「真冬、もう少しだけ辛抱していてくれ」
真冬からの返事はない。まだ脈はある。だからまだ助けられるはずだ。
犯人はもうわかった。
生徒会に恨みを持っている人物はあの人しか居ない。最悪会長さんも紅葉先輩、そして鍵もやられているのかもしれない。
「だった一人でもやってやる」
今からあの人がいる場所へ全速力で行って、倒して、解毒剤を奪って真冬に飲ませる。
これだけの行動に出たんだ。きっと罠を仕掛けているに違いない。
それでも間に合わせて見せる。
「900秒だ。900秒で全部終わらせてやる」
勢い良く扉を開いて踏み出した。
疲労感が体を重くする。
今思えば今まで何もしてこなかったあの学校が今日になって突然襲ってきたのはこのためなのかもしれない。
でも、そんなことは関係ない。
「教えてやるよ。椎名深夏を怒らせるってことがどれだけ恐ろしいってことかを」
廊下は走ってはいけない。そんなことぐらい分かっている。
でも今はそんな常識をあたしは消し去る。
頭の中の枷が外れた。もうあたしには一般常識なんて通用しない。
物理法則もなにもかもが今のアタシには通用しない。
世界はめまぐるしく過ぎ去っていく。
常識と日常に閉ざされた世界は、それら全てをぶっ飛ばした今のあたしには見えないものだ。
だから、常識ではないそれが目に入った。
そこは日常じゃなくて非日常だった。常識はなくて非常識な空間だった。
それは巡に似ていた。巡なのは間違いない、でも巡じゃない。
巡にとてもよく似た人は床一面に広げた紅いカーペットのようなものに横たわっていた。
でもそれも間違いだって近づいてから気づいた。
これはカーペットじゃない。ただ紅で床が染まっているだけだ。
「巡!! おい、しっかりしろ巡!!」
「深夏……ゴホッ」
「喋るな!! 傷は……あ、浅いから」
「自分の体よ、自分がいちばん分かっているから」
巡は巡だった。でも傷が深い。血が止まらない。
抱えると制服は紅く染まっていた。
「深夏、逃げて。今すぐ碧陽から逃げて」
巡はそんな事を言った。でも、そんな事出来るはずが無い。真冬の命が掛かっているんだ。
「そんなの出来ない。それにこんなことをした奴をあたしは」
「床の染みは守よ」
「!!」
「守は声も姿も必要ないからこんな目に遭ったの。だから深夏だけでも逃げて」
巡の顔色はどんどん悪くなっていく。声を出せていられるのもあと僅かだろう。
もう真冬を助けるためだけじゃない。宇宙兄弟の敵討ちだ。
「そんな事聞いて、逃げられる訳ないだろ。あたしの怒りは誰にも止められない」
「いいよ。私はあいつのこと憎んでいないから……」
「巡? おい、しっかりしろ。巡、死ぬな巡!!」
巡はあたしの腕の中で静かに息を引き取った。
泣いている場合じゃないのに、涙が流れてきた。急がなきゃいけないのに、急げない。
「巡、守、仇は必ずとるから」
涙を拭いて先に進んだ。あの人がいる場所まであと少しだ。
曲がり角を曲がれば目標はあと少しというところで、そこから先は非日常だと気づいた。
日常と非日常を分ける目印の様に彼はそこに倒れていた。
病的な白い髪は紅かった。男なのに細い腕は折れていた。
善樹だ。中目黒善樹だ。
「どうして」
彼はそう言い残して息を引き取った。
その言葉には恨みはない。疑問だけがあった。
曲がり角に人の背が見えた。
あの男が善樹や巡達を殺ったんだ。そんな確信があった。
それなのにあたしの足はここに来て男と遭遇することを怯えている。
この曲がり角を曲がればあたしに日常は永遠に崩壊する。
でも、進まなければなにも始まらない。
「今更何を怯えているんだ。あたしは椎名深夏!! こんなところで逃げたりはしない」
運命の曲がり角を曲がった。
そこにいた男の手は血で染まっていた。
予想はあった。
巡は恨んでいないと言った。
善樹はどうしてと恨みよりも疑問を優先させた。
それでも否定していたから思いつかなかった。こいつがここにいると誰よりもあたしが思いたくなかった。
「どうして……どうしてだよ。どうしてお前がっ!!」
「許してくれとも愛してくれとも言わないぜ、深夏」
「なんでお前が、お前があの三人を殺すんだよっ、鍵!!」
そこにいたのは他でもない鍵だった。
涙を流しそうなわけでもないのに、とても悲しい瞳をした鍵だった。
「答えろよ鍵!! どうしてなんだよ」
「深夏なら分かるだろう。こういう時どういう行動を取るべきか」
「あたしと戦うつもりか?」
「そうだ。安心しろ、深夏を傷つけることはしない」
「鍵、そこを今すぐどいてくれ。真冬の命が危ないんだ。あたしは藤堂先輩に会わなきゃいけない」
「分かっている。でも、だからこそ深夏を通すわけには行かない」
鍵が何を考えているのかなんて分からない。分かるのはここを通すつもりはないということだけだ。
それは真冬の命が掛かっていたとしても譲れないらしい。
鍵は悪い奴じゃない。いい奴だ。その鍵がこんな行動に出るなんてなにか理由があるんだろう。
