長州陣夜話(山本周五郎)

  • 底本:昭和51年11月10日実業之日本社発行『山本周五郎 幕末小説集』

本文

慶応元年五月、徳川家茂は自ら旗下の兵を率いて長州再征の軍を発し、先ず総督紀伊大納言をして芸州に牙営(がえい)を進め毛利家の出城(でじろ)佐和野城を攻略せしめた。
城主林右馬頭(はやしうまのかみ)は善戦したが、幕軍は怒涛の如く殺到、六月初旬遂に佐和野城下に迫って完全に包囲陣を布(し)いた。城兵は食糧物資に困窮しつつも、包囲軍に対して城下の周囲に厳重な柵を結(ゆ)い、堀をめぐらして、山口城よりの援軍来る迄は、幕軍を一歩も入れじと防備怠らなかった。
斯くて対陣月余、七月はじめの或る朝のことである――。
未だ明けきらぬ城下町は、乳色の濃い霧に閉ざされて、樹立も屋並もひっそりと霞んでいる。――この時刻に、山伏町のとある古びた屋敷の庭では、さっきから頻りに凄じい気合の声が聞えていた。
「えーイ、やっ、えーイッ」
立罩(こ)めた霧の中で、元気いっぱいに叫びながら、一人の娘が甲斐々々しく裾をからげ、襷汗止めをして大薙刀(なぎなた)を振っているのだ。
凛とした美しい頰は活々と燃え、上背のある肉置(ししおき)の豊に緊まった体には、若い血潮が脈々と跳っている。――佐和野城下の郷士として聞えた名家、矢崎家の長女で小弓と云う、今年二十(はたち)の娘盛りであるが、父も母も死んだあと、十一歳になる弟の棋一郎(きいちろう)を、手一つに守育てている健気さ。然も毎日未明に起出でて、女ながらも怠らず武道を励み、
――遉(さすが)は矢崎家の娘だ。
と評判をとった女丈夫であった。
「やあ!えーイッ」
今朝も斯うして、熱心に稽古を続けていた時である。
庭の裏木戸が音もなく明いて、小具足の上から陣羽織を着た若い武士が一人、すーっと内庭へ入ってきた。そして、霧をすかしながら、暫くのあいだ、昵(じっ)とその稽古ぶりを見戍(みまも)っていたが、――やがて何事か独り頷きながら腰の大剣を抜く、足音を忍んで小弓の背後へ廻ると、いきなり、
「えイーッ!」
裂帛の気合をかけた。
「はっ!!」
刹那、娘は燕のように左へ、身を翻えしざま向直って大薙刀を下段に構えた。
「お美事、お美事でござる」
若武者は大剣を納めて、微笑しながら霧の中を近づいてきた。
「まあ信次郎さま」
「折角お稽古のところ、驚かせ申して済みませんでした。然し――これで拙者も安心してお別れができます」
「別れ――?」
小弓の美しい眉がさっと曇った。
「実は昨夜、大番頭(おおばんがしら)から命令が出て、拙者も愈々木陣中へ詰める事になったのです。役目は北の木戸五番組の組頭、今日から任役に定まったのでござる」
「まあそれは急な……」
「ひと眼会ってお別れ申上げようと、来てみると薙刀のお稽古、失礼ながら心得の程を拝見致し度くなり、思わず無礼を仕(つかまつ)ったが、思いの外のお腕前にて心強く出陣が出来ます」
「いいえほんの真似事、お恥しゅう存じます。ではあの……お急ぎでもございましょうが、ちょっとお寄り遊ばして粗茶なと召上って下さりませぬか」
「それではお縁先まで」
小弓は支度を直して家へ入った。
若武者の名は館川(たてかわ)信次郎、大番組で二百五十石を取る。小弓とは早くから親同志が許した許嫁の間柄で、去年婚礼を挙げるところだったが、卒如として起った幕府第一回の長州征戦に会し、そのまま延びて今日に及んだのであった。


広縁に腰を下して、待つ程もなく小弓が茶道具を運んで来る、それと一緒に弟の棋一郎も出て来た。――眼のくりくりとした、如何にも悪戯(いたずら)そうな少年である。
「館川のお兄様、お早うございます」
