とある世界の残酷歌劇 > 第二幕 > 09

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白井は最初からこれを狙っていた。 一度として真正面から向かう事なく、布石を打つ事に徹した動き。 砂皿の一連の罠は空間移動能力者の弱点が混乱や焦燥という心の動揺だと理解しての物だという事は明白だった。 しかしそれが仇となる。 白井の焦りを誘うためだろうが、閃光音響弾の存在は外への陽動で把握していた。 そして極め付けが暗闇での待ち伏せだ。 光が武器となる最も効果的な戦場。 元々が驚愕と混乱を誘発させるための武装だ。確実に使用する。 視覚がろくに働かぬ暗闇での戦闘は恐ろしかったが、整然とした室内の様相が幸いした。 初手で室内灯のスイッチの位置が入り口付近にある事を確認し、 一度目の着地で机の高さを把握した白井は机の並びを頭の中の立体地図に書き加える。 機械的なその配列を描くのは容易だ。 入り口から漏れる微かな光で始点となる先端の机の位置を把握すれば、そこから垂直に直線を伸ばす事で数本の平行線が完成する。 机の正確な構造は必要ない。問題となるのはその位置と高さだけだ。 直方体とでも設定しておけば邪魔にもならないだろう。 斯くして準備は完了し、待ち望んでいた音が聞こえる。 小さく空気を切り裂く音。 手榴弾の投擲音だ。 目も、耳も、一度きりの使い捨てでいい。 白井にあの白地に金刺繍の修道服の少女のような完全記憶能力はないが、 一瞬の閃光はカメラのシャッターを切ったように正確に網膜に焼き付ける。 砂皿の位置、机の正確な配置、そして自分の位置。 その後の砂皿の移動は分からなかったが、おおよその位置が分かっていれば大丈夫だ。 あとはタイミングを合わせるだけで済む。 正確に狙いを付けるには確実な視界が必要となるはずだ。ならば白井の姿は相手に見える。 背を向ける体制を取る事で今度はこちらが相手の油断を誘う。視覚は必要ない。 ついでに苦しそうな演技をおまけに。実際銃弾に切り裂かれた肩口は泣きたいほどに痛むのだ。 迫真の演技はアカデミー賞ものだろう。 ちかちかと痛む視界が僅かに白に染まる。 ぶち込んだ。 「が――ぁ――、――!」 ようやく働きを取り戻しつつある耳が苦痛の呻きを捉えた。 砂皿はまだ生きている。 だが床に伏せた白井の体が僅かな揺れを感じ取る。 同時に湿った音と、何やら鼻につく臭いが広がる。 色の判別はまだできそうにないが、目がそれを見つけた。 べっとりと床に張り付いた細長い柔らかなもの。 それは分断され、机の底に張り付くも自重に耐え切れず剥がれ落ち倒れた拍子に下半身からぶちまけられた砂皿の小腸だ。 「う――――っ」 認識した瞬間に白井の内腑から冷たいものが湧き上がってくる。 考えなくても分かる。あれは致命傷だ。 人は体を両断されて生きていられるほど頑丈でも単純でも鈍感でもない。 まだ生きている。 だが、死ぬ。 白井の手によって。 白井黒子が殺した。 「――――っげ――――ぁ――――!」 その最低な現実に体が拒否反応を起こし、堪らず吐いた。 びちゃびちゃと黄色い胃液が床を叩く。 唯一救いがあるとすれば、今日何も食べていなかったことくらいだ。 酸味と苦味が舌を焼く。胃と喉が意識とは関係なく痙攣を起こし、そこにはない毒を吐き出そうと胃の中身をぶちまけた。 内臓の痙攣する動きに白井の目からは涙が零れる。 殺人の手応えは余りに軽く、そして最悪な感触だった。 床に突っ伏し、嘔吐を繰り返す。 とうに中身は空だというのに空えずきは止まろうとしない。 そこに、声が届く。 「――なんだ――人を殺――すの、は――初めて、か」 それが砂皿の声だと理解するのに時間が掛かった。まだ彼は生きている。 だが白井の位置は机と机の間に開いた空間は砂皿の位置からは死角だ。 そもそも体を中ほどで両断されてまともに動ける人物などそういないだろうが。 もっとも――その状態で喋る事はできているのだが。 「それもそうか――は、――」 砂皿の切れ切れな声と対象的にまるで世間話でもするかのような口調に、なぜか白井の内臓は落ち着きを取り戻す。 初めて聞く彼の声は、無骨だがどこか優しげですらあった。 「――――人殺しの世界へようこそ、空間移動能力者」 そんな言葉を吐く彼は今、どんな顔をしているのだろうか。 少しだけ気になったが、ここからは机が陰になってしまって見えやしない。 そして自分はどんな顔をしているのだろうか。無論、見えない。 白井からは見えぬ位置、机は端を壁の中に埋め込まれ完全に固定されている。 そして事務机の上に砂皿は上半身だけの胸像のような姿となって乗っていた。 足を失っても這って動ける、とは思うがさすがにこれは無理だろう。 今は密着しているからいいものの、体を動かせば腹腔から内臓が零れ同時に大量出血する。 (――『詰み』はこちらか) 何故だか可笑しかった。 何が可笑しいのかは分からない。ただどうしてだか笑いが込み上げてくるのだ。 もしかしたらこうして無駄口を叩いているからかもしれない。 無駄どころではない。どう考えてもマイナスだ。 しかし砂皿は喋る事を止めはしなかった。 理由は、と自問して、少し考えて自答した。 ――そう、気紛れだ。 そうとしか考えられない。 砂皿の行動はまったくちぐはぐで、噛み合ってなどいない。 こんな無駄口を叩いて時間を与えているというのに、まだ自分は彼女を殺そうとしているのだから。 ちん、と乾いた音が聞こえた。 白井の鉄矢を取り落とした時よりも断然小さく軽い音。 しかしその金属の音に、水を掛けられたように白井の頭から混乱の靄が切り裂かれる。 はっと、頭を上げればようやく本来の働きを取り戻した両眼が異物を見つけた。 「――――プレゼントだ」 それは針金で作られた輪のような、粗末な部品。 映画の中でしか見たことのないそれは砂皿が始めて見せるものだが、存在は始めから疑って掛かるべきだったのだ。 だが続く言葉に白井は思わず動きを止めた。 「――――――ジャン=レノは名優だとは思わないか」 場違いだと分かっていても、噴き出しそうになった。 意外と茶目っ気がある。まったく似合わないが。 「――――――映画の見過ぎですのよ」 白井の言葉は果たして砂皿の耳に届いただろうか。 部屋に閃光が生まれる。 それは先ほどのものとは違う、暴力的なものだ。 砂皿の着ていた黒のロングコート。 その内に鈴生りに吊り下げられていた手榴弾が炸裂した。 爆発と衝撃は狭い室内を障害物も何もかもを巻き込んで蹂躙する。 その中心である砂皿の体が無事であるはずもなかった。 原形を止める事なく、両断よりも細かく千切られ、欠片となって飛散する。 言うまでもなく即死だった。 爆発でだけは死なないと嘯いた彼は、皮肉にも自爆によってその命を終える。 だが砂皿の最後の一撃を以ってしても白井はまだ生きていた。 砂皿の『気紛れ』によって幾らか平静を取り戻した白井はすんでの所で『空間移動』を発動させ、その身を建物外へ退避させていた。 ――――しかし、遅れに遅れはしたがここになってようやく布石が意味を成す。 最初の狙撃から始まり、砂皿の積み重ねてきたあらゆる行動がようやく結実する。 精神も肉体もぼろぼろに疲弊し、白井の身は確かに苦痛に塗れていた。 感覚の制限、時間の制限、知覚外からの攻撃、不意の攻撃、大きな音と光。 それらは少しずつだとしても確実に白井の精神を苛んでいた。 人殺しがまともな思考でないと言うのならば、白井はまだ幾らかまともな部類だった。 殺人に対して強い嫌悪感――いや、拒絶を生んだ白井の精神。 そこに飛び込んできた最後の、あの冗談めかした言葉。 砂皿の意図していなかった、ふと思いついただけの台詞が決め手となる。 その殺す対象からの言葉によって白井は――絶対にそんな事はないはずなのに――幾らか救われた気になってしまった。 緊張の後の弛緩が生まれ、それは決定的な隙となった。 心身ともに疲労が頂点に達し、緊張の糸が切れた白井はほんの少しのミスをした。 本当に、たった一つの小さな失敗だ。 だが同時にそれは確かなものとして現れる。 移動先、夜気を肌に受け白井は安堵の息を漏らしそうになるが、目の前の景色に、驚愕に目を見開いた。 白井の眼前には星の見えない夜空が広がっていた。 そして視界の下半分ほどは建物の壁面で覆い被さられるように埋められている。 ほんの小さな演算ミス。 一つだけ、決定的なミスを犯した。 それさえなければ何という事もなかっただろうに。 白井は出現角度の入力を誤り、移動先に宙に仰向けになるように現れた。 その分白井の体は想定よりも横に――建物に垂直気味に空間を占める事となり。 移動前の体勢、小さく折り曲げたもう片方よりも伸ばされた右足が、足首よりも少し上の辺りで建物の壁面と合体していた。 