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戦国時代板案内所
アの人物
あ
.。
*秋月種実
秋月種実(1548~1596)
秋月文種の五男。父が大友家によって滅ぼされた時に、弟たちと共に高僧に伴われて城を脱出、以後毛利家に匿われる。
その後毛利氏と秋月領を死守していた深江美濃守の援護を得て大友家の手から旧領を回復し、以降父の仇である大友家との戦に明け暮れた。
休松の戦いで立花道雪の軍勢を破る等、武勇に秀でる面もあったが、その反面教養豊かな文化人でもあり、キリスト教の布教を許すなど、南蛮文化にも寛容であった。
また、今に伝わる重要無形文化財、大蔵谷獅子舞は種実が稲爪神社に寄進したものである。
耳川の戦いで大友家が敗れた後は竜造寺氏、島津氏と結び、更に領土の拡大を図る。
最終的には筑前、豊前、筑後に36万石に及ぶ広大な領土を築き上げ、秋月氏は最盛期を迎えた。
しかし、ここに来て大友氏は豊臣秀吉に援軍を乞い、九州征伐を引き起こす。
島津に付くか、豊臣に従うか――秋月氏は秀吉が目前に迫ろうとしていた時すらも家中がまとまらずにいた。
段々と抗戦に意見が傾いてゆく中、一人それに異を唱えるものが居た。秀吉と会談を行ってきた恵利暢堯である。
種実は恵利の説く豊臣と九州勢との物量の差を受け入れ、主戦派を強引に押し切り、松浦氏を通じて降伏、所領を安堵された。
この時、種実は日本三大肩衝の一つである「楢柴」を用いて秀吉を茶でもてなし、大層感心されたという。
その後は内政に努め、秋月36万石の基礎を築く。1590年に家督を嫡子の種長に譲って隠居し、48歳で病死した。
*明智光秀
明智光秀(1528―1600)
明智幕府初代将軍。明智光継(仮)の嫡子
明智氏は代々土岐氏に仕える城主。
その後、織田信長に仕えるが暴政を敷く信長に
止むを得ず、信長を討つ。
その後、羽柴秀吉を山崎にて討ち取り
近江坂本に幕府を開く。
明智光秀(1528―1582)
智勇兼ね備えた武将。織田信長に使えてもその才気はますます輝きが増し、信長四天王と評されるまでになる。
本能寺にて休息中の信長に対して謀反を起こすが、天魔信長が天に向かって打ち放った矢が光秀の頭部に突き刺さり死亡。
主君を失った明智軍は潰走し散り散りとなる。明智秀満ら謀反に加わった光秀重臣たちは捕らえれて斬首となっている。
大日坊咲庵(1528~82)
連歌師。美濃の人。俗姓は明智、字は十兵衛。
若年の頃は山崎宗鑑に師事して、その後は全国各地を巡って
してさまざまな公家や連歌師と交流をもち、元亀年間に近江
坂本に庵を結んだ。
しかし、近江の領主・織田信長の招きには応ぜず、連歌仲間
の丹後の細川藤孝のもとに身をよせた。一説には、故郷美濃
の侵略者である信長を嫌悪していたという。
天正10年に土岐旧臣安藤守就が謀反する直前に愛宕山百韻に
招かれ、土岐旧臣である安藤の決起をうながす、
「ときは今 雨が下なる 五月かな」
との発句を詠んだのは有名である。
しかし、安藤の謀反は未遂に終わり、咲庵は信長から謀反の
共謀をした者(同時の記録には「今度謀反随一」とある)と
して磔刑に処せられた。
彼と公家との交流は深く「晴豊記」・「兼見記」などに残さ
れた彼の連歌は、現在の俳句研究家の貴重な資料となっている。
*明智光慶
明智光慶(1569-1669)
明智光秀の嫡子。父光秀が羽柴秀吉に敗れ戦死後、江戸川小五郎左衛門天海と改名する。
父の仇を討ち冤罪を晴らすために、徳川家康に接近し、その卓越した推理力で
見事に信長を殺害した真犯人が秀吉であることを証明することに成功した。
その推理力は後世においても高く評価され「明智小五郎」「名探偵テンカイ」など
人気作品のモチーフとして愛されている。
*浅井長政
浅井長政(1545-1586)
近江国小谷城主浅井久政の子
1560年、長政は15歳の若さで軍を率い、
六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露して
重臣赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。
尾張から美濃を手に入れ、上洛せんとする織田信長の妹、市姫と婚姻し織田と同盟する。
信長の上洛に全面的に協力し、実質一門として信長の絶対的な信頼を得る。
信長と越前の朝倉義景の戦争の際には、朝倉家との同盟を捨て、あくまで織田家に付いていくことに決心。
朝倉滅亡後、畿内の統一に大きく功をたて、山城・大和・摂津・河内・和泉の五カ国を任せられ、江北から移る。
信長の統一事業に対し巨大遊撃軍団として東へ西へ縦横無尽に大活躍。
しかし、1582年 家臣の蒲生・長谷川・堀・稲葉・武藤らの共謀により信長が暗殺された。
四国統一の仕事をしていた長政は僅かな手勢を率い、船で馬で、驚異的な速さで京へ引き返した。
神風が吹いていたと伝わる。長政、八千の兵で二万の反乱軍を撃破、見事仇討ちを果たした。
鎮圧後、清洲で開かれた相続の会議で、長政の活躍を聞いた一門らに、信長・信忠死後の家督を打診される。
長政は快く承諾し、早急に家中を纏め、信長の志を継ぐことを決意した。
しかし以前から対立していた羽柴秀吉が長政に背き、山崎の地でにらみ合いとなった。
羽柴秀吉は黒田孝高に奇襲をさせるが失敗、まともに撤退できずに壊滅する。
主力の崩壊により、羽柴軍全体の士気が下がり、多くの兵が逃走、これを長政が見逃すわけはなかった。
結果、野戦達者の長政が勝利を得、家中を完全に纏め、
1585年、日本を統一信長の残した仕事を終わらせる。長政この時四十。
本拠を武蔵国に移し、さいたま幕府を開く。
がしかし、元の襲来により、日本軍敗北。
台風で帰っちゃったけど、日本はまた戦国突入!