「や、棋一郎か」
信次郎はにっこりしながら、「貴様、姉上が早くから薙刀のお稽古をしているのに、いつまで寝坊をしていては駄目だぞ」
「だって僕は毎(いつ)もお姉さまの済んだ後でするんだぜ、僕の剣術はとても筋が良いんだってさ」
「なんです、その言葉は」
小弓が強く叱った、「町家の者の口真似をしてはなりませんと云ってあるでしょう」
「はっはっは、それみろ、姉上に叱られるではないか、それに僕などと云う事をどこで覚えた」
「皆が云っていますよ、御本城の奇兵隊ではみんな僕僕って云うんだって、僕も大きくなったら奇兵隊に入って暴れてやるんだ、高杉晋作なんか家来にしてやる」
信次郎も小弓も思わず微笑した。
是が一生の別れになるかも知れぬ、遽(あわただ)しい袂別に何のもてなしも無い粗茶、小弓が心を籠めて淹れる一服を静かに喫して、
「さて、棋一郎」
と信次郎は向直った。「拙者は興から出陣と定り、北の木戸詰めとなった。おまえも知っている通り、佐和野城下は幕軍の包囲陣に孤立して、いつ決戦となるか知れぬ有様だ。今度砲火があがれた迚(とて)も生きて還る事は覚束(おぼつか)ない、そこで――改めて申聴かせるが、其方は矢崎家を継ぐべき身上、今後ともよく姉上の言葉を守って立派な人物にならなければいかんぞ」
「はい、よく分りました」
「小弓どの、御旗をお持ち下さい」
信次郎が振返って云う、小弓は頷いて立ったが、間もなく一旒の古びた旗を取出してきた、白竜の雲を巻いて天上する相(すがた)が描いてある――信次郎はそれを片手に捧げて、
「棋一郎、この旗を存じて居るか」
「知ってます」
少年は遉(さすが)にきっと衿を正した、「矢崎家の御先祖様が、戦場の功に依って毛利大膳太夫様から頂戴した品です」
「そうだ、毛利家に白竜の旗ありと、関東にまで聞えた名誉ある御旗だ、其方はこの白竜を受継ぐべき重い責任のある体だぞ、それを忘れずにきっと立派な武士になれ、宜いか」
「はい、必ず偉い武士になります」
「それを聞けば最早思い残す事はない」
信次郎は旗を小弓に返すと、
「それではお別れ申す」
と腰をあげた。
「もうお立ち遊ばしますか」
小弓は微かに残り惜しげな眼をあげた、「どぞ御武運めでたく」
「小弓どのにも御堅固で」
信次郎はひたと娘の眼を見た。小弓も無量の想いを籠めて男を見上げた。女丈夫と云われても娘である――ふっと睫に露が溢れる。
「――さらば」
と云って信次郎は、強く外向くとその儘、足早に霧の中を立去って行った。――小弓は暫しその後姿を見送っていたが、やがて心を執り直すと、
「棋一郎、いま館川様の仰せられた事、決して忘れてはなりませぬぞ」
「お姉さま、大丈夫です」
「私は女の身、少年ながらそなたは矢崎家の主人です。若し館川様が……御戦死遊ばすようなこともあらば、私は生涯――有髪の尼となってそなたを護立てる覚悟、その積(つもり)でそなたも父上の子として恥しくない武士になってお呉れ、お分りですね」
「大丈夫ですとも」
棋一郎は肩をつきあげた、「お姉さまだって心配しなくても宜いですよ、館川のお兄さまが討死したら、僕がきっとお姉さまを慰めてあげますよ」
「まあ、出陣の朝に討死などと云うものではありません。さあ――」
と小弓は立上った、「御旗を納って来ますから、そなたは撃剣の支度をなさい」
「合点(がってん)です」
「またそんなことを」
小弓は睨んで、「そんな野卑なことを云ってはなりません、何処でそんな言葉を覚えて来るのですか」
棋一郎は困って頭を掻きながら、
「も、もう大丈夫ですよ、もう云いません、あいつが、仙公が悪いんだ……」
半分は口の内で呟きながら、そこそこに庭へとび下りて行った。