彼女たち空間移動能力者の最も恐れる『埋め込み』が起こっていた。 「――――――!!」 他の能力者はともかく、白井黒子の場合、能力の連続使用には一秒ほどのタイムラグが必要となる。 その一秒で十分だった。 完全に空間を割り開いて出現する『空間移動』では、固体に対し『埋め込み』を行った場合完全に張り付いた状態となる。 その際物体の強度は関係なく、表面の目に見えぬ細かな凹凸もジグソーパズルのピース同士のように正確に割られる。 余りに正確すぎるそれは、両物質間で完全な密着を起こす。 人体でそれが起こった場合、最も気をつけるべきは動かさない事だ。 タンパク質を主成分とする体表面は脆く、傷付きやすい。 『埋め込み』が起こる対象の大抵はそんな人体よりも圧倒的に頑丈な構造をしている。 そこを動かすとどうなるのか。 単純だ。肉皮が剥がれるのだ。 べりべりと生皮を剥がれる苦痛をその瞬間負う事となる。 想像したくもないし、経験するのはもっとしたくない。 だがそうとは分かっていても、動かさぬ事などできるはずもなかった。 白井の体は宙に浮いている。何も支えはない。 元より無理な体勢で、何か支えがあったとしても耐えられはしなかっただろう。 そして白井の体に強制的な運動が発生する。 この世界では、少なくとも地球上ではその力からは逃れられない。 万有引力による九・八メートル毎秒毎秒の加速を伴う自由落下が開始する。 だが幸いにも。 白井の足はローファーと靴下によってその生身を晒してはいなかった。 接着はそれらが負う事となり、白井の肌には一切の埋め込みは起こっていない。 だが、そんな事はこの時点では何の意味もなさない。 万有引力だとか、重力加速だとか、十一次元論だとか。 そんな小難しいものよりもよほど単純で、人類史に於いてもっと早くから発見され、活用されてきた物理法則がある。 小柄とはいえど白井とて確かに何十キロかの体重を持っている。 それだけの質量が地球の重力に引かれ、下に向かって落下している。 しかし右足は壁の中に『埋め込み』によって固定されたままだ。 そこに発生する力の関係は小学校で習う程度のものでしかない。 力のモーメントの利用――簡単な言い方をすればそう、『てこの原理』。 支点、力点、作用点の三点を用いる大きな力を発生させるための原理は、一つの大前提があって初めて成り立つ。 ――『三点を結ぶ棒が絶対でなければならない』。 完全に固定されたままの基点に力が加えられば、回転モーメントは曲げモーメントに変換される。 それが大きな力に耐えられない物質でも、歪曲するほどに柔軟な物質でもなければどうなるかは言うまでもない。 この場合、それは――――。 &color(red){ぼぎん、} 打ち付けられた痛みなどどうという事もなかった。 白井の体は脛の位置をそのままに、膝を基点として落下を回転運動へと換える。 弛緩しきった白井の体は重力に引かれるままだ。細い足の骨だけで全体重を支える事などできなかった。 僅かにしなり、枯れた木枝のような音を立てて折れ砕け足に関節が一つ増える。 ごづっ、と鈍い音と共に視界が揺れた。壁に叩きつけられた白井の頭部はボールのように跳ねる。 「ぎ、っ――――」 まず最初に感じたのは衝撃だった。 体を何かが走り抜けた。それが痛みだと理解した時にはもう何もかもが手遅れだった。 白井の折れた足骨。その骨の先端が自重に引かれ押し付けられる白井の肉をみちみちと削る。 決して鋭利とはいえない刃は、まるで古く首切りに使われた竹の鋸だ。 それは徒に苦痛を与えるだけの拷問器具。ただの斬首刑ではなく、その様をせせら笑うために行われる公開処刑の道具に他ならない。 骨が直にごりごりと肉をこそぐように撫で回し、その刺激を受けた痛覚神経が脳まで信号を送る。 信号は脳の中心で処理される。そして警報が痛覚として白井の頭の中で炸裂した。 「――――あぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああ!!」 それはもはや痛みと呼ぶには生温い。 感覚は物理的な威力を以って割り砕かんといわんばかりに白井の脳を蹂躙した。 反射的に全身が痙攣をする。しかしその動きも痛みを助長するだけだ。 筋の収縮によって肉が骨を噛み、ぎちりと擦れる。それによって新たな痛みが生まれる。 痛みが動きを生み、動きが痛みを生む苦痛の永久機関。 「あ――――! あ――――! あ――――!」 脳の中で閃光が爆ぜる。宙ぶらりんに磔になった白井の体は背で壁面を擦り止まる。 だが足の肉はぎちぎちと嫌な音を立てながら少しずつ筋を切断されていた。 鑢を突き立てたに等しい擦過が徐々に、だが確実に白井の足を引き千切っていく。 ……そんな白井の頭上の位置、重力の先には地面がある。 高さは十メートルほどだろうか。そこは駐車場として使われていたのだろう。頑強に塗り固められた上に白線が引かれている。 ちょうど白井の真下には人の頭を割るにはちょうどいいと思われる車止めのコンクリート塊が静かに鎮座していた。 火花のスパークでぐちゃぐちゃにかき回される白井の脳の中で、 そこだけをナイフでケーキを切り取るように分割され本来の形を保った意識があった。 地獄のような苦痛に全身を震わせながらもその状態を冷めた目で見る白井の意識。 理性と言うべきか、白井の中の冷静沈着な部分が悶え苦しむ自らを感情のない瞳で見下ろしているイメージ。 このままあと幾らかすれば足肉は骨に削がれ、自重に耐え切れず千切れてしまうだろう。 元より頭から落下すれば助かる高さでもないだろうに、ご丁寧にも墓石までこさえてくれている。 痛みに耐え切れぬ思考のままでは能力を使用するための演算もままならないだろう。 それとも白井の頭が割られるよりも警備員の来る方が早いだろうか。彼らが到着するまでもう数分もないはずだ。 もし彼らがこの暗がりの中、壁に片足を突っ込んで宙吊りになっている少女を見つけたらどういう反応をするだろうか。 最悪な事に頭を下にぶらさげられているためにスカートは捲れ上がり下着が丸見えだ。 普段通りの白井の趣味からすれば幾らか大人しめではあるが、たとえそうだったとして見られていいとは思えない。 どちらにせよ。このままでは確実にゲームオーバーとなる事だけははっきりしていた。 (――――冗談じゃ、ありませんの) こんなところで終わって堪るものか。 でなければ自分は一体何の為に全てを投げ出したのだ。 そして、最後に自分すらも投げ出した白井の今までの意味は一体何だというのだ。 白井の理性は、その名のイメージからは程遠く、力技で強引に衝動を捻じ伏せる。 それは白井が元より得意なものだ。ずっとずっとそうやって押し殺してきた。そうしなければ他に選択肢がなかったから。 少なくとも白井の意思はそうやって自分さえも殺せるほどに強固だった。 ぐるぐると回る視界が鬱陶しくて目を閉じた。 「い――――ぎ――――っ!!」 奥歯を噛み締め意思に力を込める。 痛覚を全力で無視し、白井は思う。 ――そう、この程度の痛みなど、人を殺すあの気分に比べればどうという事もない。 丁寧に、一つずつ慎重確実に演算式を組み立てていく。 今度こそ間違えてはいけない。そんな無様な真似は許される事ではない。 この程度の痛みも、衝動も、吐き気も何もかもは。 (――――――わたくしの信仰、その万分の一にも及ばない――!) ――『起爆』 一瞬の浮遊感の後、白井は背から叩きつけられる。 まともな受身を取る事もできず、肺の中の空気が押し出され呻きが漏れた。 「がっ――――!」 全身への打撃は折れた足首を掻き毟り激痛となって脊髄を這い上がる。 気を失いかねぬほどの衝撃に真っ黒な空に星が輝いた気がした。 だが、背に硬いアスファルトの感触。 大の字に広げられた四肢は痛みと共に平面の圧迫を感じている。 硬い、しかし確かな地の感触だ。 再度の跳躍は、演算を違える事なく白井を地表へと運んでいた。 「はっ――はは、ははは――っ」 思わず笑いが零れた。 どうしてだかとても愉快な気分だった。さっきまでの最悪な気分が嘘のように晴れ渡っていた。 どうしてか。そ決まっている。簡単な、シンプルな答えだ。 あのような破滅的な精神状態で、白井は見事に何の失敗もなく能力の使用に必要な高度演算をやってのけたのだ。 つまりそれは――彼女の高潔な信仰が他の下らない感情全てに圧倒的に凌駕していた事を意味する。 「あは、はは――あははははははは――っ!」 白井は自らの身を以ってその証明をしてみせたのだ。 矮小な雑念などは言うに及ばず、たった一つの真の信仰こそが正義に他ならないと証明されたのだ。 これが愉快でなくて一体何だ。 寒空の下、誰もいない打ち捨てられた駐車場の中心で。 白井は暗黒の空を見上げながら、口からは哄笑が止まらなかった。 