世界史界隈Wiki -10万アクセス突破-
ドイツ赤軍
最終更新:
匿名ユーザー
-
view
ドイツ赤軍(Rote Armee Fraktion,RAF)とは、1968年結成の西ドイツで最も活動的な極左のテロリスト集団である。
日本では「ドイツ赤軍」または「西ドイツ赤軍」の呼称が一般的。
日本では「ドイツ赤軍」または「西ドイツ赤軍」の呼称が一般的。
概要
彼らの政治主張は「反帝国主義」で、暴力も辞さない広範な反体制活動を通じ、西側資本主義を打倒し、マルクス主義による世界革命を目指していた。そのため銀行強盗、爆破テロ、誘拐などの非合法活動も含めたあらゆる革命行動を行った。
1970年代から1998年まで活動を行い、政府公共施設、政府関係者、政界関係者、法曹関係者、大企業(特に軍需産業幹部)、西独駐留米軍などで、多数の著名なドイツ人を殺害した。
歴史
結成
起源は1960年代末の学生運動まで遡る。1967年にイランのシャー、モハンマド・レザー・パフラヴィーが西ベルリンを訪問したとき、東側の諜報組織の工作を受けて、抗議活動は暴動へ変わった。
西ドイツ人の過激派学生と東側の諜報組織に支援された追放ペルシア人による猛烈な抗議の翌日、パフラヴィーはドイッチェ・オペラを訪問した。国王観劇の後、抗議参加者と西ドイツ警察の間に通りかかったドイツ人学生ベンノ・オーネゾルクが警察官カール・ハインツ・クラスによって射撃、殺害された。この事件は国内に衝撃を与え運動が激化した。
'60年代
1968年頃に一部の若者を中心として先鋭化した反帝主義、反資本主義、反米をスローガンに掲げた極左地下組織「バーダー・マインホフ・グルッペ」が形成された(グループ名は中心となったアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフの2人にちなむ)。
バーダーとグドルン・エンスリンは、出入りしていた西ベルリンのヒッピー・コミューン「コムーネ1」のパンフレットに書かれていた「資本主義とブルジョワの生活スタイルの象徴であるデパートを客もろとも焼き払うことによって、ベトナムに於いて戦火に逃げ惑う人々と連帯できるのだ」という、前年の6月に起きたブリュッセルでのデパート火災(332人が死亡)にインスパイアされて書かれた詩に触発されて、1968年4月2日、フランクフルトの2つのデパートに放火したが、死傷者は出なかった。
その2日後、バーダーらは逮捕され、翌年、3年の刑を言い渡されたが、恩赦を受け、出獄。連邦憲法裁判所はこの決定を不服とした。翌1970年、バーダーは再び逮捕されたが、マインホフの手引きにより脱獄する。そして警察から逃れるために中東に渡った。
'70年代
1970年には、日本赤軍に共感して名前をドイツ赤軍と改称。同じようにレバノンのPFLP訓練施設で戦闘訓練を受けた。アラブ人とは仲が悪かったが、革命活動にあらゆる武器が使用できるようになった。加えて高度な技術で改良された爆発物も彼らによって製造、使用された。
1972年5月には西ドイツ各地で資金獲得のための銀行強盗、警官射殺、在独米軍、政府要人を狙った連続15件の爆破行動を起こした。同年6月、フランクフルトで幹部4人と警官隊の間で銃撃戦が行われ、アンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフたちは逮捕され、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監される。
直近に発生したテルアビブ空港乱射事件の犯人らが、同じ時期にドイツ赤軍が中東でゲリラ訓練を受けていたこと、潜伏先のフランクフルトからテルアビブへ出発したことから関連性も指摘された。
彼らの逮捕後は、弁護士で赤軍シンパのクラウス・クロワッサン(Klaus Croissant)とジークフリート・ハーク(Siegfried Haag)が組織の後継者となる「第二世代」のメンバーの勧誘と訓練などを行いながら、獄中の「第一世代」と面会しその声明をマスコミや支援者らに伝えていた。
裁判は刑務所と裁判所の往復中に奪還されるのを恐れ刑務所の敷地内の多目的ビルで1975年に開催され、厳重警戒のなか進められた。獄中でドイツ赤軍第一世代は何度も大規模なハンガーストライキを行い、マインホフは1976年に刑務所内で自殺するが、他メンバーは激しい獄中・法廷闘争を繰り広げた
第二世代は、無政府主義のテロリストグループ「六月二日運動」のメンバーで政治家ペーター・ロレンツ(Peter Lorenz)の誘拐事件、ストックホルムの西ドイツ大使館占拠事件などを立て続けに起こしギュンター・フォン・ドレンクマン西ベルリン高等裁判所長官、ジークフリート・ブーバック西ドイツ連邦検事総長、ユルゲン・ポント ドレスデン銀行会長など、政財界や司法界の重要人物を暗殺した。
ドイツの秋
1977年の後半にはブリギッテ・モーンハウプトとクリスティアン・クラーを新たな指導者として、相次いで事件を起こし西ドイツを震撼させた。
1977年9月5日には西ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーが誘拐された。1977年10月にはルフトハンザ航空181便ハイジャック事件を起こすが、ソマリアのモガディシュに着陸したところを西ドイツ政府によって派遣された特殊部隊GSG-9によって急襲された。結果、ハイジャック犯3名を射殺、1名を逮捕、乗客人質全員を救出され、ハイジャックの失敗を知ったバーダーらは獄中で自殺。10月19日、ドイツ赤軍は誘拐した会長を殺害、遺体はフランスで発見された。
'80年代
1982年には、リーダーが逮捕されたもののフランスの極左組織直接行動とベルギーの戦闘的共産主義者細胞の残党を吸収して活動を再開。攻撃目標をNATOや軍関連の人物や施設に向けてさかんに暗殺、爆破をおこなった。また西ドイツのヨーロッパ各国の在外公館襲撃や、シーメンス会長暗殺などの西ドイツの経済界の暗殺も活発に行った。
しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結すると、資金源となっていた東ドイツや東欧諸国を失い、また「帝国主義打倒」、「資本主義打倒」という目標や存在基盤を失った。その後後ろ盾の東ドイツの諜報機関を失い、さらに東ドイツに潜伏していたメンバーが次々逮捕された。
解散
1991年には、旧東ドイツの国営企業の資産を清算し、売却する省庁の総裁であるデトレフ・ローヴェッダーの暗殺事件にも関ったとされ、実際にドイツ赤軍の犯行声明はなされたが、元東ドイツの諜報機関の犯行もうわさされ、詳細は今も不明である。
1990年代には後継組織とみられる「反帝国主義者細胞」が活動を始めたが、1996年に最高幹部が逮捕され以後、活動をしていない。1998年にロイター通信ボン支店にドイツ赤軍の解散宣言の声明文を送付した。
関連リンク
- Rafinfo.de :ドイツ語
- Baader-Meinhof.com :英語
- The Baader Meinhof Gang :英語