「そら、行くぞ大弾丸(おおだま)、仏蘭西(フランス)渡りの加農(カノン)砲ニ十斤の強薬(つよぐすり)だ、来い――野郎」
「なにを、此方は石火箭(いしびや)だい」
「糞を喰え、石火箭なんか周防灘へぶっ飛ばして瘤鯛(こぶだい)の餌食に呉れてやらあ」
城下町のとある裏地で、十人ばかりの少年達が円陣をつくってやかましく喚きたてていた。半年ほど前から流行(はや)り始めた鉄輪独楽(てつわごま)の遊びが、戦時の荒い気風に唆られて、賭け勝負を争うようになったのである。
「ざまあ見ろ」
勝負が定った、「また加農砲の勝ちだ。賭けた十文はおいらの物だぜ、へっへ」
伝法に笑ったのは、悪たれ仲間の大将で仙太という少年だった。
この群の中で、棋一郎がさっきから羨ましそうに勝負を見ていた。姉が機織(はたおり)をして僅かに生計を立てている暮しでは、迚も鉄輪独楽を買って貰うことは出来なかったし、まして賭け銭などある筈がない。
――僕もやってみ度いなあ。
遊び度い盛りの年である、勢いよく廻る独楽、叩きつけられて飛ぶ鉄輪、ちゃらちゃらと鳴る青銭の音にも幼い胸はわくわくと躍った。
やがて勝負が終って、皆ちりぢりになった時である、例の仙太が棋一郎を認めて、
「おや、矢崎の坊ちゃん」
と声をかけた、「おめえ今日も見に来ていたのかい。どうして遊ばなかったんだ」
「だって独楽がないし……」
棋一郎は気恥しげに、「それに、僕、賭けの銭だって持ってないもの」
そう云って歩き出した。
仙太は佐多浜の漁師の孤児で今年十四になる。預けられた伯父の家にも居つかず、城下町の悪童達と勝手放題に暴れ廻る悪戯小僧だったが、不思議に毎(いつ)も小銭を持っていて、気前よく仲間の物を潤すので、少年達には大きな人気と勢力を持っていた。
仙太は棋一郎の言葉に仔細らしく頷いて、
「なにしろ幕軍に包囲されているという始末だからなあ、何処の子供だって小遣いなんか貰えねえ訳さ――けれど、独楽ぐらえ無えって法はねえ」
と勿体ぶって云ったが、やがて歩みを止めて振返った。
「坊ちゃん、おめえに独楽や賭銭を儲けさせてやろうか」
「本当にかい?」
「本当だとも、今まで誰にも内証にしていたんだが、坊ちゃんだけに教えてやるんだ、それはな……柵の外へ薯掘りに行くんだ」
仙太はぐいと声をひそめた。
食糧物資に窮乏している佐和野城下は、畑地の底まで掘返されている状態だったが、結柵(ゆいさく)の外にはまだ荒されていない畑がある、仙太はそこへ行って薯を掘って来ると云うのだ――仙太は事々しく四辺(あたり)を見廻しながら、
「どうだ、今夜おいらと一緒に二の木戸から出ねえか。おめえにも分前を遣るぜ、そうすれば独楽も買えるし賭金も出来らあ」
「でも――」
棋一郎はこくりと唾をのんだ。「でも、柵から出れば敵に射たれやしない?」
「だから夜になって行くのさ。もう何度も試しているけど一度だって狙われた事あねえ、それとも、おめえ幕兵が怖(こえ)えのか」
「嘘だ、幕軍なんか怖かないやい」
棋一郎は辱められたように肩を挙げた。仙太は狡く笑って、
「そうだろう、坊ちゃんは武士の子だ、怖くねえに違えねえや、だから一緒に行こうぜ、今夜五ツ過ぎに大松の処で待っていらあ、来いよ、なあ?」
「うん、行く、行くよ」
十一歳の少年に、厚輪のすばらしい独楽(こま)や豊な賭銭はのっぴきrならぬ誘惑だった。棋一郎の頷くのを見て仙太は、
「だけど、是や内証だぜ、誰にも云っちゃいけねえぜ、他の奴に儲けられちゃあつまらねえからな。宜いか」
「うん、大丈夫だよ」
「それから木戸を脱ける時、おいら番士の人に坊ちゃんを弟だと云うからその積(つもり)で旨く頼むぜ、こいつあ大事だからな」