「お姉様! ああ、お姉様!」 今日はなんと素晴らしい日か。 まったく最高の気分だ。……涙が出る。 「――――ハレルヤ!」 白井はかつてないほどの多幸感に包まれていた。 だがそれは次の瞬間、音を立てて瓦解する。 じゃり、と靴が砂を噛む音。 それに白井の喉から溢れていた笑いが止まった。 他に誰もいなかったはずの駐車場に人影が現れた。 ……警備員が到着する最速予想時間までもう何分かある。 そして白井の計算は狂っていなかった。ただ一つ、単純な事を失念していたのだ。 爆発音に気付いた通行人が現れる可能性もあるという事。 そして、中でもそれは白井にとって最悪な可能性だった。 「――――――」 予想外の乱入者、暗闇の中に微かな光に照らされて見えたその顔に、白井の笑顔はびしりと凍り付いた。 街の遠い光に浮かび上がったその顔と声は白井のよく知るものだった。 「――し、らい――さん――?」 頭にトレードマークの花飾りを乗せた少女。 初春飾利がそこにいた。 「――――――」 息ができなかった。 目の前に現れた少女は、予想外とかそういう言葉を超越していた。 まるで花が開いたような明るい笑顔が印象的な、まだ幼さの残る顔立ち。 こんな地獄に似つかわしくない鮮やかな髪飾りが視界の中、嫌に映える。 もう二度と会うつもりのなかった少女。会えるとなど微塵も思えなかった人物。 白井の元いた『白い世界』の象徴ともいえる少女が今、『黒い世界』の舞台に立っていた。 多分、彼女は白井にとっての『二番目』だ。 『一番目』のために切り捨てられた――白井が殺した少女。 命ではない。けれど彼女の大切な部分を容赦なく刈り取ったとすれば、それは殺人も同義だろう。 そう、思えば白井は、とうの昔に人を殺していた。 初春飾利という少女と、彼女の大切な人を。 だがその彼女が如何なる運命の皮肉か。 砂皿の築き上げてきた布石の数々と幾許かの偶然によって、白井の前に登場するはずのない人物が現れた。 白井が『白の世界』との決別として『心理掌握』にその記憶と痕跡を奪わせた少女が。 大切で大好きで仕方のなかった少女が、白井の目の前に立っていた。 「――――――」 白井は声の一言すら出せずにいた。 目の前にふらりと現れた少女。 血と硝煙の臭いの充満する舞台には似つかわしくない、小奇麗な洋服と子供っぽさの抜け切らないあどけない顔。 それはあまりにも白井の現実と――この地獄絵図と懸け離れた存在だった。 だが一点、場の様子に似合ったものがある。 表情。彼女の顔が形作るその様相は無機質めいていて、硝子玉のように意思の光を帯びていない両眼が白井の方を向きながらもその焦点をふらふらと彷徨わせていた。 「しら、い――しらい、さん――しら――」 口から紡がれる言葉は意味を成さないものだ。 それはまるで壊れたレコードのような――。 びくん、と大きく初春の体が震えた。 「しら――し――しら、な――しら――ない――しらな――――」 まるで寒さに震えるように体を小刻みに振動させる。ひく、と喉を逸らすように初春は俯き気味だった顔を上方、空に向けた。 その先には何もない。文字通りの虚空だ。 だが虚ろな視線だけがそれに逆らうかのように首の向けられた方から逸らされ白井を見た。 そしてその両眼からは。 つう、と耐え切れず一筋だけ堰から溢れるように涙が零れ落ち――。 「しらい、さ――」 言葉と共にがくん、と唐突に初春は受身を取る事もなく糸の切れた人形のようにその場に倒れ伏した。 「初春っ――!」 静かな駐車場に響く声。 だがそれは白井のものではない。まして、初春のものであるはずもなかった。 倒れた初春。そこに駆け寄る影があった。 長い黒髪を後ろに靡かせる少女だ。 一目散に地に伏した初春へと駆け寄る彼女もまた、白井のよく知る人物だった。 「――佐天――さん」 ひきつけを起こしたように震えの止まらない初春を、佐天はそれを押さえ込むかのように抱き起こす。 ……思えばそれは自然な流れだったのかもしれない。 佐天涙子。初春の同級生。そして――彼女の親友。 彼女が初春と共にいる可能性くらいは容易に想像できたはずだ。 病院のベッドで目覚めた初春の元に真っ先に会いに来たのは自分ではなく、他ならぬ彼女なのだから。 だが白井は全然、まったくそんな事は頭になかった。 佐天がこの場に現れた事は白井にとって予想外でしかなかったのだ。 佐天は無能力者だ。能力者でもなければ、まして魔術師でもない。 銃の扱いに長ける訳でも、人並み外れた技術者という訳でもない。 何の異能も特殊な技能も持たないただの中学生。 特にこれといって取り柄のない、どこにでもいるありふれた凡百な少女だ。 だからこそ――彼女の登場は異質以外の何物でもなかった。 殺人と策謀と裏切りしかない舞台の上に彼女の居場所はない。 佐天がこの物語に登場する機会があるとすれば、それこそエキストラ程度にしか、例えば爆発に巻き込まれる哀れな『その他大勢』としてくらいだ。 佐天涙子という少女には本来その程度の役回りしか与えられないはずだった。 何も知らない、良い意味でも悪い意味でも平和な世界の住人。 そんな佐天だからこそ白井は完全に彼女の存在を失念していた。 「初春! ねえ初春しっかりして!」 完全に取り乱した彼女の表情には一片の余裕も見られない。 当然だろう。彼女はこんな事象には全く耐性のない一般人で、更には初春の親友なのだから――。 ――そう。初春の親友だから、この場にいる。 本来彼女に与えられるはずのなかった役割が生まれたのもそのためだ。 そしてその事実はもう一つの側面を持つ。 白井にとっての、掛け替えのない親友。初春飾利。 けれど初春には佐天がいる。 初春にとって白井は確かに掛け替えはないかもしれない。 けれど初春の『親友』は――他にいるのだ。 みし、と何かが音を立てた気がした。 それは奥歯だったのか、心だったのか、それとも世界だったのか。 しかし白井のすぐ耳元で軋んだその音は確かに頭の中に響いた。 「――――――」 その時の白井の感情は形容し難いものだった。 あえて既存の言葉を使って表すのであれば――そう――『嫉妬』というのが一番近いようにも思える。 けれどそれも正しくはない。もっと何か暗澹とした汚泥のような重く黒いものが白井の心の水底からふつふつと湧き出ていた。 白井は他の全てを捨てこの地獄に飛び込んだ。 自ら選択したものだ。今更後悔するつもりもない。 そして初春もまた、この世界に片足を踏み入れようとしたがために――白井を失った。 記憶と感情の改竄。彼女は決して失ってはならないと追いかけたその行為を本人に否定された。 だが佐天はどうだ。 それなりに平和で、それなりに安全な世界の微温湯に浸かったままの彼女がどうしてこの場にいられようか。 でなければ自分は、初春は、その間にあったものは何だったというのだ。 そう――彼女もまた、『こちら側』を垣間見たからには――何かを失ってもらわなければ困る。 折れた足の痛みはどこかへ消えてしまったようだ。 片足が役に立たないとして、自分にはそれに頼らずとも翼がある。 そして視線の先を、ひたすらに初春の名を呼び続ける佐天に。 ――ああ、まったく。 白井は何か、最後の最後に残っていた大切だったものを思考と意識の鎖で絡め取り。 酷く慣れた手付きで、丁寧に一つ一つをいとおしむように必要な式をそれごと編み上げる。 ――なんと無力で無自覚で無遠慮で――愚かしいほど不幸なのだろう。 見なくても分かる。 自分の顔は、きっと――。 ――――『起爆』 景色が一転する。 空間を跳躍し白井は初春を抱いた佐天の真横に移動する。 着地の衝撃を片足だけで殺し、膝を折りしゃがむように腰を落とす。 そして佐天がこちらに反応するよりも早く寄り掛かるようにその手を伸ばし。 ――――がっ! 力任せにコートの上の襟首を掴み、思い切り引き寄せた。 「――――――!!」 目の前に佐天の驚愕の表情が広がる。 ……いや、違う。 その顔はすぐさま安堵へと変わっていったのだ。 ああ――どこまで救い難いのでしょうか。 その反応が如実に物語っている。 この状況で、白井が今まさに佐天の服を掴み上げているというのに。 彼女はよりによってその白井こそが状況を、初春を救えると確信しているのだ。 そしてそれは、一つの事実を意味している。 目の前にいたというのに彼女は――今の今まで白井の存在にまったく気付いていなかったのだ。 「――――――ねえ、佐天、さん」 囁くように、言葉を一つ一つ丁寧に、白井は佐天に呼びかける。 佐天の瞳の中には自分が写っている。暗くてよく分からないがきっとそうだろう。 ようやく佐天の顔色が変わった。 血の気が引いていくのが手に取るように分かるように思える。 さあぁぁ――とみるみる蒼ざめていった。 無理もない。