乱兆(らんちょう)
一
- 時は、中平(ちゅうへい)六年の夏だった。
- 洛陽宮(らくようきゅう)の裡(うち)に、霊帝(れいてい)は重い病(やまい)にかかられた。
- 帝は病の篤(あつ)きを知られたか、
- 「何進(かしん)をよべ」
- と、病褥(びょうじょく)から仰(おお)せ出(だ)された。
- 大将軍何進(かしん)は、すぐ参内(さんだい)した。何進は元(もと)牛や豚を屠殺(とさつ)して業(わざ)としている者であったが、彼の妹が、洛陽にも稀(まれ)な美人であったので、貴人の娘となって宮廷に入り、帝の胤(たね)をやどして弁皇子(べんおうじ)を生んだ。そして、皇后となってからは何后(かこう)といわれていた。
- そのため兄の何進(かしん)も、一躍(いちやく)要職につき、権(けん)を握(にぎ)る身となったのである。
- 何進は、病帝をなぐさめて、
- 「ご安心なさいまし。たとえ如何(いか)なることがあっても、何進がおります。又、皇子(おうじ)がいらっしゃいます」と言って退(さが)った。
- しかし、帝の気色は、慰(なぐさ)まないようであった。
- 帝には、なお、複雑な憂悶(ゆうもん)があったのである。何后のほかに、王美人(おうびじん)という寵姫(ちょうき)があって、その腹にも皇子の協(きょう)が生まれた。
- 何后は、それを知って、大いに嫉妬(しっと)し、ひそかに鴆毒(ちんどく)を盛って、王美人を殺してしまった。そして、生(な)さぬ仲(なか)の皇子協(きょう)を、霊帝のおっ母(か)さんにあたる董太后(とうたいごう)の手へ預(あず)けてしまったのである。
- ところが、董太后は、預けられた協皇子が可愛(かわい)くてたまらなかった。帝も、又、何后の生んだ弁(べん)よりも、協(きょう)に不愍(ふびん)を感じて偏愛(へんさい)されていた。
- で、十常侍(じゅうじょうじ)の蹇碩(けんせき)などが、時々そっと帝の病褥(びょうじょく)へ来て囁(ささや)いた。
- 「もし、協皇子を、皇太子に立てたいという思(おぼ)し召(め)しならば、まず何后(かこう)の兄何進(かしん)から先に誅罰(ちゅうばつ)なさらなければなりません。何進を殺すことが、後患(こうかん)を断つ所以(ゆえん)です」
- 「……ウム」
- 帝は蒼白(あおじろ)い顔で頷(うなず)かれた。
- 自己の病(やまい)は篤(あつ)い。いつとも知れない命数。
- 帝は決意すると急がれた。
- にわかに、何進の邸(やしき)へ向かって、
- 「急ぎ、参内(さんだい)せよ」と、勅令(ちょくれい)があった。
- 何進は、変に思った。
- 「はてな。きのう参内したばかりなのに?」
- 急に帝の病状でも変わったのかと考えて、家臣に探らせてみるとそうでもない。のみならず、十常侍の蹇碩(けんせき)等が、なにか謀(はか)っている経緯(いきさつ)がうすうすわかったので、
- 「小癪(こしゃく)な輩(やから)。そんな策(て)に乗る何進ではない」
- と、参内しない代わりに、廟堂(びょうどう)の諸大臣を私館へ招いて、
- 「こういう事実がある。実にけしからぬ陰謀だ。さなきだに天下皆、十常侍の輩(ともがら)を恨(うら)んで、機(おり)あらば、彼等(かれら)の肉を喰(くら)わんとまで怨嗟(えんさ)している。おれもこの機会に、宦官(かんがん)どもをみな殺しにしようと思うが、諸公の御意見はどうだ」と、会議の席に諮(はか)った。
- 「…………」
- 誰も皆、黙ってしまった。唯(ただ)びっくりした眼ばかりであった。すると、座隅(ざぐう)の一席からひとりの白皙(はくせき)の美丈夫が起立して、
- 「至極(しごく)けっこうでしょう。しかし十常侍とその与党の勢力というものは、宮中においては、想像のほかと承(うけたまわ)ります。将軍、威(い)あり実力ありといえども、うっかり手を焼くと、御自身、滅族(めつぞく)の禍(わざわい)を求めることになりはしませんか」と忠言を吐(は)いた。
- 見るとそれは、典軍(てんぐん)の校尉(こうい)曹操(そうそう)であった。何進の眼から見れば寔(まこと)に微々(びび)たる一将校でしかない。何進は苦い顔をして、
- 「だまれっ。貴様のような若輩の一武人に、朝廷の内事がわかってたまるものか。ひかえろ」
- と、一言に叱(しか)りつけた。
- 為(ため)に、座中白(しら)けわたって見えた時、折も折、霊帝(れいてい)がたった今崩御(ごうぎょ)されたという報(し)らせが入った。
二
- 何進(かしん)は、その報らせを手にすると、会議の席へ戻って来て、諸大臣以下一同に向かい、
- 「ただ今、重大なる報らせがあったが、まだ公(おおやけ)の発表ではないから、そのつもりで聞いて欲しい」と、前提し、厳粛なる口調で、次のように述べた。
- 「天子、御不例(ごふれい)久しきに亙(わた)っておったが、今日遂(つい)に、嘉徳殿(かとくでん)において、崩御あそばされた」
- 「…………」
- 何進がそう言い終わっても、やや暫(しばら)くの間、会議の席は寂(せき)として、声を発する者もなかった。
- 諸大臣の面上には、はっとしたような色が流れた。予期していたことながら、
- ――どうなる事か?
