著:3スレ目>>518殿(=4スレ目>>158殿)
1
<´`A´`>虎房「長坂金吾で御座る!」
天文十一年。長坂左衛門尉虎房、この年三十歳である。
主君に兄と頼まれた男は、馬上の法師武者を目指し、宮川の畔を駆けていた。
<´`A´`>虎房「蓮峰軒殿とお見受け致した!その首貰い受ける!」
宮川に陣する上伊那軍に突きかかったのは板垣駿河守勢であった。
虎房は板垣勢の徒歩武者の一隊を率いて諏訪傍流の高遠の勢に攻めかかっている。
法師武者は諏訪蓮峰軒頼宗。高遠家の当主、諏訪紀伊守頼継の実弟であった。
〈・L・ 〉蓮峰軒「小癪なり、長坂とやら!」
<´`A´`>虎房「ほざけ!」
蓮峰軒の槍を避け、逆に虎房が槍を突き入れると、乗馬の横腹に刺さり、棹立ちになった馬から蓮峰軒が振り落とされる。
槍を放ると、抜刀し、虎房は蓮峰軒が起き上がる前に馬乗りになって組み伏せた。
こうなっては蓮峰軒に抵抗する術はない。あっという間に蓮峰軒は虎房によって討ち取られてしまった。
<´`A´`>虎房「高遠蓮峰、長坂金吾が討ち取ったり!」
蓮峰軒討死にの報を受けた紀伊守頼継は、
〈ノ・R・〉頼継「何、蓮峰軒が・・・!これはいかん・・・」
軍勢に総退却を命じた。
事の起こりは今年六月、武田氏と高遠家が手を結び、諏訪宗家を攻め滅ぼし、当主の刑部大輔頼重と、
その弟で大祝の勝三郎頼高を自害に追い込んだ諏訪侵攻にある。
この侵攻は終始武田が主導権を握ったが、同盟に際する約定もあり、頼継が西諏訪と諏訪大祝家の跡を手にした。
宗家は頼重の嫡男、寅王丸が継ぐこととなった。
武田大膳大夫晴信は板垣駿河守信方を上原城代とし、これの修築を命じて帰国している。
虎房ら板垣衆は修築はほどほどにし、専ら諏訪宗家残党の融和に努めた。
九月、諏訪頼継は上原城の手薄を見て取ると、宮川を渡って武田領諏訪郡に侵攻。十日には上原城を手にした。
翌十一日、信方の軍勢は早くも上原城を奪還。高遠勢を安国寺に追い払い、二十五日には晴信本隊の助勢を受けてこれ撃破した。
さらにこの後、信方と駒井高白斎の軍勢は、それぞれ杖突峠越えと天竜川沿いの南下で上伊那軍を追撃し、
上伊那の一部を切り取って、福与城主の藤沢次郎頼親を降伏させた。二十八日のことである。
(´∀`)晴信「ようした、左金吾」
<´`A´`>虎房「ははっ」
(´∀`)晴信「此度の一番手柄はそちじゃ。そちを足軽大将とし、騎馬四十騎と足軽四十五名を預けよう。これよりは筑後守と名乗るがよい」
<´`A´`>虎房「ありがたき幸せに御座りまする!」
騎馬四十騎は、足軽大将衆の中でも群を抜いている。それだけの信頼を、乳兄弟の虎房には置いていたのである。
(´∀`)晴信「まこと、左金吾のことは兄のように思っておるぞ」
という言葉も、晴信本人としては何の過言もないのである。
<´`A´`>虎房「勿体無きお言葉に御座います!」
この取立てによって、虎房は多田淡路守満頼とともに、板垣勢の双璧をなすようになった。
この後、板垣信方は諏訪、伊那の郡代に任じられ、上下両伊那郡の切り取りを命じられることとなる。
2
先代当主の左京大夫信虎を追放してより、信濃勢との戦が頻発するようになっていたが、
その傾向は楔を打ち込むが如く諏訪を支配下に置いたことによって一気に強まった。
宮川安国寺での戦いから一ヵ月後、今度は埴科郡の村上氏、信濃守護の小笠原氏の連合軍が大門峠に侵攻し
諏訪を脅かした。不透明ながら、割拠する信濃の大小領主たちはにわかに同盟を見せ始めている。
翌天文十二年九月、真田弾正忠幸隆を招聘した晴信は、彼を岩尾城に入れ、小県侵攻を開始する。
十三年には藤沢頼親が小笠原信濃守長時や諏訪頼継と組み、再び武田氏に叛旗を翻して荒神山城にこもった。
頼継は懲りずに何度も諏訪を荒らしに杖突峠を越えていた。
晴信は藤沢氏征討の為に荒神山城を攻めるが、小笠原軍が塩尻峠に出張って来た為、帰国している。