白井の様子も気配も声色も、彼女の知るものとまったく違うのだ。 「大事な、とても大事なお話がありますの。ええ――聞いてくださいます?」 その言葉に佐天は答えられない。 声を発する事はおろか、微動だにできなかった。 首を振る事もできず凍り付いたかのように硬直している。 佐天の胸の中では初春が目を瞑り、うわ言のように何か呟いているが聞き取れなかった。 そして突然、呟いていた声が消えかくりと首が折れる。 (……気絶してしまいましたか) 都合がいい。実に都合がいい。よすぎる、とも思うが。 これから言う事を、認識できないとはいえ初春には聞かれたくなかった。 白井は初春と、そして佐天の様子を見て、満足げににっこりと笑った。 「佐天さん、よく聞いてくださいな。いいですか?  ――――――あなたは今日ここで、何も見なかったし、聞かなかった。誰にも会わなかった」 小さい子を諭すように、白井は一言一言区切って佐天に囁きかける。 「あなたと、私の、二人だけの秘密にしておいてくださいな。  もちろん、言うまでもないですが――――初春にも秘密ですのよ?」 初春、という単語にぎょっと佐天の目が見開かれた。 口が何かを言おうと開きかけるが、白井はそれを阻むように続ける。 「初春は精神感応系能力者によって記憶や認識を操作されてますの。  白井黒子という人物について、初春は深く考えないように思考を制限されてますの。  記憶消去じゃありませんのよ。思考操作。分かります? 白井黒子は初春にとって『どうでもいい人物』なんですの。  初春が今、苦しんでいるのは――ええ、お分かりですわよね。それが目の前にいるからに他なりませんの」 「――――――」 我ながらよくもまあすらすらと出任せを吐ける、と白井は心中で自嘲する。 正確には出任せではない。むしろ正解に近い。だが――実際はそんな単純なものではない。 初春が受けたのは思考操作というよりも――――思考汚染と称した方が正しい。 思考回路が根本から改竄され、制限されているのではなく、不可能になっているに近い。 魚に歌えと言っているようなものだ。蛇に空を飛べと言っているようなものだ。 初春には――白井黒子について熟考することは許されていない。 それはもはや初春飾利ではない、別の人物だ。 そして、そうしてくれと頼んだのは――白井自身に他ならない。 ――――一人殺すも、二人殺すも、皆殺しにするも同じ事。 もう白井にはそんな基本的な自制すらなく、ある種の達観を得ていた。 誰彼構わず殺したいという殺人鬼めいた欲望ではない。 ただ単に、そう、殺人を一つの手段として考える程度にどうしようもなくなっているだけだ。 それに何より――白井は他の全てを、自身すらも捨てると決めたのだ。 「佐天さん、わたくしの言っている意味が分かりますわよね。  ええそう――初春を苦しめたくなければわたくしの事を隠蔽しなさい。  何、簡単な事ですのよ。初春に誰かが白井黒子について問い詰めたりしないように見張る程度でいいんです。  そうすれば全ては平和なままですの。あなたもわたくしも、初春も、皆が得をする。いい話でしょう?」 ――相手の感情を逆手に取って、我ながら実に嫌らしい。 微笑む白井。その笑顔はまるで人形のように作り物めいていて。 「――――――」 佐天は白井に向けていた恐怖に揺れる瞳を、ぎこちない動きで初春へと向ける。 視線は下へ。首を僅かに傾げるような動きで左に。 そこには初春の苦しげな顔があって――。 同時に、その向こうにあるものが目に入る。 「――――――っ!!」 息を呑む佐天。 その視線の先を白井が目で追えば――何という事はない。自分の足があった。 「ああ……これですの? さっきちょっとミスをしてしまいまして。  我ながら馬鹿馬鹿しいミスですが……もちろん、これも他言無用ですのよ?」 佐天は再び白井に向き直る。その顔は明らかに恐怖に染まり切っていた。 無理もない。彼女には白井の言っている意味も、その意図も分かりっこないのだから。 だが何となく、この先の佐天と初春の辿る道は予感していたのだろう。 白井との繋がりを完全に消し去るまで、初春が今のような状況に陥る可能性は消えない。 まがりなりにも初春が受けたのは超能力者の精神操作だ。 呪いに近いそれは取り除くのは難しいどころか、そういう構造に作り変えられてしまっている以上は同じように元の状態に作り直す必要がある。 学園都市といえども精神などという曖昧なものを具体的に、かつ精密に操作する事が可能な技術はおろか、第五位に匹敵する精神感応系能力者がいるはずもない。 つまるところ初春の受けた精神操作を完全に除去する事など不可能なのだ。 施術者はその内効果が切れるとか言っていたが、それがどれほどのものなのかとは明言していない。 一週間かもしれないし、一ヶ月かもしれない。一年か、もしかするとそれ以上か。 それに彼女の事だ。そんなものは初めからなくて、平気な顔で大嘘を吐いていた可能性すらある。 正直なところ白井自身にも分からなかったのだ。 だがそれを佐天に教えてやる必要もない。 永久にそのままだと勝手に勘違いするならそれでいい。 どうせ後からばれたところで彼女は何もできやしない。 初春はもう二度と白井の事を考える事ができない。 もししてしまえば今のように錯乱した末に昏倒する事となるだろう。 その事がどれだけ彼女の精神に負担をかけているかは言うまでもない。 それが嫌なら、初春に誰かが白井について考える事を強要しないかどうか常に気を付けて――怯えていろ、と。 「もうすぐここに警備員の方々がくると思うんですが。ああ、どうしてかは聞かないで下さいね?  もちろん、その人たちにも内緒ですのよ。初春が大切なら、分かってくださいますよね。……よろしい?」 念押しにもう一度微笑んでやる。 佐天は恐怖に凍り付いた表情のままで返事はなかったが、まあ大丈夫だろう。 掴んでいた襟を放し、白井は立ち上がろうとして、足が折れていた事を思い出す。 不思議な事に痛みすらもすっかりと忘れていた。 誤魔化すように、はあ、と溜め息を吐いた。 「それではさようなら、佐天さん。もう二度と会わない事を願ってますの。  くれぐれも……初春をお願いしますわね」 笑顔のままそう言い放ち。 「白井さんっ…………!」 ようやく発せられた佐天の声を無視し、ひゅん、と空気の掠れる音と共に白井の姿は消え去ってしまった。 後に残された佐天は、気絶したままの初春を抱いたまま呆然と虚空を見詰めるしかなかった。 ……遠くから装甲車の群れの立てる物々しいエンジン音が聞こえてきた。 ―――――――――――――――――――― ふーっ、ふーっ、という荒い息が嫌に耳につく。 街の光も届かない、小さな切れかけの蛍光灯がちかちかと明滅する路地裏の壁に片手を突き、白井は膝を折り蹲っていた。 初春と佐天の元を離れ、数回空間を跳躍した直後、ようやく思い出したように右足が猛烈な痛みを放った。 堪らず白井はその場に崩れ落ち、それから一歩も動けずにいた。 意識は激痛と熱に朦朧としている。足は元から役立たずそのものだし、沸騰した脳では能力を使用するにもまともな演算もできない。 やってやれない事もないだろうが、狭い路地だ。左右の壁にでも突っ込んだら目も当てられない。 今の自分なら失敗しないだろうとも思うが矢張り危険な事には変わりな――――。 「うぐ……ぇ……」 吐き気にも似た倦怠感が唐突に襲い掛かった。 思考が一気に白濁する。それは大熱を出して寝込んだ時の感覚に近い。五感がまともに用を成さず、ごうごうと耳鳴りが酷い。 平衡感覚すら失われ、自分の体がどこを向いているのかも分からなくなる。 僅かに感じる地面の感触は足部だけで、まだ辛うじて倒れていない事だけは理解できた。 「……うえぇ……、……」 何もないのに目からは涙が溢れてきた。嫌な味の唾が口の中を濡らす。 直感的に拙いと悟る。だがどうにかしようにもその具体的な方法が分からず、考えるだけの余力もない。 ふらりと、体が傾いだ。 しかし白井にはもはやそれを感じ取れるだけの思考も残っていなかった。 (こんな――――で――――訳には――――) 意識は急速に落下してゆく。 だが完全に途切れるその直前。 白井の朧気な視界の端で何かが動いた気がした。 「――――、――」 そして白井の意識はふつりと糸が切れるように失われる。 どさり、と人の体重の作る音が狭い路地に響いた。 「………………」 じゃり、と靴底が砂を噛む音。 いつのまにか白井の横には人影が立っていた。 その人物はしばらく無言のままで地に伏した白井を見下ろしていた。 そして、にぃ――と口の端を吊り上げて楽しげ笑い、それから口笛を短く吹いた。 「いいもんみーっけ。昼もだけど、今日の俺って結構ツイてるんじゃねぇ? 