「いいよ、うまくやる」
棋一郎は粘る舌でようやく答えた。


その夜のことである。
東の柵にある『二の木戸』は五十人組の詰場であったが、今夜はどうした事が人数が眼立って多く、隠し篝火(かがりび)に映る物具揃えも、ひどく殺気立って見えた。
五ツを少し廻った頃であった、木戸を守っていた番士が、闇を縫って来る二人の少年をみつけて、
「こら、何処へ行くか」
と呶鳴った。立止った少年の一人は仙太、一人は姉の寝た間に家を脱けて来た棋一郎である。
「荒居(あらい)の畑へ薯掘りに行くんです」
仙太が左の腕にかけた手籠を見せた、「二三日前にも通して貰いました」
「薯掘りだ?」
「そうなんです、父さんは去年の合戦に足軽組へ加わって討死しちゃったし、母さんは病気で寝たっきりだから、食べる物もなくなって困っているんです。それで弟と一緒に薯を掘って来て、ようやく飢えを凌いで……」
仙太は腕でぐいと眼を横撫でにした。番士も思わず誘われて、
「そうか。この戦争では城下の者ばかりでなく、我我も兵粮が乏しくなって困っているのだ。おまえ達もさぞ辛かろうな、――宜し宜し、通してやるから薯を掘って来い、だが敵軍にみつからぬようにしろよ」
「大丈夫です、もう何度も出た事があるんですから」
勇んで出ようとするのを、
「ああちょっと待て」
と番士が呼止めた、「それから今夜子(ね)の刻(こく)になると、糺(ただす)の森の敵陣へ総攻めかける、その為に味方の主力が此処に集まっているから、総攻めのかからぬ内に帰って来いよ」
「子の刻に、糺の森へ総攻め……?」
仙太はそう云って、隠し篝火の彼方へちらと怖ろしそう一瞥をくれたが、
「分かりました、大急ぎで掘って来ます」
「気をつけて行け」
番士の言葉を後に二人は柵から出た。
父は去年の戦争に討死、母は病床にあるなどと、あんな嘘を云って宜いのかしら。棋一郎は何となく気を咎められたが、黙って仙太について歩いた。
柵を出て半丁も来ると、四辺(あたり)は砲弾に抉られた穴や土崩れの多い荒地になった。仙太は時々身を跼(かが)めて、土塊や雑草を摑み取っては手籠の中へ入れながら進む、――段々と寄手(よせて)の陣へ近くなって来た。
「何処まで行くの――?」
「黙っているんだ」
仙太は強く制した、「おいらの云う通りになってれば宜い、さあ駈けよう――頭をさげて駈けるんだぜ」
そう云うと仙太は身を跼めながらたったっと走りだした。棋一郎も見失っては大変だから続いて走ったが、四五丁ばかり行くと灌木の茂みの蔭へとび込んで、
「蹲(しゃが)め蹲め、頭を出すと射たれる」
と云って棋一郎を引据えた。
二人とも息をはずませながら、灌木の蔭に凝乎(じっ)と身をひそめている。やがて仙太は、懐中から燧石(ひうちいし)を取出し、東の方へ向けてかちかちと二三度打った。――不思議な事をすると、棋一郎が見ていると、三丁ほど先の闇へ、ちらちらと赤い火が二三度明滅した。仙太はにやりと笑って、
「上首尾と来やがった」
と立上った、「坊ちゃん、おいら直(じき)に戻って来るから此処を動かず待っていねえよ」
「どうするの、薯を掘るんじゃないの」
「黙ってろよ、今すばらしい薯を掘って来てやるんだ、何処へも行かずに待っているんだぜ」
そういい残して、仙太は赤い火の見せた方へ小走りに走って行った。
「早く来てね――」
棋一郎はそう云いながら灌木の蔭にじっと蹲(しゃが)んでいたが、仙太の足音が聞えなくなうと、遽(にわか)に闇が濃くなったように思われ、恐ろしい不安が体を犇々(ひしひし)と緊めつける――仙太は何をしに行ったんだろう、何の為に燧石を打ったのか?
