不明であるが、幼年期の、自分一人が取り残されたやうな悲哀の記憶は、今も朦朧と、しかし確かに残つてゐる。
私の家の宗旨は浄土真宗である。黒暗の闇の中に埋もれてしまつた、私の幼い日日にも、読経(どきやう)の声は聞こえてゐたはずである。蠟燭(らふそく)の光も揺れてゐたことであらう。線香の香も漂うてゐたことであらう。鈴(りん)の音もあのきれいな余韻(よゐん)を曳いてゐたに相違ない。しかし聴覚的な、臭覚的な、視覚的な、明確な記憶はない。しかしそんな仏教的な雰囲気の記憶は、今も私の脳裡に朦朧と、しかし確かに残つてゐる。
幼年期の、このやうな覚束(おぼつか)ない記憶の中に、今も極めて鮮明な印象を刻んでゐる、一つの記憶がある。地獄絵の中にゐる女亡者の姿である。
字(あざ)の中央、観音寺山城の鬼門にあたると伝へられてゐるところに、小堂宇がある。一人の老尼が守つてゐる。春秋の彼岸会(ひがんゑ)に、地獄極楽の絵がその堂内に掛けられる。こんな小堂宇が所蔵してゐるものであるから、絵画としては勝(すぐ)れたものではなからう。しかし私は文字通り戦慄(せんりつ)した。
赤と黒の、あくどい色彩を背景にして、女亡者達はいづれも半裸体である。肌はまつ白に塗られ、短い、赤い腰巻をしてゐる。奇怪なことに、私はそんな女亡者の姿に、生れて初めて女を感じた。しかも絵の中の形だけの女ではない。母や、若い女中の体との接触によつて、いつともなく感じとつてゐたらしい女を感じた。しかしそれを性と言へば、言ひ過ぎであるかも知れない。愛と言つてもよい。しかしその愛は肉体から肉体へ通じ得るやうな、極めて幼く、優しいものである。その優しいものが、酸鼻(さんび)の極限に置かれてゐるのである。私は強烈な恐怖に襲はれた。
或はその逆であるかも知れない。今の記憶によると、地獄絵の中の女達はひどい内股(うちまた)である。しかしそれはこの記憶が何回となく再生されてゐる中に、自ら修飾されたものであらう。が、その時、女亡者の姿に女らしさを感じたのは事実であらう。極度の恐怖が、私に初めて女の女らしさを感じさせたとすれば、私の体内に潜在してゐた性が、マゾヒズム的刺戟(しげき)によつて、一瞬、発見したのではないか。
以来、突然黒い雲に覆はれるやうに、私は恐しい感情に襲はれる。今言へば、絶望に近い感情とも言へる。
「悪いことをしませぬやうに」
朝夕、仏壇の前に坐つて、私は合掌するより他はなかつた。


七つ、八つになると、私の記憶もよほど形を整へて来る。長兄は六つ、姉は五つ、次兄は三つ私よりも年上である。兄や、姉が学校へ行つてしまふと、私は私附きの女中の春枝に絵本を読んでもらふか、一人で庭に出て遊んだ。私は口喧(くちやかま)しい母の側をあまり好まなかつたやうである。
庭には梅、桜、桃、椿(つばき)、夏蜜柑、紫陽花(あぢさゐ)、柘榴(ざくろ)、金木犀(きんもくせい)、枇杷(びは)、山茶花(さざんくわ)等、四季の花が咲く。私はいつもその季節の落花を拾つて遊んだ。しかし東の裏は朽ちた木塀に劃くされて、未だ空家が残つてゐた。父がその屋敷跡を買ひ求め、花園を造つたのは後年のことである。
また庭には蝶や、蜻蛉(とんぼ)、蟬(せみ)や、馬追や、蟋蟀(こほろぎ)がゐる。蟻が長い行列を作つてゐることもある。小さい蟻が動いてゐるのを見詰めてゐると、急に無数の蟻がぼやけ、目全体が霞(かす)んでしまふ。あわてて、目をこすり、瞬くと、蟻は元のままに一匹、一匹列(なら)んで、動いてゐたりもした。しかし梅の木には毒を持つた毛むしもゐたし、土蔵の大屋根の軒端には、十年蜂が大きな巣を作つてゐた。
「一がさした」
私は相手に無理に右の手を出させる。
「二がさした」
私は右の手を相手の手の上に重ねる。
「三がさした」
相手が左の手を私の手の上に乗せる。
「五がさした」
相手が一番下にある手を引き抜いて、私の左の手に重ねる。
「八がさしたあ」
私は勢よく左の手を抜き、蜂の真似をして、相手に襲ひかかる。相手は春枝の場合が多かつただらう。私はその手の柔かい感触を覚えてゐるやうに思ふ。が、さう言へば、やはり嘘にならう。以来数十年、この手がそんな幼い時の感触を純粋に残してゐるはずがない。
私の家の前にも小川が流れてゐる。その川水を屋敷の中に取り入れ、花崗岩(くわかうがん)で長方形に囲つて水を溜め、その水は下手の口から川へ流れ出る。俗に川戸と呼んでゐる。私はその川戸の石段にしやがんで、水が緩(ゆる)う動いてゐるのを見てゐるのが好きだつた。
水の上をあめんぼうが器用に渡つて行く。突然、白い腹を翻(ひるがへ)して跳び上ることもある。表面張力の理を知る由もなかつた私は、軽業師(かるわざし)のような早業の秘密は、総(す)べてあの細長い脚にある、と思ひこんだりもした。黒胡麻(くろごま)のやうな水すましも隅の方に集つて、円を描いて廻つてゐる。この虫は驚くと、一斉に水中に潜る習性がある。水上では、小さい体全体が光沢のある黒色であるが、水中では、強い脂肪が水を弾くためか、銀色に光るのも面白かつた。
水中にも、小魚の他にさまざまな小動物が棲(す)んでゐることを発見する。水中の石崖(いしがけ)には沢山のたにしがくつついてゐる。川えびが脚を櫂(かい)のやうに急速に動かして、泳いで行く。蟹(かに)が赤い鋏(はさみ)を動かして、何かを喰べてゐる。不意に、異様な形の奴が現れることもある。私はいはば水中の小天地を窺(うかが)つて、飽きることがなかつた。
しかし私の遊び場は屋敷内に限られてゐて、臆病な私は一人で外に出ることはなかつた。最早、恐しいものは暗いところにばかりゐるのではない。私は「子捕り」が恐しい。狂犬が恐しい。泥棒も、巡査も恐しい。
春秋の衛生掃除の日には、巡査が剣を鳴らして家の中まで入つて来る。その日になると、朝から私は胸騒ぎがした。手落ちをするやうな母でないことは信じてゐる。しかし万に一つといふこともある。また男衆(をとこし)や、女衆(をなごし)にどんな不注意があるかも知れない。土蔵の屋根下に、内側を赤く塗った消化ポンプが置いてある。そこの狭い空地は北に面してゐて、殆ど陽の当ることがない。家人も滅多に行くことはない。表の小門の鳴る音を聞くや、私は足早に逃げて行き、ポンプの下で息を潜めてゐた記憶がある。
またある時、私は兵隊の絵本を見てゐた。「ホヘイ」や、「キヘイ」は絵によつてもよく判つた。しかし「ケンペイ」といふのはどういふ兵隊であるか、私には判らない。私は傍にゐた見習の丁稚(でつち)に聞いた。
「ケンペイて、どういふ兵隊さんやのや」
「ほうどすな、まあ、悪いことした兵隊をつかむ、兵隊さんの巡査みたいもんどす」
忽(たちま)ち私の顔から血の色が失せたらしいい。私にはその記憶はない。しかし丁稚がひどく狼狽(ろうばい)したのを覚えてゐる。
「晋さん、晋さん、どうかしやしたんか。ほの青い顔」
一瞬、私は二つの疑問を持つた。当時多くの幼少年達がさうであつたやうに、私は「兵隊さん」といふものは強くて、勇ましく、正しい人ばかりだと信じてゐた。そんな「兵隊さん」でも悪いことをするのか。そんな強い人を捕へる、より強い人がゐるのか。何かが崩壊する感情とともに、疑問は忽ち恐怖に変じた。私は戦慄を覚えた。
私は医者も恐しかつた。外科の器具が恐しかつたばかりでない。医者の前ではどんな偉い人も、強い人も等しく弱者の姿でしかないと思はれたからである。
ある日、座敷の隣室で、女中のいさが片肌脱ぎになつてゐる。やすも帯を解いてゐる。春枝もそこへ入つて来る。
「寒いことをせんならんのやな」と、やすが言ふ。
「何するのや」
「チュウシャ」と、いさが口を尖(とが)らせて言ふ。
突然、得体のしれぬ感情が湧(わ)き起つた。その時、いさを呼ぶ母の声が座敷から聞えた。座敷には杉谷先生が来てゐるやうだ。せめて春枝だけは座敷へやつてはならない。春枝は既に帯を解いてゐる。その肌を脱がせてはならない。
「行つたらいかん」
私は春枝の手にしがみついた。そこへいさが裸の腕を出したまま帰つて来た。私は更に兇暴な感情に煽(あふ)られる。私は春枝の両手を前掛の紐(ひも)で縛つてしまはうと焦(あせ)つてゐた。
私の記憶はここで断たれてゐる。多分、母にひどく叱られ、泣き出してしまつたことであらう。しかし自分ながら得体の知れぬこの感情は、やはり性欲から発したものではないか。勿論(もちろん)、一時的に突発したものであらう。その頃、私は母と風呂に入つた。母が留守の時には、春枝や、いさとも入つたはずである。しかしそんな女の肉体については、何の記憶も結ばれてゐない。母がきまつて前に手拭を当ててゐた姿は覚えてゐる。が、私は小学校の上級になつても、風呂へは母とともに入つたから、後年の記憶であらう。
私の恩師、脇村先生は最初は長兄や、姉の担任の先生である。その頃から先生は私の家へよく遊びに来た。母は先生を非常に尊敬してゐて、夕食を供したりして歓待した。人見知りの強い私も脇村先生は少しも恐しくなかつた。むしろ私は先生に馴れ親しんでゐて、そのことが内心得意でもあつた。
ある日、脇村先生が来てゐる。私は座敷へ入ると、まつ直ぐに先生のところへ行き、先生の膝に腰を下した。
「失礼な、ことを、させてをる」
丁度、帰省してゐて、その席に居合はせてゐた父が、怒りを含めた声でさう言つた。私はびつくりして、先生の膝から腰を上げた。父の怒りは母に向けられてゐるやうである。母が言葉を返す。しかし日常起居を共にしてゐない父の、突然の怒りに私は縮み上つてしまつた。さうして例によつて、その後の記憶は喪(うしな)はれてゐる。
何故、父があんなに怒つたのか、私には不思議だつた。この出来事は最後まで妙に気にかかつた。しかし私にはどうしても理解できなかつた。
その頃、私には奇妙な癖があつた。人が――それは道一つ隔てた本家から訪ねて来る祖母であらうと、藪入(やぶい)りに在所へ帰る女中であらうと――帰る時、「お見送り」をしなければ承知できないのである。若しそれを逸すると、私は地団駄を踏んで悔しがる。幼い感傷といふよりも、むしろ病的なものである。
「ほんなら帰るさかいにな、おばあさんのよい後姿を、とつくり見てや」
祖母などは帰る度に、そんな風に声を掛ける。何が私にそんなことをさせるのか、私は知らない。しかし私の気持はそんな生温かいものではない。さうしてそれを理解してくれない大人達が、ひどく歯痒(はがゆ)かつた。
次兄に連れられ、日の出を見に行つた。門を出ると、幅二メートルばかりの川が流れてゐる。分厚い花崗岩の橋がかかつてゐる。向かひは悌二郎叔父の家である。空は既に明るかつたが、四辺(あたり)はまだ薄暗く、いかにも夜が残つてゐる感じである。私は次兄の手を確(しつか)り握り、小走りに歩いて行く。五十メートルばかり行くと、同じく石橋がかかつてゐ、本家の表門がある。その反対に右折し、つまり悌二郎の白壁の塀に沿って行くと、上畠(かんばたけ)に出る。
上畑は畠地で、緩く傾斜し、一筋の往還を隔てて、遠く水田が連つてゐる。鎮守の森を除けば、早朝の田園風景は至つて清明である。遥か北方に伊吹山が聳(そび)えてゐる。北から東へ、鈴鹿山脈の峰峰が連つてゐる。空は一面淡青色で、その一つの峰を中心にして、東の空が金色に光つてゐる。
「あつこから、お日さん、出やすのや」
次兄がその山の方向を指した。しかしその山の斜上の空には、灰色の雲が横たはつてゐる。清清(すがすが)しい空に長長と横たはつてゐる雲を見てゐると、私は次第に心細くなつて来た。しかしそんな幼い感情を、今の私が語れば、どうしても嘘にならう。強ひて言へば、「大自然」とでもいつたものに対して原始人が抱いたやうな、感覚的な恐怖感ではなかつたか。しかも白雲のある、壮大な風景は一応静止の状態にあると言へる。その静止してゐるといふことが、却(かへ)つて私を不測の不安にさせたのかも知れない。
しかしその濃藍色(のうらんしよく)の山頂の一点から、一瞬、真紅(しんく)の宝玉が強烈な光芒(くわうぼう)を発したのは、さして時間を要さなかつたであらう。さうして真紅の一点は見る見る朱金色の環(わ)となり、金色の半円となり、やがて黄金の円盤はゆらゆらと揺れながら、濃藍色の山稜を離れたことだらう。
私の眼前の風景は一変した。朝の太陽は山野に照り渡り、それぞれの陰影は次第にその色を濃くして行く。見ると、次兄の後にも、私のにも、影法師が映つてゐる。忽ち先刻までの心細さはすつかり消えた。私は朝日に向つて両手を上げ、万歳を叫びたい気持になつた。
八つの時、小学校に入学した。学校には脇村先生がゐる。姉は六年、次兄は四年に在学してゐる。しかし学校には、わが家などとは全く異り、正しい秩序と、厳しい雰囲気とがある。私は敏感にそれを感じ、学校では緊張してゐる。しかしその緊張感は私自身にとつても決して不快なものではない。日頃、柔弱な自分を奮ひ立たせるやうで、むしろ快い。私は胸を張る思ひで学校へ行く。私の帰り道を待ちかね、春枝が橋の上まで出迎へてゐることもある。私はそんな春枝に不満の表情を装つたりした。
一年の担任は長谷川綾子先生である。長谷川先生は髪を束髪(そくはつ)に結ひ、紫の袴(はかま)を着けてゐる。当時、母や、祖母は丸髷(まるまげ)、女中達は蝶蝶髷(てふてふまげ)に結つてゐた。私は丸髷といふ髪型を好まない。といふより、積極的に疎(うとま)しく思つてゐた。そのためか、その髪型ばかりにでなく、長谷川先生自身に、私は新味を覚えた。また長谷川先生は私達には優しいが、半面、凛(りん)として侵し難いものがある。私は全幅の信頼と尊敬を持つた。
二年生になつた。担任は信任の平井つや子先生である。平井先生は長谷川先生よりも更に若く、庇(ひさし)の突き出た束髪に結ひ、同じく紫の袴を着けてゐる。平井先生の若若しさは少年達にも解るものか、運動場に出ると、私達は競(きそ)つて先生の手にぶら下つた。しかし平井先生の授業はかなり厳格で、私は快い緊張を解くことはなかつた。
その頃の田舎(ゐなか)の子供達は猥褻(わいせつ)な言葉をよく口にする。勿論(もちろん)、何の感情も伴ふものでないから、却つて極めて露骨である。それ等の言葉が禁忌(きんき)であることは薄薄知つてゐる。しかし何故禁忌であるかは知らない。また少年達にとつて、禁を破るといふことはかなり魅力のあることでもある。
あちらこちらの壁や、柱に、妙な楽書もしてある。それに気づいた時には、といふよりそれが記憶に残つたといふことは、私もそれが何を意味するかを知つてゐたことになる。特に人から教へられた覚えはない。少年達の例の無邪気な会話から自然に知つたのであらう。しかし私は言葉としてだけ知つてゐたのである。もとより何の興味も起きるはずはない。しかし何故そんなものばかり楽書するのか、私は不思議でならなかつた。
春枝が最初に暇をとつた。それからいさも、やすもいつの間にか私の家にゐなくなつた。それに代つて、みねと、とよと、かよが女中に来てゐた。
そのかねが大裏の物置小屋で死児を産んだといふ。母が顔色を変へて立ち上る。私もその後から駆けて行く。が、花が振り返つて、私を制した。
「晋は来てはいかん」
その語気の激しさに、私は足を停める。内心、私はひどく不満である。かねのことが気にかかり、次第に不安になつて来る。が、やがて和服に白い上衣を着た杉谷先生の姿を見ると、私はそつと家の中へ引き返した。あんなにうららかな太陽が照つてゐる大裏の片隅で、ひどく不吉なことが起つたのに相違ないと思ふ。ふと地獄絵の血の池地獄が連想された。
その夜中、かねは長持に入れられ、親許(おやもと)に送り返されるといふ。しかし私は男衆の亥之吉(ゐのきち)の存在が妙に気になる。先刻から亥之吉は母に叱られてばかりゐる。今も、定紋のついた提燈(ちやうちん)に灯を入れようとして、亥之吉は母から激しく叱責されてゐる。なぜ亥之吉があんなに叱られるのか、私はどうしても腑に落ちない。
私は何とかしてこの疑問を解きたかつた。しかし何か禁忌に触れるやうでもあり、躊躇(ちうちよ)される。ある時、とよが一人でゐる。私は思い切つてとよに尋ねた。
「赤ん坊はどうして生れるんや」
何故私がとよを撰んだか、不明である。しかしとよの美貌は私にも判つてゐる。或は何等かの秘密を共有する場合のあることを慮(おもんばか)つて、子供心にもとよを選んだか、と推測されなくもない、果してとよは当惑の色を示したが、やつと口を開いた。
「赤ん坊はなあし、神さんが授けておくれやすのどす」
「ふうん、誰にでも授けておくれやすのか」
「いんえ、お嫁に行くと、お祝ひに、授けておくれやすのどす」
「ほんでも、かねはお嫁になんか、行つてやはらへなんだやないか」
「あれは、悪い神さんどしたんどす」
「ふうん、ほすと、悪い神さんはお嫁に行かん女(ひと)にも授けやすんか」
へえ、うつかりしてると、授けやすのどす」
「悪い神さんやな。とよもうつかりせんといてな」
「ほんなもん、わたしら、大丈夫どす」
が、とよは何故か顔を赤らめる。その顔に鮮かに血の色がさして行くのを見ながら、私はとよはそれほど安全なのであらうかと、危ぶんだ。
次兄と私は鷄(にはとり)を飼つてゐた。雄鷄は体も大きく、見事な鷄冠(とさか)を戴いてゐる。羽毛も美しく、脚には鋭い蹴爪がある。雌鷄は雄鷄よりも体も小さい。雄鷄は威風堂堂と胸を張つて、時をつくる。雌鷄はあわただしく鳴き立てて、産卵を知らせる。歩き方も、雄鷄は勿体(もつたい)振つた風に重重しく交互に脚を上げて、悠然と歩く。が、雌鷄はまるでつんのめりさうな恰好(かつこう)で、尻を上げて小走に走ることもある。雄鷄の男らしく、雌鶏の女らしい様子が、私にはいかにも面かつた。
突然、全く何者かにとり憑(つ)かれたやうに、雄鷄が胸毛を逆立て、羽を拡げ、二つの脚を摺(す)り寄せるやうにして、雌鷄に襲ひかかることがある。初めのうちは、牝鶏は素知らぬ顔をして、雄鶏を避ける。が、二度、三度雄鷄が迫ると、雌鷄は雄鷄の次の行動を予期するかのやうに、不意に脚を屈して、尻尾を慄(ふる)はせる。雄鷄は雌鷄の項(うなじ)の毛をくはへ、荒荒しく羽を叩きながら、雌鷄の背に乗りかかる。雌鷄の中にはそのため項の毛が剥げてゐるのもゐる。
年によつて、雌鶏に卵を抱かせることもある。抱き鳥は毎朝一回だけ、箱の外へ出る。さうして水を飲み、餌を食べ、脱糞する。が、それ以外は、箱の中に蹲(うづくま)つて、卵を抱き続ける。まるで苦行者の姿のやうである。私は自分を抱き鳥の身に代へて、その苦痛を想像してみた。
しかし卵は二十日ばかりで孵化(ふくわ)する。孵(かへ)つた雛(ひな)は立ち上ることができ、親鷄の羽の下から小さい脚を見せてゐる。また雛には玉子色の産毛(うぶげ)が密生してゐて、可憐である。親鷄は雛を抱いて満足さうである。裘に母親らしい貫禄もでき、体も一廻り大きくなつたやうに見えるのも不思議である。
鳩も十数羽飼つてゐた。鳩は雌鷄とも姿が優しく、その別ははつきりしない。突然、喉(のど)を脹(ふく)らませ、だみ声で、荒荒しく鳴きながら、首を上下に振り立て、振り立て、つまり急にすさまじい形相(ぎやうさう)になつて、追つて行くものがあれば、それが雄である。その先を、首を突つ立て、ひよい、ひよい、といつた恰好で、逃げて行くのが雌である。が、雄が二度、三度と雌に迫ると、鷄と同じく、雌は自分から地上にしゃがみ雄は羽を慄はせて雌の背に乗る。
鳩は一夫一妻で、一回に二卵を産み、雌雄交互に卵を温める。孵つたばかりの鳩の雛は赤裸で、目ばかり大きく、かなり醜い。また鳩の雛は鷄の雛のやうに孵つて直ぐ餌を啄(ついば)むことはできない。親鳩は一度嚙(か)み下した餌を吐きだし、口移しに与へる。やはり雌雄ともに餌を与へる。雛が大きくなると、かなり大量の餌を与へるやうで、親鳩の嘴(くちばし)のあたりや、胸の羽毛がきたなく汚れてゐる。
早秋の夕暮、奇妙な鳴き声が聞えて来る。好奇心が私を声の方へ誘つて行く。鳴き声は雑倉の横の溝の中から聞えて来るやうである。上体を屈めて覗(のぞ)いてみると、薄闇の中に、大きい蟇(がま)が小さい蟇を背負つてゐる。更によく見てゐると、その奥の方にも同じ形のものが見えた。
春になると、白壁の上に、沢山の脚長とんぼが留る。中には、一匹が上を向き、一匹は逆さまになつて、尾を繋(つな)いでゐるのもゐた。蝶も草の上で尾を繋(つな)いでゐる。とんぼは尾を繋いで飛んでゐる。蟬も幹の上で尾を繋いでゐる。
秋も長(た)け、息が白く見えるやうな一朝、蛾(が)の大群が発生し、朝の空を埋めることがある。俗に「よび蝶」と呼ばれてゐる。翅(はね)は透き通り、黒い翅脈(しみやく)がある。触角は櫛型(くしがた)で、漆黒(しつこく)である。いかにも弱弱しいが、少年の私は、魔法使の中から生れ出たやうな妖気(えうき)を感じた。
学校から帰つて来る頃には、蛾は夥(おびただ)しい死骸となつて、大裏の隅のあたりに散り落ちてゐる。しかし板塀の上などに、尾を繋いで生き残つてゐるのも幾組かゐた。
鳥や、昆虫のこのやうな行為が何を意味するか、私はいつともなく知つた。しかし生徒達の言ふやうに、また時には大人からも聞かされたが、万物の霊長たる人間(当時、この言葉は私の尊兄する人人の口からもしばしば語られた)の男女の間に、そのやうな行為が行はれるとは、たうてい信じられなかつた。例へば父母の間のそのやうな行為を、心中窃(ひそ)かに窺窬(きゆ)するだけでも、甚しい冒瀆(ぼうとく)であると思つた。
たつといふ、愉快な女中が来た。初めて私がたつを見たのは、私の家の小便所である。私が便所の戸を開けると、奇怪な姿が目に入つた。女がこちら向きに腰を折つて、用を足してゐるのである。女は脚を開き、着物は膝の上まで上げられてゐる。厳格な母は女中達にもそのやうなことは絶対に許さなかつたので、私は驚倒した。私はあわてて戸をしめた。私が男女の器官に相違があるらしいことを実感した、最初の記憶である。
「おまい、この家のぼんか」
しかし女は私を見ながら、平気でいふ。よく見ると、女といふより少女で稚児髷(ちごまげ)に結つてゐ、小学校を卒(を)へたばかりの年頃である。私は少し侮辱されたやうに思つたが、
「ほうや」と答へる。
「女みたい、白い顔してるな。わしおたつや。この家へ女子衆(をなごし)に来たんや」
「ふうん」
「広い家やな。見せていな」
「おこられやへんか」
「ほやかて、ゆつくり休んでゐつて、言ははつたもん」
私は先に立つて歩き出した。裏庭には公孫樹(いてふ)の大樹がある。その隣に枇杷(びは)の木もあるが、公孫樹の勢に圧せられ、反対側ばかりに枝を伸してゐる。
「いかい木やな」
たつは公孫樹の側へ走つて行き、両手を拡げてその幹に抱きついた。
「西光寺のよりいかいな」
私は構はず歩いて行く。たつは直ぐ追ひつき、後から言ふ。
「おまい、何ちふ名や」
「晋つて言ふんや」
「ふうん。ほんでも、女みたいな顔してるな」
私は馬鹿にされてゐるやうで、少し腹が立つ。が、今度はたつが先きに立つて歩いて行く。木戸を開けると、梅林である。
「梅ならうち家(ね)にもあるわ。けんど、梅は酸(す)いさかい、ほない好かん」
「砂の中へ入ると、おこられるぞ」
自然石を土で重ね、その上にむべ垣がある。それを廻ると、苔(こけ)を敷き詰めた前栽(ぜんさい)である。赤松を主にし、高野槇(かうやまき)、五葉松、檜(ひのき)、椎(しひ)、ゆづりは、山茶花等が植ゑ込まれてゐる。楓(かへで)も目立つて多い。私は飛石伝ひに歩いて行つた。
「苔を下駄で踏むと、おこられるぞ」
「ようおこる家(え)やな」
築山(つきやま)の裾に、幹が六本に分れた松の木がある。
「よし、あれに上つたろ」