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白井は最初からこれを狙っていた。 一度として真正面から向かう事なく、布石を打つ事に徹した動き。 砂皿の一連の罠は空間移動能力者の弱点が混乱や焦燥という心の動揺だと理解しての物だという事は明白だった。 しかしそれが仇となる。 白井の焦りを誘うためだろうが、閃光音響弾の存在は外への陽動で把握していた。 そして極め付けが暗闇での待ち伏せだ。 光が武器となる最も効果的な戦場。 元々が驚愕と混乱を誘発させるための武装だ。確実に使用する。 視覚がろくに働かぬ暗闇での戦闘は恐ろしかったが、整然とした室内の様相が幸いした。 初手で室内灯のスイッチの位置が入り口付近にある事を確認し、 一度目の着地で机の高さを把握した白井は机の並びを頭の中の立体地図に書き加える。 機械的なその配列を描くのは容易だ。 入り口から漏れる微かな光で始点となる先端の机の位置を把握すれば、そこから垂直に直線を伸ばす事で数本の平行線が完成する。 机の正確な構造は必要ない。問題となるのはその位置と高さだけだ。 直方体とでも設定しておけば邪魔にもならないだろう。 斯くして準備は完了し、待ち望んでいた音が聞こえる。 小さく空気を切り裂く音。 手榴弾の投擲音だ。 目も、耳も、一度きりの使い捨てでいい。 白井にあの白地に金刺繍の修道服の少女のような完全記憶能力はないが、 一瞬の閃光はカメラのシャッターを切ったように正確に網膜に焼き付ける。 砂皿の位置、机の正確な配置、そして自分の位置。 その後の砂皿の移動は分からなかったが、おおよその位置が分かっていれば大丈夫だ。 あとはタイミングを合わせるだけで済む。 正確に狙いを付けるには確実な視界が必要となるはずだ。ならば白井の姿は相手に見える。 背を向ける体制を取る事で今度はこちらが相手の油断を誘う。視覚は必要ない。 ついでに苦しそうな演技をおまけに。実際銃弾に切り裂かれた肩口は泣きたいほどに痛むのだ。 迫真の演技はアカデミー賞ものだろう。 ちかちかと痛む視界が僅かに白に染まる。 ぶち込んだ。 「が――ぁ――、――!」 ようやく働きを取り戻しつつある耳が苦痛の呻きを捉えた。 砂皿はまだ生きている。 だが床に伏せた白井の体が僅かな揺れを感じ取る。 同時に湿った音と、何やら鼻につく臭いが広がる。 色の判別はまだできそうにないが、目がそれを見つけた。 べっとりと床に張り付いた細長い柔らかなもの。 それは分断され、机の底に張り付くも自重に耐え切れず剥がれ落ち倒れた拍子に下半身からぶちまけられた砂皿の小腸だ。 「う――――っ」 認識した瞬間に白井の内腑から冷たいものが湧き上がってくる。 考えなくても分かる。あれは致命傷だ。 人は体を両断されて生きていられるほど頑丈でも単純でも鈍感でもない。 まだ生きている。 だが、死ぬ。 白井の手によって。 白井黒子が殺した。 「――――っげ――――ぁ――――!」 その最低な現実に体が拒否反応を起こし、堪らず吐いた。 びちゃびちゃと黄色い胃液が床を叩く。 唯一救いがあるとすれば、今日何も食べていなかったことくらいだ。 酸味と苦味が舌を焼く。胃と喉が意識とは関係なく痙攣を起こし、そこにはない毒を吐き出そうと胃の中身をぶちまけた。 内臓の痙攣する動きに白井の目からは涙が零れる。 殺人の手応えは余りに軽く、そして最悪な感触だった。 床に突っ伏し、嘔吐を繰り返す。 とうに中身は空だというのに空えずきは止まろうとしない。 そこに、声が届く。 「――なんだ――人を殺――すの、は――初めて、か」 それが砂皿の声だと理解するのに時間が掛かった。まだ彼は生きている。 だが白井の位置は机と机の間に開いた空間は砂皿の位置からは死角だ。 そもそも体を中ほどで両断されてまともに動ける人物などそういないだろうが。 もっとも――その状態で喋る事はできているのだが。 「それもそうか――は、――」 砂皿の切れ切れな声と対象的にまるで世間話でもするかのような口調に、なぜか白井の内臓は落ち着きを取り戻す。 初めて聞く彼の声は、無骨だがどこか優しげですらあった。 「――――人殺しの世界へようこそ、空間移動能力者」 そんな言葉を吐く彼は今、どんな顔をしているのだろうか。 少しだけ気になったが、ここからは机が陰になってしまって見えやしない。 そして自分はどんな顔をしているのだろうか。無論、見えない。 白井からは見えぬ位置、机は端を壁の中に埋め込まれ完全に固定されている。 そして事務机の上に砂皿は上半身だけの胸像のような姿となって乗っていた。 足を失っても這って動ける、とは思うがさすがにこれは無理だろう。 今は密着しているからいいものの、体を動かせば腹腔から内臓が零れ同時に大量出血する。 (――『詰み』はこちらか) 何故だか可笑しかった。 何が可笑しいのかは分からない。ただどうしてだか笑いが込み上げてくるのだ。 もしかしたらこうして無駄口を叩いているからかもしれない。 無駄どころではない。どう考えてもマイナスだ。 しかし砂皿は喋る事を止めはしなかった。 理由は、と自問して、少し考えて自答した。 ――そう、気紛れだ。 そうとしか考えられない。 砂皿の行動はまったくちぐはぐで、噛み合ってなどいない。 こんな無駄口を叩いて時間を与えているというのに、まだ自分は彼女を殺そうとしているのだから。 ちん、と乾いた音が聞こえた。 白井の鉄矢を取り落とした時よりも断然小さく軽い音。 しかしその金属の音に、水を掛けられたように白井の頭から混乱の靄が切り裂かれる。 はっと、頭を上げればようやく本来の働きを取り戻した両眼が異物を見つけた。 「――――プレゼントだ」 それは針金で作られた輪のような、粗末な部品。 映画の中でしか見たことのないそれは砂皿が始めて見せるものだが、存在は始めから疑って掛かるべきだったのだ。 だが続く言葉に白井は思わず動きを止めた。 「――――――ジャン=レノは名優だとは思わないか」 場違いだと分かっていても、噴き出しそうになった。 意外と茶目っ気がある。まったく似合わないが。 「――――――映画の見過ぎですのよ」 白井の言葉は果たして砂皿の耳に届いただろうか。 部屋に閃光が生まれる。 それは先ほどのものとは違う、暴力的なものだ。 砂皿の着ていた黒のロングコート。 その内に鈴生りに吊り下げられていた手榴弾が炸裂した。 爆発と衝撃は狭い室内を障害物も何もかもを巻き込んで蹂躙する。 その中心である砂皿の体が無事であるはずもなかった。 原形を止める事なく、両断よりも細かく千切られ、欠片となって飛散する。 言うまでもなく即死だった。 爆発でだけは死なないと嘯いた彼は、皮肉にも自爆によってその命を終える。 だが砂皿の最後の一撃を以ってしても白井はまだ生きていた。 砂皿の『気紛れ』によって幾らか平静を取り戻した白井はすんでの所で『空間移動』を発動させ、その身を建物外へ退避させていた。 ――――しかし、遅れに遅れはしたがここになってようやく布石が意味を成す。 最初の狙撃から始まり、砂皿の積み重ねてきたあらゆる行動がようやく結実する。 精神も肉体もぼろぼろに疲弊し、白井の身は確かに苦痛に塗れていた。 感覚の制限、時間の制限、知覚外からの攻撃、不意の攻撃、大きな音と光。 それらは少しずつだとしても確実に白井の精神を苛んでいた。 人殺しがまともな思考でないと言うのならば、白井はまだ幾らかまともな部類だった。 殺人に対して強い嫌悪感――いや、拒絶を生んだ白井の精神。 そこに飛び込んできた最後の、あの冗談めかした言葉。 砂皿の意図していなかった、ふと思いついただけの台詞が決め手となる。 その殺す対象からの言葉によって白井は――絶対にそんな事はないはずなのに――幾らか救われた気になってしまった。 緊張の後の弛緩が生まれ、それは決定的な隙となった。 心身ともに疲労が頂点に達し、緊張の糸が切れた白井はほんの少しのミスをした。 本当に、たった一つの小さな失敗だ。 だが同時にそれは確かなものとして現れる。 移動先、夜気を肌に受け白井は安堵の息を漏らしそうになるが、目の前の景色に、驚愕に目を見開いた。 白井の眼前には星の見えない夜空が広がっていた。 そして視界の下半分ほどは建物の壁面で覆い被さられるように埋められている。 ほんの小さな演算ミス。 一つだけ、決定的なミスを犯した。 それさえなければ何という事もなかっただろうに。 白井は出現角度の入力を誤り、移動先に宙に仰向けになるように現れた。 その分白井の体は想定よりも横に――建物に垂直気味に空間を占める事となり。 移動前の体勢、小さく折り曲げたもう片方よりも伸ばされた右足が、足首よりも少し上の辺りで建物の壁面と合体していた。 彼女たち空間移動能力者の最も恐れる『埋め込み』が起こっていた。 