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著:5スレ目>>273殿



天正十年の織田軍の甲斐出征に際して、身分の大小に関わらず、武田家では離反者、逃亡者が続出した。

そのことについてよく挙げられるのは、


  (*`Д´)
木曽 伊予守

  (-@∀@)
小山田 越前守

  ('A`)y-
梅雪斎 不白


或いは

  (´∀`)
逍遥軒 信綱


また、長坂、跡部なども未だにそれらに数えられることがある。

彼らは、「一門衆でありながら」「重鎮でありながら」と非難されることが多い。


一方、「仕方ない」とされる先方衆――依田、保科、小幡などの早期降伏者、逃亡者はあまり非難されることはない。
その先方衆の離反者の中に、伊那防衛線の崩壊の火付け役となった武将がいる。
それは他国衆として片付けるには余りにも譜代に近く、
しかし、「悪役」達のような悲惨な末路を辿ることもなかった為に注目されていない男だ。

信濃伊那谷、松尾城主、


         (´゚⊿゚)

 おがさわら かもんのだいぶ のぶみね
  小笠原   掃部大夫   信嶺


越前勝山侯小笠原家の藩祖である。



信嶺の父信貴は、伊那松尾生まれの甲府育ちである。

(`⊿´) 信貴 「おのれ、許さんぞ深志!」

松尾小笠原氏は、筑摩深志に本拠を置く信濃守護小笠原氏の分家であったが、宗家とは対立していた。
伊那の諸将の多くは宗家側に肩入れしていたこともあり、信貴が少年期の天文初頭、父貞忠は領地を追われ、甲斐武田氏を頼る。
当時武田家は甲斐一国の統一に成功し、着々と力をつけつつある時期だった。

松尾小笠原氏一行は甲府に招かれ、信貴は異国の地で元服を果たす。

(`⊿´) 信貴 「偏諱の拝領、まことに恐悦至極でございます」

信貴の「信」の字は、元服の際に信虎から武田氏の通字を下されたものである。
更に信貴は、下総守の受領名も許された。
ちなみに、ちょうど工藤下総守が手討ちになった頃のことである。

信貴は家督を継いだ晴信(信玄)にも従い、案内役として信濃経略の手助けをした。

信嶺はそんな信貴の長男として、天文十六(1547)年、甲府に生まれた。
これは勝頼と同世代、また、跡部勝資、真田昌幸らと同年である。



武田信玄の薫陶を受けて育った信嶺は、その姪にあたる武田信廉女(久旺院殿)を室に迎えた。

川´о`)お清「武田刑部少輔が娘、お清で御座います」

(´゚⊿゚)信嶺「信嶺じゃ。よろしく頼む」


この頃には父信貴の先導で武田軍が伊那谷を攻略しており、信貴も松尾城主に復帰している。

(`⊿´) 信貴 「深志の宗家は崩壊。いい気味じゃ。父上、悲願成就で御座るぞ」

信貴は畳秀山開善寺の再建など、領内の治世にいそしんだ。
軍事面に関しては、伊那攻めと坂西長忠の叛乱の鎮圧のみが見られるだけで、目立つ活躍はない。


掃部大夫の官途を許された信嶺は、元亀年間に家督を継承し、山県昌景の相備となった。

(`・ω・´)昌景「期待しておりますぞ、掃部殿!」

(´゚⊿゚)信嶺「はい、山県殿!」

三方ヶ原の戦いにも参陣し、山県勢の一翼として活躍。
信玄死後、三遠からの退却時には、三河長篠城に在番衆として残された。

(`・ω・´)昌景「掃部殿、よろしく」

(´゚⊿゚)信嶺「お任せ下され」


長篠城は三河先方衆である菅沼正貞の居城であり、信濃の室賀一葉軒禅松が軍監として入っていた。



その年、元亀から改元があって天正元(1573)年の七月、対徳川の最前線である長篠城が包囲を受ける。

(=゚ω゚)ノ家康「昨冬の雪辱戦だょぅ! 援軍が来る前に陥落させるんだょぅ!」

徳川軍は徹底的に城からの伝令を遮断し、城方の不安を煽った。

(´‥`;) 正貞「も、もう無理じゃ!」

( `m´)禅松「今しばらくの辛抱で御座る!」

(´゚⊿゚)信嶺(何故だ、何故後詰は来ない……!)


――この時、実は既に典厩信豊を主将とする後巻が出陣しつつあった。

ヽ(゚∀゚)ノ信豊「ハリー! ハリーハリー! ハリーハリーハリー!」

(㍾・_・㍾)昌続「長篠は三河進出の橋頭保じゃ、急げい!」

(´∀`)信綱「また遠征か……」

(`・ω・´)昌景「お急ぎあれ、逍遥軒様! 女婿の掃部殿の窮地ですぞ!」

('A`)y-信君(マンドクセ……)

しかし、この軍勢の出陣は徳川軍の情報封鎖によって長篠城には伝わっていなかった。


更に、

/`ら^ヽ元忠「行かせん!」

(´∀`;)信綱「ぬおお、退けい、退けぇい!」

途上で徳川軍の襲撃を受けた信綱隊が、呆気なく潰走した。
この損害によって武田軍の進度は下落。長篠城に辿り着くことはなかった。



八月、攻勢に耐え切れなくなった長篠城は遂に開城。

退城し、北方へ向かった城兵は、恐らくは田峯城においてだと思うが、援軍と合流している。
そこで信嶺は、援軍遅滞の顛末を伝え聞いた。

(´゚⊿゚)信嶺「ち、義父上が……!」

山県勢に属す以上、同陣した信綱にやる気が見られなかったという話はどうしても入ってくる。
これまで大きな落ち度は見せず、むしろ文化に親しみ、常に信玄と共に従軍した戦歴を持ち、時には兄の影武者を沈着に務めた岳父――。
その信綱像が、崩れた瞬間であった。


その一方で信綱ら援軍首脳部は、陥落の責任が自分たちにあるとは少しも考えず、

(´∀`)信綱「菅沼は徳川に内通していたのではないかね」

('A`)y-信君「そうじゃそうじゃ、だからさっさと陥落したに違いないわい」

ヽ(゚∀゚)ノ信豊「――よろしい、ならば幽閉だ!」

菅沼正貞に嫌疑を持ちかけ、信豊の実質的な居城である信州小室城に蟄居させたのである。

(´‥`;) 正貞(くそっ、くそっ、証拠は一切残さなかったのに! 武田は怪しきを罰するか……無念!)