たつがさう言つたかと思ふと、突然、跣(はだし)になり、駆けて行き、その一本の幹を上り始めた。たつは実に巧に上つて行く。しかし私はすつかり度胆(どぎも)を抜かれた思ひで、声を発することもできない。たつははだけた膝を巧に屈伸して、既に高く上つて行く。
たつは松の一枝に腰かけ、二本の脚を垂れた。それからひどく気取つた恰好で、片手を額に当てる。小手にかざしたつもりらしい。たつが何か言つてゐる。しかしその声は聞えない。私は初のうちは呆気(あつけ)にとられたが、次第に愉快になつて来た。
「たつ、東京は見えるか」
しかし私の声も聞えないらしい。たつはやつと下り初める。上る時と同じく脚を屈伸して下りて来る。地上近くになると、たつは脚を伸したまま、滑り下りた。たつは気負立つた風に、顎(あご)を突き出して言ふ。
「九居瀬(くゐぜ)が見えたわ」
「九居瀬てなんや」
「知らんのか、わしの在所やないか。愛知川(えちがわ)の上(かみ)や」
「愛知川やつたら、川並山へ登らな見えやへんわ」
「ほやかて、ほやかて、九居瀬はあの山の下やわい」
しかしその翌朝から、たつは母に叱られ通しである。まづ言葉使ひが悪いといつて叱られる。
「目上のお方に、『来やはつた』とはなんや。『来なさつた』とか、『お出でやした』とか言ふもんや」
また行儀が悪いといつて叱られる。
「女のくせに、なんや、ほないに立ちはだかつて」
しかしたつはあまり悲しさうな顔はしない。むしろ何のために叱られてゐるのか、解(げ)せない風である。それがまた母の小言の種になる。
「ほんま横着な、蛙の面に水とは、このことや」
しかしたつは使ひ歩きは素晴しく早い。その点だけは、至つてせつかちな母の気に入つたやうである。
「たつは、はい帰つて来たのかいな。手紙は立化に入れて来たのやろうな」
「うん、ちやんと入れて来たが」
「ほれ、また『うん』、ほれがいかん。『はい』とか、『へえ』とか言ふのやほん」
三年生になつた。担任は里内校長先生である。しかし先生は休まれる日が多い。代つて、西村先生や、磯田先生から授業を受ける。西村先生は中学校を出たばかりで、和服に小倉袴(こくらばかま)を着け、威勢のよい先生である。磯田先生は老先生で、女生徒達のお下げ髪を結び合せたりする。私は新学年になつた緊張感をあまり感じない。
母の厳格な躾(しつけ)には、さすがのたつもかなり応(こた)へてゐるらしい。母の目を逃れては、私が遊んでゐるところへやつて来る。
「何してるんや」
さう言つて、暫くは神妙にしてゐるが、たつは直ぐ威勢よくなる。
「晋さん、睨(にら)み合ひしよ」
たつは私の方を向き、折り曲げた両腕で勢よく自分の脇腹を叩きながら、おおきな声で言ふ。
「だるまさん、だるまさん……」
子供のくせに、私は睨みつこは強い。全く別の事を考へてゐればよい。が、たつは私を笑はせようと、片目をつむつたり、口を歪(ま)げたりしては、自ら噴き出してしまふ。すると、たつはいきなり私の大きな太鼓を引きずり出し、脚を男のやうに踏み開き、桴(ばち)を振り上げて、勢よく打ち鳴らす。
「九居瀬の太鼓や」
九居瀬の祭礼の太鼓の鳴らし方の意で、たつはひどく得意である。
また木のぼりに限らず、高い所はたつの好む場所のやうである。たつは水屋の屋根に上つて、母に激しく叱られたこともある。
ある時、たつが顔を上げ、私の前へ喉を突き出して言ふ。
「こそぼつてみやい。わしらなんともないわ」
私は一寸ためらつたが、そつとたつの喉に指を当てる。たつは平気な顔をしてゐる。
「ほれみ、どうもないやろ。晋さんもこそぼつてみたろか」
「ほんなもん、わしらこそばいもん」
「あかんこつちやな。わしら腋(わき)の下かて、こそばいことないわ。ほら、こそぼつてもよいわ」
たつは両腕を上げる。私は誘はれるやうに、たつの両脇に手を入れる。途端に、たつは大きな声を発し、腕を窄(すぼ)める。
「わあつ、こそぼ。やつぱりこそばいもんやな。ほうや、晋さん、こそぼり合ひしやへんか。じやんけんで負けた方がこそぼられるんや」
「ほんなこと、かなん」
「晋さんは喉だけやが、しようまいか」
自分の手で、自分の喉や腋を擽(くすぐ)つても、何の感じもない。若(も)しも、睨みつこの場合のやうに、全く別のことでも考へてをればどうだらう、と私は考へる。すると、妙な好奇心も湧(わ)く。
私は承知する。初めのじやんけんは私が勝つた。
「今度こつさり、こそぼがらんほん」
たつは自分から腕を上げる。が、私が手を伸すと、たつはいきなり腕を窄め、また大きな声を出した。
「わあつ、こそぼ」
「こそぼいて、手もさはつたらへんのに」
「ほやかて、何や知らんが、こそぼかうたもん。今度こつさりや」
たつはまた腕を上げる。私は素早く手を差し入れる。たつは腕を窄め、苦しげに笑ひながら、上体をくねらせた。
「わああ、こそぼかつた。けんど、これ、おもろいな」
次は私が負ける。私はたつの前に喉を突き出し、算術の加へ算をする。たつの指が喉に触れる。やはりひどくこそばゆい。私は顎を引き、たつの手を外す。
その次も私が負ける。が、奇妙なことは、この時は私の負けを意識したといふか、少くとも予期したやうな記憶が微かにある。ところが、たつがいきなり私の腋の下に手を差し入れる。私はたつの違約を責めようとするが、あまりにくすぐつたく、物も言へない。体をよぢつて、私はやつとたつの手から逃れる。たつが面白さうに笑ひながら、手を振つて言ふ。
「じやんけん、じやんけん……」
「もう、わし、せん」
「なんでや、ほんなこといはんと、もつとしようまいか」
不意に、不思議な感情が湧いた。或はたつが約束を破つたことに対する、闘志のやうなものであつたかも知れない。
「よし、ほんならやろ」
「やろ、やろ」
今度は私が勝つた。たつは僅(わず)かに脇をあけたが、私が手を上げると、直ぐ腕を縮める。たつは二度、三度と同じことを繰り返す。
「なんやい、たつて、わりにとろくさいのやな」
「よし、ほんなら、かうや」
たつは両手を頭の上に上げ、両手の指を組み合せる。
「もう、どうなつとして」
私は思ひ切つてその腋の下に手を当てた。
「わあつ」
たつはあわてて腕を下し、私の手を締めつける。が、そのため、私の手は却つて八つ口からたつの腋の中に入つてしまふ。
「こそ……こ、こ、こそ……ぼ……」
私の指はたつの肌に触れてゐる。私は得体の知れぬ気持になる。報復の快感といふより、或はより性欲的なものであつたかも知れない。しかし私の両手はたつの両腕に挾みつけられ、引き抜くこともできない。私は逆に私の指を動かす。
「く、く、くるし……」
たつは体を右に、左に捩(よぢ)つて苦しむ。その顔は醜くゆがみ、紅潮してゐる。最後に、たつは反(そ)りかへる恰好になり、斜め横に倒れる。その膝が割れ、膝小僧が出てゐる。が、たつは上体を伏せて、動かない。
「ああ、苦しかったわ」
たつはやつと起き上つた。その目には涙が光つてゐる。が、たつは膝の着物を合わせてから、意外なことを言ふ。
「けんど、なんでや知らんが、よい気持やわ。今度は、晋さんやかて腋の下やぞ」
が、その時、たつを呼ぶ母の声が聞える。たつは舌を出して、出て行つた。
四年生になつた。担任は小野先生である。脇村先生が校長になられる。次兄が膳所(ぜぜ)中学校に入学した。次兄は極めて温和な性質であるが、体格が群を抜いて大きく、太つてもゐる。従つて次兄の存在は無言のうちに生徒達を圧してゐたわけである。その次兄がゐなくなつてみると、学校では私は自然に緊張を感じる。
弟の明のことが私の記憶に残るやうになつたのも、この頃からである。私の六つの時の母の大病は、弟を出産した後の産褥熱(さんじよくねつ)であつた。以来、弟は本家の祖母の許(もと)で育てられてゐたからでもあるが。
私は弟と本家の花園で遊んでゐた。本家の花園は別屋敷になつてゐ、上畑へ行く道を挾んで、悌二郎家と対してゐる。その半ばは芝生になつてゐ、ぶらんこもあつて、私達の恰好(かつかう)の遊び場になつてゐる。開けつ放しになつてゐた門から、たつが顔を出した。たつは上畑の帰りらしく、手に掲げた竹籠には青い豆が入つてゐる。
「何してやすのや。明さんもおとなしいな」
たつは言葉遣ひもよくなり、行儀も改つたが、依然として快活である。
「あれ、ぶらんこや。ちよいと乗らしてもらお」
たつはぶらんこに飛び乗り、脚を曲げて繰り初める。私は一寸(ちよつと)たつの方へ目をやつたが、直ぐ遊びの方へ目を返した。しかしそれがどんな遊びであつたか、記憶はない。
人の来る気配に顔を上げる。本家の男衆の万蔵が立つてゐる。たつは威勢よくぶらんこを繰つてゐる。万蔵はすつかり私達を無視した態度で、片手を小手にかざして言ふ。
「これは、これは、絶景なり、絶景なり」
しかしたつはぶらんこを少しも緩めようともせず、上から言ひ返す。
「いやらしやの。ほんなところ立つてんと、早う、向こい行き」
「ひやあつ、胸がだいこだいこ、腹がかつぶらかつぶら」
「阿呆(あほう)いうてんと、早う行かんと、唾かけるほん」
「おたつどん、あきんどの節季や。まうけが見えたがな。後に未練はあるけんど……」
万蔵は浪花節(なにはぶし)のやうな節で歌ひながら、花壇んも方へ引き返して行く。たつはぶらんこの上で、高く声を上げて笑つてゐる。
私にも万蔵の言つた意味はもう判る。さう思ふと、急に好奇心が湧く。私はそつと顔を上げる。途端に、裾飜(ひるがへ)した着物の中で、たつの二本の脚が弧を描いて、高く、私の視線を掠(かす)め去った。しかし万蔵のいつたやうなものは何もなかつた。
五年生になつた。担任は北村先生である。脇村先生は膳所中学校に転任された。次兄は先生の許に寄宿することになつたやうである。この年、弟も小学校に入学する。
宿直室で身体検査を受ける。男生徒と、女生徒戸は別である。当時の子供はパンツははいてゐない。男生徒達は素裸で検査を受ける。しかしこの年齢の男生徒にはまだ羞恥感(しうちかん)はない。むしろ解放された喜びから、騒ぎ廻つてゐる。
女生徒の場合は異る。この年齢の女生徒には既に羞恥心は目覚めてゐる。宿直室の戸をしめ、女生徒達は軽く亢奮した声を発してゐる。しかし廊下に面した宿直室の窓は紙障子で、ところどころ破れてゐる。女生徒達の半裸の姿も見える。
女生徒達は障子の破れに気づくと、大騒ぎをする。しかし男生徒の目が女生徒の羞恥を呼びおこしたのではない。むしろ逆である。女生徒の恥しさうな姿態が、男生徒の目を障子の穴に誘ひ寄せたのではないか。
私だけの記憶によると、この頃の私の性欲はまだ自分自身のものとしては目覚めてゐない。しかしもう単なる好奇心だけで「女の子」を見ることはできない。女生徒の羞恥に誘はれたかのやうに、そこはかとない感情を伴ふやうになつた。
さう言へば、今までの身体検査も男女別であつたか、どうか、といふより、学校の身体検査などといふものは全然記憶を刻んでゐない。従つて、この頃になつて、「男の子」と「女の子」との区別をはつきり意識するやうになつた、と言へる。更にその頃の私にはまだ性欲はないが、既に仄(ほの)かな色情は発芽してゐた、と言へるのではないか。
庭には雨が降り頻(しき)つてゐる。強い雨である。空は白い雲に覆はれてゐるが、かなり明るい。私は中の庭の方へ歩いて行つた。中の庭に面して、離れの間がある。女中部屋になつてゐる。ふと見ると、とよが一人で昼寝をしてゐたが、その着物の前が乱れ、赤い腰巻の間から膝法師が僅かに覗いてゐる。私は見てはならないものを見たと思ひ、かなり動揺する。急いで視線をそらし、軒下伝ひに歩いて行く。
立樋(たえどひ)がある。雨が激しいためであらう。ごぼごぼと、いかにも過分の水量を吐き出すやうな音を立ててゐる。雨水も泡立つてゐる。私は何といふこともなく、そこへしやがみ込む。
雨の中に柘榴(ざくろ)の花が咲いてゐる。朱塗りの小燭台のやうな、堅い萼(がく)の上に、数片の赤い花弁が乱れてゐる。雨は屋根の瓦を打ち、軒廂(のきひさし)を叩き、木木の葉を鳴らして、かまびすしい。濁音や、半濁音のさまざまな雨音の中に、突然、梅の実の落ちる音がする。意外に大きな音である。
夏季、七月に入ると、昼食後二時間、女中達は休息の時間を与へられる。その間、彼女達は多くは私用を弁じるが、昼寝することも珍しくない。
しかし、とよの先刻の姿は寸時も私の頭から離れない。何故かといへば、とよが美人であるからでもあらう。人もさう言ふが、この年頃になるおと、私にも女の年齢や、その容貌の美醜も何とはなく判つて来る。その上、とよは不断から至つて行儀がよい。ひどい恥しがり屋でもある。が、あの時はとよの羞恥もうとうとと眠つてゐたのかも知れない。
とよの羞恥が目を覚ました時、とよは果してどんな顔をするか。それともとよはまだ眠つてゐるか、更にとよの姿には何等かの変化が生じてゐるか、窃(ひそ)かに好奇心が動く。
しかし私の好奇心は今までのやうに、単なる探究心だけではない。既に何となく罪悪感を伴はないわけにはいかない。少くとも恥づべき行為であることを知つてゐる。また実際にも恥しい。が、女の示す羞恥の姿は、ひどく甘美な匂ひを放つ。私は心にもなく、いつかその匂ひに誘はれて行く。
その頃、東の屋敷は既に家屋は取り払はれ、南を受けて物干しが立てられてゐる。しかし厳格な母は女の下穿(したばき)の類をその物干しに干すことを許さない。裏庭の物置小屋の軒下に、女中達のそれ等のものは干されてゐる。そんな布切さへも、最早、私には何気なく見過すことはできない。しかしそれらの布切に包まれてゐるであらう。女中達の肉体に想像を逞(たくま)しくするほど、勿論、私の色情は成熟してゐるわけではない。
赤いものもある。鴇色(ときいろ)のもある。新しいのもある。洗ひざらして、色の褪(あ)せたのもある。とよのであるか。たつのであるか。まるで若い女の秘密が曝(さら)されてゐるやうである。私は女中達のつつましい羞恥を感じる。殊に森閑(しんかん)とした裏庭で、その色に白壁を染めながら、落日の斜陽に照り映えてゐるやうな時、私はむしろ哀(かな)しみにも似た感情に襲はれる。しかしそれは虚空に笛の音を聞いてゐるやうな、遥(はる)かに遠い感情のやうにも思はれる。さうしてそんな感情が何に起因してゐるのか、もとより私は知る由もない。
いつともなく、たつもすつかりおとなくしなつた。たつはよく働いたが、その立居は見違へるばかりに女らしくなつた。何がたつをこんなに変へたか、私は不思議でならない。また、人人もいふやうに、たつはめつきり美しくもなつた。
「来はやつた時は、雀の巣みたいな髪してやはつたが」
するとたつの髪は稚児髷(ちごまげ)でなかつたか。確かに、あの時、前屈みになつてゐたたつの頭は稚児髷であつた。しかし、最早、羞恥の感情を伴はないで、たつのそんな姿を回想することはできない。私は片手を額にかざし、たつをからかふ。
「たつ、たつ、九居瀬が見えるわ」
「もうほれだけは、言はんといておくれやす」
たつは赤く顔を染めた。
「たつ、またこそぼり合ひしようか」
私がさう言へば、たつは何と答へるか。私は少なからず興味を覚える。しかしたつのふくらかな姿態を見てゐると、私はどうしてもそれを口にすることができなかつた。
その頃から、私はテニスに熱中するやうになる。学校のコートは六年生が殆ど独占する形になつてゐる。私は母にネットを買つてもらふ。ラケットは兄達のが何本かある。私は東の庭の空地をコートにし、友達を誘つて来て、球が見えなくなるまでラケットを振る日が多くなつた。
テニスだけではない。私は野球や、相撲にも興味を覚え、新聞の運動記事をまつ先に見るやうになる。当時の野球記事は美文調で、ひどく勇ましい文章が多かつた。
私がスポーツを好むやうになつたのは、勿論、兄達の影響である。しかし私の中の男性的なものが発育して行くにつれ、私はいつともなく自分の容貌や、性格に嫌悪(けんを)を感じ初め、常により勇しく、より男らしくありたいと、無意識の裡(うち)に願ひ続けてゐた、その一つの表れであると思はれる。
私はまた私の家の古臭い家風に反感を抱き初める。さうしてその厳格な遵奉者(じゆんぼうしや)である母と、よく言ひ争ふやうになつた。
六年生になつた。担任の先生は堀先生である。私は最上級生になり、緊張感を新しくした。
が、ある日、私の名前と、同級の女生徒、新村淑子との名前を連ね、例の女のものを画いた楽書を発見する。しかも楽書は私の家の、道路に面した白壁の塀の上に、大きく書かれてゐる。私は自分の顔の上を汚されたやうで、ひどく不愉快である。淑子の家と、私の家とは遠縁になるが、二人は学校以外で顔を合はせたことはない。全く無意味といふべきである。しかし決して名誉なことではない。私は何となく腹が立つ。
翌日、私は学校へ行つた。奇妙なことに、私はいつものやうに虚心でゐることはできない。それでゐて、それとなく淑子の姿を探してゐる。淑子は学業も勝(すぐ)れ、体格も近来急に成長し、女生徒の先頭である。容貌も既に美しい輪郭を整へ初めてゐる。そんな淑子を見出すのに、私はさして時間を要するはずはない。
淑子の視線が私を捕へた。さう思つた瞬間、淑子はさつと顔を赤らめ、急いで視線をそらした。すると、私の意志には関係なく、私は私の顔も淑子のそれと同じ色に染つていくのを覚えた。
とよが嫁入りするので、暇を取るといふ。とよに限らず、女の人が嫁入りしても、友達が口にするやうなことをするとは、私は信じられない。しかしとよのむしろ悲しげな笑顔を見ると、ふと、疑ひが湧かなくもない。更に私にそんな疑念を抱かせたことが、とよにとつても、私にとつてもひどく恥しいことのやうに思はれる。とよの生家は伊吹山麓の農家である。嫁(とつ)ぐ家も農家であるといふ。とよからよく聞いた、鄙(ひな)びた山家の風景の中にとよの姿をおくことによつて、私は私の心を紛(まぎら)すより他はない。
とよに代つて、清子が来る。清子の故郷は山上であるといふ。たつの話によると、山上も愛知川に沿つてゐるが、九居瀬よりずつと下流で、町のやうに賑やかな所もあるといふ。清子はたつより一つ年下であるが、高等科も出てゐて、たつの場合のやうなことは全く見られなかつた。
六年生になると、かなり忙しい。私は学校の運動場のコートでテニスをする。選手にも推(お)され、対校試合にも出場する。堀先生は授業に熱心であるから、うつかり復習を怠るわけにはいかない。中学校の入学試験の準備もしなければならない。
「お尻まくりやはつた」
誰かが大きな声で言ふ。二三の生徒がそれに和する。するとこの馬鹿げた遊びが始つたことになる。さうして全校の生徒は否応(いやおう)なしに参加したことに、まるで習慣法のやうになつてゐる。その代り、よほどの無法者でない限り、不意打ちは行はないことに、これまた同様決まつてゐる。しかし私は袴(はかま)を穿(は)いてゐるので、自然に参加しないことになつてゐる。
こんな馬鹿げた遊びが始つても、何分小学生のことであるから、さして重苦しい変化は生じない。むしろ屋内運動場にはどこかおどけた、はしやいだ空気さへ漂つてゐる。
下級の女生徒の中には、着物の裾を股の間から持ち上げて、走り廻つてゐるものもゐる。上級の女生徒達も今までの遊戯を中止したりはしない。しかし周囲に注意は怠らない。また、お手玉をつきながら、壁に背にする位置に後退するものもゐる。
男の生徒達もせつかちに追ひ廻したりしない。そ知らぬ顔をして、女生徒達の隙を窺(うかが)つてゐるのである。つまり男生徒達と女生徒達の間には微妙な心理作戦が行はれてゐる。さうしてそのいづれもが複数であるところに、複雑な興味が生じる。
「馬鹿げた遊び」と言つた。が、小学校も上級になると、女生徒達ははつきり羞恥(しうち)の色を示すやうになり、私の心の中にもそれを反映するものが生じた。最早、私には「馬鹿げた遊び」などと言へる資格はない。私は何知らぬ顔をして、一人雑誌を開いてゐるが、私の目は誰よりも強い興味を持つて、この「馬鹿げた遊び」に参加してゐた、と言へなくもない。
「今日こつさり、お淑をやつたろまいかい」
「うん、やつたろ」
清九郎と与吉との話声が、私の耳に入る。一瞬、私はぎくりとなる。しかし私は二人の話に驚いたのではない。奇怪なことに、私も窃(ひそ)かにそれを期待してゐたのではないか、と気づいたからである。
上級の女生徒達は数人づつ集つてそれぞれの遊びを続けてゐる。が、勿論、少しの油断もない。最近、背丈も更に伸び、娘らしい恰幅(かつぷく)も増した淑子の存在は、既に先刻から私の視線の中に入つてゐる。淑子はお手玉をついてゐる。六つ玉くらゐであらう。かなりの数のお手玉を無心に操つてゐる。しかしそんな淑子の姿はいかにも隙だらけのやうで、ひどく危い。
清九郎と与吉とがゴム毬(まり)を投げ合つてゐる。与吉がその毬をそらし、それを追つかけて行く。すると淑子はお手玉をつきながら、ゆつくり足を廻して向きを変へ、与吉に後を見せない。
一見、淑子はむしろ男生徒をいざなひ戯れてゐるかに見える。しかし敏感な淑子は容易に乗ずる隙を与へないのであらう。私は今までに淑子がこの難にあつたことを知らない。
山羊(やぎ)が一群を率ゐてゐるやうな、年を経た山羊は、むしろ自ら進んで、その姿を猟師の視野の中におくといふ。或は淑子も自ら進んで、男生徒の視線を引きつけておくことによつて、逆に相手の行動を窺(うかが)ひ、自分の注意力を常に緊張の状態におくのかも知れない。
淑子がお手玉を落したやうである。代つて、まき子がつき始める。突然、反対側の女生徒達の間に動揺が起り、専太郎がその間から抜け出して来る。五年生の菊枝である。菊枝は着物を押へたまま、床板の上に坐つてゐる。
相変らず、生徒達は右に左に駆け廻つてゐる。その間を縫つて、またゴム毬がまき子の後方へ転つて行く。今度は清九郎が追つかけて行く。
「清やん、ここや」
与吉は両手を挙げ、毬が投げ返されるのを待つてゐる恰好である。淑子がまき子に注意を与へてゐる。まき子が急いで向きを変へようとしてゐる。その時、寅吉が便所の出入口から顔を出した、と思つた次ぎの一瞬、淑子の裾が開き、二本の脚が見えた。が、淑子は素早く裾を押へ、激しく体を捻(ひね)つて、背後の手を振り切つたらしい。淑子は両手で顔を覆ひ、片隅に身を寄せる。寅吉と清九郎は、大物を射止めた猟師のやうに、小躍(こをど)りして帰つて来る。私は急いで雑誌の上に目を返す。
私は淑子の悔(くや)しさがよく判る。身に染みて判る。私が一人の女生徒にこんな強い気持を抱いたのは初めての経験である。楽書のせゐかも知れないが、自分のことのやうに恥しい。しかし一体、恥しいとはどういふことだらう。どう考へてみても、判らない。しあkしとにかく、女でなくとも、あのやうなことをされれば、恥しいに相違ない。理由はない。
それにも関らず、何故、私は先刻のあのやうな恥づべきことを期待したのか。しかもあの一瞬の、淑子の羞恥の姿は、私に淑子の丸いお尻を幻覚させるに十分であつた。つまり私の恥づべき期待は満されたわけである。しかしこれを逆に言へば、もしも淑子が羞恥んも表情を示さないとすれば、女生徒の臀部(でんぶ)などに興味があらうはずがない。するとまた、羞恥とは何だらう、といふことになる。
私は教室へ入つてからも、ぼんやり同じことを繰り返して考へる。しかしもとより解決のつくはずがなかつた。
私達の村に電燈が点(とも)るやうになつたのは、その年の晩秋のことである。電柱に人が上つてゐると聞き、私は表に駆け出した。淑子がゐる。淑子だけである。二人は顔を赤らめ合つて、会釈(ゑしやく)をする。電柱には工夫が上つてゐる。私は淑子に何か言葉をかけなければならないやうに思ふ。しかし顔を赤らめないではできさうにない。私は思ひ切つて言ふ。
「今夜から、ともるんどすやろか」
「ほうどすて。けんど、あの方が下りやさんと、ともらんさうどす」