「――――――!!」 他の能力者はともかく、白井黒子の場合、能力の連続使用には一秒ほどのタイムラグが必要となる。 その一秒で十分だった。 完全に空間を割り開いて出現する『空間移動』では、固体に対し『埋め込み』を行った場合完全に張り付いた状態となる。 その際物体の強度は関係なく、表面の目に見えぬ細かな凹凸もジグソーパズルのピース同士のように正確に割られる。 余りに正確すぎるそれは、両物質間で完全な密着を起こす。 人体でそれが起こった場合、最も気をつけるべきは動かさない事だ。 タンパク質を主成分とする体表面は脆く、傷付きやすい。 『埋め込み』が起こる対象の大抵はそんな人体よりも圧倒的に頑丈な構造をしている。 そこを動かすとどうなるのか。 単純だ。肉皮が剥がれるのだ。 べりべりと生皮を剥がれる苦痛をその瞬間負う事となる。 想像したくもないし、経験するのはもっとしたくない。 だがそうとは分かっていても、動かさぬ事などできるはずもなかった。 白井の体は宙に浮いている。何も支えはない。 元より無理な体勢で、何か支えがあったとしても耐えられはしなかっただろう。 そして白井の体に強制的な運動が発生する。 この世界では、少なくとも地球上ではその力からは逃れられない。 万有引力による九・八メートル毎秒毎秒の加速を伴う自由落下が開始する。 だが幸いにも。 白井の足はローファーと靴下によってその生身を晒してはいなかった。 接着はそれらが負う事となり、白井の肌には一切の埋め込みは起こっていない。 だが、そんな事はこの時点では何の意味もなさない。 万有引力だとか、重力加速だとか、十一次元論だとか。 そんな小難しいものよりもよほど単純で、人類史に於いてもっと早くから発見され、活用されてきた物理法則がある。 小柄とはいえど白井とて確かに何十キロかの体重を持っている。 それだけの質量が地球の重力に引かれ、下に向かって落下している。 しかし右足は壁の中に『埋め込み』によって固定されたままだ。 そこに発生する力の関係は小学校で習う程度のものでしかない。 力のモーメントの利用――簡単な言い方をすればそう、『てこの原理』。 支点、力点、作用点の三点を用いる大きな力を発生させるための原理は、一つの大前提があって初めて成り立つ。 ――『三点を結ぶ棒が絶対でなければならない』。 完全に固定されたままの基点に力が加えられば、回転モーメントは曲げモーメントに変換される。 それが大きな力に耐えられない物質でも、歪曲するほどに柔軟な物質でもなければどうなるかは言うまでもない。 この場合、それは――――。 &color(red){ぼぎん、} 打ち付けられた痛みなどどうという事もなかった。 白井の体は脛の位置をそのままに、膝を基点として落下を回転運動へと換える。 弛緩しきった白井の体は重力に引かれるままだ。細い足の骨だけで全体重を支える事などできなかった。 僅かにしなり、枯れた木枝のような音を立てて折れ砕け足に関節が一つ増える。 ごづっ、と鈍い音と共に視界が揺れた。壁に叩きつけられた白井の頭部はボールのように跳ねる。 「ぎ、っ――――」 まず最初に感じたのは衝撃だった。 体を何かが走り抜けた。それが痛みだと理解した時にはもう何もかもが手遅れだった。 白井の折れた足骨。その骨の先端が自重に引かれ押し付けられる白井の肉をみちみちと削る。 決して鋭利とはいえない刃は、まるで古く首切りに使われた竹の鋸だ。 それは徒に苦痛を与えるだけの拷問器具。ただの斬首刑ではなく、その様をせせら笑うために行われる公開処刑の道具に他ならない。 骨が直にごりごりと肉をこそぐように撫で回し、その刺激を受けた痛覚神経が脳まで信号を送る。 信号は脳の中心で処理される。そして警報が痛覚として白井の頭の中で炸裂した。 「――――あぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああ!!」 それはもはや痛みと呼ぶには生温い。 感覚は物理的な威力を以って割り砕かんといわんばかりに白井の脳を蹂躙した。 反射的に全身が痙攣をする。しかしその動きも痛みを助長するだけだ。 筋の収縮によって肉が骨を噛み、ぎちりと擦れる。それによって新たな痛みが生まれる。 痛みが動きを生み、動きが痛みを生む苦痛の永久機関。 「あ――――! あ――――! あ――――!」 脳の中で閃光が爆ぜる。宙ぶらりんに磔になった白井の体は背で壁面を擦り止まる。 だが足の肉はぎちぎちと嫌な音を立てながら少しずつ筋を切断されていた。 鑢を突き立てたに等しい擦過が徐々に、だが確実に白井の足を引き千切っていく。 ……そんな白井の頭上の位置、重力の先には地面がある。 高さは十メートルほどだろうか。そこは駐車場として使われていたのだろう。頑強に塗り固められた上に白線が引かれている。 ちょうど白井の真下には人の頭を割るにはちょうどいいと思われる車止めのコンクリート塊が静かに鎮座していた。 火花のスパークでぐちゃぐちゃにかき回される白井の脳の中で、 そこだけをナイフでケーキを切り取るように分割され本来の形を保った意識があった。 地獄のような苦痛に全身を震わせながらもその状態を冷めた目で見る白井の意識。 理性と言うべきか、白井の中の冷静沈着な部分が悶え苦しむ自らを感情のない瞳で見下ろしているイメージ。 このままあと幾らかすれば足肉は骨に削がれ、自重に耐え切れず千切れてしまうだろう。 元より頭から落下すれば助かる高さでもないだろうに、ご丁寧にも墓石までこさえてくれている。 痛みに耐え切れぬ思考のままでは能力を使用するための演算もままならないだろう。 それとも白井の頭が割られるよりも警備員の来る方が早いだろうか。彼らが到着するまでもう数分もないはずだ。 もし彼らがこの暗がりの中、壁に片足を突っ込んで宙吊りになっている少女を見つけたらどういう反応をするだろうか。 最悪な事に頭を下にぶらさげられているためにスカートは捲れ上がり下着が丸見えだ。 普段通りの白井の趣味からすれば幾らか大人しめではあるが、たとえそうだったとして見られていいとは思えない。 どちらにせよ。このままでは確実にゲームオーバーとなる事だけははっきりしていた。 (――――冗談じゃ、ありませんの) こんなところで終わって堪るものか。 でなければ自分は一体何の為に全てを投げ出したのだ。 そして、最後に自分すらも投げ出した白井の今までの意味は一体何だというのだ。 白井の理性は、その名のイメージからは程遠く、力技で強引に衝動を捻じ伏せる。 それは白井が元より得意なものだ。ずっとずっとそうやって押し殺してきた。そうしなければ他に選択肢がなかったから。 少なくとも白井の意思はそうやって自分さえも殺せるほどに強固だった。 ぐるぐると回る視界が鬱陶しくて目を閉じた。 「い――――ぎ――――っ!!」 奥歯を噛み締め意思に力を込める。 痛覚を全力で無視し、白井は思う。 ――そう、この程度の痛みなど、人を殺すあの気分に比べればどうという事もない。 丁寧に、一つずつ慎重確実に演算式を組み立てていく。 今度こそ間違えてはいけない。そんな無様な真似は許される事ではない。 この程度の痛みも、衝動も、吐き気も何もかもは。 (――――――わたくしの信仰、その万分の一にも及ばない――!) ――『起爆』 一瞬の浮遊感の後、白井は背から叩きつけられる。 まともな受身を取る事もできず、肺の中の空気が押し出され呻きが漏れた。 「がっ――――!」 全身への打撃は折れた足首を掻き毟り激痛となって脊髄を這い上がる。 気を失いかねぬほどの衝撃に真っ黒な空に星が輝いた気がした。 だが、背に硬いアスファルトの感触。 大の字に広げられた四肢は痛みと共に平面の圧迫を感じている。 硬い、しかし確かな地の感触だ。 再度の跳躍は、演算を違える事なく白井を地表へと運んでいた。 「はっ――はは、ははは――っ」 思わず笑いが零れた。 どうしてだかとても愉快な気分だった。さっきまでの最悪な気分が嘘のように晴れ渡っていた。 どうしてか。そ決まっている。簡単な、シンプルな答えだ。 あのような破滅的な精神状態で、白井は見事に何の失敗もなく能力の使用に必要な高度演算をやってのけたのだ。 つまりそれは――彼女の高潔な信仰が他の下らない感情全てに圧倒的に凌駕していた事を意味する。 「あは、はは――あははははははは――っ!」 白井は自らの身を以ってその証明をしてみせたのだ。 矮小な雑念などは言うに及ばず、たった一つの真の信仰こそが正義に他ならないと証明されたのだ。 これが愉快でなくて一体何だ。 寒空の下、誰もいない打ち捨てられた駐車場の中心で。 白井は暗黒の空を見上げながら、口からは哄笑が止まらなかった。 「お姉様! ああ、お姉様!」 今日はなんと素晴らしい日か。 