1600年徳川家康が統一し、また平和がおとずれましたとさ、
めでたし。
浅井長政 【1545~1583】 統率 90 武勇 93 智謀 32 政治 87 魅力 93
浅井忠政 【1563~1635】 統率 81 武勇 75 智謀 84 政治 93 魅力 72
彼が元服したばかりの頃、父久政が六角家に従属していた為、賢政を名乗った。
六角の家臣の嫁を室として迎えていたが、六角からの離反を決意。
嫁を送り返し、野良田の合戦で劇的な勝利を挙げると、家臣団の支持を得て当主の地位を父から奪取。半ば強引に隠居させた。
同じ頃、桶狭間の合戦で今川義元を破った織田信長に習って長政と改名する。
その後は朝倉と同盟を結んで北近江を席巻、六角を圧迫。武名をとどろかせた。
この為、名前の元となった信長自身も、長政に目をつける。
1563年、織田家から同盟の申し入れがあるとこれを受け入れ、
さらに4年後には信長の妹お市の方が輿入れし、織田家との関係はより強いものとなった。
翌年、織田、浅井連合軍による上洛が敢行され、宿敵六角家の打倒に成功。
同年の朝倉討伐においては、熟慮の末織田家との縁を選び、猛反対する父を説き伏せ朝倉討伐に加わる。
その功績から越前を与えられ、一向一揆と戦い続け、やがて100年に渡る加賀一向一揆を収束せしめた。
やがて嫡男万福丸が元服。信長の嫡男、信忠から一文字賜り、忠政と名乗った。
1577年の手取川の合戦においては軍神上杉謙信を相手に懸命に防戦。忠政も見事な初陣を飾る。
その戦いぶりは謙信をして「信長に過ぎたる者が二つあり、備前守に安土の城」と言わしめた。
終生、信長との盟約を守り続けた為、「北の浅井に東の徳川」と称えられる。
戦だけではなく領国経営にも類まれなる才覚を見せ、善政を施して領民に深く慕われた。
家庭においても夫婦仲睦まじく、多くの子宝に恵まれた。
その後も上杉家との戦いを続けていくが、本能寺の変により大きくその運命はかわっていく。
越中での戦いに勝利し懸命に引き返すも、信長のあだ討ちにおいて羽柴秀吉に後れを取ってしまう。
清洲会議においては、一門かつ織田家の同盟者として三男信孝を推挙するも、結局は秀吉の功績の前に押し負けてしまう。
やがて信長の後継者としての地位を巡り秀吉と対立。柴田勝家などの有力な織田家遺臣を味方て対抗する。
ところが、彼が旧来の織田家臣団ではなく、また自身が謀略戦や根回しなどに不得手であったことが禍する。
有力な味方である、柴田勝家の病死を切欠として次第に織田家での求心力を失い離反者が続出。孤立してしまう。
兵力差10倍以上の圧倒的に多勢に無勢な中で行われた賤ヶ岳の合戦では、奮戦するも敗退。
先祖代々の地である小谷を焼き払われ、最期は越前北の庄まで追い詰められて自害した。
秀吉は下賎の出であるが故に、主君の血筋を引くお市の方に横恋慕しており、
自分の元へ走れば命は助けると勧告したが、お市の方はこれを公然と拒否。夫と運命を共にした。
残された子供達は老臣遠藤喜右衛門の手引きで逃れようとしたが、秀吉によって須らく捉えられてしまう。
この時長女の茶々は自ら秀吉の愛妾となる道を選ぶことで弟達や妹達を守った。
嫡男忠政は信孝の傍に仕えていたが、信孝が彼の諌めを聞かずに打って出て戦死すると徳川家康の下へ逃れる。
食客として過ごしていたが、秀吉との合戦に当たっては自ら志願して秀吉を誹謗中傷する文面を書き、これを挑発。
小牧長久手の戦いにおいては、父の名に恥じない見事な戦いぶりを見せ、正式に徳川家の客将として迎えられる。
北条征伐後の家康の関東転封に従い、関ヶ原の合戦では妹婿にあたる秀忠を補佐して徳川家の勝利に貢献。
恩賞として近江長浜城を中心とする近江38万石を拝領。浅井家再興を果たした。
江戸城中において一門かつ、初代老中として徳川家中で重きを成すが、大阪の陣が発生。
長女茶々は淀の方として大阪に、三女のお江与が秀忠の正室として江戸に。
そして末弟井頼が大阪入りしたことで西と東に分かれた兄弟姉妹がそれぞれ争う形となった。
夏の陣では、出撃してきた末弟井頼と真正面からぶつかる形となり、血涙を流して断腸の思いで采配をとったと史書には記されている。
やがて家督を嫡男家政に譲り、江戸城につめて妹婿秀忠や、甥家光のよき相談相手となり、家政は初代大老となった。