やがて工夫が電柱から下り始める。私は淑子と別れ、私の家へ駆け帰つた。しかし電燈はなかなか点らなかつた。


十四の時、膳所中学に入学し、次兄とともに脇村先生の許に預けられる脇村先生は淡水魚問屋の離れ家を借り、私達は自炊してゐた。
その離れ家のま下は堀り池になつてゐる。鯉や、鮒(ふな)や、緋鯉(ひごひ)や、緋鮒が活けてある。鯰(なまづ)や、鰻(うなぎ)や、ぎぎの類は丸い籠に入れて、漬けてある。その池のある庭を隔てて、直ぐ湖の岸である。先生と兄の机は横に向かひ合ひ、私の机は正面むきに並べておくので、私は机に向かひながら、うららかな春の湖の風景が眺められた。
また、その庭の石段を下りると、石を組んだ突堤が湖水の中に突き出てゐる。左手には、近く長等山や、比叡山(ひえいざん)や、比良の山脈が見られる。右手には、三上山のある風景を中心にして、湖東地方の山野が望見される。私はよくこの突堤に立つて、故郷の家を思つた。小学校も上級になると、勝気な上に封建的な母とは、私は毎日のやうに衝突した。しかし家を離れてみると、私は無性に母が慕はしい。突然そんな私の耳に、湖上を渡る汽船の上から、女生徒達の華やかな合唱が聞えて来たりもした。
中学校では、小学校のやうな露骨な言葉は口にされない。私は少なからず誇らしい気持になる。が、それに代つて、「稚児(ちご)さん」とか、「少年」とか呼ばれる、妙な風習のあることを知る。
小学校の六年生の時、私は京都の女学校へ行つてゐる姉から、「カチューシャの歌」を教へられ、男女の間に恋愛の関係があることを解した。といふより、ひどく哀切なことのやうに思はれ、むしろ私は憧憬に似た感情を抱いた。男と男n間にも、それに似た関係があるかと、不審に思ふ。しかし上級生の間で、私も「少年」の一人にされてゐることを知り、中学生になつた誇りを、すつかり傷つけられてしまふ。
私は男らしくありたい、勇しくありたいと虚勢を張らうとする。が、旧制中学校の上級生達は既に一人前の男である。声も太く、髭(ひげ)も生えてゐる。私はまづ肉体的に圧倒されてしまふ。そんな上級生達に遠巻きにされ囃(はや)し立てられたりすると、最早収拾がつかなくなる。私は心にもなく顔を赤らめ、校庭の隅の方へ逃げて行くより他はなかつた。
七月に入り、梅雨が明けると、私等の中学校では必修科目としての水泳が始まる。しかし私は全然泳ぐことができない。赤帽組である。泳ぐことのできる距離によつて、赤、赤白、青の帽子に別けられてゐる。水泳の教師は黒帽である。が、一年生の中にも、既に青帽の生徒もゐる。全く羨(うらやま)しい。漸(やうや)く終り近く、私は浮き上ることができたばかりである。来年を期すより他はない。
そんなある夕方、私は食器を洗ひに突堤に出た。殆(ほとん)ど同年配と思はれる娘が三人、少し離れた汀(みぎは)にゐる。娘達はいづれも浴衣(ゆかた)に兵児帯(へこおび)を締め、その素足を小さい波に洗はせてゐる。魚問屋の娘の加代もその中にゐる。加代は私と同年で、高等科へ行つてゐる。笑ふと、白い八重歯が印象に残る。娘達は僅かに着物を紮(から)げ、笑ひながら、少しふつ深みへ進んで行く。
隣家の崕(がけ)の上に、若い男の姿が現れる。男は無言のまま、いきなり娘達の方へ石を投げる。娘達は一斉に振り返つたが、やはり無言で笑ひながら水中を逃げて来る。その娘達の背後に石は続けざまに飛沫を上げて落ちる。娘達は勢よく水を飛ばして、私のゐる突堤に向かつて進んで来る。着物の裾は膝のあたりまで捲(ま)くられてゐる。しかし娘達はまるで水遊びを楽しんでゐるかのやうに、終始笑ひを浮べてゐる。が、突然、娘達は足を停め、少し迂回(うくわい)して方向を転じ、反対側の突堤の方へ進んで行く。
まだ少女のやうなしなやかな脚が、活潑に水を蹴つて動く度に、水は飛沫を上げて乱れ騒ぐ。その娘達の後姿を明るい斜陽が照してゐる。石を投げる男達の目的は、娘達をもつと深みへ追ひやることになつたらしい。しかし彼女達の快活な行動が、私にそんな興味を抱かせなかつた。私はむしろ三人の娘のゐる、極めて明るい色彩の風景画を見てゐるやうな、清潔な印象を残した。
一学期の試験を終つた。私は間に合ふ汽車で母の許へ帰ることにしてゐる。無性に嬉しく、全く心もここにない思ひである。が、そんなとき、一人の同級の生徒から一通の手紙を渡される。
「えんしよ(艶書)や」と言つて、その同級生は逃げて行つてしまふ。私は何事か、了解に苦しむ。急いで寄宿先に帰り、とにかく封筒を開く。差出人は五年生の庭球部の選手で、石鹿公園で会ひたいといふ。が、私はそれどころではない。帰心で、胸が一杯である。
しかし私はその手紙に――或はそんな男と男の関係に――朧(おぼろ)げながら罪悪的なものを感じたのは事実である。私はマッチの火でその手紙を焼いた。しかし紙の焼けた残滓(ざんし)は始末の悪いものである。やつと新聞紙にくるみ、湖水に投げ捨てる。さうして私は停車場に駆けつけた。
汽車が瀬田川の鉄橋を渡る時、私達の間で「グリーンランド」と呼びならされてゐる、石鹿公園の緑の突端が見える。その時、ふとあの五年生のことが私の頭を掠(かす)めないでもなかつたが、初めて帰省する喜びがあまりに大きく、それ以外のことは、私の頭に長くは留らなかつた。
翌朝、故郷の懐かしさの、まるで余韻(よゐん)を楽しむかのやうに、私は散歩に出る。
太陽は東の空に上つてゐたが、その陽ざしはまだそれほど烈しくはない。幼い時から見馴れた風景の中には、伊吹山も、県境の山山もある。首を返すと、観音寺山や、明神山の懐かしい姿も見える。朝風は清清しく、草叢(くさむら)の露は私の素足を濡らす。上畑(かんばたけ)の緩い傾斜を下ると、見渡す限り青田である。稲は絶えず緑の波を立て、その中に降り立つてゐる鷺(さぎ)の姿が目に染みて白い。
私は街道に出、更に左に折れて、村の中に入る。私は膳所(ぜぜ)中学の徽章(きしやう)のついた麦藁(むぎわら)帽子をかぶつてゐる。かなり得意である。少し行くと、庄右衛門の藪(やぶ)である。私の家の前を流れてゐる川はこの藪に突き当り、急に左折して流れてゐる。ここの淀(よど)みで、二十センチばかりの鯉を捕つたこともある。
川に沿つて進み、石橋渡つて右に折れ、本家と私の家との間の道を歩いて行く。私の家の塀に書かれてゐる処の楽書を思ひ出す。路上には人はゐない。私はそつと白壁の方へ目を向けた。
思はず、私は息を詰めた。「晋」と「およし」と、名前は以前のままである。しかし例の女のものには、その周囲に数本の線が引いてある。陰毛のつもりらしい。確かに新しく書き加へられたものに相違ない。少しあくど過ぎる。或は同一人ではないかも知れぬ。別人が意味もなく、筆を加へたのかも知れない。初めから陰毛のある楽書はどこにもある。別に何の感じも与へはしない。しかしこの楽書が変化したといふことが、私に妙に実感を起させる。淑子は隣村の高等小学校に通つてゐる。いかにも惨酷に過ぎる。私は淑子の羞恥を思ひ、不意に、私は強い性欲的刺戟を受ける。
夏休みが終り、私は膳所の寄宿先へ戻つた。毎朝、この淡水魚問屋の突堤目ざして、漁船が多く集つて来る。さうして問屋の庭で魚市が立つ。売手は袖の中に手を隠し、買手はその中に手を入れ、指と指とで、取引が行はれるらしい。もろこ、ひがひ、はず、ぎぎ、いさざ、かまつが、小えび等、淡水魚の種類は少くない。
買手の中には、女の棒手振(ぼてふり)も二三人ゐる。殆ど同じ装束で、短い着物の下に、袷(あはせ)の腰巻をはき、紺の脚絆(きやはん)をつけてゐる。市を待つ間などには、かなり卑猥な会話も交されてゐるらしい。私達の部屋では話し声は聞きとれない。しかし変な笑顔と、表情で、私にもそれと察しられる。
ある日、牀机(しやうぎ)に腰かけてゐる男が、突然、その前に立つてゐる女に、両手を拡げる。すると女は尻を突き出して、男の膝に乗る。男は後から両手で女の胴を抱いてゐる。女は盛んに腰を揺つてゐる。例の笑声が起る。女の前は割れ、膝頭の奥まで、その内側を覗かせてゐる。しかし女には少しも羞恥の表情はない。大口を開いて笑つてゐる。
勿論(もちろん)、二人がふざけてゐることは、私にも判る。しかし私は今までにそんな女の姿を見たことがない。その頃、私は人間の性の行為を疑ふことはできなくなつてゐた。しかし強い羞恥の感情を伴はないで、それを考へることはできない。従つて、私は女の振舞を全く啞然(あぜん)とした気持で見てゐるより他はなかつた。
二年生になつた。脇村先生が京都大学の国文科に学ばれることになり、私達は大津市の関寺町に移つた。関寺町は大津市の西南端にあり、学校までは四キロ近くある。しかし乗物を用ひることは校則が許さない。毎日、私は往復の道を歩いた。
私の胯間(こかん)に、薄く発毛してゐるのに気づいたのは、その夏休み、風呂場でのことである。その夏、私の水泳は大いに進歩した。十町の試験を通過して、赤白の帽子になり、次いで青帽になり、最後に石場、石山の三里の遠泳にも合格した。しかしそんな日日の脱衣、着衣の際にも、その徴候は見えなかつたのである。
初め、私は驚きとともに、羞恥を覚える。しかしその恥しさの中には、自分もどうにか大人になるのかと、妙に得意な気持を交つてゐた。が、私は次第に不安になつて来る。自分の意志には関係なく、自分の体が変化するのである。全くの無断であり、無理強ひである。しかも拒むことができない。ひどく惨酷なことのやうに思はれる。更にこれからもどのやうな変化が起るか、判つたものではない。自分の体が無気味である。
自分の体の変化につけても、私はいよいよ男らしくありたいと願ふ。この四月、私は庭球部から野球部に転じた。野球の方がより男性的であると思つたからである。が、直ぐ投手である五年生の「少年」にされる。
次兄はその性質は温和であつたが、体格はひどく肥満してゐる。ボートの選手で、四番を漕ぎ、柔道は初段である。そんな関係もあつて、柔道の時間には、上級生の選手達によく引張り出される。私は勇敢に立ち向かふが、直ぐ寝業に押へこまれる。私の皮膚は他人の皮膚にぢかに接触されるのをあまり好まない。その上、上級生のこはい髭が、私の頰を刺して痛い。私は相手の体を叩いて、直ぐ「まゐつた」をする。
「新村、もつと頑張(ぐわんば)つて」と、私は柔道の教師に叱られる。
私が「よくない行為」を覚えたのも、その頃のことである。私の場合、誰かに教はつた覚えはない。しかし最初は意識して行つたわけでもない。気がついた時には、私は既に自暴自棄のやうな昂奮に襲はれてゐた。どうしてそんな成行になつたか、全く判らない。しかしひどく恥づべき行為であることは判る。何かの罪を犯したやうでもある。得体のしれぬ恐怖を感じる。
しかし次回からは、私は意識して行つたと言はなければならない。勿論、初のうちは強く自戒してゐる。例へば、ファーストバッターとなつて、バッターボックスに立つてゐるやうな、極めて勇しい自分の姿を頭に描いてみたりする。無念無想、といふやうあことも考へてみる。しかしこの時ほど、自分といふものが完全に二つに分裂してゐることを自覚させる場合は少い。さうして一方の時分が次第にもう一方の自分に征服されて行くのを意識する。それでも強い罪悪感を伴つた羞恥が、一方の私に懸命の抵抗を試みさせる。しかし一定の限界を越えると、機械なことに、羞恥までが私を裏切つてしまふやうである。つまり何ものかが私の手で私の羞恥を裸にすることを命じる。私の羞恥は狼狽(ろうばい)する。が、命令者は極めて執拗(しつえう)である。私は被虐的な快感を伴つて、遂にその命令に服するより他はない。


三年生になつた。その三月、次兄は卒業した。野球部の投手も卒業した。私はやつと独立(ひとりだ)ちした感じで、大いに男性的行動を取らうとする。が、私はいつの間にか四年生の柔道部の選手の「少年」にされてしまふ。彼は六尺近い肥大漢である。私の次兄の後継者といふよりは、より有望視されてゐる生徒である。私の適(かな)ふものではない。
生徒ばかりではない。更に若い教師達からも妙な目で見られたり、変なことを言はれたりする。生徒達は囃(はや)し立てる。すると私の顔は、私の意志に反し、直ぐ真赤になる。表情だけではない。私の物腰にも受身の形が現れるらしい。私はそんな自分を嫌悪する。しかしどうなるものでもない。
次兄がゐなくなつたので、私は脇村先生と床を並べて寝る。ある日曜日の朝のことである。私が起きようとすると、先生の手が伸び、私を先生の蒲団の中に引き入れようとする。私は少しく驚く。しかし私は先生を誰よりも尊敬してゐる。幼い時、先生の膝の上に腰をかけて、父に叱られた記憶もある。肉親的な近親感も持つてゐる。私は先生の手を拒むことはできない。私は先生の蒲団の中に入れられる。先生は私を強く抱き締める。日頃は、先生は絶対といつてもよいほど、感情を表さない。私は先生の腕の中で、自分はこんなに愛されてゐたのかと、そんな自分を幸福に思つた。
以来、日曜日の朝の一刻を、私は先生のごつい木綿の蒲団の中で過ごすやうになる。先生の腕の中で、私は極めて快活に甘つたれることも覚える。しかし、もとよりそれだけのことに過ぎなかつたことは言ふまでもない。
四年生になつた。あの柔道部の選手が原級に止つたので、私と同級になる。つまり私は中学校を卒業するまで「少年」であることを免れないことになる。がつかりする。
その五月、次兄が亡くなつた。粟粒(ぞくりふ)性結核であつた。次兄は極めて頑健で、今まで病気らしい病気をしたことがない。私は愕然(がくぜん)とした。さうして悲歎した。しかし弱年の故であらう。私は死そのものについては深く考へることはなかつた。
本家の伯父には子供がなく、私の長兄が本家を継ぐことになつてゐる。従つて次兄の死によつて、私が私の家の後嗣(あとつぎ)になる。しかしそれについても、私は何も考へない。やはり年齢の故であらう。
五年生になつた。弟が膳所中学に入学した。脇村先生の許で共に起居することになる。弟は祖母育ちで、私に随分世話を焼かせる。
私は野球部の委員になる。来年からA新聞の全国的な大会に出場できることになり、チームは下級生中心に編成する。従つて他校へ遠征する場合、私がチームを引率する恰好になる。しかし相手校の運動場に入ると、綿句碑は私に注がれてゐる、特殊な視線を敏感に感じとる。
「ええ子やないか」
「どうや、一晩、抱いて寝たろか」
そんなことを言はれたりする。忽(たちま)ち私は面目を失くしてしまふ。
私はまた弁論部にも加はり、正義派的な言動をするやうになる。下級生のために、教師に喰つてかかつたことも度度ある。休暇中女中を庇(かば)つて、母と衝突したことも数へきれない。しかし修学旅行で旅館に泊ると、女中達が交る交る私の部屋を覗きに来たりして、私の男らしい矜持(きようぢ)は一ぺんに吹き飛んでしまふ。
いつかわ、私の腋窩(えきくわ)にも毛が生え、胯間には、臍下から会陰部へかけ、陰毛が生え揃つた。亀頭は包皮で包まれてゐるが、陰茎も、睾丸も大きくなつた。かなり醜悪である。勿論、性欲を催すと、私の意志とは全く関係なく、私の陰茎はその現象を呈する。私は恥しく、情なく、苦苦しいが、どうなるものでもない。つまり好むと好まないとにかかはらず、否応なく、私は一人前の男になつてしまつたのである。
小学校の頃はその覚えはないが、中学生になつてから、私はよく脳貧血を起した。頭がふらつく程度で、やがて治る場合もある。が、突然、その場に倒れ、教師達を驚かすこともある。そんな時は、一時は意識もなくなり、顔面は蒼白で、唇の色も失はれてしまふ。
また始終頭痛がした。殊に午後になると、顳顬(こめかみ)に動悸(どうき)を打つて痛んで来る。或は「よくない行為」のせゐではないか、とも疑う。私は更に不愉快になる。とにかく、その頃の私は感情が変り易い。事実以上に憂欝を装ひたくなるかと思ふと、急にひどく快活に振舞つてみたりした。
勿論、学校では性は厳しく禁忌されてゐる。恋愛も禁じられてゐる。異性との交際も不可能である。しかし上級の生徒達は、彼等が好むと好まないとにかかはらず、既に一人前の男であることは、私に限つたことではあるまい。しかし彼等(勿論、私を含めて)の性はどこにもはけ口がない。言つてみれば、性の中に密閉されてゐる。俘囚(ふしう)のやうなものである。従つて彼等はどんな些細(ささい)なはけ口でも、見逃すやうなことはない。例へば漢文の教科書に「蛟竜得雲雨、云云」とある。するとそれだけで彼等の間にはただならぬ同様が伝はる。「蛟竜」の解釈が問題なのである。さう言へば、「少年」といふのも、彼等にとつては、禁じられた恋愛感情の、儚(はかな)い発散なのであらう。
しかし彼等は極めて健康ではあるが、まだ分別の定らぬ年齢である。ラブレターを送つて、停学になつた友人も幾人かゐる。欝屈した性欲に操られたかのやうに、寄宿舎を抜け出し、娼家に上つて、退校処分に附された同級生も一人ゐる。また一人の親しい友人が私に言ふ。
「君のやうな人に、こんなこと言うて、悪いけんど、僕は、あの人の胸の中に手を入れたんや。柔かいお乳の下で、あの人の心臓が鳴つてるやないか。うちらもう富もいらん、名誉もいらん、と思うたんや。阿呆な奴やと、笑うてくれやはるか知らんけんどね」
二人は大津の県庁裏の堤に腰を下してゐた。月見草が咲いてゐる。空には、星が光つてゐる。私も恋愛に対しては感傷的な憧憬を抱いてゐる。彼を笑ふことはできない。が、私には、若い女の胸に手を入れるほどの勇気はありさうもない。
しかし私の男性の肉体と女性的な感情とは互に倒錯し、欝屈して、かなり異常な性欲癖を作つたやうである。強い羞恥を感じる時、ひどく無念な時、私の性欲は昂進する。ある時、暴力が弱者を凌辱(りようじよく)する記事を読んでゐて、突然、私は下着を汚した。
翌年、膳所中学を卒業し、京都の第三高等学校を受験する。身体検査の時、私は初めて性器の検査を受ける。私はカーテンの中に入り、医者の前に立つと、予(あらかじ)め命じられた通り、ズボンを下げ、性器を出す。腹の皮まで赤くなる思ひがする。
医者は私の陰茎をつまみ、包皮をむく。強い痛みを覚える。が、慰藉は直ぐ包皮を返し私の顔を見て言ふ。
「マスはやるな」
私は蒼白な感情になる。しかし私は弁解のしやうがない。またその暇もない。私は急いでズボンを引き上げる。さうして私はひどく屈辱的な気持を抱いて、カーテンの外に出るより他はなかつた。
前日の数日の試験の時である。どうしても解けない問題がある。時間は次第に迫つて来る。他に自身がないのが二題もある。私はますます焦つて来る。頭はかつと上(のぼ)せてしまひ、思考力をどうしても集中することができない。遂に鐘が鳴り出した。突然、私の性欲が昂奮し、一瞬のうちに下着を汚してしまつたのである。
三高の試験に失敗する。以来、一年間、私は憂欝な日日を送つた。


翌年、私は第三高等学校に入学した。初め私は脇村先生の許(もと)から通学する。先生の許には、弟が引続き厄介になつてゐる。昨年、先生は結婚された。が、私は依然として先生に心服してゐる。むしろ先生の新家庭を祝福してゐる。弟と違つて、私は新夫人にも好感を持たれてゐる。が、私は電車といふ乗物をあまり好まない。殊に京津電車の揺れ方はひどい。また内心にはやはり独立してみたい好奇心もなくはない。
ある日、友人と素人(しろうと)下宿の部屋を見に行く。中年婦人が狭い三和土(たたき)の小路を通つて案内してくれる。部屋は都合よく離れ風に独立してゐる。が、ふと見ると、狭い庭に腰巻が干してある。赤や、鴇色(ときいろ)、模様のあるものや、色とりどりの腰巻が確か五六枚は干してある。娘が多いのかも知れぬ。が、私は少なからず辟易(へきえき)する。
「さあさあ、お茶いれまつさかい、一服しとくれやす」
私が田舎風に菓子箱など持参したためか、至つて愛想がよい。
「新村はんて、江州の新村はんどすか」
「さうですが」
「ほんなとこのおぼんはんに下宿してもらうて、ほんまに光栄や思うひまつせ」
私はすつかり当惑顔で外に出る。
「新村、惚れられるぞ」と、いきなりその友人が言ふ。
「娘がゐるらしいね」
「うん、娘だけぢやない。あのおかみだつて、嫌な感じだつたぢやないか」
私は気味が悪くなる。さう言へば、狭い露地に干してあつた腰巻の色にも、私は何か不吉なものを感じた。女に対して、そんな感情を抱いた最初の経験である。勿論、私はその素人下宿は破談にした。さうして今まで気の進まなかつた、父の店の旧番頭の貸家を借りることに決める。
その私の仮寓は三条大宮を東へ入つたところにある。京の三条通も堀川を西へ渡ると、あのしつとり落着いた気品は失はれる。小さい小売屋が軒を並べ、客を呼ぶ声もかまびすしく、かなり猥雑(わいざつ)な街になる。
通りに面した商店と商店と間には、極めて狭い露地が幾筋も通じてゐ、それを通り抜けると、決つて二軒、三軒と仕舞屋(しもたや)が建つてゐる。私もそんな一軒を借りてゐたが、階下は昼も薄暗いので、二階を書斎に当ててゐた。
その二階の窓の下にも狭い露地が通つてゐ、その奥の家に若い、琵琶(びあ)の女師匠がその妹と住んでゐた。夜になると、近所の若者達が習ひに来て、賑やかな話声が止むと、琵琶の音が聞えて来る。時には、女師匠が練習してゐるのか、昼間も琵琶の低い音が鳴つてゐることもあつた。
当時の京の町家の小便所は、朝顔がなく、壺がむき出しになつてゐて、僅かに板で仕切られてゐるに過ぎないものが多かつた。その上、京の女は後向きになつて、立つたまま用を足すので、その音はひどく庶民的な音を立てる。
私の書斎の窓下からもその音は聞えて来る。隣家には一人娘のゐる初老の夫婦が住んでゐるので、露地の奥からも聞えて来る。京都に住んで、ひどく不粋な話である。が、いつの時代にも、権力者の華やかな文化の底で、京都の庶民はこのやうにして生き堪へて来たのではないか。彼等は消極的に見えるが、その生活力はかなり執拗(しつえう)である。
しかし私の下宿からは神泉苑も近かつた。神泉苑は当時既に池には水もなく、埃つぽい小庭園に過ぎなかつたが、私の好む休みの場所となつた。二条城も私の散歩の範囲にあつたし、二条駅も私の好きな場所であつた。散歩の途次、私は二条駅の木柵に凭(よ)り、単線のレールが鈍く光つてゐるのを眺めながら、花園、嵯峨(さが)、保津峡、更に胡麻、和知、安栖里(あせり)、山家などと、頻(しき)りに旅が思はれたりした。またある日、春風の中に笛や、鉦(かね)の音が聞えてゐるのに誘はれ、その音を頼りに行つてみると、壬生(みぶ)狂言が行はれてゐたりもした。
三高在校生の膳中会に出席する。初めて芸者のゐる席に連つたわけである。美しいとは思ふが、精神的には何の感銘も受けない。酒は飲まないつもりでゐた。が、尊敬する先輩に盃(さかづき)を進められ、生れて初めて酒を口にする。最初、酒が私の舌端に触れた時は、少し異様なものを感じたが、喉を過ぎる頃には、私の舌に魅惑的な後味を残した。私は次ぎ次ぎに盃を受ける。軽い酔ひを発する。ひどく快い。
ある日のことである。私は私の下宿へ二人の友人を伴つて来た。その一人が座に着くなり、壁の横木の釘に帽子を投げる。が、帽子は的を外れ、窓の下に落ちる。私達は顔を並べて窓の外に出す。が、次ぎの瞬間、あわてて顔を引込める。既に薄暗くなつた路地の隅で、琵琶の師匠が行水を使つてゐたのである。
「お帽子、ぢきに久子に持たしてやりますえ」
窓の下から女師匠の声が聞えて来る。甘つたるい声である。
「醜態」
若い私達はいつもそんな風にして、互に運動神経を競ひ合つてゐたのである。決して他意はない。しかしどんな弁解も役立たない。私達は自尊心を傷つけられ、苦苦しい沈黙を続けてゐるより他はなかつた。
