著:5スレ目>>137殿



将星が綺羅星のごとく数多いる武田家

そんな武田家の武将でなく、他家に仕えた
武将であったら、おそらくは信長の野望などの
ゲームにレギュラー参加していたであろう武将、
そんな武将のお話

主な登場人物

曲渕吉景(=ε=)
武田信玄 ミ(´∀` (彡
板垣信方 ( ~゚ー゚~) 
板垣信憲 〔n‐_‐〕.
山県昌景 (`・ω・´)
曲淵景漸(‘ε‘)
桜井安芸守ヽ`↓´/



曲渕吉景、彼は現在の山梨県中巨摩郡昭和町で生を受けた
百姓であったという。若いころの名は鳥若、かの板垣駿河守の草履取から立身出世をした豪傑である。

彼にはこんな逸話がある。
西上野攻略船の折、吉景は大活躍をし、敵将はなすすべなく武田家に降伏を申し入れた。

信玄 ミ(´∀` (彡 「降伏の申し入れ、まことに深甚、無駄な血を流さずにすんだ、これは褒美である」

と信玄は敵将に太刀を授けた。

信玄 ミ(´∀` (彡 「それから、吉景、そちも天晴れな働き、わしの脇差を授けよう!」

曲渕吉景(=ε=)「・・・・・・」

信玄 ミ(´∀` (彡 「どうした?」

曲渕吉景(=ε=)「降伏した敵将が太刀で活躍したわしが脇差なんて納得いかんわい!
             こんなもんいるか~~~~!!!」

吉景、信玄から下賜された脇差を信玄に投げ返すというとんでもない暴挙にでる。
だが、信玄、笑ってこの一件を済ませたという
信玄の度量の広さもさることながら、曲渕吉景その人物の豪傑ぶりたるや武田家随一であったという証のひとつである。



そんな曲渕吉景であるが、仕えていた板垣駿河守からも特別扱いを受けていた

板垣信方 ( ~゚ー゚~)  「吉景、そのほう、百姓の身から立身し、蓄えもなかろう。。特別に年貢の徴収はしないことにしておく」

これは破格の扱いである。寄親たるものが同心より年貢を徴収しなければ、秩序が成り立たぬ。しかし、この破格の扱いを行ってでも板垣は曲渕吉景の武勇が欲しかったのである。

しかし、なんだかんだと目をかけてくれた板垣駿河守は上田原合戦で戦死、跡をついだ板垣弥二郎信憲は父親とは違った。

板垣信憲 〔n‐_‐〕. 「吉景、そちの特別扱いもこれまでじゃ。他の同心が払っているのにそちだけが特別扱いとはおかしい。だいたい、そちももう百姓ではなかろうが!」

それを聞いた吉景、主君である信憲にこう怒鳴りつけた

曲渕吉景(=ε=) 「い・や・だ!どうしても払えってんなら、その首を打ち落とすぞ!!」

それを聞いた信憲、武田家随一の臆病者である彼は怯えてしまい、亡き駿河守と甘利の跡をついで職を勤めていた山県三郎兵衛に泣きつく。

山県昌景 (`・ω・´) 「いやあ、そういわれてもなあ・・・とりあえずおやかた様には取り次いでみるが・・・・・・」

その話を聞いた信玄は滅多に見せないひとしきりの大笑いのあと、こういったという

武田信玄 ミ(´∀` (彡 「曲渕は犬のようにものがわからないやつだな。だが、犬は鹿や狐を追わせると誰にも負けない
                曲渕は合戦にめっぽう強いのじゃから、そういう奴なのだよ」

山県昌景 (`・ω・´) 「・・???はあ、そのように申し伝えておきます??」

結局、おやかた様の差配でこの一軒は沙汰闇となってしまう。
法に厳しい信玄をここまで寛大にさせてしまうほどの豪傑であったのだろう。



一風変わり者の豪傑、曲渕吉景にはもうひとつ困った”癖”があった。それは”訴訟癖”である。
法が厳格に敷かれていた武田家だからこそ、とも言えるが
四十歳になるころには70回以上の訴訟を起こし、1度しか勝っていない。今の世の中で言えば立派な「クレーマー」である。

そして訴訟に負けると公事奉行、つまりは裁判官に悪態をつく

曲渕吉景(=ε=) 「こたびの訴訟に負けたのは、それがしが貧乏百姓で公事方に贈り物が
             できなかったからじゃ!そうに違いない!!」

公事奉行筆頭、桜井安芸守、そういわれては黙っていられない

桜井安芸守ヽ`↓´/「曲渕殿!それがしたちはおやかた様が定められた法に従い裁いておる!
             それから公事を持ち込む際は正しい理屈を持ってから参られよ!
             どんなに金銀を積まれても、負けなものは負けじゃ!」

桜井安芸守、公正な判断をもって武田家一円の法を守護した人物である
(彼も武田家の一員でなければ石田三成クラスの能力でゲームに登場してもおかしくない、
 といったらいいすぎであろうか)

その人物に悪態をつき、そして、正論を持ってやり込められた吉景は刀を抜き

曲渕吉景(=ε=) 「斬り合いではわしのほうが勝ちじゃ!桜井殿、表へ出られい!!」

と、「クレーマー」を通り越し、総会屋か暴力団のような物言いで公事奉行を威圧する始末であった・・・

(もっともこの態度の悪さが公事奉行に与えた心象の悪さとあいまって、まったく訴訟に勝てなかった所以かもしれないが)



と、ここまで見ると曲渕吉景、ただの頭の逝っちゃってるクレーマーにしか思えない。
おそらくは先の桜井安芸守もそうであったろう。

泣きながら武田信玄に曲渕を成敗しないのであれば、公事奉行を辞める!と直訴した。
普通なら、曲渕吉景、切腹申し付かるところであろう。
しかし、事態はそうはならなかった。