後から後から湧上ってくる疑惑と不安とに迫られ、じっとしていられなくなった棋一郎は、堪らなくなって仙太の去った方へ忍び足で出掛けて行った。――二丁あまりも来た時である。闇の中に話声が聞えるので、はっと足を止め、地面へ身を伏せて前方をすかし見にすると、十間ばかり先に仙太が……一人の鎧武者と何か話していた。
その二人の立っている二三十間先には、弾丸除けの垜(あずら)が築いてあり、篝の余光に動き廻る軍兵の姿もかすかに見える。
「幕軍の陣営だ――」
棋一郎は身慄いしながら呟いた。


驚くべき事はそれだけではなかった。棋一郎が聞いてるとも知らず、仙太は敵方の鎧武者に向って、探り出して来た城中の模様を巨細に内通しているのだ、――一語一語が棋一郎の耳へ針のように鋭く聞えて来る。
「それから」
と仙太は語を継いで、「今夜子(ね)の刻(こく)に、糺(ただす)の森の陣地へ総攻めかけると云って、いま東の柵へ主力が集まっていますよ」
「糺の森へ総攻め?」
鎧武者は驚いた様子で、「すか、其は良い報知(しらせ)を持って来た。宜し――城方が主力を東の柵へ終結したとあれば、北の法輪寺口はがら空きに相違ない。では此方から子の刻直前に手薄の法輪寺口へ不意討をかけてやろう、それでは是で別れる……さあ、褒美(ほうび)の銀(かね)だ」
「有難うございます」
「また何かあったら知せて呉れ、――」
そこ迄聞くと、棋一郎は這うようにして元の場所へ戻って来た。
「大変だ、大変な事になった」
少年ながら事態の重大さは分った。不思議に毎(いつ)も小銭を持っていた仙太の、薯掘りに出るとは偽り、実は幕軍の諜者を勤めていたのであった。
「おい、何処だ」
仙太はすぐに走って来た、「やあ居たな。早かったろう、もう用は済んだから帰ろう――そら、今夜の分前(わけまえ)だ」
「僕は要らない」
さあと云って差出す一摑みの銭を、棋一郎はぐいと押返した。仙太は呆れて、
「どうしたんだい、坊ちゃん」
「僕は、僕は聞いたよ、おまえは幕軍の諜者をしているんじゃないか、僕は……帰ったら番士の人に話してやる」
「なんだと?」
仙太はぎらりと眼を光らせた。
「そうか。へっへっへ、聞いちゃったのか、そんなら仕方あねえ」
ふてぶてしく嘲笑(あざわら)ったが、「だがの、おめえ番士に話すなら覚悟しなくちゃならねえぜ、今夜の事あおめえも同志だ、木戸の番士を騙しておいらと一緒に脱けて出た、罪あひとつだ。承知だろうな?」
「だって、僕あ……知らずに――」
「そんな言訳が通ると思っているのか。へ!どうせおいら無頼(やくざ)の孤児だから、お仕置になったって誰一人泣く者あ有りやしねえ。だが、おめえは落魄れても矢崎様の御子息だぜ、その棋一郎様が諜者の罪で、磔刑柱(はりつけばしら)へ架けられたらさぞ評判になるだろう――第一おめえの姉さんの顔が見てえや」
少年の口から出るとは思えぬ鋭い威嚇だった。――武士として最も忌むべき諜者の汚名、磔刑柱、姉の悲嘆……恐ろしい幻想が次々に襲いかかって、棋一郎は身動きのならぬ絶望の淵へ叩きこまれるのを感じた。
仙太は威嚇の成功を慥めて、
「なあ坊ちゃん」
と急に声柔げた、「そんなつまらねえ考えは止しねえ、黙っていれば誰にも知られずに済むんだ。なあ、是だけあれば上等の独楽も買えるし、二日三日の賭銭にゃあ困らねえぜ」
「どうして……僕を伴れて来たの?」
棋一郎はそれが怨めしいと云うように泣声で訊いた。
「それやおめえ、おいら一人じゃ番士が疑いをかけるからよ。弟伴れとなればまるで信用が違わあな――さあ取って置きねえ」
仙太は放心したような棋一郎の手へ、幾許かの銭を握らせると、土地や雑草を摑み込んであった手籠を腕に、柵の方へ歩きだした。棋一郎は最早、穢らわしいと思いながらも其の銭を拒む元気もなく、仙太に続いてとぼとぼと柵の内へ戻って来ると、――鉄砲組屋敷の角のところで仙太と別れて、そっと自分の家へ帰った。
「若し姉上が起きていたら……?」
慄えながら裏口から忍び込む。