まったく最高の気分だ。……涙が出る。 「――――ハレルヤ!」 白井はかつてないほどの多幸感に包まれていた。 だがそれは次の瞬間、音を立てて瓦解する。 じゃり、と靴が砂を噛む音。 それに白井の喉から溢れていた笑いが止まった。 他に誰もいなかったはずの駐車場に人影が現れた。 ……警備員が到着する最速予想時間までもう何分かある。 そして白井の計算は狂っていなかった。ただ一つ、単純な事を失念していたのだ。 爆発音に気付いた通行人が現れる可能性もあるという事。 そして、中でもそれは白井にとって最悪な可能性だった。 「――――――」 予想外の乱入者、暗闇の中に微かな光に照らされて見えたその顔に、白井の笑顔はびしりと凍り付いた。 街の遠い光に浮かび上がったその顔と声は白井のよく知るものだった。 「――し、らい――さん――?」 頭にトレードマークの花飾りを乗せた少女。 初春飾利がそこにいた。 「――――――」 息ができなかった。 目の前に現れた少女は、予想外とかそういう言葉を超越していた。 まるで花が開いたような明るい笑顔が印象的な、まだ幼さの残る顔立ち。 こんな地獄に似つかわしくない鮮やかな髪飾りが視界の中、嫌に映える。 もう二度と会うつもりのなかった少女。会えるとなど微塵も思えなかった人物。 白井の元いた『白い世界』の象徴ともいえる少女が今、『黒い世界』の舞台に立っていた。 多分、彼女は白井にとっての『二番目』だ。 『一番目』のために切り捨てられた――白井が殺した少女。 命ではない。けれど彼女の大切な部分を容赦なく刈り取ったとすれば、それは殺人も同義だろう。 そう、思えば白井は、とうの昔に人を殺していた。 初春飾利という少女と、彼女の大切な人を。 だがその彼女が如何なる運命の皮肉か。 砂皿の築き上げてきた布石の数々と幾許かの偶然によって、白井の前に登場するはずのない人物が現れた。 白井が『白の世界』との決別として『心理掌握』にその記憶と痕跡を奪わせた少女が。 大切で大好きで仕方のなかった少女が、白井の目の前に立っていた。 「――――――」 白井は声の一言すら出せずにいた。 目の前にふらりと現れた少女。 血と硝煙の臭いの充満する舞台には似つかわしくない、小奇麗な洋服と子供っぽさの抜け切らないあどけない顔。 それはあまりにも白井の現実と――この地獄絵図と懸け離れた存在だった。 だが一点、場の様子に似合ったものがある。 表情。彼女の顔が形作るその様相は無機質めいていて、硝子玉のように意思の光を帯びていない両眼が白井の方を向きながらもその焦点をふらふらと彷徨わせていた。 「しら、い――しらい、さん――しら――」 口から紡がれる言葉は意味を成さないものだ。 それはまるで壊れたレコードのような――。 びくん、と大きく初春の体が震えた。 「しら――し――しら、な――しら――ない――しらな――――」 まるで寒さに震えるように体を小刻みに振動させる。ひく、と喉を逸らすように初春は俯き気味だった顔を上方、空に向けた。 その先には何もない。文字通りの虚空だ。 だが虚ろな視線だけがそれに逆らうかのように首の向けられた方から逸らされ白井を見た。 そしてその両眼からは。 つう、と耐え切れず一筋だけ堰から溢れるように涙が零れ落ち――。 「しらい、さ――」 言葉と共にがくん、と唐突に初春は受身を取る事もなく糸の切れた人形のようにその場に倒れ伏した。 「初春っ――!」 静かな駐車場に響く声。 だがそれは白井のものではない。まして、初春のものであるはずもなかった。 倒れた初春。そこに駆け寄る影があった。 長い黒髪を後ろに靡かせる少女だ。 一目散に地に伏した初春へと駆け寄る彼女もまた、白井のよく知る人物だった。 「――佐天――さん」 ひきつけを起こしたように震えの止まらない初春を、佐天はそれを押さえ込むかのように抱き起こす。 ……思えばそれは自然な流れだったのかもしれない。 佐天涙子。初春の同級生。そして――彼女の親友。 彼女が初春と共にいる可能性くらいは容易に想像できたはずだ。 病院のベッドで目覚めた初春の元に真っ先に会いに来たのは自分ではなく、他ならぬ彼女なのだから。 だが白井は全然、まったくそんな事は頭になかった。 佐天がこの場に現れた事は白井にとって予想外でしかなかったのだ。 佐天は無能力者だ。能力者でもなければ、まして魔術師でもない。 銃の扱いに長ける訳でも、人並み外れた技術者という訳でもない。 何の異能も特殊な技能も持たないただの中学生。 特にこれといって取り柄のない、どこにでもいるありふれた凡百な少女だ。 だからこそ――彼女の登場は異質以外の何物でもなかった。 殺人と策謀と裏切りしかない舞台の上に彼女の居場所はない。 佐天がこの物語に登場する機会があるとすれば、それこそエキストラ程度にしか、例えば爆発に巻き込まれる哀れな『その他大勢』としてくらいだ。 佐天涙子という少女には本来その程度の役回りしか与えられないはずだった。 何も知らない、良い意味でも悪い意味でも平和な世界の住人。 そんな佐天だからこそ白井は完全に彼女の存在を失念していた。 「初春! ねえ初春しっかりして!」 完全に取り乱した彼女の表情には一片の余裕も見られない。 当然だろう。彼女はこんな事象には全く耐性のない一般人で、更には初春の親友なのだから――。 ――そう。初春の親友だから、この場にいる。 本来彼女に与えられるはずのなかった役割が生まれたのもそのためだ。 そしてその事実はもう一つの側面を持つ。 白井にとっての、掛け替えのない親友。初春飾利。 けれど初春には佐天がいる。 初春にとって白井は確かに掛け替えはないかもしれない。 けれど初春の『親友』は――他にいるのだ。 みし、と何かが音を立てた気がした。 それは奥歯だったのか、心だったのか、それとも世界だったのか。 しかし白井のすぐ耳元で軋んだその音は確かに頭の中に響いた。 「――――――」 その時の白井の感情は形容し難いものだった。 あえて既存の言葉を使って表すのであれば――そう――『嫉妬』というのが一番近いようにも思える。 けれどそれも正しくはない。もっと何か暗澹とした汚泥のような重く黒いものが白井の心の水底からふつふつと湧き出ていた。 白井は他の全てを捨てこの地獄に飛び込んだ。 自ら選択したものだ。今更後悔するつもりもない。 そして初春もまた、この世界に片足を踏み入れようとしたがために――白井を失った。 記憶と感情の改竄。彼女は決して失ってはならないと追いかけたその行為を本人に否定された。 だが佐天はどうだ。 それなりに平和で、それなりに安全な世界の微温湯に浸かったままの彼女がどうしてこの場にいられようか。 でなければ自分は、初春は、その間にあったものは何だったというのだ。 そう――彼女もまた、『こちら側』を垣間見たからには――何かを失ってもらわなければ困る。 折れた足の痛みはどこかへ消えてしまったようだ。 片足が役に立たないとして、自分にはそれに頼らずとも翼がある。 そして視線の先を、ひたすらに初春の名を呼び続ける佐天に。 ――ああ、まったく。 白井は何か、最後の最後に残っていた大切だったものを思考と意識の鎖で絡め取り。 酷く慣れた手付きで、丁寧に一つ一つをいとおしむように必要な式をそれごと編み上げる。 ――なんと無力で無自覚で無遠慮で――愚かしいほど不幸なのだろう。 見なくても分かる。 自分の顔は、きっと――。 ――――『起爆』 景色が一転する。 空間を跳躍し白井は初春を抱いた佐天の真横に移動する。 着地の衝撃を片足だけで殺し、膝を折りしゃがむように腰を落とす。 そして佐天がこちらに反応するよりも早く寄り掛かるようにその手を伸ばし。 ――――がっ! 力任せにコートの上の襟首を掴み、思い切り引き寄せた。 「――――――!!」 目の前に佐天の驚愕の表情が広がる。 ……いや、違う。 その顔はすぐさま安堵へと変わっていったのだ。 ああ――どこまで救い難いのでしょうか。 その反応が如実に物語っている。 この状況で、白井が今まさに佐天の服を掴み上げているというのに。 彼女はよりによってその白井こそが状況を、初春を救えると確信しているのだ。 そしてそれは、一つの事実を意味している。 目の前にいたというのに彼女は――今の今まで白井の存在にまったく気付いていなかったのだ。 「――――――ねえ、佐天、さん」 囁くように、言葉を一つ一つ丁寧に、白井は佐天に呼びかける。 佐天の瞳の中には自分が写っている。暗くてよく分からないがきっとそうだろう。 ようやく佐天の顔色が変わった。 血の気が引いていくのが手に取るように分かるように思える。 さあぁぁ――とみるみる蒼ざめていった。 無理もない。白井の様子も気配も声色も、彼女の知るものとまったく違うのだ。 