その後も長浜藩は幾人にもわたって老中、大老を輩出し、桜田門外の変で暗殺された浅井弼政は彼の子孫に当たる。
【浅井長政】
浅井家大名。拡大著しい織田信長と同盟、信長の天下武布事業に大きく貢献した。
信長による天下平定後、織田政権で重要な地位を得たまま病死。
その後何百年も浅井家は安泰となり、戦国屈指の賢人と称される。
*朝倉景鏡
朝倉景鏡(1525-1584)
通称は孫八郎。式部大輔。朝倉一門筆頭として各地を転戦。
織田家の侵攻の際、土橋城に籠城し奮戦。しかし、義景の自刃を聞き開城降伏。
その潔さと能力を認めた信長に朝倉家の存続を条件として仕官。
翌年の越前一向一揆の際は信長が景鏡の救援を優先したため生き残る。
その後、かねてよりの約束通り家名の再興と越前半国を賜る。
さらに加賀・能登の平定を成し遂げ、そのまま統治することを許される。
本能寺の変の後、明智光秀を羽柴秀吉と挟撃しこれを討ち取る。
だが、その後織田家の処遇について秀吉と対立。
山陰攻めの大将であった柴田勝家と結び賤ヶ岳にて対峙する。
景鏡は事実上の総大将であったが、自ら手勢を率いて羽柴軍を奇襲。
乱戦の中、自身は討死するが、事前に指揮権を委嘱されていた柴田勝家が
その混乱を突き、羽柴勢は壊滅。羽柴秀吉は長浜にて自害する。
文字通り命を賭して織田家に義を尽した景鏡を人々は称賛したという。
*朝倉義景
朝倉義景
(1533-1595)
越前国の戦国大名。朝倉孝景の嫡男(養子説もあり)
越前国の大名、朝倉孝景の子として生まれた義景は当初、政や軍事にまったく関心を示さずに遊興にふける日々を送っていた。
しかし足利将軍家の義秋(義昭)の自国への亡命
さらに加賀の一向一揆の度重なる自国の侵入により、徐々にその才能を開花させる。
義昭の上洛要請に義景は
今の朝倉家にそんな力はないと判断、しかし義昭を丁重にもてなした。
また加賀の一向一揆との戦いにおいて家中随一の猛将であった朝倉宗滴の死後は自ら軍を指揮し、
幾度となく10万以上の一向衆を打ち破っている。
やがて義昭が頼った尾張の織田信長が台頭してくると、義景は信長から臣従を求められた。
義景はこれまでの信長の数々の悪逆非道な行為、そして越前の国主としてのプライドがこれを許さず戦うことを決意した。
これを口実に信長は即座に越前に軍を進めるも、浅井長政の裏切りにあい朽木元綱を頼って京へと引き返した。
浅井の裏切りに激怒した信長は小谷攻めを決意、徳川家康と共に出陣した。
これに対して義景は自ら1万の軍を率いて出陣し浅井軍と合流、両者は姉川にて対陣した。
浅井軍は織田軍の陣を次々と突破し本陣近くにまで肉迫、
朝倉軍も先峰、朝倉景健の活躍で徳川軍の陣を次々と打ち破った。
これにより織田、徳川軍は引き返すもたびたび両者は近江国で激突した。
度重なる戦でも決着はつかず、双方決定的な打撃を与えるには至らなかった。
しかし義景が一向衆との戦の為加賀に出陣中、信長は不意をついて小谷城を攻め、亮政、長政親子は越前に亡命した。
これにより勢いに乗った織田軍は朝倉方の城を次々と攻略し、朝倉方は数々の武将が討ち死に、窮地に立たされたのである。
義景は一向衆と和睦、急遽彼らと連合軍を組みなんとか織田軍を追い返した。
だが朝倉家の受けた被害も大きく、義景は一族の景鏡の居城である大野へと移り徹底抗戦の構えを示した。
その後織田軍は再度越前に進撃、対する義景は3000の兵で大野城に立てこもった。
やがて城を囲まれるが、加賀の一向衆が織田軍の背後に陣取ると
これを見た義景は城から出撃、一向衆と共に織田軍を挟撃し見事織田軍を敗退させたのである。
その後信長が本能寺で横死するまで織田軍を撃退し続けるも、本能寺の変後は柴田勝家に降下する。
これは度重なる戦による国力の低下を恐れての事であった。
賤ヶ岳合戦時は秀吉有利を見抜き、秀吉勝利に大きく貢献した。
のち秀吉から大野、勝山10万石を賜ると家督を嫡子愛王丸に譲り隠居、数年後大野にて病死した。
なお朝倉家はのちの関ケ原合戦時には東軍につき、越前にて20万石を賜り幕末までその命脈を保っている。
朝倉義景(1456~1789)
越前・大野にて朝倉幕府を開いた
朝倉義景
朝倉孝景の息子。
家督相続後から一向一揆との戦いに忙殺される。