でも、それはあたしには関係ない。
「鍵悪いがあたしは鍵を倒してでもここを進まさせてもらう」
「そうか。仕方ないな。深夏の相手は本当はしたくなかったけど」
「鍵、行くぜ。ここで決着をつける」
「ああ、来いよ深夏。相手をしてやるよ」
それは激闘だった。
四天王とか言っていた妙な連中との戦いよりも遥かに激しい激戦だった。
床には穴が開き、天井は崩れ、壁は砕け散る。割られた窓の硝子の破片が夕焼けで当たりを照らしている。
決着はついた。
「大丈夫か、深夏」
「鍵……杉崎、鍵」
あたしは床に伏して鍵を睨みつけていた。
鍵はあたしに攻撃してこなかった。徹底的にあたしの足止めに徹していた。
組合うことができれば倒せた。でも、鍵はあたしと正面からは戦わず体力を削る索に出た。
「卑怯だぞ鍵!!」
「目的が違うだろ。俺は深夏を傷つけずに終わらすこと。深夏は俺を倒すこと。その違いが深夏の不利に働いただけだぜ」
「くそっ」
鍵はあたしの戦う力を削ぐことを目的としていたみたいだ。
傷つけたくないという鍵の言葉は本当だった。でも今はその言葉がとても悔しい。
悔しいか深夏。でも、深夏の体調が万全だったら立場が逆転していただろうな。まあ、だからこその四天王なんだが」
「どういう意味だよ鍵!! まさか、あいつらは鍵が」
「……ああ、そうだよ。深夏封じのために俺が送った。そうじゃなきゃ深夏は倒せないからな」
「お前は、真冬のことがそこまで嫌いだったのか!? そんな殺したいほどに組んでいたのか!?」
「いや、真冬ちゃんは大事だ。でも、会長も大事だ」
「どういう事だ? まさか会長さんもやられたのか」
なんとか立ち上がって、鍵に尋ねた。やっぱり鍵も理由があってこんなことをしているんだ。
「話しすぎだな。まだ、立ち上がる体力が残っていたのか深夏」
「く、鍵。一緒に戦おう、そして真冬と会長さんを助けよう」
「その心配はいらないぜ深夏。会長も真冬ちゃんも深夏も俺が守るから」
「鍵、お前はどうなんだ? まさか、お前」
「……」
鍵のあんなに思いつめた表情はあの日以来だ。夏のあの日鍵に合った日以来だ。
二人を助けれなかったことで苦しんでいた頃の鍵の表情だ。
「ふざけるなッ。生徒会にはお前も必要なんだ。あたしが居て真冬がいて会長さんがいて知弦さんがいて、そしてお前が居る。それが碧陽学園生徒会だ」
「悪いな、その日常は今日限りだ。形ある物はいつか壊れるから」
「そんなことさせない!! 変わっていいものもある。だけど変わっちゃいけないものだってあるんだ」
「まだ戦えるのか。だけど無駄だ深夏。お前の動きは既に見切っている」
見切っている。鍵の言うようにあたしの攻撃は一度も鍵に当たらなかった。鍵は今までの付き合いでもうあたしの攻撃を見切っていたようだ。
全ての攻撃はさばかれてあたしは鍵に体力を消耗させられて倒された。
どれだけ素早く殴っても、どれだけ鋭く蹴っても、全て無効化される。
でも、それはさっきまでの話だ。
「さっきまでのあたしと同じと思うなよ。この怒りがあたしを強くする。もうお前にだって見切れない」
「やってみろよ。俺を倒すこともできないようだったら、真冬ちゃんを助けるなんてただの妄想だ」
「あたしのこの思いがその妄想を現実に変えてやる」
体中を感情が走る。これは怒りだけじゃない、あたしの中の仲間への強い想いと絆だ。それがあたしを次の段階へ進ませる。
あたしの体に収まりきらない力はリボンを引き裂いた。力を浴びた髪がなびく。
「なにっ、消えた!?」
「こっちだ鍵!!」
体はもうガス欠だ。でも、足りない分を補ってくれるのはあたしの仲間たちへの想いだ。だからあたしは戦える。
「これが未来へと繋がる友情の力だ。ライジングエア!!」
「ぐはっ。まさか、これほどとは」
「あたしが皆を守る。真冬も会長さんも紅葉先輩も、そして鍵!! お前があたしの事を守ろうとするようにあたしもお前を守る」
「うぅ、だけど深夏。俺は倒れるわけには行かないんだ。会長を守るためにも、真冬ちゃんを助けるためにも、お前のためにも俺はまだ倒れるわけにはいかないんだ!!」
鍵はまた立ち上がった。でも、今のあたしを倒せる力はもう残っていない。
「鍵、何度やっても同じだ。一人で全部背負い込もうとするお前が、ここに居ない仲間の力を借りて一緒に戦うあたしに敵う道理はない」
鍵はそこで両膝を突いた。その鍵にあたしは手を差し伸べた。
「何やってんだ。鍵、お前も一緒に行くぞ。真冬の解毒剤を探すんだ。そして会長を助けだすんだろ」
その手を鍵は掴んで立ち上がった。
「そうだな、俺は馬鹿だな。でもな深夏」
鍵が何かを言おうとした時だった。突然目を見開いた鍵は叫んだ。
「伏せろ!! 深夏」
でも鍵を倒したあたしの体の反応は鈍かった。そんなあたしを鍵は力づくで倒した。
ドンッ
そんな音を背景にあたしの目に映ったのは衝撃を受けて、血が吹き出る鍵の姿だった。