「久子はん、お湯わいたか」
それ以来、夏の日が西の空に傾く頃になると、決つて女師匠の声が聞えて来る。続いて、盥(たらひ)を据ゑる音、湯を注ぐ音。やがて手拭を使ふ湯の音まで聞える。
「久子はん、すまんけんど、さし湯持つて来てんか」
例のひどく甘たるい声である。
「ああ、ええ気持やわ」
独言(ひとりごと)としては少し大き過ぎる。それにひどく浮き浮きともしてゐる。確かにその声は何者かの耳を意識してゐるとも取れなくない。すると更にその声は人の目を厭ふといふより、頻(しき)りに誘つてゐるやうに思はれて来る。が、私にはそんな女の気持はまだ全然理解できない。
しかし私の目前に開かれてゐる窓の空間が、ひどく気になつてゐるのは事実である。私は机の前に坐つてゐる。が、私はどうしても心が落ちつかない。先刻から、盥の中に中腰になつて、窓を見上げてゐた女の体を、私は繰り返し思ひ出してゐる。自尊心などといふものが全く当てにならないことお、私は知つた。


いつからともなく、私は私の日日に満ち足りないものを感じ初めてゐた。友人達と寮歌を歌ひ、乱舞してゐても、以前のやうな感激は湧(わ)かない。むしろそんな時、私は激しい「虚」を感じる。寂寥感(せきれうかん)といつてもよい。最早、自分の感情を誇張することができなくなつた自分に気づいた隙に乗じ、その感情は突如として突き上げて来る。例へば、こんな大勢の友人に取囲まれてゐながら、私には一人んも友人もない、といつた感じである。或は単に恋愛がない淋しさかも知れない。しかし私はさうは思つてゐない。むしろ人を愛するほどには、私自身が充実してゐない淋しさである。つまり「虚」は私の外にあるのではなく、私の中にあるやうである。
一見、私は善良で、幸福さうに見える。しかし善良とは何か。真の幸福とは何か。少くとも私のそれは、いづれも私の外側にしかない。かなり美しく見えるかも知れないが、所詮(しよせん)、修飾品に過ぎない。しかも、それは修身的、習俗的で、更にそれが形式化し、惰性化した模造品で、私自身のものは一つもない。私の中身はからつぽである。私自身が自分の飾りものに騙(だま)されてゐたのである。まづ私の贗(にせ)の飾りものを打ち毀(こわ)さなければならない。
ある夜、私は殊更に近所の、あまり上品さうでないカッフェに入る。第一に三高の生徒を避けるためである。更に学生風な雰囲気に捲き入れられてはならないからである。私は不断着を着流したままである。
「おいでやす」
女給が迎へる。私は酒を註文する。女給は私と同年配である。丸ぽちやの顔に濃く白粉(おしろひ)を塗り、唇がまつ赤である。さう言へば、このカッフェ全体が、色彩の強い泥絵の感じである。
「君も、一つ」
「おほきに」
私は女給に台つきカップを差し、それに酒を注ぐ。しかしそれだけが、私には精一杯である。後が続かない。女給の返したカップを、私は私の口に運ぶだけである。
先客が一人ゐる。ジャケツにズボン、板草履(いたぞうり)をはいてゐる。三十くらゐの女給が相手をしてゐる。男はかなり険相は容貌をしてゐる。しかし存外静かに酒を飲んでゐる。
「お客はんどこどすの」
「近くだ」
この女給は決して利口さうではない。上品などといふものとは、更に縁遠い。しかし幸にもそれほど饒舌(ぜうぜつ)ではないらしい。
中年の商人風の男が入つて来る。私の隣の席に坐るなり、相手の女給を笑はしてゐる。よほど猥褻(わいせつ)なことを言つてゐるらしい。「知らん、ほんまにいけずやわ」とか、「よう言はんわ。いやらしやの」とか言つては、相手の女給は声を上げて笑つてゐる。
しかし私は殆ど気にならない。むしろこんなカッフェの片隅で、自分を失ひながら、泥酔の底に沈んで行けるなら、どんなに気楽だらう、と思つたりする。が、意識は却(かへ)つて妙に冴(さ)え、少しも酔ひを発しない。やはりこの場違ひの雰囲気に、小心な私はより厳重に自分を自分の中に密閉してしまつたからであらう。すると、今夜の行動も却つて馬鹿らしく思はれて来る。裘に激しい「虚」を感じる。
不意に、ジャケツの男が声を発した。見ると、男はカップに口を銜(くは)へ、歯をむいて、嚙み砕いた。私は恐しくなり、急いで席を立つた。
ある日、二人の生徒が「三高劇研究会」のビラを貼つてゐる。その一人は色の浅黒い、いかつい顔をしてゐて、見るからに不興気な表情である。こんな下らない仕事から一刻も早く離れたい、といふような態度である。実に厭さうである。
私は劇研究会にも、ビラを貼つてゐた生徒にも妙に興味を覚え、当日、会の催される、円山公園の「あけぼの」に行つてみる。その席に今一人、より魁偉(くわいゐ)な、極めて彫りの深い容貌の生徒がゐる。脚本が朗読されてゐる間、彼は厳然と腕を組み、その態度を崩さない。やはり興味を覚える。前者が中谷孝雄であり、後者が梶井基次郎である。
研究会では、著名の戯曲を選び、それぞれの役割を決め、台詞(せりふ)風に朗読するのである。中には台詞廻しの上手(じやうず)な生徒もゐる。有名な役者の声色(こわいろ)を巧みに使ひ分ける生徒もゐて、私は驚かされる。しかし中谷も、梶井も台詞廻しはあまり得意ではなかつたし、また重視してもゐないやうでもあつた。中谷は梶井のやうに熱の入ちつた態度は示さないが、並並ならぬ関心を抱いてゐることは判る。彼等にこれほどまでに興味を持たせるものは何か。私は次第に劇研究会のグループに近づいて行つた。
「あけぼの」の例会には、私は毎回出席した。トルストイの「闇の力」、チエホフの「熊」、「桜の園」、シングの「鋳掛屋(いかけや)の婚礼」、シュニツラーの「臨終の仮面」、それに武者小路氏の作品等を朗読したことを覚えてゐる。
倉田百三の「出家とその弟子」を朗読することになる。私は私の書斎で下読みをした。
私は感動した。読みながら、私は何回となく落涙した。涙は全く突然に溢(あふ)れ出た。悲しかつたからではない。悔しかつたからでもない。私はただ感動しただけである。俗に「涙を催す」といふ言葉がある。いかにもそのやうな涙の溢れ方である。
この「出家とその弟子」に対しては、中谷も、梶井も文学的にそれほど高い評価を与へてゐないやうである。しかしそんなことは問題でない。私にとつては、最早、文学に限られたことではなかつたからである。
私を泣かせたものは何か。私にこんな清らかなバイブレーションを起させたものは何か。この極めて不思議なものについて考へないわけにはいかない。勿論(もちろん)、この年齢の私には、仏や、神の存在を信じることは無理であらう。しかし私に生に対する希望を抱かせたものは何か。さうしてこのやうな喜びにも似た感情を私に与へてくれたものは何か。
「出家とその弟子」が私を「歎異鈔」に導いたのは、極めて当然のことであらう。ある夜、あのひどく庶民的な小便壺の音の聞えて来る書斎で、私は胸をときめかしつつ、「歎異鈔」を開いた。
果して、私には総(す)べて驚異である。親鸞(しんらん)は「法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」とも言つてゐる。また親鸞は「父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まふしたること、いまださふらはず」とも言つてゐる。宗教家に対する私の既成概念とは、凡(およ)そ甚(はなはだ)しい違ひである。私は脳細胞を逆撫(さかな)でされるやうな違和を感じながらも、大きい力に引き寄せられて行く自分を感じる。
しかし「悪人成仏」とか、「絶対他力」などといふ親鸞の思想は、私の常識的倫理観では、なかなか納得できない。
「出家とその弟子」の親鸞は、偽善を殺人よりも罪深いものと言つてゐる。さうして赤裸裸な人間の姿をそのまま赦(ゆる)されてゐるとも言つてゐる。親鸞の思想は強い否定の上に立つた、より強い肯定であらう。さうして親鸞の徹底的な人間肯定に対して、私は涙を流して喜んだはずである。が、私の正義派的なもの、清教派的なものが、未練がましく抵抗を試みて止まないのである。卑近な例で言へば、自分が自瀆を行ひながら、童貞を誇つてゐるやうなものである。が、弱年の私には気がつかない。
三年生になつた。文芸部の委員になる。私の軽薄な性質に因(よ)るが、中谷孝雄の好意的な策謀と、煽動(せんどう)に因るところもあつた。が、梶井と中谷の作品を得て、三高の文芸部の雑誌「獄水」誌に掲載することができた。
徴兵検査の予備検査を受けるために、私は和服に袴(はかま)を着け、別に医者の当てもなく、下宿を出る。京都の町医院には、門構もなく、仕舞屋(しもたや)風なのが多い。街路に直接面してゐる扉の梨地(なしぢ)ガラスの上に書かれてゐる医院名と、電燈の赤い笠とが僅かに医院であることを示してゐる。私は行きずりに、姉小路のそんな医院の扉を押した。
「御診察どすか」
看護婦が出て来て言つた。
「徴兵検査の予備検査を受けたいのです」
「ほんならお上りやす」
待合室に他の患者はなく、直ぐ診察室に通される。机に向かつてゐた中年の医者が、私の方へ振り返る。生白い顔である。が、いかにも生気の抜けたやうな表情である。見ると、診察台の上には、男枕の横に女の箱枕も置いてある。京都の、猥雑な場末町に住みついた町医者の感じでもある。
看護婦が乱れ籠を私の前に置く。私は袴を取り、帯を解き、その中に入れる。
「シャツも脱いで」
私はシャツを頭にかぶつて脱ぐ。しかしズボン下だけの恰好はあまり見よいものではない。私は素肌(すはだ)に着物をかける。
「ここへかけやはつて」
私は医者の斜め後の丸椅子に掛ける。
「あんたはんて、恥しがりやな。学生はんのくせに」
看護婦は私の耳許にささやきながら、私の肩から着物を脱がせる。看護婦が小うるさく、少し不愉快になる。
医者は尻を据ゑたまま、廻転椅子を廻して、私の前に向き、私の胸に聴診器をあてる。私は努めて毅然(きぜん)とした態度をとらうとする。しかし私の皮膚は外気に極めて敏感である。夏の暑い日、私は自分の部屋にゐても、肌を出すことを好まない。女性的な、青白い皮膚を恥ぢるからでもある。背後に看護婦の視線を感じる。
「後を向いて」
私は着物を押へ、医者の方へ背を向ける。看護婦と視線が合ふ。熱つぽく濡れてゐるやうな黒目である。清潔な視線とは言ひ難い。しかし私は殊更その視線を避けようとはしない。漸く看護婦の方が視線を外す。
看護婦はかなり美人である。瓜実顔(うりざねがほ)式の容貌は、何故か看護婦の制服と似合はない。その不調和感が却(かへ)つて妙に好色的な気持を懐かせる。
医者に命ぜられ、私は診察台の上に仰臥(ぎやうぐわ)する。その目に看護婦の白衣の肩が映り、看護婦が私の着物を開き、猿股の紐(ひも)を解くらしい。私は今までに性器の検査を受けた経験はある。しかし仰臥しては初めてである。看護婦と言つても、私にとつて若い異性であることには変りはない。私は少なからず動揺する。
仕方がなく、私が腰を浮かすと、看護婦がズボン下とともに股の下に押し下げる。代つて、医者が私の腹部を触診し、例の通り包皮を剥く。やはりかなりの痛みを覚える。
「ひどい包茎だね」
私はズボン下を引き上げ、診察台の上に起き上つて、聞き返す。
「ええ?」
「つまり皮かむりやね。ちよいとした手術ですむが、まあ、嫁はんでももろたら直るやろ」
看護婦が笑ひを殺して、顔を背(そむ)ける。医者や看護婦の態度を、私は非礼だと思ふ。しかし私は彼等の前に自分の性器を曝(さら)したばかりでない。自分の性器の異常まで知られてしまつたのである。むしろ私は強い屈辱感を抱いて、この医院を去るより他はなかつた。
私は十二月生れであるから、数へ年二十二で徴兵検査を受ける。前に小布を当てただけの、全裸に近い恰好で全身を検査される。性器の検査の次ぎは、肛門の検査である。床板の上に、手足を置く位置が示すされてゐる。それに従つて、甚しく屈辱的な姿勢を取らなければならない。しかし相手は国家権力である。拒むことはできない。私は思ひ切り脚を開いて、四つ這(は)ひになる。
「もつとけつを上げる」
途端に、私の性欲は昂奮する。私は狼狽(ろうばい)する。が、自分の力でどうすることもできない。しかし私の胯間には睾丸が垂れてゐるので、辛うじて検査官に見つかることはなかつた。
後日、私はあの無残な自分の姿を思ひ出すだけで、私の性欲は昂奮することを知つた。私の性欲が少しく変つてゐるのではないかと私は疑ひ始める。
二年前から、母は祖母の方の親戚の娘を預つてゐる。美保子といひ、私より四つ年下である。ひどく内気な娘で、無口で、殆ど感情を外に表さない。しかし私が休暇で帰省する度に、背丈も伸び、姿態にも女らしさが加はり、初心に、直ぐ顔を染めるやうにもなつた。
美保子は新村淑子も行つてゐる、村の裁縫の師匠の許へ通つてゐる。しかし朝夕は女中とともに忙しく立ち働く。
私はそんな美保子に好意を感じないわけではない。或は既に愛情といつてもよいかも知れぬ。しかしそれに類する如何(いか)なる感情も、二人の間には禁忌されねばならないことを、私は知らされてゐた。
私達の一族には忌むべき遺伝がある。劣性遺伝であるから、血族結婚は避けなければならないのである。が、ともすると私の目は美保子の体を追ひたがる。私の目は既に美保子が縁側に上る時、その脹脛(ふくらはぎ)に白い力瘤(ちからこぶ)が入るのを知つてゐる。また美保子は風呂場に入る時、必ずガラス窓を締める。が、私の目は既に消しガラスに映る。美保子の肩の丸さを覚えてゐる。
ある日、私が門を出て、石橋の上に立つた時、向かうから連れ立つて帰つて来る淑子と、美保子の姿を認める。淑子の大柄な肢体に、私はあの楽書を思ひ出し、思はず顔が真赤になる。淑子の顔も、美保子の顔も同じく赤くなつたかも知れぬ。私は色欲の厭らしさを痛感する。
八月、私は旅行に出た。「藤村詩集」などの影響から、私は長野県の風物に憧憬を抱いてゐた。長野県の伊那にゐる、三高の友人を訪ねる。友人の母は早速茄子(なす)を刻んで、茶を進めてくれる。そんな鄙(ひな)びた振舞ひがすつかり私が愉(たの)しくさせた。
友人は私を更に高原の別宅に伴ひ、そこで起居することになる。朝露、散歩、夕立、涼風、夕映。私は心身ともに爽快な数日を過すことができた。
友人と別れ、茅野(ちの)に出、蓼科(たてしな)行きの馬車に乗る。今度の旅行には全く計画はなかつた。地図も持つてゐない。しかしそれが今度の旅行の目的であるかのやうに、私は放心状態のまま、馬車の固い腰掛けにかけてゐる。馬車には窓もなく、外の風景を楽しむこともできない。馬の蹄(ひづめ)の音と、轍(わだち)の響きとが単調に繰り返されてゐる。
馬車が停つた。客が馬車から下りる。馭者(ぎよしや)が下りるらしい。私も下りる。しかし終点に着いたのではない様子である。林の中に茶店がある。皆はその中へ入つて行く。私も大きく腰を伸してから、茶店の椅子に腰を下す。馭者も昼の弁当を使ふらしい。私も友人の家で作つてもらつた、握り飯の竹の皮を開いた。
高原の日光は意外に強烈である。しかし木陰には湿度の少い涼風が吹いてゐる。暫くその中にゐると、再び陽に当りたくなるほど涼しい。馭者達はなかなか腰を上げさうにない。私はあたりを歩いてみる。草叢(くさむら)には秋草の花が咲き乱れてゐる。
漸く馬車は走り出した。再び極めて退屈な時間が続く。前方に開いてゐる長方形の空間の空間には、馭者の背中がある。その上に、真白い積乱雲が紺碧(こんぺき)の空に踊(をど)り上つてゐるのが見える。時には真正面に見える。時には半分以上も欠けてしまふこともある。また時には緑の疎林越しに見えることもある。
いつか積乱雲も見えなくなる。しかし馬車は一向に終着駅に着く様子もない。尻も痛くなる。私は別に宿泊を決めてゐるわけではない。電車が滝湯といふ停留所で停つた時、私は何となく馬車を降りた。
私は宿を取つた。仮にも上等の旅館とは言ひ難い。しあkし今度の旅行にはその方がふさはしいとも思ふ。部屋に通される。二人の相部屋であつた。
浴場へ行く。思ひがけず混浴である。私が色情を懐(いだ)かないでは女を見ることができなくなつて以来、初めて女性の全裸を見るわけである。勿論、私は虚心で見ることはできない。単なる好奇心でもない。やはり色情といふべきだらう。しかし性欲的刺戟を受けるほどのことではない。
若い娘達も滝湯に打たれてゐる。腰には手拭をまとつてゐるが、その肢体には、肩のあたりといはず、腰のあたりといはず、柔かい曲線を描いてゐる。殊に二つの乳房は形よく均斉美保つて隆起してゐる。美しい、と思ふ。白膩(はくじ)を盛る――そんな言葉も浮かぶ。初心な私には、世にも貴重なものに思はれ、色情的な視線は向け難い。
しかし娘達の乳嘴(にゆうし)の色はいかにも可憐である。豊麗なボリュームに、まるで睛(せい)を点じてゐるやうで、流石(さすが)に好色の想ひをそそる。が、私のそんな淫(みだ)らな視覚にも、不思議に悔いを残さない。むしろ私はほのぼのとした幸福感に浸つてゐるやうであつた。
翌日、私は蓼科山に上り、夜行で上京した。数日滞在して、帰省した。
九月、関東大震災が起り、再び上京した。父の日本橋の店と、深川の工場は全焼したが、一人の負傷者もなく、高田町の工場は残つた。
叔父一家を滝野川の避難先に見舞ひ、叔父の家の女中、八重と再会する。再会といふのは、私が中学生の頃、従兄弟(いとこ)達の伴をして来た八重と、郷里の家で一夏を過したことがあつたからである。八重の故郷は愛知川(えちがわ)の上流の君ケ畑で、紺縋(こんすがり)姿は私の頭に初初(うひうひ)しい印象を刻んでゐる。が、再び見る八重は見違へるばかりの美貌で、その肢体はむしろ豊満であつた。
その頃、私は梶井や中谷と常に行動を共にするやうになつてゐた。梶井は大酒家であり、愛酒家でもある。小料理屋で飲む酒の味も、私は梶井から教へられる。中谷は全く酒を嗜(たしな)まない。が、私達の酒がどんなに長引いでも、中谷がゐなくなるやうなことはない。電車のなくなつた、京都の深夜の街を、私は中谷と歩いて帰つたことも幾度かある。
中谷も、梶井も私より二年前に三高に入学してゐる。しかし二人とも二度原級に停められてゐる。いづれも出席日数の不足に因る。殊に中谷は既に愛人(現夫人)もあり、同棲してゐたこともある。が、今は彼女とも別れてゐる。そんな人の心と心との葛藤(かつとう)もあらう。自分自身の心の悔恨もあらう。中谷はいつも不機嫌であつたし、その表情には暗欝な翳(かげ)が消えることがなかつた。
しかし中谷の不機嫌と、憂欝とは、最早、彼の皮膚に染(し)みついたものかも知れない。中谷にとつては、むしろこの時代は小康を保つてゐた時期と言へる。彼は親戚の家に下宿し、学校へも比較的よく出席してゐる。性欲に対しても、一応、苦悩期を脱皮し得たのであらう。時には遊郭へ行くこともあるらしいが、最早、感情を乱すやうなことはない。童貞の私達とは段が違ふ。性の醜悪さを知りつくしてゐる。私達が、盲が蛇に怖ぢない風の、露骨な――本当は至つて無邪気なものであるが――猥談に打ち興じてゐると、中谷は言ふ。
「童貞みたいな穢(きたな)いもん、早う捨ててしまへよ」
梶井は、中谷に反し、友人達にも愛想がよく、快活な面もあつて、よくユーモラスな冗談(じようだん)も口にする。また酔へば威勢のよい狂態を演じた。
しかし梶井の笑顔と、快活とは、友人に対するサービス精神からのものでもあらうが、自分の精神は少しでも明るく保たうとする、自己欺瞞ではなかつたか。梶井にとつては、この時代は決して平安な時期とは言へない。欠席日数も少くない。乱費による借金もあらう。彼の苦悩はそんな日常生活の乱れにも因るだらう。しかしその根源は彼の精神のもつと深奥部から発してゐるに相違ない。が、彼は「神」を呼ばうとして、いつも「悪魔」を呼んでしまふ。ある夜泥酔した彼は、「おれに童貞を捨てさせろ」と、中谷にだだをこねて、聞かない。遂に中谷はむか腹を立て、彼を遊郭に伴つたといふ。
「梶井の奴、おれを恨んでやがるんや。ほんなこと知らんが」と中谷は言ふ。中谷のいふ通りである。が、梶井の暗澹たる気持は理解できなくない。相変らず、露骨な猥談に耽つてゐる私達に、あの彫りの深い顔をしかめて、梶井は言ふ。
「知らん奴にはかなはん。実感がないもんやで、平気で言ひよる」
梶井と中谷との友情を、私は少しも疑ふものではない。二人の友情はむしろ濃度のかなり濃いものであつたらう。それだけに、私には却つて複雑怪奇にも見えた。が、そのやうなことは、第三者が語るべきことではないやうである。
高等学校へ入り、私は一応性の緊縛から解放されたわけである。勿論、売淫制度のあることは知つてゐる。しかし私はそんなものを利用しよう、或は利用したい、と思つたことは一度もない。性病を恐れたからでもない。童貞を惜しんだからでもない。私はそんな制度が存在してゐることを意識したことがなかつたからである。
すると、潜在的には、私は常に女の体を求めてゐることになる。更に要約すれば、私の性欲は女の性器をより強く求めてゐることにもなる。女の性器ならば、娼婦達も逞(たくま)しいものを持つてゐるだらう。私がその存在を意識さへしなかつたのは何故か。
この矛盾は、私といふ全体と、私の性欲といふ一部とを、別別に切りはなして考へたところから生じたものであらう。彼女等のそれは、その制度の中にある時は、女の性器といふよりは、商売道具であるのかも知れない。そんなものに睨(にら)まれたら、私のやうな者の性欲は縮み上つてしまふより他はなからう。つまり男の性欲を持つてゐる私は、性器を持つてゐる女といふものの神秘を、ひたすら求めてゐたといふのが、比較的正確な事実ではないか。
未経験者である私が、梶井の気持が理解できると、生意気なことを言つたが、以上のことを考へた上のことであることを、附記しておきたい。逆に言へば、梶井の苦悩の暗さ、深さが、以上のことを私に考へさせたのではあるが。
祗園(ぎおん)石段下の「レーヴン」といふカッフェに、梶井や、中谷や、私達が毎晩のやうに集つたのは、もう三高の生活も終りに近い頃である。中谷のその一学年の出席数は悪くなく、卒業は確実である。梶井の卒業はかなり危ぶまれたが、理科である梶井が大学は英文科に転じる決心もつき、教授達の間を運動中である。卒業後、私達は東京の大学へ行き、時期を見て、同人雑誌を出す計画である。その頃の私達の雰囲気はかなり明るかつたと言はなければならない。
梶井も、中谷も、私も卒業した。その夜、私達は例によつて「レーヴン」に集り、京都に残る人達と酒を汲み交はす。私は前後不覚に酔つてしまつたらしい。
翌朝、私が目を覚ますと、汽車は浜松駅に停車するところである。私と、梶井と、中谷とはプラットホームに降りて、水を飲んだ。
梶井は文学部英文学科、中谷は独文学科、私は経済学部経済学科に入学することができる。私達三人は銀座や、神楽坂(かぐらざか)を飲み歩く。酒を飲まぬ中谷は相変らず不興げであるが、梶井は関西弁丸出しで、ユーモラスは諧謔(かいぎやく)を飛ばしたりして、かなり機嫌がよい。私は中谷とともに東京を発ち、それぞれの故郷へ帰つた。
私はまた京都へやつて来た。円山公園を通り抜け、高台寺の方へ一人で歩いて行く。私は先刻から薄い霧のやうに私の頭に纏(まとは)り、離れて行く奇妙な感情について考へながら歩いてゐる。少くとも今までにこの路を歩いてゐた時の感情とは異る。私は目的を持つて歩いてゐるのではない。しかし今までのやうに散歩してゐるのでもない。もう私は京都に住んでゐないのであるから、強ひて言へば、明日までの時間つぶしに、過ぎた日を散歩してゐる、とでも言へるか。