京を追われた足利義昭を庇護した後は、その家臣明智光秀の勧めもあって一揆と和睦する。
義昭を擁立した義景は上洛の軍を起こし、三好一族を京から追放して幕府再興を果たす。
管領職に任じられた義景は近畿一円を席巻する勢いを見せ、1572年には三好義継を河内で討つ。
その後一族・景鏡の謀反や再び敵対した本願寺対策などに苦慮しながらも室町幕府のために尽くす。
1585年、東を任せていた盟友浅井長政の三河攻めの援軍として向かう途上、近江で客死。
朝倉義景
足利義昭を奉じて上洛。
三好長慶・松永久秀を追い払い、義昭を15代将軍の座につける。
しかし、反撃してきた三好三人衆に敗れ、京を追われる。
*足利茶々丸
足利茶々丸 (?-1582)
堀越公方足利政知の子。
血みどろの家督継承騒動から出発し、今川家の介入を排除。
謀略を駆使して小田原を奪って拠点とし、両上杉氏・古河公方との激闘の末かれらを倒した。
武田・今川・長尾(上杉)氏と時に結び、時に争いながら関東平野を切り従え、
長寿を保って乱世を睥睨した一代の覇王である。
その破天荒な人生は、
90歳近くで没するまで「茶々丸」という名で通したことからもうかがえる。
*足利義昭
足利義昭
足利幕府15代将軍
兄で13代将軍の義輝が殺された後、
信長の尽力により入京して将軍に就任。
信長に対し「御父方」と呼んで報いるも決別。
諸国の大名に対して信長討伐を呼びかける書状を送り
「手紙公方」とあだ名される。
1573年織田・徳川を滅ぼして入京を果たした
武田勝頼の故父信玄を「御父方」と呼んで報いる。
が、程なく決別し浅井・朝倉に書状を送り、
少人数で東国に戻る勝頼を背後から襲わせて討ち取る。
その功に対して朝倉義景を「御父方」と呼んで報いる。
その後、御父方と呼ばれた者
上杉・宇喜多・毛利・北条・大友・島津・・・。
いずれも義昭の謀略で消されている。
足利義昭
室町幕府第十五代将軍。
兄義輝の死後、諸国を流転し、濃尾を平定した織田信長の協力をとりつけ、上洛、将軍職に就く。
その後織田信長と対立するにいたり、各地の大名と共に信長追討を企てるも
しかし諸侯の足並みが揃わず、頼みの武田軍も信玄の死亡により帰国。浅井・朝倉は滅亡。
その事を知らない義昭は僅かな兵と共に勝龍寺城で挙兵してしまう。
圧倒的な織田軍に囲まれ、猛攻を受けるがそれを尽く退け戦線は膠着、長期戦の様相を呈す。
翌年、一向宗が各地で決起、勝竜寺城の囲みは解かれ、帰京を果たす。
六角の残党、丹波・摂津の諸豪族を従え、近江に乱入、一進一退の攻防を繰り広げる。
その間にも得意の謀略で伊賀・伊勢の諸豪族を自陣営に引き込み、朝倉旧臣をもって越前を乱し
遠江を平らげた武田勝頼の西上と歩調を合わせ、織田陣営を圧迫。
関ヶ原で両軍が対陣、その間に武田軍が徳川軍を降伏させると、信長に城下の盟を強いた。
足利幕府の威光は高まったが、直轄地の少なさから諸豪族の統括に苦心。
織田への仕置きに不満を持つ武田、台頭した一向宗、毛利一族の圧迫などへの対応にも苦慮し、
1582年、死去。心労がたたった為、と言われる。
彼の死後、足利幕府は崩壊する。
覚慶(1537~1597)
室町末期~安土桃山時代の法相宗の僧。興福寺別当。大僧正。一乗院。
父は室町幕府第十二代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘。兄に第十三代将軍である足利義輝がいる。
1565年の永禄の変で、将軍であった兄・義輝が松永久秀や三好三人衆によって暗殺され、弟で鹿苑院院主であった周嵩も誘殺される。
自身も久秀の手によって奈良に幽閉されるが、幕臣である細川藤孝や和田惟政らに助けられて脱出する。
細川藤孝・和田惟政らに還俗して将軍家再興する事を促されるが、拒否し僧籍のまま近江、若狭、越前など各地を転々とする。
上洛の動きを見せた織田信長の援助を得て、再び一乗院に戻る。
14代将軍足利義栄が没し、15代将軍職に足利義助が就くが織田信長により放逐される。
足利将軍家が滅亡していく様を見て世の中の無常を悟り修行に専念する。
織田信長が比叡山焼き討ちに対して意見する書状を出した事により放逐され再び各地を流転するが、
本能寺の変で織田信長が死した後、豊臣秀吉の援助を得て再び一乗院に戻り、余生を過ごした。