「大事な、とても大事なお話がありますの。ええ――聞いてくださいます?」 その言葉に佐天は答えられない。 声を発する事はおろか、微動だにできなかった。 首を振る事もできず凍り付いたかのように硬直している。 佐天の胸の中では初春が目を瞑り、うわ言のように何か呟いているが聞き取れなかった。 そして突然、呟いていた声が消えかくりと首が折れる。 (……気絶してしまいましたか) 都合がいい。実に都合がいい。よすぎる、とも思うが。 これから言う事を、認識できないとはいえ初春には聞かれたくなかった。 白井は初春と、そして佐天の様子を見て、満足げににっこりと笑った。 「佐天さん、よく聞いてくださいな。いいですか?  ――――――あなたは今日ここで、何も見なかったし、聞かなかった。誰にも会わなかった」 小さい子を諭すように、白井は一言一言区切って佐天に囁きかける。 「あなたと、私の、二人だけの秘密にしておいてくださいな。  もちろん、言うまでもないですが――――初春にも秘密ですのよ?」 初春、という単語にぎょっと佐天の目が見開かれた。 口が何かを言おうと開きかけるが、白井はそれを阻むように続ける。 「初春は精神感応系能力者によって記憶や認識を操作されてますの。  白井黒子という人物について、初春は深く考えないように思考を制限されてますの。  記憶消去じゃありませんのよ。思考操作。分かります? 白井黒子は初春にとって『どうでもいい人物』なんですの。  初春が今、苦しんでいるのは――ええ、お分かりですわよね。それが目の前にいるからに他なりませんの」 「――――――」 我ながらよくもまあすらすらと出任せを吐ける、と白井は心中で自嘲する。 正確には出任せではない。むしろ正解に近い。だが――実際はそんな単純なものではない。 初春が受けたのは思考操作というよりも――――思考汚染と称した方が正しい。 思考回路が根本から改竄され、制限されているのではなく、不可能になっているに近い。 魚に歌えと言っているようなものだ。蛇に空を飛べと言っているようなものだ。 初春には――白井黒子について熟考することは許されていない。 それはもはや初春飾利ではない、別の人物だ。 そして、そうしてくれと頼んだのは――白井自身に他ならない。 ――――一人殺すも、二人殺すも、皆殺しにするも同じ事。 もう白井にはそんな基本的な自制すらなく、ある種の達観を得ていた。 誰彼構わず殺したいという殺人鬼めいた欲望ではない。 ただ単に、そう、殺人を一つの手段として考える程度にどうしようもなくなっているだけだ。 それに何より――白井は他の全てを、自身すらも捨てると決めたのだ。 「佐天さん、わたくしの言っている意味が分かりますわよね。  ええそう――初春を苦しめたくなければわたくしの事を隠蔽しなさい。  何、簡単な事ですのよ。初春に誰かが白井黒子について問い詰めたりしないように見張る程度でいいんです。  そうすれば全ては平和なままですの。あなたもわたくしも、初春も、皆が得をする。いい話でしょう?」 ――相手の感情を逆手に取って、我ながら実に嫌らしい。 微笑む白井。その笑顔はまるで人形のように作り物めいていて。 「――――――」 佐天は白井に向けていた恐怖に揺れる瞳を、ぎこちない動きで初春へと向ける。 視線は下へ。首を僅かに傾げるような動きで左に。 そこには初春の苦しげな顔があって――。 同時に、その向こうにあるものが目に入る。 「――――――っ!!」 息を呑む佐天。 その視線の先を白井が目で追えば――何という事はない。自分の足があった。 「ああ……これですの? さっきちょっとミスをしてしまいまして。  我ながら馬鹿馬鹿しいミスですが……もちろん、これも他言無用ですのよ?」 佐天は再び白井に向き直る。その顔は明らかに恐怖に染まり切っていた。 無理もない。彼女には白井の言っている意味も、その意図も分かりっこないのだから。 だが何となく、この先の佐天と初春の辿る道は予感していたのだろう。 白井との繋がりを完全に消し去るまで、初春が今のような状況に陥る可能性は消えない。 まがりなりにも初春が受けたのは超能力者の精神操作だ。 呪いに近いそれは取り除くのは難しいどころか、そういう構造に作り変えられてしまっている以上は同じように元の状態に作り直す必要がある。 学園都市といえども精神などという曖昧なものを具体的に、かつ精密に操作する事が可能な技術はおろか、第五位に匹敵する精神感応系能力者がいるはずもない。 つまるところ初春の受けた精神操作を完全に除去する事など不可能なのだ。 施術者はその内効果が切れるとか言っていたが、それがどれほどのものなのかとは明言していない。 一週間かもしれないし、一ヶ月かもしれない。一年か、もしかするとそれ以上か。 それに彼女の事だ。そんなものは初めからなくて、平気な顔で大嘘を吐いていた可能性すらある。 正直なところ白井自身にも分からなかったのだ。 だがそれを佐天に教えてやる必要もない。 永久にそのままだと勝手に勘違いするならそれでいい。 どうせ後からばれたところで彼女は何もできやしない。 初春はもう二度と白井の事を考える事ができない。 もししてしまえば今のように錯乱した末に昏倒する事となるだろう。 その事がどれだけ彼女の精神に負担をかけているかは言うまでもない。 それが嫌なら、初春に誰かが白井について考える事を強要しないかどうか常に気を付けて――怯えていろ、と。 「もうすぐここに警備員の方々がくると思うんですが。ああ、どうしてかは聞かないで下さいね?  もちろん、その人たちにも内緒ですのよ。初春が大切なら、分かってくださいますよね。……よろしい?」 念押しにもう一度微笑んでやる。 佐天は恐怖に凍り付いた表情のままで返事はなかったが、まあ大丈夫だろう。 掴んでいた襟を放し、白井は立ち上がろうとして、足が折れていた事を思い出す。 不思議な事に痛みすらもすっかりと忘れていた。 誤魔化すように、はあ、と溜め息を吐いた。 「それではさようなら、佐天さん。もう二度と会わない事を願ってますの。  くれぐれも……初春をお願いしますわね」 笑顔のままそう言い放ち。 「白井さんっ…………!」 ようやく発せられた佐天の声を無視し、ひゅん、と空気の掠れる音と共に白井の姿は消え去ってしまった。 後に残された佐天は、気絶したままの初春を抱いたまま呆然と虚空を見詰めるしかなかった。 ……遠くから装甲車の群れの立てる物々しいエンジン音が聞こえてきた。 ―――――――――――――――――――― ふーっ、ふーっ、という荒い息が嫌に耳につく。 街の光も届かない、小さな切れかけの蛍光灯がちかちかと明滅する路地裏の壁に片手を突き、白井は膝を折り蹲っていた。 初春と佐天の元を離れ、数回空間を跳躍した直後、ようやく思い出したように右足が猛烈な痛みを放った。 堪らず白井はその場に崩れ落ち、それから一歩も動けずにいた。 意識は激痛と熱に朦朧としている。足は元から役立たずそのものだし、沸騰した脳では能力を使用するにもまともな演算もできない。 やってやれない事もないだろうが、狭い路地だ。左右の壁にでも突っ込んだら目も当てられない。 今の自分なら失敗しないだろうとも思うが矢張り危険な事には変わりな――――。 「うぐ……ぇ……」 吐き気にも似た倦怠感が唐突に襲い掛かった。 思考が一気に白濁する。それは大熱を出して寝込んだ時の感覚に近い。五感がまともに用を成さず、ごうごうと耳鳴りが酷い。 平衡感覚すら失われ、自分の体がどこを向いているのかも分からなくなる。 僅かに感じる地面の感触は足部だけで、まだ辛うじて倒れていない事だけは理解できた。 「……うえぇ……、……」 何もないのに目からは涙が溢れてきた。嫌な味の唾が口の中を濡らす。 直感的に拙いと悟る。だがどうにかしようにもその具体的な方法が分からず、考えるだけの余力もない。 ふらりと、体が傾いだ。 しかし白井にはもはやそれを感じ取れるだけの思考も残っていなかった。 (こんな――――で――――訳には――――) 意識は急速に落下してゆく。 だが完全に途切れるその直前。 白井の朧気な視界の端で何かが動いた気がした。 「――――、――」 そして白井の意識はふつりと糸が切れるように失われる。 どさり、と人の体重の作る音が狭い路地に響いた。 「………………」 じゃり、と靴底が砂を噛む音。 いつのまにか白井の横には人影が立っていた。 その人物はしばらく無言のままで地に伏した白井を見下ろしていた。 そして、にぃ――と口の端を吊り上げて楽しげ笑い、それから口笛を短く吹いた。 「いいもんみーっけ。昼もだけど、今日の俺って結構ツイてるんじゃねぇ? 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