武田信玄 ミ(´∀` (彡「安芸守、そちの言い分もっともじゃ。だが聞いてくれ」

桜井安芸守、またおやかた様の曲渕びいきか、とげんなりした

武田信玄 ミ(´∀` (彡「わしが、以前に板垣信憲から同心、与力を取り上げ、大泉寺に蟄居させたことは
                知っていると思う。信憲は仮病を使い、合戦に出陣せず、諏訪の経営もまずいものだった」

桜井安芸守ヽ`↓´/「存じております、それで板垣隊は山県様を初めとする武将の皆様に分配されて、
             曲渕殿は山県三郎兵衛様の同心になられたとか」

武田信玄 ミ(´∀` (彡「うむ、そのとおりじゃ。しかし、曲渕め、山県三郎兵衛には仕えようとせず
                毎日、大泉寺で信憲の守護をしていたのじゃ」

桜井安芸守ヽ`↓´/「え!?確か、信憲殿と曲渕殿は大喧嘩をされて・・・」

武田信玄 ミ(´∀` (彡「例え、どんな馬鹿な主人であっても、先代に世話になった、とな」



武田信玄 ミ(´∀` (彡「それからしばらくして、曲渕がちょっと目を放した隙に
                寺に来た本郷八郎と信憲はいさかいを起こし、信憲は本郷に殺されてしまったのじゃ」

桜井安芸守ヽ`↓´/「存じております、確かに本郷にはそれほどの非があったとは思えないので
             座敷牢蟄居の判断をおやかた様が下されたことも存じております」

武田信玄 ミ(´∀` (彡「うむ、その後じゃ、なにを勘違いしたのか曲渕がわしの命を狙うようになったのは」

桜井安芸守ヽ`↓´/「はぁ~~??」

武田信玄 ミ(´∀` (彡「曲渕が考えたなりの結果なのであろう、わしもそのときは
               流罪にでもしようかと思ったが、呼びつけてよく話し合ったのじゃ
               そして、誓詞を書かせただけですませた。
               利に付かず、よく信方の恩を忘れぬ心根にわしはひどく感心したのだ!」


武田信玄 ミ(´∀` (彡「曲渕のやつ、誤解が解けたときは涙を流しておったわ。
               それからというもの奴は閑さえあれば経文を読んでいるそうじゃ。
               字も読めないから誰かに呼んでもらって憶えたのだろう
               ああいう奴もいなくては武田家は天下に覇を称えられない、
               この通り、わしに免じて、曲渕を許してやってくれ」

戦国武将数多いれど、武田信玄の命を狙った豪傑は少ないであろう。
桜井安芸守、そのことにも驚いたが、曲渕吉景という男のまっすぐな生き方に感銘を覚えた。
そしてそれ以上に命を付けねらわれたのにもかかわらず、それを許す寛大な信玄の顔に泥を
塗るわけにはいかない、と桜井安芸守は曲渕を許すことにしたという。


この一件で損をしたのは吉景が同心になったのにまったく働いてくれなかった山県三郎兵衛、であろうか



さて、そんな曲渕吉景だが、その後も活躍をしていく。あの長篠の戦を生き残り、織田家の武田狩りからも辛くも逃れていく。

そしてなんと、徳川家康にその豪傑ぶり、ではなく行政手腕を買われ甲府勤番として行政手腕を振るうことになった、と知ったら、
草葉の陰で信玄も三郎兵衛も驚いたに違いない。

曲渕家はその後も徳川家に仕えた。吉景の血は脈々と受け継がれたようで、その子孫曲淵景漸にはこんなエピソードがある

大江戸北町奉行として庶民からの人気が高かった曲淵景漸、経済にも精通しておりまた、公平な裁きを下す、と大人気であった。

だが、アイスランドの火山の噴火に始まる世界的な気候不順とそれに始まる天明の大飢饉で
異常なまでに米の価格が暴騰した折に、景漸を頼って押しかけてきた町人達と問答している内にヒートアップしてしまい、とんでもない暴言を吐いてしまう

曲淵景漸(‘ε‘) 「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え」

フランス革命時のマリー・アントワネットもかくや、という暴言である
結果、町民たちの怒りは大爆発し、大規模な打ちこわしに発展、曲渕は奉行職を罷免されてしまう。
普通なら、ここで切腹お家断絶、である、しかし、その後、町民とも和解し、
そして幕府随一の経済知識を買われ、勘定奉行に抜擢され、再度、幕政に参画した。
ここのあたりも吉景とよく似ている。



豪傑としても、戦国武将としての魅力としても随一の曲渕吉景
その彼が生まれ育った山梨県昭和町の彼の屋敷後には現在、寺が立っている。

寺伝として、曲渕家の旗印が伝わるのみで、特にここに
武田信玄が一目も二目もおいていた戦国武将がいた、ということは
一切、記されていない。

おそらく、町民のほとんどがこのかつての豪傑のことを知らないであろう。
今はただ、すぐそばのバス停に「曲渕」の名を残すのみである。

余談ではあるがこの昭和町、かの武田冠者義清の館跡と伝わる史跡が
この「曲渕」のすぐそばにある。
ここもまったくの未整備に近い状況で、
新羅三郎義光を奉る常陸太田市の教育委員会が視察に訪れた折に
あまりの質素さにあきれて返ったという逸話がある

武田信玄と武田二十四将の光があまりに強すぎて、
そのほかの数多の武将たちが山梨ですら忘れ去れてるいるとしたら、
少しさびしい限りである。

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最終更新:2010年06月13日 19:30