*足利義輝
足利義輝(1536-1588)
室町幕府第十三代将軍。十二代将軍・義晴の子。
これまで争っていた三好長慶と和睦して京へ復帰するが、1564年、
その配下である松永久秀と三好三人衆に二条御所を襲撃される。
命からがら脱出して逃れた義輝は当初、六角義治を頼る予定であったが、
観音寺騒動を起こして忠臣を誅殺するなど義治の器量に不安を覚え、
成長著しい江北の新興勢力・浅井長政に白羽の矢を立てる。
長政はその要請を快諾。三年後に義輝は長政の助けで京への復帰を果たす。
再び権力の座に就いた義輝は各地の大名に檄文を発し、
長政の他に朝倉、赤松、一色などと連携して三好一族の討伐に乗り出す。
1568年には長慶の遺子・三好義興と三人衆を河内に討ち取り、
松永久秀を信貴山城に討ち取って三好一族の一掃に成功する。
やがて美濃を統一した尾張の織田信長が、義輝に排除された六角、
三河の徳川家康などと連携して不穏な動きを見せると、
今度は甲斐の武田信玄とこれを挟撃し、墨俣の合戦で滅亡へと導く。
この戦いは浅井軍が主力であったが、義輝直臣の明智光秀が
鉄砲攻撃で総大将・織田信長の首を取り、戦を勝利に導いている。
その後も卓越した宮廷外交を軸に幕府権力を保った義輝は、
体調を崩したのがきっかけで1587年に嫡男・義長に将軍職を譲って隠居。
管領に任じていた浅井長政にその後見を託し、翌年死去する。
なお義輝は剣聖・塚原卜伝に免許皆伝を受けるほどの剣の腕を持っていたが、
政務のほとんどを畳の上で執り行ったためその腕を振るうことはなく、
「宝の持ち腐れ」と同義語の「将軍様の鞘刀」という諺の元となった。
足利義輝(1536-1638)
室町幕府第13代将軍(位1546-1550)。わずか11歳で将軍職に
就任させられるが、権謀術数の政治の世界に倦み、
15歳で自ら将軍職をなげうって廻国の旅に出た。
各地の料理人について修行してその技を吸収・改良し、
全国に伝達した功績は大きく、「日本料理の父」とも言われる。
体質を改善し病気を予防する、今日で言う健康食を発展させ、
北条幻庵・天海僧正・真田信之らの食生活をアドバイスした。
自らも103歳の長命を保ち死去。
作家の宮本昌孝は小説「健康将軍義輝」を書いている。
足利義輝
足利幕府中興の祖。
1546年。わずか10歳で父義晴に将軍職を譲られ13代将軍に就任する。
この頃将軍家は三好長慶により京を追われ衰退していた。
1552年、いったんは和解し京に戻るも再び決裂。またも京を追われる。
一度は勢力を盛り返すも再び劣勢に立たされる。
しかし長慶に幕府を滅ぼすまでの意思はなく1558年再び和解が成立し義輝は入京。
その後義輝は各地の大名間の争いに積極的に介入。上京した長尾輝虎や織田信長と誼を結び徐々に名声を高める。
更に1564年幕府を牛耳っていた三次長慶が死亡。その兄弟、嫡男も既に死亡しており好機と見た義輝は一気に勢力の巻き返しを計る。
だがその動きを危惧した三好三人衆と松永久秀らは御所を襲撃。
この最大の危機に義輝は、上泉信綱・塚原朴伝に習った剣術の腕前を遺憾無く発揮する。
押し寄せる敵兵の中を側近達と共に決死の突入。三好三人衆・松永秀久を討ち取り危機を脱したのである。
危機を脱した義輝は、この事態を逆に利用。
将軍殺害を企てた三好家の討伐令を、一色・波多野・六角などに発令。
この討伐令の効果は大きく、十分な兵力を揃えた義輝は三好家に決戦を挑む。
家中の中心人物を立て続けに失った三好家は討伐軍に抗せず本拠地讃岐まで勢力を後退させる事となった。
これにより、足利家は畿内の大和・摂津・和泉に基盤を獲得。
これを日本再統一の足がかりとしていくのである。
足利義輝
第十三代足利将軍。
三好三人衆と松永久秀らによって襲撃されるが、
ばったばったと三好勢を斬り倒し、その勢いで三好家を刀一本で滅ぼす。
織田信長が台頭してくると、これも斬り滅ぼし、武田・上杉・毛利等有力諸大名を次々と滅ぼし、
足利幕府の全盛期を築いた。
なお、近年光栄から発売された歴史アクションゲームゲーム「戦国○双」は
もちろん足利義輝の大活劇をモデルにしている。
*蘆名盛隆
蘆名盛隆(1561-1584)
もとは二階堂氏の二階堂盛義の子で、蘆名家の人質であったが、