この奇妙な感情は、京極(きやうごく)を歩いてゐても、既に燈火の入つた四条通りを歩いてゐても、少しも変ることはなかつた。しかしいづれもつい先日まで歩いてゐた道である。感傷とも言ひ難いのも当然であらう。むしろ小休止の中にある、至つて気楽な感情のやうでもある。或は若い私は東京の新しい生活に、新しい意欲を燃してゐたのかも知れない。
遅く「レーヴン」に入る。良子もゐる。妙子もゐる。玲子もゐる。菊枝等もゐる。常連客の顔も見える。しかしかうして一人でコップを口に運んでゐると、やはり先日からの奇妙な感情が湧いて来る。まるで先日までの私や、梶井や、友人達の姿を見返してゐるやうな、傍観者の感情である。つまり舞台は廻つてしまつたのである。ひどく懐しいが、最早、私の出るところではない。私は「レーヴン」を出る。
深夜の京の街には、春の細雨が降つてゐる。私は電車の絶えた四条通りを歩いて行く。背後から駆けよつてくる下駄の音が聞える。玲子である。
「どうしたんだ」
「マスターと喧嘩して、飛び出して来ちやつたの」
玲子は東京で育つたと言つてゐる。私が歩き出すと、玲子も黙つて従(つ)いて来る。
「そんなことして、どこか、行くところあるの」
「そんなとこないわ」
十七の娘を細雨の降つてゐる深夜の街に捨て去るわけにはいかない。私は玲子を私の下宿に伴ふより他はなかつた。
床を二つ並べて敷き、私はその一つに寝る。やがて床の中から玲子が言ふ。
「新村さん、私、処女よ」
「それは偉い。大切にするんだよ」
暫くして、また玲子が言ふ。
「ね、ここへ手をあててみてよ。ほら、こんなに動悸がしてるのよ」
少し好奇心は動く。中学生の時の友人の話を思ひ出す。滝湯の娘達の乳房の形も目に浮かぶ。しかしそれだけのことも私にはできない。ましてや十七歳の娘の据膳(すゑぜん)を喰らふやうな欲望は、私には全くない。男の恥かも知れないが、そんな性の機敏には、私は無知に等しい。が、その時、私に一番強く作用したのは、京都の生活はもう終つたのだ、といふ、先刻からの奇妙な感情のやうである。
私は黙つてゐる。また、玲子が言ふ。
「新村さん、もう眠つたの。私、なんだか、頼りないわ」
「ぢや、かうして眠らう」
私は手を伸ばし、玲子の手を取つて、目を閉ぢる。さすがになかなか眠れるものではない。しかし私は性欲的刺戟は少しも感じることはなかつた。
翌朝、玲子に見送られて、私は東京へ発(た)つた。


その五月、六本木のカッフェで、先妻、とく子に出会ふ。一見して、ここに私の妻がゐる、と直感する。誠に笑止な話であるが、私は真剣である――
しかしとく子とのことは、今までにも度度書いた。と言つて、とく子との性生活を除けば、さうでなくとも貧弱な、私の性欲史は殆ど成立しないだらう。出来る限り簡潔に書いてみることにする。
とく子はそのカッフェに勤めてゐる。つまり女給であるから、私達の恋愛は、私の家から許されない。しかし私は私達の恋愛を運命的なものと、青年らしく誇張して考へてゐる。父母の歎きも私の耳に入らない。
しかしこの期間は、至つて未熟なものであつたらうが、私の精神が最も緊張した状態を持続した一時期であつたと言へる。最早、私は色情を懐いて、女を見るやうなことはなかつた。ひたすらに恋愛の鈍化を願つて、色情そのものを忘れてゐた、とも言へなくない。私はとく子に対しても極めて正確にいつて、性的欲望を感じたことはなかつた。
私の感傷に過ぎない、と友人は言ふ。不自然である、とも言ふ。また女性に対して、むしろ惨酷である、とも言ふ。しかしそのやうな女性の機敏を私は知る由もない。私は経済的に独立できない者に結婚する資格はない、と簡単に割切つてゐる。そのままの状態で一年が経つた。
私は自分の優柔不断な態度が嫌になつて来た。文学青年的な志が私に冒険を促す。とく子に対する信頼は変らないが、彼女の身辺にも暴力的危険が感じられる。私は思ひ切つて、とく子と旅行に出た。
私ととく子は磯部温泉に行つた。勿論、新婚旅行の覚悟である。私は私の性欲を抑圧するつもりは少しもない。が、或は未知のものに対する恐怖感はあつたかも知れない。二つの床を並べてゐても、私は一向に性的欲望を感じない。事実、碓氷川(うすひかは)の川瀬の音や、河鹿(かじか)の声や、妙義山の新緑や、その山霧等、私は今もはつきり覚えてゐるが、とく子の肉体のどの部分についても、何の記憶も残してゐない。
私ととく子は上野に着いた。しかし私は別れることはできない。私はとく子をその下宿まで送り、そのまま泊ることになつてしまふ。しかしとく子は薄い一組の蒲団より持つてゐない。一つ床に二人は寝る。
私の膝がとく子の膝に触れる。流石(さすが)に強い性欲的刺戟を受ける。最早、私の思考力は失はれてしまふ。夢中で、とく子の体にしがみつく。
生れて最初の好意は意外に他愛なく終つた。勿論、ひどく恥しい。が、それよりも、とく子に対してひどい無礼を働いた、と思ひ、そんな自分に呆(あき)れる。同時にそんな侮辱に堪へなければならない女というものを、不思議にさへ思ふ。
私は眠れない。とく子も眠つてゐない。私はとく子の手を握つてゐる。さまざまな感情が起伏する。そんな感情の波を押し倒すやうに、今まで経験したことのない、強烈な信愛感が湧いた。
明け方、私は再びとく子の体を求める。とく子は拒まない。人間が人間に対して言語道断の好意を働いてゐることを、私は意識する。しかし直ぐ激しい感覚が私に総(すべ)てを失はせてしまふ。
翌朝、血がシーツを汚してゐる。とく子は顔を染めて、シーツをまるめた。
私ととく子との関係は、勿論、結婚とは言へない。私は父の家に居るのであるから、同棲とも言へない。しかし一度女の体を知つた男といふものは、かうまで図図しくなるものか。私は家人の思惑など考へる余地がない。私は鎖を引きちぎつた雄犬のやうに、とく子の下宿へ通つた。
珍しく家にゐた私は、風呂に入つた。何気なく胯間を見ると、いつの間にか包皮は剥(む)け、亀頭は露出してゐる。まるでぎよろ目をむいてゐるやうで極めて醜い。しかし自業自得である。私は京都の町医者の言葉を思ひ出し、苦笑するより他はなかつた。
とく子の下宿の二階六畳間に私は坐つてゐる。とく子がカッフェから帰つて来るのを待つてゐるのである。夜はかなり更けてゐる。電車の車輪の軋(きし)む音も今は絶えた。
私がとく子の体を求めると、とく子は決して拒みはしない。しかしひどく羞恥(しうち)の表情をする。表情だけではない。体全体が恥しがつてゐるやうである。するとそれが更に強く私を刺戟する。私は惨酷に、まるでとく子の羞恥をあがかうとするかのやうに、とく子の着物を開く。すると却つて強い羞恥が私の方へ跳(は)ねかへつて来る。最早、私は激情の跳梁(てうりやう)に任せるより他はない。
しかしとく子は行為中も私のやうな激情を現さない。女のつつしみからであらうか。それとも女性の性欲は男性のそれのやうに激しくは発しないのか。
ある時、私はそれについて友人に尋ねた。
「それはいかんよ」と言ひ、図解して、教へてくれた。
その後のある夜、とく子が急に乱れ初める。日頃の羞恥も、つつしみも、自らかなぐり捨てたやうな激情を発した。さうして友人に教へられた、オルガスムに達したらしい。私は今までに経験のしたことのない快感を伴つて、頂点に達した。
とく子に対する私の感情は一変した。最早、そんなとく子に献身者の姿はない。むしろ共犯者の、等しく浅ましい姿である。が、奇妙なことに、とく子に対する親愛感は急に一段と増した。二人は互に肉体の深奥の秘密を知りつくしたわけである。直接、肉体に繋がる。夫婦だけが抱き得る感情であらう。
とく子は終つてからも、その顔を私の頰に押し当て、私の体を離さうとしない。再び私の性欲は昂奮する。とく子も同様らしい。遠慮勝ちに腰を動かしてゐる。哀れも極れり、と私は窃(ひそ)かに思ふ。猛烈な愛情を感じる。
秋の空の青い朝、私はとく子から体の異状を告げられる。先月から月経を見ないといふ。勿論、私はそれが何を意味するかは知つてゐる。しかしまだ全然実感は湧かない。
午後、私達の雑誌の同人会がある。本郷三丁目の青木堂といふ喫茶店へ行く。とく子から、先に打ち合わせておいたやうに電話がかかつて来る。受話器をあてた耳にとく子の声が聞えて来た。
「やはりさうなんですつて」
「さうか。それぢや、とにかく体に気をつけるんだよ」
私は少しも困つたとは思はない。依然として実感が湧かないからでもある。むしろ柄にもないことを言つてしまつた、と私は恥しく思ふ。
その夜、私はとく子の下宿へ引き返した。妊娠したとく子の体が案じられたからではない。私は診察の模様が気にかかつてならないのである。床に入つてから、私はとく子に聞いた。
「ええ、そりや、もう恥かしいつて、無茶苦茶でしたわ」
しかしとく子はあまり語りたがらない。私は執拗(しつよう)に聞き出さうとする。とく子はどうしても自分から足を開くことはできなかつたと言ふ。
しかし私はとく子を辱(はづかし)めて、嗜虐(しぎやく)的な快感を味はうとするのではない。医者といつても男である。とく子は男の前に女の肉体を曝(さら)したばかりではない。その肉体の、極秘の行為まで窺(うかが)はれたわけである。とく子の羞恥を思ふと、私は異状なほどの恥しさを感じる。さうして私は妊娠といふ女の運命を思ひ、とく子に續罪(しよくざい)的な、激しい愛を覚えた。   
翌年になると、とく子は初めて胎動を感じたと言ふ。とく子は晒(さらし)を買つて来て、腹帯を締めた。
「ほれ、ほれ、こないに動いてゐるわ」
とく子さう言つて、自分の腹に私の手を当てさせたこともある。しかし幾重にも巻いた腹帯の上からは、私の掌に何の間隔も伝へなかつたのも当然であらう。が、とく子はいかにも満足さうである。胎動が既に母であることを知覚させたのか。さうしてその肉体の自覚が、自然に母としての感情も育てつつあるのか、と私は思ふ。しかし私の父としての感情は空白に等しい。男といふものがひどく無責任なやうでもある。しかしまたおいてけぼりを喰はされたやうでもある。
ある夜、遅く帰つて来たとく子が、部屋に入るなり言つた。
「今日はひどい目に会ひましたわ」
同僚の財布が無くなり、警察署に連行され、取調を受けたといふ。
「体も調べられたの」
「ううん、帯を取つただけ」
しかしとく子の様子は少し普通でない。とく子は帯を解くと、いつになく荒荒しく押入の襖(ふすま)を開き、蒲団を敷き始める。私はそんなとく子を見上げて言ふ。
「どうしたんだ」
「寒いわ。寝ませうよ」
床に入ると、とく子は体を私にすりよせて来る。
「どうしたんだい。裸にもされたんぢやないの」
「そんなこと、どうでもよい。早う」
とく子は自分から腹帯を取り、ひどく昂奮してゐる。こんなことは初めての経験である。とく子はしどろもどろに乱れながら自分から言ひ出した。
「腹帯がいけなかつたの」
とく子は腹部の脹(ふく)らみを怪しまれ、別室に連れて行かれて、腹帯を解かされ、更に匍匐(ほふく)して調べられたといふ。さうしてこの自虐的な告白が、更にとく子の性欲を刺戟したらしい。とく子は明らかに再三、オルガスムに達した。
しかし昂奮が鎮(しづ)まると、私は急に腹が立つて来た。さうして惨酷な感情が湧いた。私は電燈を点じ、とく子に同じ姿勢を取ることを強ひる。とく子は肯(がへん)じない。しかし私は承知しない。仕方なく、とく子は四つ這ひになる。徴兵検査の時の屈辱感を思ひ出すまでもなく、再び私に性欲は猛烈に昂進する。私はとく子の着物を剥ぎ取り、仰向(あふむ)けにして、その体にしがみつき、自分の着物も捨てた。一瞬不思議なことに、ひどく神妙な気持が起つた。静かな喜びを伴つた幸福感とさへ言へなくもない。が、次ぎの瞬間、私は完全に自分を失つてしまふ。従つて、二人がどんな狂態を演じたか、私にはそれを省(かへりみ)る余裕は全くない。
私はとく子を愛しただけである。それ以外には何の覚えもない。とく子も私の愛を許し、私を愛した以外には何の覚えもなからう。しかし私達の結婚は許されない。私達は情夫であり、情婦であるより他はない。私は女給を情婦にしてゐる学生である。とく子は学生を情夫に持つてゐる女給である。その上、とく子は私生児を孕(はら)んでゐる。全く条件は揃つてゐる。警察から疑ひを受けるのも当然のことかも知れない。
警察はとく子の腹部をさして言つたといふ。
「変なことしてみろ。承知しないから」
情夫、情婦、私生児、窃盗嫌疑、堕胎疑懼(ぎく)等、凡(およ)そ善良な人間に関係のある言葉ではない。私がとく子を愛したばかりに、このやうに彼女を傷つけたことになる。とく子が私を愛したばかりに、このやうに彼女を辱(はづかし)めたことになる。しかも性懲(しやうこ)りもなく、痴態の限りをつくしてゐる。人間の愛とは、所詮(しよせん)、こんなものか。人に嘲(あざけ)られ、人に罵(ののし)られるのも当然である。人が人を愛するといふことは、少くとも「出家とその弟子」のやうな甘美な世界のことではないことを知つた。
後日、私は「歎異鈔」を再読した。が、最早、最初の時のやうな抵抗を感じない。むしろしみじみとした感情が湧いた。現実を直視する、激しい言葉の背後に、例へば慈悲光とでもいつたものが満ち溢れてゐるのを感じた。さうして私はあの夜の、あの一瞬の不思議な感情を思ひ出した。
あの時、私は自分の醜行に呆(あき)れはてた。私はそんな自分の正体を自分の手であばかうと、自分の着物を脱ぎ捨てたのではないか。さうして人間の愛の愚かさを直視し、更にそれに徹することによつて、あの不思議な幸福感が湧いたのではなかつたか。勿論、あの時、そんなことを意識したわけではない。
「歎異鈔」を読み返して、初めてこんな風に解釈できなくもないかと思つたまでである。逆にいへば、自分の愚かさを思ひ知つたことによつて、今まで「歎異鈔」に抵抗を感じさせてゐたものが、無力化したことは確かである。


五月、とく子の腹部は着物の上からも既にそれと判る。これ以上、カッフェに勤めされておくわけには行かない。と言つて、そんな腹をして、とく子の郷里へ帰せる義理のものではない。とく子は養女である。が、とく子は養家を嫌ひ、家出同様にして、東京へ出て来たのであるからである。
しかしとく子は郷里へ帰るといふ。それより他に方法がないからである。私は自分をいかにも卑怯だと思ふ。しかしやはり同意するより他はなかつた。
五月の、風の強い日、とく子は帰郷することになつた。私は途中まで送つて行く。遠足に行く小学生のやうに、かなり愉(たの)しい。全くよい気なものである。
二子玉川で電車を降り、多摩川の長いコンクリートの橋を渡る。数年前までは舟で渡つた、ととく子がいふ。風が強いので、とく子は度度背を向けて、着物の乱れを直さねばならない。その度に、私の好色な視線は、そんなとく子の姿を捉(とら)へることを忘れない。
多摩川の橋を渡ると、神奈川県の溝ノ口である。急に鄙(ひな)びた風景が展(ひら)けてゐる。堤を下りると、一軒の茶店があり、その前の桑畑(くはばたけ)の横に、一台の馬車が轅(ながえ)を下して置いてある。とく子は一人で茶店の中へ入つて行く。
「馬車は何時に出るの」
帰つて来たとく子に、さう言つた。とく子は微笑を浮かべて言ふ。
「それが、時間表もありませんのよ。田舎(ゐなか)の人つて暢気(のんき)ですから、そんなもの、要らないのかも知れませんわ」
「すると、馬車はいつ出るか判らないんだね。呆れたね」
「まあ、さういふことになりますが、あそこで待つてゐる人も『そのうちに出るべ』つて、平気なものですわ」
さう言へば、とく子も何も急ぐ身でもない。私はいかにも穏やかな人の心に接したやうで、私の心も自(おのづか)ら安らいで行く。が、とく子の故郷に近く、頻(しき)りに管亥の動くのを覚えた。
風を避け、堤下の草叢(くさむら)に足を投げ出してゐた私の耳に、ラッパの音が聞えて来たのは、それほど長い時間は経たなかつたやうである。
「あら、馬車のラッパですわ」
とく子はさう言つて、立ち上つた。私もその後に従つた。既に馬車の轅には馬が入り、数人の乗客がそれぞれの荷物を提げて、立ち並んでゐる。しかしその中には、とく子の顔見知りの人もゐるかも知れない。私は足を停めて言つた。
「それぢや、体に気をつけて」
「あなたこそ、お大事にね」
とく子は一人で歩いて行き、乗客達の後に列んだ。やがて乗客達は順順に馬車に乗る。馬車の中は薄暗く、人の顔はよく見えない。最後に、とく子は私の方へ顔を向け、一揖(いちいふ)してから馬車の中に消えた。
馭者が高くラッパを鳴らし、馬の背に一鞭(ひとむち)当てた。馬車は極めて緩い速度で走り出した。一条の街道が通つてゐる視野の中で、馬車が次第に小さくなつて行くのを、私はぼんやりと見てゐた。
七月末、男子出生の通知を受ける。それでもまだ父となつた実感は湧かない。
八月、葉山海岸に叔母を訪ね、叔父が美貌の女中、八重と不義を犯したことを知らされる。全く意外に思ふ。八重の気持を解することができない。私は女といふものの不思議さについて考へる。
九月、とく子の郷里へ、とく子と嬰児(えいじ)を迎へに行つた。とく子の腕に抱かれてゐた、色の白い赤ん坊を私の手に渡された瞬間、私は全身が真赤になるほどの羞恥を覚えた。赤ん坊の柔かい肉の感触が、夫と妻との、親と子との、肉と肉の繋りを実感させたからかも知れない。
しかし不思議である。こんなものがどうして生れて来たか。勿論、私達の性の行為の結果であることは知つてゐる。しかし一回に射精する精子の数は約三億に達するといふ。その中の一つの私の精子が子宮に入り、一方卵巣から出て来たとく子の卵子と、卵巣膨大部で結合したのである。しかしそんなことを私もとく子もどうして知り得よう。私達はただ性の快楽に酔ひ痴(し)れてゐただけである。実に無責任極まる話である。幸にも赤ん坊は不具者ではなかつた。が、その将来にどんな運命が待つてゐるか。
翌日、とく子はわが子を負ひ、私は襁褓(むつき)の入つた風呂敷包を提げ、とく子の郷里を去つた。中谷孝雄のゐる府下長崎に一戸借り、私は妻と子を匿(かくま)つた。家賃は十二円五十銭である。出発の時、とく子の母がそつと私の手に握らせた封物の中の金で、私はそれを支払つた。
十月、美保子が、あまり評判のよくない青年と、家出した報を受ける。母が名古屋の姉の許(もと)に行つてゐた、留守中の出来事であつたといふ。
八重に対しても、美保子に対しても、私は倫理的には少しも疚(やま)しさを感じない。私はいつも清潔な態度を持してゐたつもりである。しかし仏とか、神とかいふ絶対者の前に立つても、果して同じことが言ひ切れるか。私は彼女等に好意を持つてゐたばかりではない。私は色情を懐(いだ)かないで彼女等を見ることはできなかつたのである。
しかし、八重や、美保子に自暴的とも思はれる行動を取らせたのは、必ずしも私の故だとは思つてゐない。とく子との経験からも察しられるやうに、女性の性欲は多くは受動的である。その代りといふより、当然の結果として、男性に能動的に働きかけられた場合、その意志には関係なく、女性の性欲は受動的に昂進するのではないか。更に女性は屈辱的な立場におかれてさへ、却つてマゾヒズム的な快感に陥(おちい)るもののやうである。従つて、女性の性欲には多少とも自暴的な要素を伴はないわけにはいかないのではないか。
男性の性欲の多くは能動的である。いかにも積極で、荒荒しいが、等しく自分の意志で左右できるものではない。つまり男にとつても、女にとつても、性欲は人倫の世界を超越して存在する。人間の分別の及ぶところではない。
ここまで考へて来ると、先に八重の気持が解せない、と私が思つたが、誰も判るものでないことが、やつと判つた。勿論、八重や、美保子を責め得る者は一人もゐない。無分別といへば、とく子もその例外とは言ひ得ない。私ととく子とは今も内縁関係を続けてゐるのだから。
翌年、三月、私は卒業した。が、生活できる当は全くない。家業に従ふ決心をする。しかし私に文学を断念させた直接の原因は他にある。その頃はプロレタリヤ文学が漸(やうや)く盛んになり、左傾する友人も少くなかつた。その一月、「不同調」といふ雑誌に私は作品を発表したが、その流行に阿(おもね)るやうな作品で、醜を曝(さら)したからである。
父の手前、私は店員達の寄宿舎の二階に起居してゐた。さうして時時、とく子の許へ帰つた。従つて、とく子に対しても、とく子の体に対しても、常に新鮮な感情と、感覚とを持ち続けることができた。
十一月、父が郷里の家で死去した。腎臓結石である。享年、数へ年六十であつた。私の二十六の時のことである。
翌年、一月、私は上京して、父業を継ぐ。日本橋の店の父の部屋に起居する。十月、二男が生れる。十二月、大川端に寓居を移し、初めて妻子と生活を共にする。平安な日日が続いた。
得意先が代理店をしてゐる生命保険にとく子を入れることになり、医者と勧誘員を伴つて、寓居へ帰つた。とく子にその旨を告げると、一寸困つた表情を浮かべたが、仕方なく医者の前に坐る。問診を終り、とく子は帯を解く。医者がその胸を開き、聴診器を当てる。とく子は背が低く、小柄であるが、その乳房は白く、豊かである。しかし既に二児を哺育(ほいく)した乳嘴(にゆうし)は黒い。
とく子は着物を合はせ、医者の方に背を向ける。医者がその背中を裸にする。とく子は胸で着物を押へ、目を伏せた。とく子はさして羞恥の表情を浮かべてゐない。むしろそんな表情を浮かべまいと、強(し)ひて堪(た)へてゐる感じである。私は却つてかなり好色的な興味を覚える。しかし私はとく子の肌を男達の視線に曝さして、嗜虐的な快感を感じたのではない。とく子のそんな姿に私自身が強い羞恥を覚えたのである。さうして私の性欲が女性的であることを、その時はつきり意識した。つまり私自身を女性の位置に転置することによつて、私の性欲はより強い刺戟を受けるやうである。
「はい、こちらをお向きになつて」
とく子は着物を直し、医者の方を向く。医者は巻尺を持つた手をとく子の背中に廻して、胸囲を計る。
「かう、踵(かかと)を立てて下さい」
医者はそのとく子の腹部を開き、巻尺を当てた。更にとく子を仰臥(ぎやうぐわ)させ、医者はその胸部を繰り返し打診した。
しかしこの診察の結果、とく子は心臓弁膜症であることが判り、保険に加入することはできなかつた。
その頃、私は毎夜酒を飲み歩いた。カッフェにも行つたし、芸者遊びもした。時には私娼を買つたこともある。しかし強く感情を動かされるやうな女性にも出会はなかつたし、肉体的関係を持つこともなかつた。しかし妻に対して貞潔であらうと、強ひて努めたわけではない。前述したやうに、私は女性に対して嗜虐的な興味を持つことは少いし、愛情を感じない女性の位置に自分を転置することは、或は困難なことかも知れない。
私が三十一、とく子が三十の時、とく子は三度目の妊娠をした模様である。心臓弁膜症のこともあり、私は店の嘱託医である杉本医院にとく子を伴つた。杉本医師は五十ばかりの温厚な人である。私の話を聞き終ると、杉本医師はとく子の方を向いて言つた。
「では、内診してみませうか」
町の医院らしく、カーテンに囲はれた産婦人科の診察台もある。一瞬、とく子は羞恥の表情を浮かべたが、意外にはつきりした声で言つた。
「はい、診(み)ていただきます」
「では、帯だけおとりなさい」
とく子は帯を取る。杉本医師がカーテンを開く。踏み台のある診察台が見える。鴇色(ときいろ)の細紐を締めたとく子がその中へ入る。カーテンが閉ぢた。
とく子は踏み台を上り、診察台に仰臥する。しかし今度は両脚をぶら下げてゐるわけにもいくまい。両脚を拡げて台の上に乗せる。着物が開く。その着物を捲(まく)り上げる。膝頭が自然に寄つて来る。杉本医師がその膝頭を押し拡げる――私は完全に倒錯した羞恥に、動悸(どうき)は激しくなり、皮膚は熱を帯び、私の性欲は昂進した。
