著:4スレ目>>139殿
永禄十二年晩秋
小田原城蓮池、甲軍先鋒・工藤源左衛門尉祐長の陣
「山県様よりの口上でございます!」
( ^ω^)「なんだお?」
「曰く、(`・ω・´)『いとけのくそくてきをきる』とのこと」
( ^ω^)(……糸毛の具足、敵を斬る?)
( ^ω^)(糸毛の具足を着るような大将首でも挙げてみよと申すか)
( ^ω^)(最近三兵は調子に乗ってるお。ふひひ、年上の威厳見せ付けてやるお)
( ^ω^)(僕の返答は小太刀だお。細心の注意をはらって敵中深く入り込んでやるお)
( ^ω^)「小太刀、と答えるお」
「かしこまって御座る!」
(`・ω・´)「小太刀とな。さすが源左殿よ」
(`・ω・´)(糸毛の具足の大将がいるところまで深入りなされるな、と戒めたが)
(`・ω・´)(小太刀であしらうように、とは見事な答えじゃ)
このやり取りを聞いて、祐長の才を再認(誤解)した信玄は、後日小田原を引き上げる際
ミ(´∀` (彡「三増峠より帰国致す。荷駄は源左衛門に任すぞ」
( ^ω^)(撤退戦で一番恐いのは荷駄の奪取だお。上杉弾正もそれで痛い目にあってるお)
( ^ω^)(……つまりそれだけ頼られてるってことだお! 城は落とせなかったけど、果敢な僕の意気込みが伝わったんだお!)
( ^ω^)「お任せ下さいお!」
祐長は立派に荷駄奉行を勤め上げ、帰国後、内藤氏の名跡を継ぎ修理亮昌豊と名乗る
また、三増峠で討死にした浅利式部少輔の後任として箕輪城代に任じられるのであった
(`・ω・´)(しかし、あしらうようにと言う割には工藤勢は血気盛んだったのう)
異説・内藤修理の小田原出征、完
ところで信虎が高遠城に戻った時に
「工藤源左衛門の兄をこうして袈裟に斬ったのよ」
と言ったのは、実兄長門守は生きてるから父下総守虎豊の父の事だというのが通説だけど
実は、これも信虎に成敗された内藤相模守虎資の妹婿だったんじゃないかな
修理の場合は三兵や美濃みたいにわざわざ苗字を変える必要もないしね
つまり何が言いたいかというと
出張前の夜明け前から語りたくなるほどに修理が好きなのよ
最終更新:2009年12月15日 21:32