1575年、蘆名盛興が夭逝したために蘆名盛氏の養子に入り盛氏の死後、家督を継承する。
盛隆自身は武将としての能力に優れていたが、もとは二階堂氏だったために家臣団が盛隆に対して反発するようになる。
1584年、家臣であった多田野八九左衛門に黒川城内で暗殺された。
多田野八九左衛門が襲った理由には諸説があるが、盛隆の籠に多田野八九左衛門の籠が追突し、臣従を余儀なくされる。
盛隆は過度に男色を好む人物で、それ以降、八九左衛門が相手を務めたという。
その恨みから八九左衛門に暗殺された説が有力である。
その後、奥州全体を巻き込む内乱へとハッテンし、蘆名家の勢力は衰え、伊達家に臣従することとなる。
*阿蘇惟光
阿蘇惟光(1582-1654)
阿蘇大宮司。三歳で家督相続後、秀吉に投降。のち佐々成政、加藤清正に預けられる。
肥後国人一揆の際、清正の謀略で一揆煽動の罪に問われそうになるが、
幼いながらもその才器を惜しんだ隣国の小西行長の嘆願により命を救われ、
その身は行長に預けられる。
雌伏の時を経て元服した惟光はその恩に報いるべく行長のために尽くす。
関ヶ原で肥後の留守を守った惟光は、侵入してきた加藤清正軍を撃退するなど戦功を上げ、
西軍敗北後は柳河の立花宗茂と連携して鍋島直茂を討ち、武名を世に轟かす。
戦後、行長が斬首されて主家を失った惟光は流浪の身となる。
全国津々浦々を行脚した惟光はやがて本多正信に見い出され、その推挙で家康直属の旗本として登用される。
大坂の陣に参陣した惟光は家康の本陣に迫り来る真田幸村を命懸けで返り討ちにし、家康から絶賛される。
その後、旧領阿蘇などに領地を与えられて大名に復帰した惟光は、
泰平の世になったのを見届けながら73年の生涯を全うした。
恩人である行長との別れ、浪人時代のエピソード、真田幸村との一騎打ち、そして御家再興と、
彼の波乱万丈な人生は色々と脚色されながらも後世の人々に愛され、
今でも「宮無し宮司」の愛称で時代劇や小説などに姿を変えて人々の心に生き続けている。
ちなみに、大川興業のお笑い芸人・阿蘇山大噴火さんは惟光から数えて十七代目の子孫である。
*安宅冬康
安宅冬康 1528年~1600年
三好元長の三男。大納言。幼少の折に水軍安宅家に養子に出される。
長じては兄の畿内制覇を助ける。兄弟や甥が謀殺される中、一人
奸臣松永久秀の謀略を見破り、独断で誅殺する。これにより長慶は
助かるかと思われたが、既に長期に渡って毒に蝕まれた体は助からず、
1564年に波乱の一生を終える。
この後、長慶の養子であり、末弟十河一存の実子の三好義継を三好三人衆と
共に後見する。そんな中1568年、将軍足利義輝が突如近江坂本で挙兵。六角や畠山、
波多野、赤松が呼応して攻め寄せるとこれを各個撃破して、六角義賢と畠山
高政は敗死。赤松義祐と波多野秀治は逐電し、足利義輝は出家した。
これにより、阿波公方足利義栄が14代将軍に就任。三好家は危機を逆手に取り、
勢力を拡大し、畿内に新秩序を施行した。応仁の乱以来160年ぶりに畿内に平和が
戻り、京や堺の市民達は口を揃えて安宅冬康の徳を称えた。
その後、時の正親町天皇から諸国平定の勅命を受け、美濃の織田氏、丹波の一色氏、
土佐の長宗我部氏、安芸の毛利氏等を次々に降し、天下は確実に三好家の手に
握られていった。このように早い進軍を可能にしたのは、水軍を活用したのと、
方面軍団制度を導入したことが大きい。三好家の直轄軍を中央軍とし、
荒木村重の中国方面軍、三好長治の四国方面軍、篠原長房の北陸方面軍、
細川藤考の東海方面軍がある。また、後期には松永久道の関東方面軍、
十河存保の九州方面軍が設置された。
1590年には東北以外の全てが三好家に征服・恭順した。
しかし、伊達政宗は三好家に従わず、東北・蝦夷地を征服し
頑強に抵抗を続けていた。流石の三好もこれには手を焼いた。
一番損害を出したのが三好長逸が黒川城を十万の大軍で
包囲した時である。伊達政宗は降伏すると見せかけ、城を
明け渡して、三好勢が受け取りの為に城に入ると、周辺に
伏せていた五千の兵が城内に乱入し、中に入った八万人が
戦死あるいは捕虜にされた。殿軍を務めた岩成友道は戦死。
三好政康も深手を負い、長逸もあわやという場面が何度もあったが、