とく子は蒼白(さうはく)な顔をして、カーテンの中から出て来た。杉本医師はそのとく子を内科の診察台に仰臥させ、丁寧に胸部を診察した。
「やはり弁膜症ですね。しかし弁膜症には治療の方法もありませんが、別にどうといふこともないでせう。まあ、無理をしないことですね」
その夜、床に入つてから、私はとく子に聞いた。
「今度は脚をぶら下げてゐなかつた」
「ええ、だつて二人も産んでゐるんですもの。却つてをかしいわ」
「すると、診察台に乗つてから、捲るの。それとも着物を捲つて……」
「知らん」
とく子はさう言つて、いきなり体をすり寄せて来た。近来、とく子は妊娠を恐れることもあつて、床の中で積極的な態度を示さなくなつてゐた。が、その夜のとく子はすつかり違つた。強い羞恥を感じると、少くともとく子の性欲は昂進することを、私は実証する。同時に、私は自分の性欲が女性的であることを確認する。
十月、三男が生れる。
十二月二十三日、私は満三十歳になる。私はこの日を待つてゐたのである。早速、とく子と三児の籍を入れ、郷里の人人に嘲笑される。
翌年二月、文学再出発を志し、杉並区阿佐ケ谷に移る。窮乏の生活が始まる。
「もう子供は産まない」と、とく子は繰り返して言ふ。私も同意しないわけではない。とく子は避妊器を買つて来る。しかし避妊に関するとく子の知識はあまり信用できない。翌年、とく子は妊娠し、十月、長女を出産した。かなりの難産で、医者を迎へたりした。しかし私は初めて、女の子を得て、他愛もなく満悦する。
既にとく子の体は欠落状態を呈し始めてゐる。私も妻の妊娠を恐れる。しかし私はやはり妻の体を求めないわけにはいかない。妻の拒むことはできない。しかし依然のやうに素朴な感慨は起きない。肉体だけの快楽である。が、事後はとく子も目立つて機嫌がよい。肉体だけの快楽も軽蔑できないものか、と私は恐しく思ふ。
長女が生まれた翌翌年、とく子は五度目の妊娠をする。とく子はベッサリーも使つてゐたが、使用法を誤つたものであらう。翌年、二月、四男が出生した。私が三十六、とく子が三十五であつた。
その頃、性生活に限らず、私の精神状態は平穏であるが、少からず緊張を欠いてゐたやうである。例へば子女の出生に対しても、凡凡と喜んでゐるばかりで、長子のやうな切実な感情が湧かない。総てが惰性的になり、さして多くもない経験に甘えて、私は高をくくつてゐるのである。まるで凡愚の上にあぐらをかいてゐるやうで、これでは精神が昂揚するはずがない。しかし実際上から言へば、平穏どころではない。私は日日の生活に追はれ、妻は五人の子の養育にかまけ、他を省る暇がなかつたのである。
しかしそんな私を一寸(ちよつと)緊張させたことが起つた。妻の体にまたまた異常を来したのである。今度は悪阻(つはり)も殊の他(ほか)に強い。私は医者に行くことを進める。とく子は頑(ぐわん)として聞き入れない。
「しかしもう恥しがる年でもないだらう」
「女といふものは、年によつて恥しさが違ふだけです。こんな皺(しわ)だらけの肌を見られるの、いやです」
「しかしそんなことを言つてる場合ぢやないよ」
「産むのだつたら、診てもらつても、診てもらはなくつても、同じです」
「産むのだつたら……」
さう言つて、私は言葉を切つた。とく子が半面にこんな恐しいことを考へてゐたのか。さう言へば、この悪阻とは何だらう。まるでとく子の母体が、妊娠させられたことに、激しい抵抗を続けてゐるやうである。或は女の体の深奥には、自分の胎内に宿つた新しい声明を嫌悪(けんを)する生理が潜んでゐるのか。さうしてそれが自分の体の危険を感じると、母に母であることをさへ忘れさせるのか。私はこの生命の発生の不条理に呆然となる。しかし私が母体の危険を冒(をか)しても、「産めよ」ととく子に命じるのは、等しく恐しいことに相違ない。
「どちらにしても、お医者さんにてもらふより他はないぢやないか」
翌日、とく子は配給のキャラコを取り出し、尺を計つて、裁断してゐる。医者に行くつもりらしい。そんな私に、とく子は顔を上げて、
「をしいけれど、こんな汚いのして行けやしません。女といふものは、苦労するんですよ」と言つた。
医者の言葉は殆ど絶対的である。考慮の余地がないといふ。とく子は近くの産科の医院に入院する。翌日、私は麻酔を打たれたとく子を抱へて、手術台に運んだ。看護婦が忽(たちま)ちとく子の着物の裾を開き、両脚を台に載せ、革のバンドで縛つた。手術用の足を載せる台は特に高い。とく子は無残な姿になる。しかしとく子には意識はない。私も羞恥を感じるにはその姿態はあまりにも非情すぎた。
戦争が漸く激しくなり、性生活どころではない。以来、数年間、生活全体が空白に等しい。
昭和二十三年、私が四十七の時のことである。突然、とく子が倒れた。心臓弁膜症に因(よ)る脳軟化症である。私の精神状態は急に緊張する。とく子に対して、青春時代のやうな瑞瑞(みづみづ)しい愛情が湧く。静かではなるが、ずつと深いところから滾滾(こんこん)と湧いて来る感じである。或はとく子一人に対するものではないかも知れない。
しかし十二月、とく子は病気が再発し、死去した。享年、四十六である。
「今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければこの慈悲始終なし」といふ「歎異鈔」の文章を、私は初めて感得した。


翌年、私は今の妻、貞子を知り、結婚した。私は四十八、貞子は三十九である。
私は先妻を亡くして慟哭(どうこく)した。その反動のやうに、私は今の妻を熱愛する。世間の人はそんな私を嘲笑する。といふより、むしろ滑稽視する。全く当然である。阿呆(あほう)なのである。阿呆と言はれるのは当然のことである。
私はこの慈悲の始終ないことは、徹底的に知らされてゐる。泣くことの空しいと同様、愛することも至つて空しい。しかし私は、私の妻への愛は、人間の愛そのものの否定の上に立つてゐる、などと、ゆゆしげな理窟は言はない。愛などといふものは悟りの中から生れるものではなく、むしろ迷ひの中から自然に湧き出るやうなものなのだから。
言ふならば、私の愛は、私といふ人間の無力さを痛感した、その低圧力の中へ、自然に物理学的に滲透したのである。等しく私の力ではどうなるものでもない。唯(ただ)異るところは、青年期のやうに無我夢中ではなく、年齢がそんな自分を客観視できることである。さうして結果的には、私の今の妻に対する愛は、常に無常の中にあるといふことである。
私は貞子と結婚して、亡くなつた妻以外の、女の体を知つたわけである。私はつくづく不思議に思ふ。総ての人間と同じく、貞子の体にも、同じものが、同じところに、同じ数だけある。しかしその形態も、機能も決して同じものではない。不具でない限り、決り切つた話である。不思議に思ふ方が笑止であるかも知れぬ。しかしわたくしはそれを私の体で初めて実証し得たのである。「私」の顔、「私」の体。「私」といふものが、哀極まる。同時に、私は自然の中に存在するものの不思議を痛感する。
亡妻とは反対に、貞子は背も高い。体格も立派である。二十代には八十キロを越えたといふ。そんな昔の写真もある。また亡妻のやうに欠落状態などを呈してゐないから、皮膚も白く、肌理(きめ)も細かい。貞子は今まで独身を通して来たやうに、性格もどちらかと言へば勝気で、教育もある。しかし床の中では、その姿勢も、動作も少しも変りはしない。却つて瑞瑞(みづみづ)しい羞恥が湧く。
貞子の体を知つて、私の性欲は急に蘇生した。むしろ私の性生活は非常に充実したと言へる。勿論、青年期のやうな盲目的な激しさはない。しかし中年期のやうな惰性的なものでもない。その度度が新鮮で、私が最も好色的であつた時期と言へるかも知れない。つまり私に性欲を楽しむだけの余裕が生じたわけである。私の技巧も幾分は年の功が積んだ。互の状態を判断し、それに順応する冷静さもできた。妻がオルガスムに達するやうになるまでには、それほどの日数を要さなかつたし、妻が二回、稀(まれ)に三回と、オルガスムに達するやうにもなつた。私はそんな大柄の妻の体を抱へて、他愛もなく歓(よろこ)んでゐる恰好である。
人間といふものは、私も妻も、何故このやうなことをするのか、或はしなければならないのか。私は今までに何回となく繰り返したことを考へる。性欲があるからである。何故性欲があるのか。種を保つためである。が、人間自身にとつてはそれは結果であつて、その原因を意識した者は誰一人もなからう。私も、妻も知らぬ中にそんなものを持たされてゐたのである。種を保つために、人間に性欲を持たせた者は誰か。
近来、私はこの不思議なものを頻(しき)りに想ふやうになる。「賜りたる性」かとも、思つてみる。さうして妻とのあまり恰好よくない姿を、その不思議なものの中におくことによつて、私は浅ましい姿のまま、つつましい歓びを感じるやうになつた。親鸞のいふ「自然法爾」の歓びといつてもさしつかへないのではなからうか。
人間の愛がいかに愚かで、利己的で、無力であるかといふことも、私は既に知つた。しかしその不思議なものの中に人間をおくことによつて、人間の存在の無常性は一層はつきりする。更にその無常の中に人間の愛をおくことによつて、私の妻への愛を、愚かなまま新鮮にすることができた。
しかし貞子が何故私と結婚する気持になつたのか、不思議でならない。私には四男一女がある。故郷の家には老齢の母もゐる。私は才能もあまり豊かでない小説家である。収入も少ない。おの上大酒家である。長い飲酒のため、酒気が切れると、手が慄(ふる)へる。貞子に初めて会つた夜も、私はわかめのやうな帯を締め、泥酔の状態で、いきなり貞子にプロポースしたといふ。
貞子は確実な職場に勤めてゐる。生活も安定してゐる。自分の仕事に対する興味も次第に増して来る年齢でもある。性欲のためとも思はれない。職場では、彼女は木石女史と呼ばれてゐた由である。またいくつかの縁談も断つてゐる。理性の強い性格であるから、私の境遇に同情したわけではなからう。何が彼女をそんな気持にさせたか。不思議といふより他はない。
その二月、私は貞子と山形の妻の故郷を訪れた。戦後のまだ交通の不便な時である。妻の妹の夫が荷馬車で送つてくれることになる。私と妻は荷馬車に乗り、毛布を敷いた上に向き合つて坐る。妻は頭にマフラーをかぶつてゐる。
「山形ジープで行つてけらつしやい」
孫を負つた義弟の父がさう言つて笑ふ。義弟の母も、妻の妹も見送つてゐる。義弟に綱を引かれ、やがて荷馬車は動き出した。
妻の故郷は蔵王山の一峰、竜山の山腹にある。道はいつか緩(ゆる)い勾配の坂道になり、荷馬車は緩(ゆつ)くり登つて行く。その年も暖冬で、地上に雪はなかつたが、時時、大きな牡丹雪(ぼたんゆき)が、一頻(しき)り降り続く。やがて前方に、意外にも広大なスロープを持つた、蔵王山麓の風景が展(ひら)けて来る。貞子はその一点を指して言ふ。
「ほら、あの木立の中に屋根が見えるでせう。あれが私達の小学校、その左の上の方に森があるでせう。あの中に私達の部落がありますのよ」
「さうか」
坂道は緩い傾斜で、道幅もかなり広い。義弟は黙黙と馬を引いて行く。単調な車輪の音が私の耳に響き続ける。しかし徐徐に、小学校の屋根の見える風景はその距離を縮めて行く。また牡丹雪が降つて来る。私は振り返り、思はず「わあつ」と、声を発した。
一望の下、いかにも雄大な風景が展開してゐる。稲の切株だけが残つてゐる。小区劃にくぎられた段段田が、幾層にも重なり、所どころ、森や疎林に遮(さへぎ)られてはゐるが、自ら立体感のある、広濶(くわうくわつ)な傾斜となつて、村山平野に連つてゐる。更に大地は、或は急に、或は緩く、再び起伏し、丘陵となり、瑞山となり、高原となり、遥かに遠く、雪に覆はれた出羽山脈の山山が聳(そび)えてゐる。さうしてその空間を埋めて、無数の雪片が落ち続けてゐる。
私達はいつか二人とも後を向いてしまつてゐる。
「いやいや、これは素晴らしい」
茫漠(ぼうばく)とした感情の中から、歎声だけが頻りに洩れる。妻も満足な様子である。
雪が止んだ。
「あれが月山(ぐわつさん)、真中が小朝日、こちらが大朝日です」
私は改めて出羽山脈の山山の方へ目を遣る。僅(わづ)かに青空を残してゐる、その寒冷な色の空に、白銀色の山山が鋭い稜線を描いてゐた。
漸く、小学校の前まで来ると、荷馬車は停つた。義弟が言ふ。
「こつから先あ、歩いて貰はんなねつす。登りが急で、道も悪くてつすは」
私達は荷馬車から下り、義弟に礼を述べる。義弟はそれに口少く答へ、馬を曳いて、帰つて行く。
私は妻と並んで、爪先あがりの坂道を歩き出した。四辺には殆ど人家は見られない。激しい風雪を避けるため、人家は多く崖添ひの場所を選び、木立に囲はれて、建てられてゐるといふ。
坂道の両側は段段田である。極めて小さくくぎられてゐるのもある。人間が二人、下り立てば、尻をぶつつけ合ふに相違ない。桑畑もある。頰白が低く飛び抜けて行く。小川も勢よく流れてゐる。その水音が妙に快く、甘美にさへ聞える。
こんな雄渾(ゆうこん)な風景の中にこんなつつましい生活があつたのか。商家に育つた私は、少年の頃から、こんな風景と生活とに憧憬に近いものを抱いてゐる。今、私はその風景の中を歩いてゐる。不思議である。が、こんなところで生れ育つた貞子を、あの夏の夜、私の家の近くの屋台店まで運ばせたものは何か。私はやはり不思議なものの力を想ふより他はなかつた。
かなり急な小径を登ると、杉の大樹を主にして、桂(かつら)、柏(かしは)、槇(まき)、欅(けやき)、椋(むく)、檜(ひのき)、楓(かへで)、伽羅(きやら)、山梨、漆(うるし)、樫(かし)等の木立に囲はれて、妻の生家はあつた。
貞子は自分の子を世に残したいとは思はぬと言ふ。女性としては比較的合理的な妻は、私達の年齢を考へた上でのことでもあらう。しかし私は賛成できない。不満でもある。私は妻を人生の傍観者で終らせたくないからである。更に何より不自然である。結婚した以上、妊娠するか、しないかは人為のことではないが、自然に任せるべきではないか。しかしそんな理窟からではない。私には先妻との間に五人の子がある。が、私は性懲(しやうこ)りもなく、貞子との間に子が欲しいのである。幸、不幸は私の知つたことではない。それが人間の愚かな愛の本能ではないか。
少女の頃(かう書いただけで、私は蔵王山麓のあの雄大な風景を思ひ浮かべないわけにはいかないのであるが)、貞子は父を尊敬してゐた。が、母に対する父の横暴には強い不満を持つてゐた。ところが、その母が末子を妊娠したのである。貞子は母にすつかり裏切られたやうに思つたといふ。
懐妊した女の姿はいかにも醜い。殊に敬愛してゐる母の場合、その感じは一段と深からう。貞子が女学校に入学したばかりのことである。感じ易い年齢でもある。母といつても妊娠するのである。その母と性を同じくしてゐるのである。少女にとつて、問題は深刻であつたとしても当然であらう。
しかし今の妻が自分の醜を曝(さら)すのを避けようとするのは卑怯である。少くとも妻だけの子ではない。しかし妻だけの計(はから)ひが許されないと同様に私だけの計ひも許されまい。
妻はベッサリーと、ジェリー剤とを併用してゐる。しかし妻の知人の著した避妊の書物には、ベッサリーを使用する場合には、サイズの適否、挿入の巧拙によつて効果が異るから、専門医の指導を受けなければならないと記してある。私は少し意地悪く、そのことを妻に言ふ。
「だつて、そんなこと厭だわ」
「しかし厭だ、好きだといふ問題ぢやないと思ふがね」
「大丈夫よ、私、うまくやつてる」
「しかし、自分で自分のサイズは計れまい」
「だつて、そんなこと厭だわ。私、金属で触られるの大嫌ひ」
「やはり女史でも恥しいか。いや、これで安心したよ」
「このお馬鹿さん」
妻は私の思ふ壺にはめられたことを覚つたらしく、そんなことを言つて、ごまかしてしまつた。
滋賀の家へ帰つた時、山形の家へ行つた時、また共に旅行に出た時には、妻は流石(さすが)に避妊具は携帯しなかつたやうである。しかし幸か、不幸か妻には妊娠の様子は現れない。その中に、妻も安心したのでらう。妻はいつともなく避妊具を使用しなくなつた。私は自然な気持になつて、妻を愛することができた。しかし妻は依然として妊娠する様子はなかつた。
既に妻の年齢は、最早、妊娠に堪へ得ないのかも知れない。さうして妻の体は自然にその危険から護られてゐるのであらう。妊娠できないものが、避妊具を使つてゐたのは、些(いささ)か滑稽であらう。しかし、妊、不妊がいかに人為のことでないかを示すやうで、一入(ひとしほ)、哀れ深い、とも言へなくない。
妊娠できない妻との行為は無意味であらう。しかし無意味だといつて、直ぐ中止できる質のものではない。そんな生優しいものではないのである。しかし最早、妻が妊娠できないとなると、少し淋しい。何かの隊列から離れたやうである。が、私は内心、急に気楽にもなる。妻の献身を求める必要もない。共犯者などといふ感じもなくなる。私は妻との肉体的快楽を共にすればよい。適度の羞恥もあつて、ひどく愉(たの)しい。しかし私の妻との愛は常に無常の中にある。精神的にも、互に傷つけることはない。むしろ親愛感を新しくする。
私は私の妻との愛は常に無常の中にあると言つた。或は大袈裟(おおげさ)で、きざつぽく聞えるかも知れない。しかし私にとっては、少しの誇張もない。観念論でもない。先妻の死がよほど応(こた)へてゐるのである。骨の髄まで思ひ知らされたのである。
毎朝、勤務に出る妻の乗つた電車が、私の視野の中で刻刻小さくなつて行くのを見送つてゐると、妻はこのまま帰つて来ないのではないかと、ひどく不安になる。それだけに、夕方、薄闇の中から妻の靴音が聞えて来ると、私は私の体の中に新しい歓(よろこ)びが蘇(よみがへ)つて来るのを覚える。
妻が出張などに出ると、私は酒気が切れたアルコール患者のやうに、だらしなくなる。しかしこれが最も適切な身の処し方であることを、私は既に知つてゐる。私の精神が緊張すると、私の不安も緊張するからである。勿論、この愛が始終ないことは知つてゐる。しかしこの事実を冷静に凝視し続けるには私は愚かに過ぎる。
が、妻が帰りの汽車に乗る時刻になると、私はそつと汽車の時間表を取り出す。時間表の無味乾燥な数字の羅列を目で追つてゐると、それだけで私は次第に愉しくなつて来る。一駅、一駅、私の方へ近づいて来る汽車の響きも聞えて来るやうである。
そんな時、私は茶の間へ行き酒を飲み始める。妻が汽車に乗る時間が、丁度その時刻に当つてゐる場合が多いからでもある。酔ひが発するにつれ、汽車の車輪の響きはますます高くなつて来る。私はその車輪の響きに合はせ、いつか鉄道唱歌などを口遊(くちずさ)んでゐる。しかし子供等の手前もある。声を発してはならない。私は口を噤(つぐ)み、鼻で呼吸してゐるのであるから、口と鼻との間で、声にならない声で唱(うた)つてゐるのである。
不意に、私の頭の中に、一つの空席が浮かび上る。現に、この茶の間の妻の座は空いてゐる。勿論、勤務先の妻の椅子も空である。妻が乗つてゐはずの汽車の、妻の席はどうなつてゐるか。私の酔ひに乱れたスポットライトに照し出された妻の席には、妻の姿はない。さうしてその車窓の下の空席は、空席のまま私の方に向かつて走り続けてゐる。
翌朝、しかし妻は土産物(みやげもの)の包みを両手に提(さ)げて、勢よく帰つて来た。
その頃の私達の生活は尋常のものではなかつた。長男は北海道の大学へ行つてゐる。毎月の送金を欠かすことはできない。二男は都大生である。三男と長女は高校生である。四男は中学生でる。更に郷里の母の許へも送金しなければならない。広い郷里の家の維持費だけでも容易でない。私は母に度度上京を進めるが、母は頑(ぐわん)として聞き入れない。
春になると、東の裏にはうどが柔かい芽を出す。三つ葉も庭一面にはびこる。夏になると、枇杷(びは)も熟する。梅が漬け頃になる。鮒酢(ふなす)も漬けなければならない。秋になると、茗荷(めうが)の芽も出る。栗も弾(はじ)ける。柿も色づく。やがて公孫樹(いてふ)が夥(おびただ)しい銀杏(ぎんなん)を落し初める。その頃になると、屋敷の中は落葉で埋められてしまふ。母は言ふ。
「わしがゐなんだら、誰が、一体、これを始末してくれるのやいな」
私は初め実子を持たぬ妻のため、妻の職業を認めてゐるやうな口吻を洩したこともある。しかし妻の収入がなかつたら、私達の生活は忽(たちま)ち破壊されてしまふ。が、かういふ場合、妻のてきぱきした性格が、大いに役立つ。妻は自ら一手に引き受け、辛うじて遣り繰つてゐるらしい。
しかし、私達の家は全く言語道断である。門は破れ、屋根は傾き、雨は容赦なく漏れ、文字通りの荒屋(あばらや)である。しかし私はさういふことには割合平気な性格である。人倫の嘲笑には馴れ過ぎてゐるからかも知れない。しかし妻は私のやうな横着者ではない。口には言はないが、かなり辛いことであるだらう。
長男が卒業する。助手として、研究室に残ることになる。三男はあまり学業を好まない。放送関係の仕事をすることになる。私は妻を誘つて、蔵王山麓の妻の生家を度度訪れる。
五月雨(さみだれ)の水を湛へた段段田は、それぞれの水面に早苗(さなへ)の緑を映してゐる。しかし段段田が遠く傾いて行くにつれ、早苗の緑は次第にその間隔を失ひ、山裾(やますそ)の方は緑一色で、つまり緑裾濃(みどりすそご)の大景観が展(ひら)けてゐる時もある。そんな季節の時には、ソラにはくわくこうが鳴いてゐる。ででつぽつぽうも鳴いてゐる。畠の隅には、こぼれ生えの大根の花が咲き、紋白蝶が群り飛んでゐる。庭隅には、紫のくわくこう花も咲いてゐる。
晩夏の季節もある。蔵王山から吹き渡るて来る風は、既に極めて冷やかである。風の中に、素肌に浴衣を着た邦子が笑つてゐる。邦子は六つ、パンツもはいてゐない。大きなふぐりを垂れた、種山羊(たねやぎ)を引いた男が通りかかる。綱を引く山羊の力が強いためか、反り返つてゐる。少し誇張してゐるやうなところもある。男は足を停めて、妻に話しかける。種山羊の自慢話のやうであるが、言葉は殆ど解らない。山風に山羊の毛が翻つてゐる。天神山の芒原(すすきはら)で、私は初めて野生の鈴虫が鳴くのを聞いた。
晩秋の季節の時もある。妻は村の青年会に招かれてゐる。私は囲炉裏端(いろりばた)で、郁子と絵本を見てゐる。郁子は三つ、綿入れの袢纏(はんてん)を着て、色は白く、こけし人形のやうである。すつかり私に馴染(なじ)んでゐる。庭には閑閑と秋の日が当つてゐる。軒端に一面に干柿が干してある。
「東京おんちやん、しよんべん」
私は一寸(ちよつと)、あわてる。しかし妻の母は背戸の方で、先刻から休みなく立働いてゐるらしい。私は庭に出て、郁子の脚を抱へて、腰をおとす。小便が勢よく走り出る。出羽山脈の峰峰の頂は既に白く、濃藍色の山肌には、新雪が稲妻型の鋭い線を描いてゐた。
私達は妻の生家を訪れる。その行き、帰りに、方方の温泉に立寄つた。鷹(たか)の湯、瀬見、小野川、川の湯、峨峨(がが)、青根、嶽、那須等へ行つた。作並へはその時の都合で二度行つた。
温泉の家族風呂では、妻は前に手拭を当てない。羞恥を感じないからではない。夫の前では、羞恥を感じるより愉(たの)しいからかも知れない。私も幾分恥しいが、手拭を当てるわけにはいかない。が、大柄で、豊満な妻の肉体を見てゐると、私の意志には全く関係なく、胯間(こかん)が怪しくなつて来ることもある。そんな時には、私はやはりそつと手手拭を当てるより他はない。