翌年、晴信は信方と高白斎に高遠諏訪、藤沢両氏の攻略を命じた。
| ヽ`ー´|高白斎「さて、如何様に切る取るべきでありましょうかのう」
( ~゚ー゚~)信方「ここは高遠城を攻めるであろう」
<´`A´`>虎房「お待ち下され。それは如何なもので御座いましょう。ここはまず、箕輪を切り取るべきでは御座いませぬか」
( ~゚ー゚~)信方「何を申す、長坂。昨年、小笠原勢の邪魔にあったのを忘れたか?」
<´`A´`>虎房「されど、駿河守様・・・」
( ~゚ー゚~)信方「案ずるな。儂に任せておけ。のう、高白斎殿?」
| ヽ`ー´|高白斎「駿河殿が申されるなら、そう致しましょうぞ。のう、新左衛門?」
ハ_ハ
(゚∀,゚ゝ)信任「順番がどうであれ、我らにお任せ下されば関係ござりませんよ!」
秋山新左衛門尉信任は高白斎の配下にあり、武田家中にも鳴る勇将である。
虎房が案じていたのは、杖突峠近隣の旧諏訪宗家の城跡であった。もし高遠城を攻めている間に
これらの城跡に小笠原や村上といった敵が入れば、挟み撃ちにあうのである。
元々自信過剰なところのある信方ではあるが、今までは確たる根拠に基づいた自信であった。
しかし、今回はどうもそうではないように思える。
これを不安に思っていたのは虎房だけではない。
(メД゚)晴幸「うむ、筑後守殿の申すとおりじゃわ。儂が小笠原ならば間違いなくそうするであろうのう」
同僚の足軽大将である山本勘助晴幸や、
( +ゝ+)昌明「ふうむ・・・」
( +д+)昌信「伯父ごはいつになく自信満々のようで御座る」
( +н+)昌基「いまや家中に比類なき重臣で御座るゆえ、浮かれておるのやもしれませんなぁ」
信方の甥にあたる荻原豊前守昌明、備前守昌信、兵部丞昌基の三兄弟である。
虎房とともに双璧とされる多田満頼に関しては、
(`只´)満頼「それがし、戦の知恵は持っておるが、軍略となるとどうにも頭が回らなくなるでな」
こう言って苦笑していた。
3
四月十七日、秋山新左衛門尉信任ら駒井勢の活躍もあり、高遠城は陥落。城主諏訪頼継は落ち延びた。
五月に入り、小笠原長時と木曽中務大輔義康の連合軍が塩尻峠に出陣してきた。
十三日に板垣勢が塩尻峠まで出張ると連合軍は一旦後退するが、数日の内に再び塩尻峠に現れた。
<´`A´`>虎房「何か裏がありそうで御座るな」
(+ゝ+)昌明「伯父ご殿、また迎え撃ちまするか?」
( ~゚ー゚~)信方「当然だ」
(+д+)昌信「御屋形様の援軍を待っても遅くはないのではないでしょうか」
(+н+)昌基「我らの留守中、伊那衆が何をしでかすか・・・」
( ~゚ー゚~)信方「おぬしら、この儂を信じよ。伊那衆などもはや風前の灯ぞ」
二十三日、板垣勢は再び塩尻峠で連合軍と対峙。慎重に後退する連合軍に対し、
信方は執拗に追撃の命令を下す。
騎馬武者三騎、徒歩武者十一人を討ち取るが、諏訪頼継の軍勢が現れ攻めかかってきたので
板垣勢は混乱。高遠城を目指して敗走されるが追撃を受ける。
伝令「荻原兵部殿、小熊豊前殿、討死に!」
伝令「荻原備前殿、討死に!」
伝令「下総浪人衆、悉く討死に!」
など、次々と配下の損害が報じられる。騎馬武者四十一騎、足軽雑兵百五十三人を討ち取られた上に、
小笠原軍は諏訪を横切って杖突峠まで進出した。
更に虎房の恐れていた事態が起こる。小笠原軍は旧諏訪宗家の城跡の一つ、竜ヶ崎城に入ったのである。
高遠城は諏訪と分断された形となった上に、去就を明らかにしない下伊那の諸城と
福与城によって包囲された形となった。
<´`A´`>虎房「一体全体、駿河守様は如何なされたのか・・・」
先代信虎追放の中心人物の一人であり、諏訪宗家滅亡の立役者である信方は、その頃から
老いと増長の色が見えなくもない。
晴信とともに信方の教えを受けてきた虎房は、そんな信方に違和感を感ぜずにはいられない。