足音を忍ばせて、闇の中を寝間へ入ってみると、燈火は消えたままで微かに姉の寝息が聞えている。棋一郎はほっとして、そこへ慄えながら坐って了った。
是からどうしたら宜いだろう――幼い頭の中は暴風雨のように混乱していた。自分は知らなかったとは云え、明かに味方を売ったのだ、人間として最も卑むべき、最も卑劣な事をして了ったのだ。あの親切な番士も、館川の兄さんも、城下の人達も――今夜敵軍のかける法輪寺口の不意討に、どんな惨虐な蹂躙を受けるかも知れない。
「ああ困ったなあ」
少年の小さな胸には包みきれぬ不安と恐怖と悔恨に、思わず呻き声をあえた時、
「――誰?」
不意に姉が呼んだ、「棋一郎かえ」
ぎょっとして棋一郎は跳ねあがり、自分の寝床へ潜り込もうとした。と――気が上ずっていたから物に躓いて摚とのめる、同時に手に握っていた銭がざらざら飛び散った。
小弓は怪しい物音に、素早く起き直って行燈に燈を入れる、棋一郎が狼狽して銭を掻き集めようと、畳の上へ這った時――ぼうっと行燈が点った。
「どうしたのです、棋一郎」
「な、なんでも、なんでもありません」
がたがた慄えながら見返る顔は、まるで紙のように血気がない、訝しい――と見戍る小弓の眼は、きらきら光る小粒銀の金が、夥しく散乱しているのをみつけた。
「まあ、お金」
小弓は愕然と色を喪った、「どうしたのです棋一郎、そのお金は……」
「――お姉さま、赦して!」
引裂けるように、やっと泣きながら少年は姉の前に身を投出した。


「僕、知らなかったんです」
棋一郎は泣きながら凡てを告白した。
「本当に何も知らなかったのです、お姉さま。どうか堪忍して下さい。もう独楽もなんにも欲しくありません、これから温和しくして立派な人になります、今度だけはどうか堪忍して下さい、お姉さま!」
「おまえは、おまえは、なんということを……」
小弓は胸も潰れんばかりに聞いていたが、罪こそ憎けれ、悪戯ざかりの子供が玩具欲しさに過つてしまった事を、今更なんと云って叱る術があろう。――それより先に為すべき事はあるのだ。
小弓は健気にも心を決め、次の間に行って手早く二通の書面を認(したた)めたが、すぐに戻って来て、一通を棋一郎に渡し、
「おまえは此の手紙を持って、今から波庭村の婆やの家へおいで」
「堪忍して下さいお姉さま」
「棋一郎」
小弓は弟の肩へ手を置いた、「おまえ本当に悪かったと思いますか」
「僕、僕、切腹しましょう……」
「お待ち、今になって切腹しても、諜者の汚名は消えません。それよりも其の覚悟を忘れずに再びこんな過ちをせず、婆やの里へ行ったらよく勉強して、今夜の罪を償うだけの立派な武士になるのです」
「では、堪忍して下さるんですね」
「私は堪忍してあげます。でも御先祖様はおまえが立派な人物になるまでは決して堪忍なさいません、分りますか」
「はい――」
「では其のお手紙を持って、すぐ波庭村へいらっしゃい」
「お姉さまは?」
「私は、私は――後から行きます」
是が今生の別れになる、そう思うと小弓の胸は張り裂けるように苦しかった。然し――大事な刻は迫っている。
「早くおいで、道は分っていますね」
「分っています。お姉さまはいつ来るの?」
「棋一郎……」
小弓は思わず弟を抱き寄せたが、「後で――後ですぐ行きます。ああ提灯を」
涙を隠して提灯を取出し、燈を入れて持たすと思い切りよく弟を送り出した。――見送る暇も惜しく、小弓は仏間に入って、両親の位牌の前にぴたりと手をついた、
「お赦し下さいませ、父上様、女手の貧しさから独楽も買ってやれず、その為にこんな過ちが出来ました。みんな小弓の至らぬ罪でござります。矢崎の家から諜者を出しました恥辱は、これから私が立派に雪(そそ)ぎますゆえ、どうぞ黄泉(よみ)より御覧遊ばし下さりませ」
生ける人に云う如く、声涙とともに下ることしばし。やがて小弓は立上ると、手早く家内を取片付けて、納戸から父が遺愛の鎧櫃を取出す、垢の付かぬ肌着に換え、緋色の下着の上へ鎧下を着込むと、馴れぬ手ながら確りと鎧を着け、厳重に身拵えをした。