しかし私は一般の大浴場も、晴晴としてゐて、好きである。妻も同感である。大浴場からは外の風景の見える場合が多い。勿論、男も、女も裸体である。互にいかにも自然であるやうで、言はば「お互さま」といつた感じである。妻の裸を見てゐても、変な気持になるやうなことはない。却(かへ)つて女の脱衣する姿の方が、好色的と言へば、言へなくもない。
夕の食卓には、私は特に土地で採れるものを所望する。例へば山菜とか、茸(きのこ)とか、川魚とかである。私は初めはビールで、それから日本酒を飲む。私は妻と酒を注ぎ交しながら、いろいろの話をする。しかし結局は私達の子供の話になる。子供達の性格について論じ合つたり、その将来を語り合つたりする。子供のために、私が弁護する場合もある。全く同感の場合もある。かういふ時の妻はひどく素直である。私達は幸福感が込み上げて来る。
私の家は全くのあばら屋で、戸障子の開けしめも自由でない。従つて、妻は閨中頂点に達することがあっても、決して甚しく取り乱したことはない。が、このやうに隔絶された、旅館の床の中では、強烈な感覚のあまり、思はず声を発するやうなこともある。私は深深とした幸福感の中で、至つて神妙な気持になつた。
山つつじの花が満開だつた時もある。雨雲の下で、桜桃(あうたう)が真赤に熟してゐた時もある。澄んだ月が山野を照してゐた時もある。夕風に川原楊(かはちやなぎ)がその枝を吹き乱されてゐた時もある。一夜の間に降り積つた雪に驚きながら、吹雪(ふぶき)の止まない坂道を下つて行つた時もある。斑雪(まだらゆき)の残つてゐる山肌を背景にして、赤松の幹に斜陽が当つてゐる時もあつた。
長男がアメリカへ留学することになる。かうなると、妻の独壇場である。長男を伴つた妻の目まぐるしい動きを、私は手を拱(こまね)いて見てゐるより他はない。秋のよく晴れた日、私は妻や子供達と、横浜の桟橋まで長男を見送つた。長男の乗つた船が岸壁を離れ、徐徐に速度を増して、沖の方へ進んで行くのを、私は妻と並んで眺めてゐた。
二男も学校を卒業し、高校の教師になる。長女も司書の資格を得て、ある会社の研究室に勤務する。幾分、生計にも余裕が生じたらしい。そこへ印税の臨時収入がある。私は思ひ切つて、やつとのことで家屋を改築する。しかし私はかういふことにあまり興味がない。妻の都合のよいやうに一任する。妻はかなり満足さうである。私はその妻の様子を見て、至つて満足である。しかしたまたま上京した、私の老母は言ふ。
「かはいさうにな。こんな節だらけの柱でも、こない喜んでくれるのやでな」
私と妻は近くの羽田病院へ行く。二人とも血圧がやや高いからである。血圧の測定を終つた時、突然、私は言ふ。
「この間、家内が左の乳が少し変だといふんですが、癌(がん)ぢやないかつて……」
まさか、と言はんばかりに、羽田医師は一寸首を傾けてゐたが、
「ぢや、脱いでごらんなさい」と言ふ。
瞬時、妻は当惑さうな表情を浮べる。が、妻は立つて、スーツの衣を取り、ブラウスを脱ぎ、シュミーズを頭にかぶつて脱ぐ。半裸になつた妻は羽田医師の前に腰かけ、殊更に胸を張つた姿勢をとる。
妻は決して美貌とはいへないが、その肌は白く、肌理(きめ)も細かい。殊に乳房は授乳したことがないので、殆ど衰萎(すいゐ)の状はなく、極めて豊かで、膩(なめら)かである。乳嘴(にゆうし)の色も変じてゐない。二つの乳房はシンメトリーに、それ自身の御飲みで下部を垂れ、それぞれに薄い陰翳(いんえい)を作つてゐる。羽田医師がその乳房を指のはらで強く押す。その触感が私の肌にも伝はるかのやうである。羽田医師は乳房の上下左右を押へてから言ふ。
「別に、何ともありませんね。奥さん、ノイローゼですよ」
妻はほつとした表情になる。私は本気で心配してゐたわけではない。当然のことのやうに聞き流す。
「やはりノイローゼでしたのね。何だか、急にすうつとしたやうだわ」
羽田医院を出ると、妻は私にさう言つた。


五十六になつた。その十一月、私は「上顎腫瘍(じやうがくしゆやう)」といふ病気で、東京医科歯科大学の病院に入院、放射線の深部治療を受ける。癌の疑ひがあるらしい。しかし私には自覚症状は全くない。「まさか」といふ気持の方が大きい。それより病院に入院するのは初めての経験である。ベッドも困る。酒が飲めないのも困る。更に酒気なくて、一人で夜を過すのが、何より苦痛である。
しかし妻は務(つと)めて愁嘆(しうたん)の表情は見せようとしない。朝夕、妻は勤務の前後に決つて私の前に姿を見せる。その態度はむしろ颯爽(さつさう)としてゐる。私は妻の健気(けなげ)さに、却つて病気の重大さが感知されたが、同時に不思議な決心が湧く。献身的ともいへる、妻の愛情に応へるために、私は一切の自己を、或いは自己の一切の計量を放擲(ほうてき)しようと試る。病気は医者任せ、後は運命に任せるより他はないではないか。
放射線の照射の回数が重なるにつれ、私の顔面は徐徐に変色して行く。更に回数を重ねると、私の鼻下と顎の半白の髭(ひげ)がすつかり脱毛する。ある朝、目を覚ますと、上下の唇が癒着してゐる。無理に引離すと、鮮血が流れ落ちて、着衣を汚す。既に私の顔の皮膚は黒褐色に焼け爛(ただ)れ、やがて鼻腔(びかう)や、眼窩(ぐわんか)からも出血するやうになる。しかし私のその幽鬼のやうな顔を見る妻の顔には、いつも微笑が消えなかつた。
三階の十二号病室には、私を入れて、四人の患者が入院してゐる。谷本さんはこの病室では一番古い。私が入院した時には、谷本さんは手術を受け終つて既に何日かを経過していて、右上顎と、同じく右頸部から腋窩(えきくわ)へかけて繃帯(ほうたい)を巻いてゐたが、かなり元気を回復してゐた。A市で電気器具商を営んでゐるといふ谷本さんは、入院したばかりの私に話しかけて来た。
「私はね、前前からひどく歯が悪かつたんでね、まあ、どうにか少し余裕もできたもんでね、この際、すつかり歯を入れ替へてやらうと思ひましてね」
私は内心苦笑を禁じ得ない。私の場合も全く同様であつたからである。
「ところが、歯医者はひどく待たせるんでね、私はA市でも一番はやらんとこで、入入歯をやつたんですがね。やつぱりはやらん医者なんていけませんや。暫くすると、変に痛んで来ましてね」
谷本さんははやらぬ歯医者に懲(こ)り、県立病院で診察を受けた。直ぐ入院しなければならないといふので、入院して、コバルトの治療を受けた。二十日ばかりで全快し、退院した。しかし三ケ月あまりして再発したので、思ひ切つてこの病院に入院したといふ。しかしこの間の事情は、私の場合は少し異る。私も入歯をする目的で、町の歯科医へ行つた。が、その歯科医は非常に良心的な人で、大きな病院へ行き、検査を受けることを切に進めたのである。
「しかし私のは癌ではないらしい。腫瘍といふ奴なんだが、すつかり取つてしまつたから、もう心配はないですよ。傷口が直り次第、退院できるやうです。もつとも来年の春あたり、念のため、放射線をかける方がよいといふのですがね」
谷本さんは初めの方は声をひそめて言つた。私は内心かなり動揺したが、平静を装つてゐるより他はなかつた。
寺川さんは最近入院して来た人である。やはり「上顎腫瘍」であらうか。寺川さんはいつも手拭で隠してゐるが、左上腕部に既に潰瘍(くわいやう)を生じてゐる。かなりの疼痛(とうつう)があるらしく、よくベッドで声を殺して呻(うめ)いてゐる。寺川さんも放射線の治療を受けてゐる。が、体質の関係からか、私のやうに毎日は受けてゐない。それでも食欲が減退するらしく、食事の度に無理を言つてゐる。
寺川さんはかなりの年配らしいが、夫人は若い。三十代にさへ見える。時時、婦人が三つばかりの男の子を連れて来る。寺川さんの実子らしく、病苦のためにひどく気難しくなつてゐる寺川さんが、その子の顔を見ると、急に機嫌よくなるのには、私は心を打たれる。私の妻がかつて妊娠を避けようとした気持も思ひ合はされた。
私は二十八日間入院し、年末、退院する。しかし全癒したから退院するのでないこと、人体に放射線を照射し得る限界に達したからであること、従つて体力が回復次第、再入院しなければならない旨(むね)を、医者から繰り返し告げられる。しかし嬉しい。先のことを案じめぐらす余地もないほど嬉しい。早速、私は妻と乾杯する。ともすると、嬉しさが込み上げて来る。
長男が帰国する。妻と長女とが横浜まで出迎へる。長男は生物学を専攻してゐる。染色体の関係から、アメリカでは主に癌細胞について勉強して来た模様である。私の病気をひどく心配してゐるらしい。時時、彼の姿が見えなくなる。かなり長い時間の後、帰つて来た彼に、私は言つた。
「どこへ行つてたんだい」
「久し振りで、パチンコをして来ましたよ」
しかし景品を持ち帰つた様子もない。
「相変らずの腕前らしいね」
だつて、ボストンには、パチンコはありませんからね」と、彼は笑つてゐる。暫(しばら)く滞在して、長男は札幌に帰つた。
春になつた。もう唇を破つて出血するやうなことはなくなつたが、黒く焼けた、私の皮膚はなかなか回復しさうにもない。
長男からある女性と結婚したい旨の来信がある。私は二人の結婚を大いに祝福すると言つてやる。折り返し、七月に挙式したいと言つて来る。七月は少しく性急ではないかと言つてやる。すると、安藤助教授を通じて、相手の女性が既に懐妊してゐるらしいため、結婚を急ぎたい旨の手紙が来る。
「少し不調法でしたわい」
私は妻を顧(かへりみ)て、噴きだすより他はない。
私は週に一度病院へ行く。さうして口腔外科と、放射線科との診察を受けてゐる。主任教授が経過が意外に良好であることを告げる。しかし次ぎのやうに言ひ足すことを忘れない。
「しかし念のため、もう一度、苛(いぢ)めてやることになるかも知れません。その時は、再入院してもらひます」
ある日、私は下唇の下に髭が生え初めたのに気づく。鏡で見ると、奇妙なことに、再生したのは真黒い髭である。私がその旨を告げると、放射線科の教授は極めて珍しいケースとして、カラーフィルムに撮(と)らせる。この病院のどこかで、黒い髭の生えてゐる私の顔が、参考資料として、いつまでも残すされるのかと思ふと、私は少し変な気持になる。
私が手の爪の異状に気づいたのもその頃である。どの指の爪も歪(いびつ)に縮れ、ひどくぶざまである。
夏になつた、私の顔面はよほどきれいになつたが、それでも私の顔を見るなり、
「どうしました」と訝(いぶか)る人もゐる。私は依然として口腔外科へは週に一度、放射線科へは月に一度の割合で、通つてゐる。医者自身が意外とするほどの好経過をたどつてゐるらしく、再入院はいつともなく沙汰止みになつてゐる。
漸(ようや)く義歯を入れることになる。補綴(ほてつ)科へ廻る。義歯は数日で出来上つた。
七月、私と貞子は札幌へ行き、長男の結婚式に列席する。しかし新婦にそのやうな様子は全然ない。長男い詰問する。長男は私の現状に気を許したのか、一部始終を白状する。長男が東京に滞在中、時時姿を消したのは、口腔外科の主任教授に面会してゐたのであるといふ。また安藤助教授は偶然にも放射線科の主任教授と旧知の間であるといふ。更に新婦の父は国立病院の病院長である。私は極めて複雑な気持になる。
しかしこれらのゆゆしき科学者達も、人倫的には恐らく世俗的な道徳観から脱してゐまい。その彼等が、新婦となる若い女性に敢(あへ)て道徳的侮辱を与へてまで、長男の結婚を急がなければならなかつたのである。少くとも私の健康状態――或は生命といふべきかも知れない――に関する、学者達の意見は完全に一致してゐた、と解されなければならない。もつとも私も自分の病気の重大さを薄薄は感じてゐた。しかし根本に「薄薄」といふ形容詞がつく以上、それかrなお随伴感情も総(すべ)て「薄薄」であることを免れない。辛うじて危機を脱し得たやうな緊迫感は少しもない。愚かな私や、亡妻の遺伝子を幾パーセントか享(う)けてゐる新しい生命の発生が嘘言であつたことに、むしろ失望する。
「やれやれ、するとこの秋には、危くお骨にされるところだつたんだね」
私は勿論、冗談のつもりで言ふ。しかし何故か、明るく笑ひ捨てることはできなかつた。
秋になつた。私の顔面はすつかり回復したやうである。上下の顎にも髭が再生する。下顎の髭は元の通り白いが、上顎のそれは唇の下と同じやうに黒い。私は義歯にも徐徐に馴れる。指にも新しい爪が伸びて来、二三指に僅かにその痕を残してゐるに過ぎない。
私はやはり一週に一度、通院して、診察を受けてゐる。今日までのところで異状はない。私も、妻も当時のやうな、一日一日が不安だつた感情はいつか薄れ、至つて平安な日日が続いてゐるやうに思つてゐる。
私が入院してから、満一年経つた。私はいつともなく私の性欲的機能が消滅してゐることに気づく。つまり私は性欲的不能者になつたのである。放射線のためか、どうかは知らない。しかし入院依然には確かに性欲的機能はあつた。入院以後は、性欲どころではなかつたのである。
私は既に五十七である。五人の子供も成長した。不能者になつたことに気づいた当初は、むしろさつぱりした気持になつた。やれやれといつた感じでもある。しかし妻には何となくすまないと思ふ。妻は三十九まで独身であつた。私との彼女の性生活は僅か十年にも足りない。哀れである。しかし貞子は職場の仕事にも極めて熱心である。愛着を持つてゐると言へる。そこへ私の病気である。引き続いて、二男が腎臓結石で入院、手術する。彼女の日日は過労の連続である。幸にも、とはいへないが、女性の性欲の発し方は受動的でもある。或は妻は私以上に、やれやれと思つてゐるのではなからうか。
しかし性欲的不能者といつても、色情はある。つまり全く欲望がないわけではない。或は微弱ながら、性欲も潜在するのかも知れない。しかし彼等の色欲はいつまでたつても満たされることがないから、却つてひどく好色的になる。性欲的犯罪者や、変態性欲者に不能者が多いといふのも、この充足されぬ焦燥感からではないか。満たされぬ性欲が、妄想となつて、夢遊病者のやうに、この地上を徘徊(はいくわい)するのである。最早、肉体は抜殻に等しい。
勿論、私もその例外ではあり得ない。自分ながら呆(あき)れるほど、私は好色的になつてゐる。道を歩いてゐても、着物の裾から覗(のぞ)く女の脛(はぎ)を、私の目は見逃しはしない。スカートに包まれた女の尻が、歩くにつれて、左右交互に動くのを、私の目は直ぐに捉へて離さない。女の裸足(はだし)も好色的なものである。小指の跳(は)ね返つたの、親指のまん丸いの、土ふまずの深いのは清楚な感じであるが、却つて擽(くすぐ)つてみたくなる。土ふまずの浅いのはいかにも鈍臭いが、げてもの的好色をそそる。猥褻物陳列罪といふものがあるさうだが、私のやうな不能者には、女の体のどの部分も、つまり女の体そのものが既に猥褻物である、と言つてもよい。
女の体だけでない。近所の家の庭に真白いシーツが干してある。そのシーツの一ところに、強く撮(つま)み絞(しぼ)つた痕(あと)が残つてゐるのを見て、私はひどく好色的な気持になる。変態性欲者の中には女の下着類を盗む者があるといふが、やはり不能者に多いのではないか。
しかし私は性的犯罪を犯す恐れはない。勿論、私には一人前の理性もある。が、そんなものよりも、私の性欲には、健康であつた時から、嗜虐(しぎやく)的な傾向は極めて少なかつたからである。
また今までから私の性欲の発し方は比較的に受動的であつた。しかし私の男性は私の女性的な性欲に抵抗もし、嫌悪(けんを)も感じた。が、私が不能者になつてから、私の女性的傾向は更に甚しく助成された。つまり私の性欲は、最早、無に等しい。従つて私の色情も虚(むな)しく、男女の別などあらうはずもない。今こそ私は私を完全に女の位置に倒錯することができる。さうして私はさうすることによつて、女の感情を自由自在に愛(いと)しんでをればよい。
例へば一枚の腰巻が干してある。あはり私の好色心は動く。しかし少年の頃、私が感じたやうな、遥かに遠い感情を抱いて、見ることはもうできない。また、青年の頃に抱いたやうな、無気味さももう感じない。この腰巻は、その所有者が若干の金銭を出して購(あがな)つた、一枚の赤い布に過ぎない。しかしこの布はこの竿に干されるためにあるのではない。その持主の体を包むためにあるのである。所有者の肉体を包んでゐる関係と切り離して、私がこの布を見ることができないのも、また止むを得ないことであらう。
私はこの布が、所有者の肉体の哀歓、いづれを包んでゐるかは、知る由もない。しかし包んでゐるものも、包まれてゐるものも、所有者にとつては等しく「私」のものである。私は「私」のものの哀しみ、歓びも知りつくした。その布が包んでゐるものの羞恥(しうち)も、その布の色を通じて実感できる。しかし私は紅い布の前にいつまでも立停つてゐるわけにはいかない。実感は、一寸その赤い布を目に入れたまま、私は街を歩いてゐるのである。しかしそれでよいのである。何も彼もそれでよいのである。私はむしろ楽しげな微笑を浮かべ、歩いて行くより他はない。
毎朝、私は目を覚ますと、妻の手を取り、妻の体を抱き寄せる。それから私の顔を妻の顔に摩(す)りよせ、互の無事を確め合う。まうでそれが朝の挨拶のやうにもなつてゐる。
時には、私は妻の胸を開くこともある。妻の胸には二つの白い乳房がある。が、最早、二つの乳房は、妻の「私」のものではない。私の「私」のものである。しかも私にとつては、唯一無二のものである。私は私の胸をそつとその上に当てる。柔かく、豊かな感触が、私を無上に喜ばせる。乳首と乳首とを触れ合はせることもある。一瞬、極めて儚(はかな)い性欲的快感が蘇つたかと思ふと、忽ち消える。
しかし私のそんな好意が、妻の性欲を強く刺戟し過ぎ、妻を病的にしないか、と私は不安になつて来る。妻は極めて淡泊な態度を持してゐる。毎朝の頰ずりにも、妻は静かな微笑を浮かべることを忘れはしない。しかしそれは妻の克己心の強い性格から来てゐるのではないか。一度、性の歓喜を知つた女の体といふものは、そんなものであらうはずがない。
私は本気で妻に自慰行為を進めようと思はぬでもない。しかし妻に致命的な凌辱(りようじよく)を与へるやうで、流石(さすが)に口には出し難い。そのやうな器具は市販されてゐないものか。私は決してふざけてゐるのではない。性欲的不能者の夫だけが感じることのできる、妻に対する、切実な藚罪(しよくざい)感情である。
更に、妻の肉体の歓喜といふ貴重な代償が得られるならば、私は妻の不倫行為も少しも厭ふものではない。決して私の虚勢ではない。妻に対する、むしろ私の愛である。私は以前から妻(亡妻をも含めて)の対男性関係に、嫉妬(しつと)を感じたことは殆(ほとん)どない。妻への信頼度の強さにも因(よ)らうが、私の性欲が受動的、女性的であることにも、大きな原因があるのではないか。その傾向は現在の私には更に拍車がかけられてゐる。嫉妬といふ私の感情は不感症に近い。
むしろ妻のそんな行為を想像するだけで、私は強烈な好色的興味を抱くのである。性欲的不能者の懐(いだ)く色情がいかに不潔であるか、言葉の限りでない。
しかし不潔といひ、いやらしいといつても、その内容は空白である。性欲的不能者の色情は怪(け)しからぬ、さまざまの妄想を描く。が、妄想は空しく荒野を駆けめぐるばかりで、いづれも荒涼、無稽の世界に過ぎない。
ある朝、私は夢を見た。
ひどく殺風景な部屋である。私は二人の男の前に立つてゐる。上半身は裸である。着物はどこで脱いだのか覚えてゐない。ズボン下だけの見苦しい恰好(かつこう)である。二人の男は医者のやうである。何かの検査員のやうでもある。が、奇妙なことに、褐色のタイツを穿(は)いただけであることに気がつく。二人ともひどく冷やかな表情をしてゐる。等身大の十字架のやうな台がある。私は代に背を向けて立ち、両手を上げて横木に当てる。二人の男が左右から私の手を横木に縛る。それまでの行動は自分から行つたはずである。が、私は何をされるのか知らない。少し不安になる。二人の男は鵞(が)ペンのやうなものを持つて、私の両脇に立つてゐる。一人の男が頷(うなづ)くと、一人の男が鵞ペンのやうなもので、私の右の腋窩(えきくわ)を擽(くすぐ)り初め、脇腹の方まで擽る。しかし私はどうしたのか、少しも擽つたくない。二人の男が何か言ふ。ドイツ語らしい。するとやはり医者かも知れない。しかしタイツといふのはをかしい。次ぎに左の御t子が私の左の腋の下を擽る。やはり何の漢字も起らない。今度は二人の男が同時に左右の腋の下を擽る。全然、無感覚である。二人の男は私の手を解き、言ふ。
「お帰り下さい」
私は帰らうとする。二人の男は私を押し止めて言ふ。
「あなたはこちらからぢやない。あちらから出て下さい」
私は指された出口から出ようとする。一人の女が入つて来る。貞子である。私は思はず足を停める。貞子も上半身は裸である。二人の男は既に左右に控へてゐる。それにしても、あの男達は何者であらう。家へ帰つたら、貞子に尋ねてみなければならないと、私は思ふ。
私と同じやうに、貞子は台の前に立ち、両手を上げる。二人の男が布でその手を縛る。貞子の腋の下に黒い腋毛が見えてゐる。が、貞子は至つて冷静な表情してゐる。右の男が例の鵞ペンのやうなものを持つて、貞子の腋の下を擽り初める。貞子は急に顔を歪(ゆが)め、ひどく擽つたさうな、むしろ苦しげな表情をしてゐる。右の男は漸(やうや)く手を離し、何か貞子に話しかけてゐるらしい。貞子は羞恥をさへ含んだ表情で、繰り返し頷いてゐる。
突然、左の男が貞子の腋の下を擽るやうな恰好をした。瞬間、貞子の体がぎくりと動いたやうである。よほど激しく動いたらしく、二つの乳房まで揺れるのが見える。二人の男は顔を見合わせて、冷やかな笑ひを浮かべる。一瞬、貞子は泣き笑ひのやうな表情になつたが、直ぐ思ひ返したか、平静な表情に戻る。改めて左の男が鵞ペンのやうなものを持つて、貞子の腋の下を緩(ゆつ)くり擽り初める。暫く貞子は必死に堪へてゐる風であつたが、急に体をくねらせ、極めて煽情(せんじやう)的な姿態を作る。
左の男が何かを話しかけてゐるらしく、貞子はまた幾度か頷いてゐる。今度は二人の男が左右から貞子を擽る。貞子はいきなり体を仰反(のけぞ)らせる。が、その体の部分部分は勝手勝手に悶(もだ)え苦しんでゐるかのやうである。そのアンバランスがひどく好色的に見える。顔は醜く歪み、目には涙を溜めてゐる。
漸く二人の男は左右に離れ、妻の手を縛つてゐる布を解く。二人の顔にはいつの間にか、今までの冷やかな表情は消え、むしろいたづらつぽい道化(だうげ)じみた表情になつてゐる。更に妙なことに、貞子も二人の男と親しげに話し合つたり、頻(しき)りに頷いては、含羞の微笑を浮かべたりしてゐる。が、やがて二人の男がカーテンを掲げると、貞子は一揖(いちいふ)してその中へ入つて行く。私は急いで妻の後を追はうとする。が、私の足は動かない。その夢と現実との違和感が私の目を覚まさせた。
性欲的不能者であることに気づいて以来、妻の体についての私の煩悩(ぼんなう)が、無意識の裡(うち)に、こんな夢を構成されたのではないか。二人の男がタイツを履いてゐたのは、性欲といふ魔王お抱への道化師とでもいつた意か。
私はそつと妻の手を取る。妻も目覚めてゐて、軽く私の手を握り返す。しかし私は私の頰を妻の頰に摩(す)りよせただけで、勢よく跳ね起きた。
去年のことである。私はこの一夏は暑さを避けるより、むしろ仕事に打込むことによつて、暑さを凌(しの)いてやらうと決心する。一週一度の病院通ひは、まだ止めることを許されないが、体にも異状はなく、気持も比較的昂揚してゐる。かなり清適な日日が続いた。