この事態を知った晴信は、板垣勢の被害については何も言わなかったが、
すぐに今井相模守信甫に命じて竜ヶ崎城の小笠原軍に備えさせ、信方に対しても小笠原軍の撃破を命じた。
4
板垣勢は今井勢に加わり、遮二無二竜ヶ崎城を攻め立てた。
修築が終わっていなかったのかもしれないが、ともかく小笠原軍はすぐに城を立ち退いて筑摩へ退いていった。
驚いたのは藤沢頼親とその庇護を受けて諏訪頼継である。武田の重臣筆頭格を討つ絶好の機を、
みすみす逃すことになったのだ。
武田軍が信濃を好き勝手に斬り従えて行く姿を見て、信濃守護としての誇負が重くのしかかり、
彼を蝕んで奇行に走らせたのだろうか。この頃から小笠原長時の行動には稚拙さが見え隠れする。
竜ヶ崎から小笠原軍が撤退すると、晴信は筑摩侵攻の為の軍を編成し、甲府を出立した。
晴信本隊の歩みは遅いが、晴信実弟の左馬助信繁率いる先鋒はすぐに諏訪に達し、
どんどん西を目指している。信方、高白斎に福与城攻略を促す、無言の催促であった。
十一日、板垣勢と駒井勢は福与城へ総攻めをかけた。既に本軍先鋒の繁らが荒神山城を攻め落としていた。
福与城攻めでは、秋山信任の嫡男である膳右衛門尉信友が一番乗りを果たし、
更に比類ない働きによって、見方は無論のこと、敵の伊那衆からも絶賛された。
ハ_ハ
(゚∀゚ )信友「おいらが一番乗りだよ!」
板垣勢も駒井勢に負けじと攻め懸けるが、しかしながら福与城は中々落ちない。
その内に晴信の姉婿、穴山伊豆守信友が頼親、頼継両将に降伏を勧めに現れた。
機会を窺う頼親は福与城の安堵を条件に追従。疲れ果てた頼継は無条件降伏。
転戦に次ぐ転戦での戦いぶりを讃えて、晴信は頼継を甲府に招き、屋敷を与えて快適な隠居生活を進呈した。
高遠、福与両城を手にしたことにより、武田に敵対していた伊那の諸将も、自領に戻って情勢を窺うだけとなった。
この時点での伊那最大勢力である下条氏は、武田氏の傍流であるだけに親武田の姿勢であり、
他の氏族は大きな行動に出ることができずにいた。
翌年、家督を継いだ秋山信友は伯耆守を名乗り、父の二十騎に加え、三十騎の加増を受け、
五十騎持ちの侍大将となった。伊那への勢力拡大による軍勢の増強の為、この時、
馬場民部大輔信房、工藤源左衛門尉祐長らも同じく五十騎持ちの侍大将となっている。
<´`A´`>虎房「民部が侍大将に、のう」
馬場信房は元々教来石景政といい、姓が表すように長坂同様、甲斐西部の国人出身である。
年も一歳違いであり、先代の頃から晴信の信任篤い勇将という点では虎房と非常に似通っている。
それだけに虎房は嫉妬を覚えずにはいられない。そして虎房は、そんな自分の性格が憎いと思っていた。
つまらない嫉妬よりも今は板垣信方のことを考えなければならない、と虎房は自分に言い聞かせる。
一連の失態に関して、晴信は信方の面目を慮ってか叱責することなく、逆に他の家臣達に対して
信方を擁護する発言もしている。
伊那攻略後の昨年九月に北条氏と今川氏の和睦を武田氏が斡旋した際に大きく貢献していたこともあってだろう。
これを受けて信方も伊那攻略をさも自分がやり遂げたかのように自慢げになり、言動にも高慢さが頻繁に現れてきている。
さすがにこれでは伊那は任せられないと感じたのか、晴信は更に翌年の天文十六年には下伊那の
下条兵部少輔信氏に妹を嫁がせ、秋山信友を伊那郡代として高遠城に入れた。
それでも晴信は父のように慕う信方を信頼したかったのであろう。以前にも増して信方の意見に耳を傾けるようになり、
言動を諌めるのも、和歌に詠んでやんわり窘める程度であった。
<´`A´`>虎房「御屋形様は時に優し過ぎるところ、情に囚われ過ぎる所がある故・・・」
虎房はそんな晴信の気性を好ましく思いながらも、危ぶむところがないでもなかった。
未完
最終更新:2009年12月15日 21:41