女でこそあれ、日頃から武芸に鍛えた上背のある体、黒髪を束ねて垂れ、腹帯をきりりと緊めて大薙刀を右手に、家宝白竜の旗を左手にしぼってすっくと立上った姿は絵のような武者振り。――仏前にもう一度額ずいて仏壇の扉を閉すと、兜を衣て行燈の燈を消し、そのまま小弓は家を出た。時まさに四ツである。
足を早めて東の柵へ来る、木戸を守る番士に近寄って、男声につくり、
「一大事にございります」
と大きく呼びかけた、「子(ね)の刻糺(ただす)の森へ総攻めをかける事、仔細あって敵方に洩れ聞かれました」
「なに、何と云われる」
「寄手(よせて)は、城方の本勢東の柵に集ると知り、糺の森を払って主力を集め、法輪寺口へ夜襲をかける手筈との事、一刻も早くお手配下さるよう、お係りへお申伝え下さい」
「それは真か」
「斯う云う内にも後れては大事、どうぞ早くお係りへ――あ、暫く」
行こうとする番士を呼止め、「御迷惑ながらこの書面、北の木戸五番頭、館川信次郎様にお渡し下さい」
「お手前は?」
「お渡し下されば分りまする」
手紙を受けた番士が宙を飛ぶように走り去るのを、篤と見済した小弓は素早く木戸を脱け出て闇の中へ――糺の森めざして唯一人、敢然と大股に進んで行った。
一方、番士の齎した急報は城軍を震撼させた。なかにも北の木戸に在った信次郎は、小弓の手紙を披くなり仰天、
「うーむ」
と思わず呻き声をあげたのである。
美しい走り書きの文字は、弟棋一郎の犯した始末を精しく認(したた)めて、一刻も早く敵の奇襲に備える事を乞い、――筆を改めて、
「――少年の無思慮とは申しながら、諜者の罪を犯した棋一郎、その姉とあれば罪は同じことに候。かかる穢れた身を以て御許(おんもと)さまの許嫁たること思いもよらず即今宵限りお約束を辞退申上げ候。女の身の細腕ながら、これより敵陣へ斬込み、恥辱の万分の一を雪いだうえ、亡き父母の許へ参る所存、何卒何卒御許様には御武運長久にて――未練ながら、お眼もじ致さぬが何よりの心残り」
と読みも終らず、
「馬を曳け」
と叫んで信次郎は立上る。「小弓、待て、待って呉れ」
と心の内にいいながら、番士の曳いて来た馬にとび乗りあま、信次郎は東の柵へまっしぐらに駆け去った。


小弓の警報は功を奏した。
城兵の主力は東の柵に集結したものとのみ信じた寄手が、主軍を移動せしめし法輪寺口へ強襲をかけようとする。その出端へ、突如として城兵の尖鋭隊が不意討ちをかけた。
寄手の狼狽は云うまでもない、一刻あまりにして中央を突破され、本軍を両断されて大混乱に陥り、此の夜の大将佐々木信濃守は身を以て大鷹山へ逃げのびた。然し――野山口を固めていた勇将橋本但馬守は、手勢を叱咤しつつ敢然と抗撃し、深入りした城兵を孤立せしめて一気に勝ちを制そうと、無二無三に突進、馬上に剣をふるって、
「関東武士の死場所ぞ、一歩も退くな、死ねや、死ねや」
と喚き喚き奮戦した。
闇を劈(つんざ)いて閃めく刃、槍、斬りつ、斬られつ、怒涛の如き雄叫び、銃声、遠篝火に濛々と闇を塗る土埃の中で、いずれも決しの武者ここを先途と斬結んだ。
然し、先ず虚を衝かれて陣構えの崩れた寄手の勢は、白い腕章をつけ、指揮進退全く整然とした城兵の猛撃を耐え得る筈がなく、東天ようやく白み初める頃には、橋本但馬の手勢もさんざんに斬り崩されて、遂に、
「糺(ただず)の森まで退け」
と云う命令を発するに至った。
館川信次郎は五番組の組頭として、馬上に大槍をふるいつつ奮戦したが、心のうちは小弓の身を気遣う思いでいっぱいだった。――其処で斬られはせぬか、彼処で討たれはせぬかと縦横に戦場を馳駆しつつ捜し求めたが、遂にみつけ出す事が出来なかった。
ところが、明けかかる光のなかを、橋本但馬の手勢が糺の森へ退き始めた時である。先頭がまさに森口へかかった刹那、さっと灌木の茂みの中から、一旒の旗が現われた。
「あっ――」
と驚いて見ると、音にも聞こえた長州毛利家の白竜である。退却して来た但馬勢は、
「やや、糺の森も既に城兵が占領していぞ、戻れ、戻れ」
と崩れたつ、面前へ、
「見参――」
と叫んで、森の中から鎧武者が一人、大薙刀を抱込(かいこ)んで立現われた。
「佐和野の住人、矢崎棋一郎」