が、思ひがけず、妻に休暇が取れることになつた。私達は急に思ひ立つて、小旅行に出ることにする。休暇は短いので、上越高原の湯檜曽(ゆびそ)温泉と決める。一昨年末、病院を退院して以来、初めての旅行である。ひどく楽しい。
私は汽車の窓に顔を寄せ、夏の田園風景を眺めて飽かない。高崎、新前橋、渋川を過ぎると、既に高原に近い風景で、汽車は利根川の渓流に沿つて走る。どの駅にも標高が示されてゐて、沼田を過ぎると、急に高度が増して行くのが判る。水上の次が湯檜曽で、汽車はループトンネルに入る。トンネルを出ると、車窓の直下に、再びトンネルの入口が見える。つまり汽車は山を上つて、丁度一廻りしたわけである。
湯檜曽温泉は海抜八百メートルの高地にあるが、四方を山に囲まれてゐて、眺望はあまりきかない。しかし私達の通された部屋は、三方に窓が開いてゐ、絶えず山風が吹き通つて、ひどく涼しい。
浴後、私と妻は夕食の卓につく。鯉の洗ひ、姫鱒(ひめます)の塩焼、ぜんまい、きくらげなど、土地の珍しいものが出る。私と妻は互のコップにビールを注ぎ合ひ、乾杯する。
「涼しいね」
「ほんとに、あら、だめですわ」
灰皿の煙草(たばこ)の灰がすつかり飛んでしまつてゐる。妻は灰皿にビールを流す。掛軸の軸が絶えず壁を叩(たた)いてゐる。
「ね。さう言へば、花時に、山形へ行つたことはないんだね」
「どうしたんです。突然に」
「別に、どうしたつてことはないが……」
何故、突然こんなことを言ひ出したか、自分ながら判らない。しかし言葉の序(ついで)のやうに、私は言ふ。
「来年の春は、山形へ行かうぢやないか」
「はい、行きませう」
「梅も、桜も、桃も一時に咲くんだつてね。あんな大きい景色の中だと、白梅や、桜だけでは、少し淋しいかも知れないね」
「四月の末でせうね。みんな一ぺんに咲いて、嬉しかつたものですわ」
「上野からだと、全く春が、山に来た、里に来た、野にも来たつて、感じらだうからね」
「女学生の時でしたわ、花が満開だといふのに、雪が降つてね、その上、夜になると大きな月が出て、素晴らしかつたですわ」
「それは凄かつたらうな。しかし今の僕には少し壮絶に過ぎる。僕はやつぱり花の村だ。軒端には梅が咲いてゐる。山吹も咲いてゐる。花公方(はなくぼう)も咲いてゐる。遠く、在所、在所には、桜が白く霞んでゐる。あんな大風景の中では、桃の花の色が却つてひどく艶に見えるだらう。ね、きつと来年の春は山形へ行かうよ」
「はいはい、まゐりませう」
絶えず、涼しい夜風が吹入つてゐる。微かに湯檜曽川の川瀬の音も聞えて来る。先刻から、私は快い酔ひを発しながら、静かな喜びに浸つてゐる。
実を言ふと、私の心の中に、例へば寂寥感(せきれうかん)とでもいつた、私に対して至つて冷酷な奴が潜んでゐうのを、私は前まら知つてゐる。私は何とかして、私の心からその忌はしい奴を振落すしてやらうと、随分、無駄な努力をしたものである。しかし今の私はもうそいつから顔を背(そむ)けようとは思はない。むしろ私の喜びは、それをはつきり知り得た。私の心の中から生れて来るやうである。
妻の心の中にはそいつは姿のない姿を潜めてゐるに相違ない。言はば、私と妻はそんな冷酷な奴を中に置いて、互にそつと手を添へ合つてゐるやうなものである。第三者から見れば、そんな二人の姿はひどく哀れであらう。しかし私の心は晴晴しい。この上なく幸福である。
「少し涼し過ぎやしません?」
「さうだね。一つだけしめてもらはうか」
「はい」
妻は立つて、東向きのガラス戸をしめた。


今年のことである。私は数へ年五十九、妻は五十である。
私は机の前に坐つてゐる。旬日前には、一寸(ちよつと)寒い日が続いたが、数日来、温度はよほど回復した。京も、八つ手の葉裏で、羽虫の群れが飛んでゐる。この虫は、初冬の頃や、この季節に温度が少し上昇すると、きまつて現れる。生殖行為であらうか。跳(は)ねるやうに飛びながら、同じ動作を繰り返してゐる。しかしひどく頼りない奴で、少しの風にも直ぐ吹き流される。先刻から、私は何か忘れごとをしてゐるやうで、妙に気にかかつてならない。
昨夜も貞子が帰つて来たのは、私の記憶に残つてゐない。つまり既に私の酔ひがかなり発してゐたことになる。私は例によつてひつこく小言を繰り返したに相違ない。
昨年末以来、予算がどうかと言つて、毎夜、妻の帰宅は遅れた。年末の休みもとらなかつた。幾分疲れてゐるやうにも見えた。
しかし既に予算は復活したはずである。毎夜、私はおいてけぼりを喰はされてゐるやうでもある。が、そんな綿k酢日だけのことでもない。妻は勝気な性格から、とかく無理を押しがちになる。私は妻の過労を恐れる。しかしそれに妻がどう言つたが、私の記憶はない。言争ひになつたやうな覚えがない。
早春の斜陽がガラス戸越しに差し入り、白い原稿用紙の上に、摩(すり)ガラスの模様を映してゐる。ガラス障子は真中を開いておくので、まだ羽虫の群れが跳ねてゐるのが見えてゐる。日も幾分長くなつたやうである。
「病院へ行つて来ます」
妻がさう言つたやうに思はれて来る。しかし以前、夢の中で、私は妻を医者の前で裸にならせたことは幾度かある。今はもうそのやうなことはないつもりでゐるが、私のことであるから当てにならない。が、若(も)し実際に妻がさう言つたとすれば、一体、妻はどこが悪いのであらうか。
「明日、とにかく、癌研へ行つて来ます」
白紙に明礬水(みやうばんすい)で書いた文字が炙(あぶ)り出されて来るやうに、昨夜、妻の言つた言葉が、私の頭に次第にはつきり蘇つて来る。酔ひ痴(し)れた私の頭にも、よほど強烈な印象を刻んだのであらう。酔つぱらつて記憶を残さなかつた出来事は、後になつてどんなに努力しても、思ひ出し得た例は今までに一度もない。妻は確かに言つた。
「左の乳にぐりぐりができてるのです。それがかなり大きくなつてゐます」
夢の中で、或ひは酔火の中で、私の妄想が四年前の妻の姿を描き出したのではない。妻の上半身は裸ではない。勤め帰りのままの姿である。しかも朦朧(もうろう)とした姿ではない。私は妻のスーツの色も柄もはつきりと思ひ出すことが出来る。
女中の敏子が雨戸をしめに来る。さう言へば、原稿用紙の上の磨ガラスの模様もいつか消えてしまつてゐる。それどころではない。庭には暮色が漂ひ、部屋の中も薄暗い。私は急いで電燈のスウィッチを拈(ひね)る。
それにしても妻は何をしてゐるのだらう。或はそれほど案じることもなかつたのかも知れない。若しも悪性のものであつたら、いかに気丈の妻でも走り帰つて来るに相違ない。私は強ひてさう思込むことによつて気持を鎮めようとする。
玄関の扉が開く。貞子が帰つて来たのである。
「どうだつた」
妻が書斎に入つて来て、私の前に坐つたのと、私が思はず立ち上り、さう言つたのとは、殆ど同時である。従つて、妻は私を少し見上げる風にして言ふ。
「覚えてゐて下さつたの。昨夜はかなり廻つてたやうだから、忘れていらつしやるかと思つてた」
ひどく落着きはらつた妻の態度に、私は思ひ返し、ともかく妻の前に坐る。
「そんなことはいいよ。それより、どうだつたの」
「やはり、乳癌ですつて」
「さうか」
一瞬、強い衝撃を受ける。しかしいつかこのことのあることは、予(かね)て覚悟をしてゐたはずではないか。さう思ふことによつて、私は辛うじて自分を受け止める。が、このことの恐しさに比べれば、人間の覚悟とが、理性などといふものは、物の数でもなからう。私には事の重大さが、まだ呑み込めないのかも知れない。或は妻も私と同じ心の状態になるのではないか。しかし妻は至つて平静な態度で言ひ続ける。
「最初に、予診で若いお医者さんに診(み)て貰ひましたの。それから外科部長の森岡先生の診察を受けました。森岡先生はいかにもがつちりした感じの方でした」
「それで、森岡先生はどう言はれたんだい」
「シュミーズを脱いで、スカートだけになつて、前から、横から、また前屈みになつたりして、診ていただきました。レントゲン写真も撮(と)りましたが、その結果を待つまでもなく、手術はしなければならないさうです」
「そうか。切り取つちやうんだね。しかし乳癌は大丈夫だよ」
「先生も、乳癌のことだから、とはおつしやつたけど、後は何ともおつしやいませんでした」
「そりやさうだよ。僕なんかも、未だに大丈夫とは言はれないんだからね」
「でも、私のはかなり進行してゐるらしいのです」
「えつ、すると、どこかへ転移してゐるらしい、と言ふのかい」
「ええ」
「えつ、君、それ本当かい」
「本当です。腋(わき)の下の方へ転移してゐるらしい、と言はれました」
「それは、気味、大へんなことなんだよ。どうして、また、そんなになるまで、隠してゐたんだ」
「かくしてなんかゐませんよ。お乳の下にできてゐたので、気づかなかつたんです。上の方は始終注意してゐたのですけれど」
私はひどく腹が立つ。悔(くや)しさが後から、後から込み上げて来る。妻がそんなになるまで気づかぬはずはなからう。少くとも昨年末には気がついてゐたに相違ない。しかし今更妻を責めたところで何にならう。更にこんな私と妻とが言争つてゐるのは、憐れ極まる。私は余韻を吐き捨てるやうに言ふ。
「今日だつて、こんなに遅くまで、何をしてゐたんだ」
「だつて、入院するとなれば、受継いでもらはなければならないことも、いろいろあるんですもの」
「さうか」
「明日も出勤します。明後日はレントゲンの結果を聞きに行きます。それで、もう私、きつと大人しくしますから、心配かけて、ごめんなさいね」
翌朝、私は妻に言ふ。
「ね、見せてごらんよ」
「怒るから、いや」
「怒らない。昨日は僕が浅慮だつた。絶対に怒らない」
妻は蒲団の上に起き上り、胸を開く。既に妻の左右の乳房はその形を異にし、左の乳房の下部は変色してゐる。しかし妻を責める気持は今は毛頭ない。
「三十年、いや四十年近くも、大事に附けてゐたものが、失くなるのかと思ふと、変な気持。女といふものは、お乳に特別の関心を持つてゐますからね」
「そら、さうだらうとも」
私が通つてゐる病院の放射線科の診察室前の廊下で、私と知り合つた、五十ばかりの上品な婦人がある。五年前に、乳癌の手術をしたといふ。つまりこの病院へ五年間通ひ続けてゐるわけで、私の唯一の先輩である。私達は看護婦とも懇意になつてゐて、極寒の日などには診察室のストーブに当りながら、自分の晩を待つ。ある日、その婦人が主任教授の前の椅子に腰かけて、胸を開いた。それは悲惨とか、無残とかいふ種類のものではない。いはば唯ののつぺらぼうである。が、その婦人の、女の肉体のほんの一部分の白白しさが、突然、途方もなく巨大なものに拡大されて行くのを私は覚えた。
翌日、妻はレントゲン写真の結果を聞きに行く。妻は途中、勤務先に一寸立ち寄つたらしいが、帰りは流石(さすが)に真直ぐ帰つて来たやうである。
「盛岡先生が写真を見ながら、『しかし切りますよ。切るには切りますがね」とおつしやつたけど、思つたより、質(たち)が悪くなかつたんですつて。私、それを聞いて、ほんとに生き返つたやうに思ひました」
「さうか、それはよかつた」
私はさう言つたが、その声には、妻の声のやうな生気はなかつた。一体、質の悪くない癌などといふものがあるららうか。一昨日、医者が随分思ひ切つたことを言ふと思つたが、やはり今日の複線が考へられてゐたのか。しかし妻は今まで激情を抑圧してゐた反動のやうに、ひどく晴晴しい表情をしてゐる。私は石より固く口を噤(つぐ)んでゐなければならない。が、私は今まで自分の心を妻に隠した経験がない。ひどく心苦しい。
「ベッドが空き次第、入院します。さうして、手術をしてから、大塚へ移つて、念のためコバルトをかけるんださうです。いろいろ心配をかけてすみません」
そんなことお互に当然のことだよ。しかしこの病気では先輩だからね。先輩の言ふことは聞かなくちやいかんよ」
「しかも優等生の先輩ですものね」
「さうだとも」
「それから、病院との連絡場所は郁ちやんの勤め先にしておきました」
「さう。ぢや、郁子のところへ電話しておかなくちやいけないね」
二人は電話のあるところへ行く。妻が電話を掛ける。郁子は昨夜遅く、スキーから帰つて来た。
「もしもし、郁ちやん、母さんね、やはり乳癌だつたの。それで入院することになつたのでね、郁ちやん、郁ちやん、どうしたの、郁ちやん……」
「どうしたんだ」と言ふ私に、妻は黙つて受話器を渡す。私が受話器を耳に当てると、思ひがけず娘の嗚咽(をえつ)する声が伝はつて来た。
以来、妻は家にゐて、入院の準備をしてゐる。同僚の岡さんから注意を受けたやうで、今、妻は敏子を相手に寝巻や、白ネルの襦袢(じゆばん)などを縫つてゐる。岡さんは胸部疾患のため、先年、肋骨を八本も切除したといふ経験者である。入院には、下着も和服型の方が便利である。
私は机に向かつてゐる。京も非常に緩い。私は白い十姉妹(じふしまつ)を飼つてゐる。その餌が地面にこぼれるので、雀が多く集つて来る。京は外のガラス戸も開いてゐるので、雀が縁の上までやつて来て、鳥籠のまはりに落ちてゐる餌を啄(ついば)んでゐる。縁側には春の陽が差し入り、雀の影を映してゐる。極めて静かに時が経つて行く。しかし一刻、一刻何の変りもありはしない。突然、どこかで電話のベルが鳴り響いてゐるやうに、私は錯覚する。昨日、娘の嗚咽を聞いて以来、その声は私の胸の中に潜んでゐるやうである。さうしてともすると私の声となつて、込み上げて来さうになるのを、私はじつと堪へてゐる。
その翌日、妻は私、三男、長女と、同僚の岡さんに伴はれ、築地の癌研附属病院に入院する。
しかし妻は至つて元気である。入院手続を初め、総て自分の手ですませ、先頭に立つて、昼食をとりに行くといふ。勿論、虚勢もある。自分自身に対する虚勢である。しかし肉体の苦痛を全く感じないからでもあらう。
銀座の有名な鮓屋(すしや)へ入る。妻は健啖(けんたん)振りを示す。私はあまり食欲がない。それをごまかすやうに、ビールばかり飲む。岡さんと別れ、病室へ帰つて来ても、妻はなかなか寝台へ上らうとしない。が、看護婦が来て、脈を取り、熱を計る。更に体重を計量するため、看護婦室へ来るやうに言はれ、妻はやつと寝巻に替へた。
私は森岡外科部長のところへ挨拶に行く。部長は大きな目で私を直視して言ふ。
「奥さんのはかなり進行してゐますから、手術後、大塚へ移つて、コバルトをかけてもらひます」
更に私は原田主任医のところへ行く。若い主任医はいきなり叱りつけるやうに言ふ。
「知つてゐるのですか。奥さんが乳癌だといふこと、知つてゐるのですか」
「乳癌だといふことは家内から聞きましたが」
「ところが、奥さんのは発見されるのが遅かつた。その上、気づかれてからも、ここへ来られるまでに、かなり日が経つてゐるやうに思はれます。その間、癌はすつかり進行してしまつてゐます」
私の腰かけてゐる椅子が激しく鳴つた。私の体はアルコール中毒のために、常に微かに慄(ふる)へてゐる。ところが感情が昂(たか)ぶつてくると、慄へは急に甚しくなる。
「乳癌は初期だつたら、殆(ほとん)ど心配はいらないんです。どうして、こんなことにしちやつたんです」
若い医師の気持は判る。私の答へる言葉はない。
翌日、私が病院へかけつけ、二階の妻の病室へ入つたのは八時二十分である。
「では、下へ参りませう」
さう言つて、看護婦が妻を呼びに来たのは、私が手術承諾書に署名、捺印した、その直後のことである。妻は看護婦に連れられ、歩いて階下へ下りて行く。私もその後から従(つ)いて行く。
カーテンで仕切られた、手術室の前の廊下には、一台の患者運送車が置いてある。
「これへおやすみになつて」
妻は袢纏(はんてん)を脱ぎ、その上に仰臥する。看護婦が赤い布で妻の目を覆ひ、その腕に注射を打つ。私は妻の袢纏を抱へ、その側に立つてゐる。
「スポーツ新聞でも読んで、待つてゐて下さい」
「さうするよ」
手術着の下着をつけた医師や、看護婦が頻(しき)りに手術室を出入りしてゐる。
「意識が少しだらつとして来た。注射のせゐでせうか」
「さうだらう。昨夜ね、夕御飯の時に、和夫がね、私があんたに癌をうつしたと言ふんだよ」
「そんな馬鹿なことありませんわ」
「ところが、新学説でね、癌は一種のビールスだと言ふんだが、その媒体(ばいたい)は、馬鹿にしてゐるぢやないか、愛情なんだつてさ」
妻はその口許(くちもと)に薄笑ひを浮べる。
「早速、兄ちやんのところへは知らせてやつたがね。参考までにね」
妻が患(わづら)つてゐるのは左である。従つて右の手首に、妻の血液型を記した厚紙が括(くく)りつけてある。妻はその右手から腕時計をはづし、私に渡す。
「かぜを引かぬやうにして、待つてて下さいね」
「はいはい」
それからもかなり時間が経つたやうでもある。さうでないやうでもある。看護婦が来て、私に言ふ。
「では、あちらでお待ち下さい」
妻は運送車に乗せられ、手術室へ運ばれて行く。九時三十分であつた。
カーテンの外の廊下には、いつの間にか、大勢の外来患者が詰めかけてゐる。私はその椅子の一つに腰をおろす。
あの時、私は印形(いんぎやう)の皮袋をどこへしまつたか、全く意識しなかつたことに気がつく。私は袂(たもと)の中や、帯の間を探つてみる。が、それらしいものは指に触れない。やはりあわててゐたのであらう。しかしこんな些細(ささい)なことが頻りに気にかかるのも、普通の精神状態ではあるまい。私は煙草を取り出して、火をつけた。
不意に、私の姓が呼ばれる。顔を上げると、先刻の看護婦である。一摑(ひとつか)みの白布が私の手に渡される。妻の襦袢と腰巻である。私は妻の襦袢の下にして、傍の附添婦に渡した。それがいけなかつた。附添婦は大勢の人の前で、一つ、一つ、丁寧に拡げて、たたみ始めた。
十一時過ぎ、手術は終つた模様である。カーテンを掲げて、森岡部長が出て来る。私は立つて一礼する。外科部長は会釈(ゑしやく)を返して、通り過ぎた。しかしそれからも私にとつてはかなり長い時間が経つた。漸く妻が運送車で運び出されて来たのは、十一時二十五分である。妻は担架で会談を上り、病室に帰り、蒲団が取りのけられる。その妻の両手は紅絹(もみ)のきれ地で縛られてゐる。全くの偶然のことかも知れない。が、誰かの心遣ひでもあるかと、私は紅い絹の色を見つめてゐる。
妻の体は運送夫に抱へられ、ベッドの上におろされる。早速、紅絹は解かれ、左の背中にフォームラバーが当てられる。看護婦がベッドの裾(すそ)に廻り、掛蒲団を捲り、妻の左右の内股に太い注射針を刺す。吊り下げられた、ガラス器の中の注射液が徐徐に低下して行く。しかも妻は麻酔がかかつてゐるので、意識はない。
「新村さんの奥さん、判りますか」
看護婦が少し声を大きくして言ふ。妻は目を開き、頷(うなづ)く。しかし妻は直ぐ目に閉ぢ、眠つてしまふ。
看護婦が私を呼びに来る。看護婦室へ行く。原田主任医がゐる。
「これが、奥さんの取つたものです」
原田医師がビニールの覆ひを取ると、瀬戸引の盤の中に大きな肉塊が現れる。一枚の赤黒い筋肉の下に、丸い塊が葡萄状(ぶだうじやう)についてゐる。その黄色なのは雞肉から類推して、脂肪であらうか。
「これが癌です」
原田医師がその一つを撮(つま)んで、メスを入れる。私のやうな素人(しろうと)には、どれがそれとはつきり判らない。が、そのいづれにも、銀色の棘(とげ)がのやうな筋が入つてゐる。私は或はそれが癌か、と見る。
「随分、沢山作つてくれたものです。これが大胸肉ですが、これはこんなにきれいです。しかし普通は二枚ともすつかり取つてしまふのですが、奥さんの場合は、コバルトをかける関係で、一枚だけ残しておきました」
原田医師がさう言ひながら、肉塊を取つて、引つくり返す。まるで覆面を取つたかのやうに、完全な乳房の形が現れる。乳嘴から上部三分の二のところまでは、皮膚も残されてゐる。しかしその皮膚は既に死色を呈してゐる。どうしたわけか、皮膚の上にも数条のメスの痕(あと)が走つてゐる。乳房の左の下部から、肉の粒を連ねた房のやうなものが、垂れ出てゐる。原田医師はそれにもメスを入れながら言ふ。
「腋の下も、一応、取るに取りました。しかし全部取つたわけではありません。非常に危険なところに出来てるのもあるやうです。しかしコバルトをかける関係で、後はあちらに任せることにしあmした。ですから、手術の傷がある程度直れば、直ぐ大塚の方へ廻つてもらひます」
瀬戸引の盤の横に、「新村貞子(48)」とマジックインキで記された札がおいてあるのが、初めて私の目に入る。或はアルコール漬けにでもして、この病院のどこかで、保存されるのであらうか。私は厚く礼を述べて、看護婦室を出る。
妻の意識はまだ回復してゐない。軽い鼾(いびき)を立てて眠つてゐる。私は椅子に腰をかけて、暫くその寝顔を見入つてゐる。すると、何となく気力が蘇つて来るのを覚える。勿論、この慈悲の始終ないことは十分に知つてゐる。しかしこの空しいもののために、私は私の最後の力を振り絞りたいのだ。などと言へば、誇張に過ぎる。感傷に溺れてゐる時ではない。私はこの妻と喜び勇んで生き抜かなければならない。急に気持が昂揚(かうやう)する。が、私はかなり疲れた。それに喉がひどく乾く。少し湿りをくれてやらうと、私は立ち上つて、部屋を出る。
看護婦室の前を通る時、思はず私は目がその方へ走る。今はひつそりとなつた看護婦室の棚の上に、妻の切り取られた乳房が先刻のままに置かれてゐる。その横に、妻のそれより一廻り小さい、新しい乳房が、やはり上向きに並んでゐた。


毎日、私は妻の病院へ通つてゐる。国電で四谷まで行き、地下鉄に乗換へ、西銀座で降りる。西銀座から病院まで往復とも自動車に乗らないことにする。少しでも足を強くしたいためである。また、私は決して道を急がない。散歩のつもりで歩いて行く。舗道を横断する時も、青の途中では横切らない。赤になり、更に青になるまで待つてゐる。少しでも神経を疲れさせないためである。
次第に歩くのが億劫(おくくふ)でなくなつて来る。気持のせゐかも知れないが、階段を上る足取りもしつかりして来る。確かに食欲も出て来る。ある日、妻は見舞に貰つた鮓(すし)を食したので、私は妻の昼食を喰べる。丼(どんぶり)の飯をすつかり平げて、妻を驚かせる。昼間に種類を口にすることも全くなくなる。病院から帰つて来ると、直ぐに机に向かふ。私も仕事がしたくてならないのである。
手術の翌朝、妻は大きな岩に挾まれてゐるやうだと、疼痛(とうつう)を訴へてゐたが、意外に早く痛みもとれ、手術の傷の回復は至つて順調である。大塚へ移るのもさう遠くなからう。
ある朝、私が目を覚ますと、私の性欲的機能が回復してゐるのに気づく、瞬間、ひどく嬉しい。まるで生き返つたやうである。或は偶然、放射線による障害が消滅する時期に当つてゐたのかも知れない。が、私は妙な気持になる。先日、看護婦室の棚の上に置かれた、妻の乳房を見て、私は私の性欲史に恰好の終止符が打たれたと、窃(ひそ)かに思つた。さうしてかなり深刻に、しかし冷然と、その結論を受け止め得たつもりであつた。しかしそんな生優しいものでは更にない。私の性欲史はまだ終つてなどゐない。しかも私はそれほど悪い気持ではない。呆れ果てる。いつそ滑稽でさへある。私は妻のゐない床の中で、文字通り苦笑するより他はなかつた。
その翌翌朝、私は鳴き頻(しき)る鶯(うぐひす)の声を聞きながら、目を覚ました。私の性器は、やはり隆隆と勃起(ぼつき)してゐた。その日、妻はコバルトをかけるため、大塚の癌研附属病院へ移ることになつてゐる。

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最終更新:2017年06月28日 13:47