- と、この先の政治的変動やら一身の去就(きょしゅう)に、暗澹(あんたん)たる同様がかくしきれなかった。
- しかも場合が場合である。
- 何進が、十常侍(じゅうじょうじ)をみな殺しにせんと息(いき)まいてこの席に計り、十常侍等は、家臣を謀(はか)って、亡(な)き者(もの)にしようと、暗躍しているという折も折であった。
- 抑(そも)、何の兆(きざし)か。
- 人々が一瞬自失したかのように、暗澹たる危惧(きぐ)の底に沈んで、
- ――噫(ああ)、漢朝(かんちょう)四百年の天下も今日から崩(くず)れ始める兆か。
- と、いうような予感に襲われたのも、決してむりではない。
- 暫(しば)し、黙禱(もくとう)のうちに、人々は亡(な)き霊帝をめぐる近年の宮廷の浅(あさ)ましい限りの女人(にょにん)と権謀の争いやら、数々の悪政と頽廃(たいはい)を胸によび回(かえ)して、今さらのように、深い嘆息をもらし合った。
× × ×
- 霊帝(れいてい)は不幸なお方だった。
- 何も知らなかった。十常侍たちの見せる「偽飾(ぎしょく)」ばかりを信じられて、世の中の「真実」というものは、何一つ御存じなく死んでしまわれた。
- 十常侍の一派にとっては、霊帝は即ち「盲帝(もうてい)」であった。傀儡(かいらい)にすぎなかった。玉座(ぎょくざ)は彼等が暴政をふるい魔術をつかう恰好(かっこう)な檀上であり帳(とばり)であった。
- その悪政を数えたてればきりもないが、まず近年の事では、黄巾(こうきん)の乱(らん)後、恩賞を与えた将軍や勲功者へ、裏から密(ひそ)かに人を遣(や)って、
- 「公等(こうら)の軍功を奏上して、公等はそれぞれ莫大(ばくだい)な封禄(ほうろく)の恩典にあずかりたるに、それを奏した十常侍に、何の沙汰(さた)もせぬのは、非礼ではないか」
- などと賄賂(わいろ)のなぞをかけたりした。
- 恐れて、すぐ賂(まいない)を送った者もあるが、皇甫嵩(こうほすう)と、朱儁(しゅしゅん)の二将軍などは
- 「何をばかな」
- と一蹴(いっしゅう)したので、十常侍たちは交々(こもごも)に、天子に讒(ざん)したので、帝はたちまち、朱儁、皇甫嵩のふたりの官職を剥(は)いで、それに代わるに、趙忠(ちょうちゅう)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任命した。
- 又、張讓(ちょうじょう)その他の内官(ないかん)十三人を列侯(れっこう)に封(ほう)じ、司空(しくう)張温(ちょううん)を太尉(たいい)に昇(しょう)せたりしたので、そういう機運に乗った者は、十常侍に媚(こ)びおもねって、更に彼等(かれら)の勢力を増長させた。
- 稀々(たまたま)、忠諫(ちゅうかん)をすすめ、真実をいう良臣は、みな獄(ごく)に下されて、斬(き)られたり毒殺されたりした。
- 従って宮廷の紊(みだ)れは、偽(あざむ)かず、民間に反映して、地方にふたたぎ黄巾賊の残党やら、新しい謀叛人(むほんにん)が蜂起(ほうき)して、洛陽城下に天下の危機が聞こえて来た。
- この動乱と風雲の再発に、人の運命も波浪に弄(もてあそ)ばされる如(ごと)く転変を極(きわ)めたが、稀々(たまたま)、幸いしたのは、何年来、不遇の地に趁(お)われて、代州(だいしゅう)の劉恢(りゅうかい)の情(なさ)けに漸く身をかくしていた劉備玄徳(りゅうびげんとく)であった。
三
- 黄匪(こうひ)の乱(らん)が熄(や)んでから又間もなく、近年各地に蜂起した賊では、魚陽(ぎょよう)(河北省)を騒がした張挙(ちょうきょ)、張純(ちょうじゅん)の謀叛。長沙(ちょうさ)、江夏(こうか)(湖南省・岳州(がくしゅう)の南)あたりの兵匪の乱(らん)などが最も大きなもんもだった。
- 「天下は泰平(たいへい)です。みな帝威(ていい)に伏(ふく)して、何事もありません」