喝然と名乗って迫る。だが――白竜の旗を望んで森の中に伏勢ありと見た但馬勢は、浮足だって雪崩のように、
「芸州口へ逃げろ、芸州へ、芸州へ」
と先を争って敗走した。
糺の森へ退くと見えた敵兵が、遽(にわか)に混乱して芸州口へ遁走し始めたから、不審に思って馬上に伸び上がった信次郎――未明の森に朝風を受けて白竜の一旗、翩翻(へんぽん)と翻るのを見る。
「おお白竜の旗」
狂喜して鞍を打つ、「小弓がいた」
喚くとそのまま、馬腹を蹴って、だーっと、宙を飛ぶ如く、真一文字に駆って行った。
小弓は逃げ行く敵兵の殿(しんが)りの群へ、まさに必死の斬死にをかけようと、呼びかけ呼びかけ追い討ちに出る。一騎と見て、殿りの兵五六名が立戻って、
「青武者の痩せ腕、討って取れ」
と取巻いた。小弓は薙刀を執り直し、
「いざ参れ!」
とばかりに斬り込んだ。
敗軍とは云え敵も名だたる関東武者、左右前後から犇々(ひしひし)と取詰めて、一挙に討って取ろうとする、小弓は薙刀の秘術を尽して、先ず一人の高腿を斬放す、
「うぬ、洒落た事を――」
と右の武者を突き出す槍、ひっ外して真向をさっと払う。刹那、鋭く返して脇壺の具足はずれを強(したた)かに薙ぎ放した。
「ひー!」
悲鳴をあげて二人めが倒れる。ところへ引返して来た殿り兵の一人が、
「退け退け」
と叫んで銃をぴたりとつけた、「手間どっては面倒、拙者が一発で仕止める」
「卑怯!」
小弓が歯噛みをして飛び退いた、敵兵は銃を狙い定めて引金に指をかけようとする、――とたんに風を切って飛び来たった大槍一筋、まさに引金を落そうとした敵兵の、高胸、具足はずれへぐざっとばかりに突刺さった。
「ぎゃ――っ」
だあん!弾丸は空へ飛んで、血煙をあげながら倒れる銃兵。
意外な出来事に、思わず振返ると、馬を煽って来た信次郎、馬上の投槍に危機を救った勢いに乗じて、大剣を抜放ちながら、
「己れ、一人も通さんぞ」
と殺到した。
思わぬ助勢に敵兵はどっと逃足を誘われたが、それと見て殿りの銃隊が十五六人、ばらばらと引返して来る、――その前面へ、小弓が敢然と突進した、此処で死のう!と云う決死の容子、
「危い!待たれい!」
信次郎は馬を近寄せて、「此の上の死に急ぎは乱心でござるぞ、退かれい!」
と呶鳴りざま、金剛力に小弓の体を引寄せる、藻掻くのを抑えつけて鞍の前壺へかき乗せると、素早く馬首を回した。
だだだーん!!
遠木魂(とおこだま)して轟く銃声、びゅ!びゅん!!と左右をかすめる弾丸。信次郎は馬腹を蹴ってだーと駈けだした。再び、三度、銃声は二人を追ったが、弾丸は左右に外れて一発も当らなかった。
まっしぐらに糺(ただす)の森へ馬を乗入れた信次郎、最早大丈夫と見て、孤り朝風に翻えっている白竜の旗の下へ馬を停める。先ずひらりと自ら馬を下りて、同乗の相手をも援け下す。
「小弓どの……」
小弓は静かに兜を脱る、しっとり汗を帯びて、血気輝くばかりの面を振仰ぐと、張切った弓弦の切れるように、
「信次郎さま」
と叫びながら、男のひろげた腕の中へ、崩れるように凭れかかった。
信次郎は力任せに引緊めた、小弓は男の胸へ頰をすりつけながら、つきあげて来る悦びに声を顫わせながら欷(すすりな)いた。最早なんの言葉ぞ、――二人は無言のまま、犇々と互いに抱き緊めたまま、暫くは火のような愉悦にひたっていた。
「小弓どの」
信次郎がやがて云った、「昨夜のお手紙、あれはお返し申しますぞ」
「――はい」
「棋一郎の罪は立派に償われた。見られい、佐和野城外、今は幕府軍の一兵も留めぬ大勝利でござる」
信次郎の指さす方を、振返った小弓の眼に、燦として佐和野城の天守の上へさし昇る旭日の光が映った。
弟の罪は償われた、矢崎家の汚名は雪(そそ)がれた。明るく活々と甦る小弓の耳へ、遠雷のような勝鬨(かちどき)の声が聞えて来る――さ霧たちこむる森の中に、白竜一旒、誇らかにひらめいていた。

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最終更新:2018年01月20日 12:33