松永久道が父親譲りの智謀を発揮し、難を逃れ、後詰の北条軍と
合流することができた。後の世に「黒川崩れ」と呼ばれる撤退である。
しかし、最早伊達軍も戦力は乏しく、3年後に首を差し出すこととなる。
こうして、1593年に全国を統一した三好家は朝廷に賞賛され、一族が
高官に昇った。三好義継は征夷大将軍に任命された。つまり、足利家
に代わり幕府を開くことを許されたのである(これより足利家は公家とされた)。
また、安宅冬康は副将軍となり、位階も正三位大納言に進み、天下の政治を
執った。安宅冬康はこの時期に大阪幕府の基礎を築き、三好三百年の太平の世
を現出させたのである。そして、自分の仕事は終わったとばかりに1600年に
72歳の天寿を全うした。また、文化人としても名が高く、千利休や狩野永徳
等の文化人が葬儀に参列した。
*荒木村重
荒木村重(1535-1599)
大納言。元は池田勝正の家臣だったが、これを見限って織田信長に降伏。のち摂津一国を与えられる。
武将としての才覚もありながら茶の湯にも通じていた村重は信長に重用され、
家中では羽柴秀吉、明智光秀に次ぐ出世を果たし、別所氏攻略などに戦功を挙げた。
1582年、本能寺の変が有岡城にいた彼の運命を大きく変える。
親交のあった光秀から事前に計画への荷担を持ちかけられていた村重はそれに通じて
四国攻めのため堺に滞在していた信長の三男・信孝と丹羽長秀を討ち、ちょうど逗留していた徳川家康一行も討つ。
村重は変を聞いて急行してきた秀吉軍を摂津で迎え撃ち、光秀と共にこれを撃退する。
秀吉は敗走途中、村重の配下・池田知正に捕まり、京で磔刑に処せられた。
この勝利で日和見をしていた筒井、細川もようやく腰を上げて光秀陣営に参じる。
安土城に籠城していた蒲生賢秀・氏郷親子も間もなく降伏し、光秀は越前を除く畿内の制圧にほぼ成功した。
光秀は信長の遺児・信雄、滝川一益の降伏を待ってから改めて方面軍を形成。
中国路には細川親子と筒井順慶、北条が侵食した木曽路には明智秀満、東海道には斎藤利三、四国には津田信澄らを派遣。
北ノ庄城に柴田勝家を滅ぼした村重はそのまま北陸方面軍を任される。
先の秀吉、勝家との戦いで降伏した黒田官兵衛、前田利家、佐々成政らを配した村重軍は破竹の勢いで北陸を席巻。
1585年、遂に上杉景勝を降伏させる。その頃には光秀の覇権は揺るぎのないものとなり、
それから5年後の1590年、伊達政宗の自害をもって全国統一を成し遂げた。
その後、毛利に寄食していた足利義昭を呼び戻して幕府を再興した光秀は管領に任じられ、
越前守護に任じられた村重もまた、第二期足利幕府の重鎮として越前・加賀など百三十万石を領し、
村重は細川藤孝、亡き筒井順慶の嗣子・定次、義昭を庇護していた毛利輝元と共に「今四職」と称された。
しかし、光秀の力に信長の影を見た義昭の行動は次第に常軌を逸し始め、
1596年、筒井定次を謀叛の疑いありとして切腹させたのを始め、同じ理由で忠臣だった細川父子を領地召し上げの上蟄居させたり、
果ては「織田の汚れた血を引く者め」と、年賀の挨拶に訪れた津田信澄を斬殺してしまう。
村重にも謀叛の疑いがかけられそうになるが、間もなく義昭は急死してしまい難を逃れる。
その死因は狂死とも毒殺ともいわれるが定かではない。
義昭死後、実子がいなかったことと、人心が離れていたこともあって天下の情勢はにわかに騒がしくなる。
後継者が決まらないうちに光秀が死去するとその混乱は決定的なものとなり、将軍の座が空位という異常な状態が生まれた。
光秀の実子は早世しており、その対立軸は残る「今四職」で、養子・義忠(細川忠興の次男)を擁する村重と、
同じく養子・義真(今川氏真の次男)を擁する毛利輝元だった。義忠には村重の他、宇喜多秀家、島津義弘、上杉景勝などが付き、
対して義真にはその実父・氏真の姻戚である北条氏直、佐竹義重、大友義統などの有力大名が付いて全国をほぼ二分する形となった。
当初、実父が謀叛の疑いで失脚している義忠よりも義真のほうが優位に見えたが、細川一族を庇護していた村重が
「幽斎どのは十四代・義晴様のご落胤であり、その孫にあたる義忠様は同じ一族でも義真様よりも正当なお血筋に近い。
尚且つ義忠様の母は管領様(光秀)のご息女であり、次代の武家の棟梁としてこれに優るものはなし」と発言。