- 十常侍(じゅうじょうじ)の輩(ともがら)は、口をあわせて、いつもそんなふうにしか、奏上していなかった。
- だが。
- 長沙(ちょうさ)の乱へは、孫堅(そんけん)を向かわせて、平定に努めていた。
- 又劉焉(りゅうえん)を益州(えきしゅう)の牧(ぼく)に封(ふう)じ、劉虞(りゅうぐ)を幽州(ゆうしゅう)に封じて、四川(しせん)や魚陽(ぎょよう)方面の賊を討伐させていた。
- その頃。
- 故郷の涿県(たくけん)から再び戻って、代州(だいしゅう)の劉恢(りゅうかい)の邸(やしき)に身を寄せていた玄徳は、主(あるじ)劉恢から(時節は来た。これを携(たずさ)えて、幽州の劉虞を訪ねてゆき給(たま)え。虞(ぐ)は自分の親友だから、君の人物を見ればきっと重用するだろう)と言われて、一通の紹介状をもらった。
- 玄徳は恩を謝して、直ちに、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)などの一族を連れ、劉虞(りゅうぐ)の所へ行った。劉虞はちょうど、中央の命令で、魚陽に起った乱賊を誅伐(ちゅうばつ)にゆく出陣の折であったから、大いに欣(よろこ)んで、
- (よし。君等(きみら)の一身はひきうけた)と、自分の軍隊に編入して、戦場へつれて行った。
- 四川、魚陽の乱も、漸(ようや)く一時の平定を見たので、その後、劉虞は朝廷へ表(ひょう)を上(たてまつ)って、玄徳の勲功ある事を大いに頌(たた)えた。
- 同時に、廟堂(びょうどう)の公孫瓚(こうそんさん)も、
- (玄徳なる者は、前々(ぜんぜん)黄賊の大乱の折にも抜群の功労があったものです)と、上聞(じょうぶん)に達したので、朝廷でも捨ておかれず、詔(みことのり)を下して、彼を平原県(へいげんけん)(山東省・平原)の令(れい)に封じた。
- で玄徳は、即時、一族を率(ひき)いて任地の平原へさし下った。行ってみると、ここは地味豊饒(ほうじょう)で銭粮(せんろう)の蓄(たくわ)えも官倉(かんそう)に満ちているので、
- (天、我(われ)に兵馬を養(やしな)わしむ)と、みな非常に元気づいた。そこで玄徳以下、張飛や関羽たちも、ようやくここに酬(むく)いられて、前進一歩の地を占め、大いに武を練(ね)り兵を講じ、駿馬(しゅんめ)に燕麦(えんばく)を飼って、平原の一角から時雲の去来(きょらい)をにらんでいた。
- ――果たせるかな。
- 一雲去れば一風生じ、征野に賊を掃(はら)い去れば、宮中の瑠璃殿裡(るりでんり)に冠帯(かんたい)の魔魅(まみ)や金釵(きんさい)の百鬼は跳梁(ちょうりょう)して、内外いよいよ多事の折から、一夜の黒風に霊帝は崩(ほう)ぜられてしまった。
- 紛乱(ふんらん)はいよいよ紛乱を見るであろう。漢室四百年の末期相(まっきそう)はようやくここに瓦崩(がほう)のひびきをたてたのである。――如何(いか)になりゆく世の末やらん、と霊帝崩御の由(よし)を知るとともに、人々みな色を失つて、呆然(ぼうぜん)、足もとの大地が九仭(きゅうじん)の底へめrこむような顔をしたのも、あながち、平常の心がけ無き者とばかり嗤(わら)えもしないことであった。
× × ×
- 会議の席も、寂(せき)としてしまい、咳声(しわぶき)をする者すらなかったが、そこへ又、慌(あわただ)しく、
- 「将軍。お耳を」と、室外にちらと影を見せた者があつた。
- 何進(かしん)に通じている禁門(きんもん)の潘隠(はんいん)であつた。
- 「オ、潘隠か。何だ」
- 何進はすぐ会議の席を外(はず)し、外廊(がいろう)で何かひそひそ潘隠の囁(ささや)きを聞いていた。
四
- 潘隠(はんいん)が告げていうには、