確かに正貞の徳川氏への内通は事実であったのだが、この時点で武田軍はそれを裏付ける証拠を発見できていない。
これは信嶺の目には冤罪に映った。

(´゚⊿゚)信嶺(これが武田の御宗家のやりようか……! 先方衆に対する扱いなのか……っ!)


援軍と共に帰国する信嶺は、心中落胆していた。
何より、岳父の振る舞いに失望していた。

川´о`)お清「父は、臆病な方ですから……」

(´゚⊿゚)信嶺「……」

義父への不信感は、武田氏への不信感へ直結してしまった。



そして天正十(1582)年。
木曽義昌謀叛、織田信忠出陣の報が立て続けに入ると、二月十四日、信嶺は織田氏に内通、武田氏に叛旗を翻した。
弟の長臣を人質として安土に送ると、信嶺はさっそく信忠配下の森長可らを手引きした。

(´゚⊿゚)信嶺「信忠卿を伊那へ引き入れるのだ!」


これは、木曽征伐に出陣していた典厩信豊、仁科盛信らに衝撃を与えた。

ヽ(゚∀゚;)ノ信豊「……!」

(;。・-・)盛信「なんてことだ……これでは伊那がっ!」

盛信の不安は的中する。
その日の内に飯田城から保科正直らが逃走。木曽征伐軍は背後の備えを喪失したのだ。

木曽征伐軍の士気は大いに下がり、十六日の木曽・織田軍との決戦に惨敗した。


何より衝撃を受けたのが、大嶋城に援軍を率いて入っていた逍遥軒信綱である。

(´∀`;)信綱「む、婿殿が……」

報せを受けた信綱は、夜中の内に、恥も外聞もなく逃げ出した。



小笠原信嶺の裏切りは誰にとっても予想だにしないことだった。

勝頼は信嶺の母を捕らえ、処刑するように命じた。そしてその命令は忠実に実行された。

(´゚⊿゚)信嶺(戦国の世の習い、仕方のないことじゃ……。すまぬ、母上……)

その勝頼は、信嶺離反から約一月後の三月十一日、甲斐天目山麓において自害。
武田氏は崩壊した。


同じ頃、信綱も甲斐で織田軍に捕らえられ、殺害された。

当初は丁重に扱われたとされる。
しかし、信忠軍の名馬を披露され目を奪われている時、

(´∀`)信綱「ほう。これは確かに素晴らしい毛並み――ぬ?」

   o
    ゝ;:ヽ-‐―r;;,               。
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  "  ,,,,      _;:;:⌒ゝソ;:/
    (;:;:丿    (;:;:;:;:;:;:;:;:;:)
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                ()

かの森武蔵守の配下によって斬殺された。
信忠が命じたことであった。
手を下したのは、森家の名家老、各務兵庫助元正だったという。



いち早く内通した信嶺は、三月二十日、木曽、穴山に続いて上諏訪の信長本陣を訪れ、馬を献上した。
信長はこれを大層気に入り、秘蔵のコレクションに加えられることとなった。

(*‘ω‘ *)信長「小笠原、こたびの忠節はこの上ないっぽ! 本領安堵してやるぽっぽ!」

(´゚⊿゚)信嶺「ははっ、ありがたき幸せ!」

降将の内、信嶺に対する信長の好印象は「信長公記」にも見えている。

曰く――「松尾掃部大輔御礼、駮の御馬進上。御意に相、御秘蔵侯なり。
     今度忠節比類なきの旨、上意にて、本知安堵の御朱印、矢部善七郎・森乱、両人御使にて、下され、忝き次第なり」

松尾城を保った信嶺は、伊那郡を与えられた毛利秀頼の与力となった。


(´゚⊿゚)信嶺「これで本当によかったのか、お清」

川´о`)お清「……私は、あなた様の妻でございます」


更に天正壬午の乱では、信濃へ北上してきた徳川家にいち早く接触。

(=゚ω゚)ノ家康「ぃょぅ! 左衛門尉に従ってくれょぅ!」

酒井忠次の麾下として活躍し、忠次の三男小平次を婿養子に迎えた。

(´゚⊿゚)信嶺(お家安泰……なぜわしは素直に喜べんのだ)

のちの家康の関東転封に際しては武蔵本庄一万石を領し、慶長三(1598)年、江戸で没した。
没したのは本庄においてとも言われる。

跡を継いだ小平次信之、そしてその子孫は二万二千石を領し、下総関宿、美濃高須と移転し、越前勝山藩主として明治維新を迎える。

川´о`)お清(これが、武士の当たり前。あなた様は立派なもののふ……)

妻お清は寛永九(1632)年まで生き、その死まで本庄の信嶺の墓所から離れなかった。


小笠原信嶺に対する筆者の私見を、ここで述べることはしない。
ただ、この話が時代を考える一助となれば幸いである。

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最終更新:2010年06月28日 22:36