これによって光秀の直臣・「四奉行」(明智秀満、斎藤利三、溝尾茂朝、妻木広忠)も村重を支持し、
次いで村重の朝廷工作で義忠が右大臣の位を受領したこともあり、村重派(東軍)と輝元派(西軍)の対決は避けられなくなった。
1597年夏、会津で東軍の蒲生氏郷が西軍の最上義光と戦闘状態になったのを皮切りに、
九州では島津義弘と大友義統、関東では上杉景勝と北条氏直が小競り合いを開始して合戦の火蓋が切られる。
村重は上杉軍を援護すべく、備前の宇喜多秀家と但馬の宮部継潤に毛利を任せて東海道から東進を開始しようとする。
東海道にはかつて村重が討った徳川家康の遺児・秀康など、徳川ゆかりの大名家が点在しており一応は中立を宣言していたが、
「道中、彼らは結託して村重を討ち果たすらしい」という噂が流れており、家臣も経路の変更を勧めるほど事態は緊迫していた。
しかし、村重はあえて進軍した上でそれら諸将を自陣に招いて茶会を催し、点てた茶と脇差を同時に差し出して、
「ここでわしを討つも、茶を嗜むも貴殿たち次第」と言い放ち、三河の諸将を仰天させる。
結果、感じ入った榊原康政を皮切りに全員が脇差に手をかけることなく茶を飲み干し、村重の軍勢に加わることを誓う。
この裏には、家康の遺児を養子にして厚遇することなどを条件にした、康政への調略が事前にあったと言われているが、
とにかく東海道の大名たちを味方につけた村重は北条氏直を上杉と挟撃。寝返った佐竹義重と共にその動きを封じる。
北条の牽制を明智秀満に任せた村重は西へと転じ、苦戦していた宇喜多、宮部軍の救援に駆けつける。
備前笠岡で対峙した両軍はやがて激突。最初こそ数量に勝る毛利軍が押していたが、
井伊直政などの三河衆、筒井の旧臣・島左近などの活躍で両川不在の毛利軍を撃破。副将・穂井田元清を討ち取った。
これが大きなきっかけとなって戦は終息。その後、各地からも続々と東軍の大名の勝利が伝えられた。
毛利輝元、吉川広家は四条河原で首を刎ねられて毛利家は滅亡、最上、北条などといった西軍大名も改易され、
義真は氏真と共に隠岐へと流されることになる。
義忠を第十六代将軍に据えた村重は、旧態のシステムを刷新した上で自らを副将軍と名乗り、新たな幕政を取り仕切った。
二年後、村重は病を得て死去。元から茶人として名高い村重であったが、最晩年に「自分は道端の糞である。
誰にも知られぬまま消えるもよし、畑の肥になるもよし」という理由で剃髪し、「道薫」と号するなど、
三河衆を説得した茶会にも見られた変人ぶりは文化人としての深みを大いに評価された。
葬儀には二十万人が参列し、堺や京では町衆が自発的に一週間の喪に服したという。
新足利幕府はその十五年後、十七代・義秀の時に再び断絶して、隠岐に配流されていた義真が不穏な動きを見せる。
これを収めたのが、村重の養子となって荒木家を継いでいた徳川家康の三男・秀忠とあの時の三河衆であり、
出雲で旗上げした義真とそれを擁立した最上義光親子らを討つ。
なお、この戦いでは義真側に加わった旧羽柴家臣の福島正則、加藤清正などの猛者が秀忠軍を大いに苦しめた。
武運つたなく玉砕したが彼らはのち、その戦いぶりが賞賛され、
後世、主君に忠義を尽くす「隠岐七本槍」として歌舞伎、講談などで民衆に大きな支持を得た。
ちなみにそれらを討った信州の真田信之・信繁兄弟は戦後、
密かに義真を支援していたかどで改易された佐竹氏の常陸五十四万石に加増、転封されたが、
話の中では悪役として書かれることも多く民衆からの人気は芳しくなかった。
秀忠は二年後、朝廷から新たに創設した幕府の初代将軍に任じられ、その後二百五十年続く太平の世を築くことになる。
その後、秀忠は姓を徳川に戻したが、村重は神君として家中で祀られ続け、天下取りを皮肉った狂歌では、
「織田がつき、明智が奪いし天下餅。こねて仕上げし道端の糞」
と歌われている。
*有馬豊氏
有馬豊氏(1569-1642)
有馬則頼の次男。渡瀬繁詮の家老を務めた。
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最終更新:2017年01月18日 07:35
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