- 「十常侍(じゅうじょうじ)の輩(ともがら)は例に依(よ)つて、帝の崩御と同時に謀議(ぼうぎ)をこらし、帝の死を隠しておいて、まず貴方(あなた)を宮中に召し、後の禍(わざわい)を除いてから喪(も)を発し、協皇子(きょうおうじ)を立てて御位(みくらい)を継がしめようという魂胆(こんたん)に密議は一決を見たようであります。――きっと今に、宮中から帝の名をもって、将軍に参内(さんだい)せよと、使いがやってくるにちがいありません」
- 何進(かしん)は聞いて、
- 「獸(けだもの)め等(ら)、よしっ、それならそれで俺(おれ)にも考えがある」
- 「憤怒(ふんど)して、会議の壇に戻り、潘隠(はんいん)の密報を諸大臣や、並居(なみい)る文武官に公然とぶちまけて発表した。
- ところへ案(あん)の定(じょう)、宮中からお召しという使者が来邸して、
- 「天子、今御気息(ごきそく)も危(あや)うし、枕頭(ちんとう)に公(こう)を召して、漢室の後事を託せんと宣(のたま)わる。いそぎ参内あるべし」
- お、恭(うやうや)しくいった。
- 「狸(たぬき)め」
- 何進は、潘隠へ向かって、
- 「こいつを血祭りにしろ」と命じるや否(いな)や、再び、会衆の前に立つて、
- 「もう俺の堪忍(かんにん)は破れた。断乎(だんこ)として俺は欲することをやるぞ!」と呶鳴(どな)った。
- すると、先に忠言して何進に一喝(いっかつ)された典軍(てんぐん)の校尉曹操(そうそう)が、ふたたび沈黙を破って、
- 「将軍将軍。今日(こんにち)遂(つい)に断(だん)を下して計(けい)を為(な)さんとするならば、まず、天子の位を正(ただ)して然(しか)る後に賊を討つことを為し給え」と叫んだ。
- 何進も、今度は前のように、だまれとはいわなかった。大きく頷(うなず)いて、
- 「誰(だれ)か我が為(ため)に、新帝を正して、宮闕(きゅうけつ)の謀賊(ぼうぞく)どもを討(う)ち尽(つ)くさん者やある」
- 爛(らん)たる眼をして、衆席を見まわすと、時に、彼の声に応じて、
- 「司隷校尉(しれいこうい)袁紹(えんしょう)ありっ!」と名乗って起(た)った者がある。
- 人々の首(こうべ)は、一斉(いっせい)にその方へ振り向いた。見ればその人は、貌相魁偉(ぼうそうかいい)胸ひろく双肩威風(そうけんいふう)をたたえ、武芸抜群の勇将とは見られた。
- 是(これ)なん、漢(かん)の司徒(しと)袁安(えんあん)が孫(そん)、袁逢(えんほう)が子、袁紹(えんしょう)であった。袁紹字(あざな)は本初(ほんしょ)といい、汝南(じょなん)汝陽(じょよう)(河南省・淮河(わいが)上流の北岸)の名門で門下に多数の吏事(りじ)武将を輩出(はいしゅつ)し、彼も現在は漢室の司隷校尉の職にあった。
- 袁紹は、昂然(こうぜん)と述べた。
- 「願わくば自分に精兵五千を授(さず)け給(たま)え。直(ただ)ちに、禁門に入って、新帝を擁立(ようりつ)し奉
たてまつ)り、多年禁廷(きんてい)に巣(す)くう内官共をことごとく誅滅(ちゅうめつ)して見せましょう」
- 何進はよろこんで、
- 「行けっ」と、号令した。
- この一声に洛陽(らくよう)の王府は一転(いってん)戦雲に天と修羅(しゅら)の地に化(な)ったのである。
- 袁紹は、たちまち鉄甲(てっこう)を身に鎧(よろ)い、御林(ぎょりん)の近衛兵(このえへい)五千をひっさげて、内裏(だいり)まで押し通った。王城の八門市中の街門(がいもん)のこらず閉じて戒厳令(かいげんれい)を布(し)き、入(い)るも出(い)づるも味方以外は断乎(だんこ)として一人も通すなと命じた。
- その間(かん)に。
- 何進もまた、車騎将軍たる武装をして何顒(かぎょう)、荀攸(じゅんしゅう)、鄭泰(ていたい)などの一族や大臣三十余名を伴(ともな)い、陸続(りくぞく)と宮門に入り、霊帝の柩(ひつぎ)のまえに、彼が支持する弁太子(べんたいし)を立たせて、即座に、新帝御即位を宣言し、自分の発声で、百官に万歳を唱(とな)えさせた。
最終更新:2018年01月02日 19:11