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戦国時代板案内所
イの人物
あ
.。
#contents
*井伊直親
井伊直親 1535-1602
遠州井伊谷の領主。今川家に仕える。
一時謀叛の嫌疑をかけられたが、今川氏真は聡明にもそれが濡れ衣であることを見抜いた。
のち徳川家に仕え、幕末まで3500石の旗本として続いた。
*井伊直政
井伊直政(1561~1642)
徳川家の誇る赤備えの猛将。
若い頃、大久保忠世らに食事に招かれた直政は、
糠味噌で味つけした汁を談笑しながら次々とおかわりして食べた。
あまりの大食ぶりに仰天した忠世らが「食いすぎじゃ、自重せよ」と嗜めた所、
直政は毅然とした表情でこう返したという。
「我らは常に全力が出せねばなりません。
普段からしっかり食って力を蓄え、いつでも殿の御為に働かねば。
それに、腹が減って全力が出せずに討ち死にして餓鬼道に落ちるのは御免ですからな!」
直政が糠味噌汁を嫌がるのを全員で責めてやろうと思っていた一同は
すっかり赤面してうつむいてしまったという。
しっかり食べてしっかり働いたのが功を奏したのか、直政は関ヶ原でも活躍。
大阪の陣でも現役で出陣し、 島原の乱でも将軍家光や幕閣の面々に適切な助言をして
勝利に貢献し、当時としては80を超える高齢で大往生した。
*石田三成
石田三成(1560~????)
近江出身。幼少時に秀吉に見染められ小姓となる。
長じては優れた経済感覚を発揮し、豊臣政権下で年寄として活躍した。
また1583年の賤ヶ岳の戦いでは武功を立てる等文武両道に秀で、
富田勢源の下で学んだ小太刀の腕前は一流であった。
秀吉没後は大老筆頭格である徳川家康と対立し、
1600年、関ヶ原で雌雄を決するも敗れ、再起を期して逃亡し、
庇護を受けるためかつて面倒を見た土地へ向かった。
昨年8月、明治維新を知らずに伊吹山中に潜伏しているのを
偶然近畿大学の登山サークルによって発見され、
史家による二週間に及ぶ説得の後、漸く納得して保護された。
13代に渡って養い続けてきたという辻与史郎さん(42)は
「これでやっと肩の荷が降りました」と
ほっとした表情を見せたという。
現在は全国を巡って講演活動等を精力的に行っている。
八幡三成、重家
旧姓を石田といい父三成は豊臣秀吉に仕えた能吏であった。
彼の命運をわかったのは主君秀吉の死であった。
かろうじて秀勝(幼名鶴松)とお拾という二児がいたがともに
豊臣の身代を背負うには年少すぎた。
二人の元老、前田利家と徳川家康の危うい均衡で成り立っていたが
前田利家が死去、その前に蒲生氏郷、小早川隆景、豊臣秀次が相次いで病没
しており徳川家康の専横が目立ってきた。
朝鮮出兵の失敗はあったものの明より豊臣家に「日本国王」として冊封と
朝貢交易を許されたことで一息ついたものの、いまだ脆弱な国の土台を
憂い三成は宇喜多秀家にこう書をしたためた。
「中大兄皇子たれ」
こうして第二の改新といわれた元和の改新が起こった。
三成は加藤清正、大谷吉継、浅野幸長、と語らい
前田利長を推戴して宇喜多秀家と小早川秀秋と豊臣秀保をもって
家康の弾劾を決定する。
主に文治を担う三成が、宇喜多、浅野、小早川といった豊臣家門は
もとより武断を尊ぶ清正を同士に引き入れた点は重要で
「徳川は蘇我氏の様に振舞っております。」と淀の方に訴えるが
淀の方に一蹴され後世に残る名言が出来た。
「淀の方は皇極の君の如し、筑前公をもちて軽皇子たらしめよ」
この助言に従って小早川秀秋と豊臣秀保、大谷吉継、前田利政が
京で決起する。
京に隠棲する高台院をすがって秀秋を改めて養子扱いとし豊臣姓に
復し朝廷より内覧たるべしとの辞を賜った。
続いて「宇喜多公を持ちて豊臣姓を許し征夷大将軍たらしめよ」
京を抑えることで矢継ぎ早に清正を将軍たらしめる。
九州からの出兵となり地理的には不利ながら
反目しあう小西が加藤が関東に移るとの約束で中立を保ち
島津、黒田、鍋島が加わりこれに毛利も勝機アリとの目算から
加勢を決めた。
これに動揺した家康であったが
「豊臣は平家のようである。彼らに富士川より東、関の東は担えまじ」
と発言、家康に勝算アリとする関東東海道筋奥羽の諸侯を語らって
西に対抗
上杉景勝は東国の儀を訴える家康に対し中立を保つことを約束
越後、山形の併合に動く。
関が原に布陣「承久、壬申の先例あり、勝利は我にあり」と語ったというが
戦況は一進一退の攻防を続け決め手となったのは菊の紋章をした錦の御旗と
千成瓢箪の旗印であった。
これで勝敗は決した。
加藤清正を征西大将軍とし関東征伐に乗り出す。
このあと旧弊を改め新しきを持ちて国を治めるとの志を謳い
御一新を宣言
摂政関白、征夷大将軍、太政大臣などの律令制以来の官位を廃し
新たな国家体制に移行するこれまでの奉行職を職務ごとに整理し
大臣と命名、総括する総理大臣を関白太政大臣に変えた。
これを近世的内閣制といいのちの近代内閣制度の前身となった。
京の帝は天皇として神祇を司り、豊臣は太政を司るとの分担を
明確にし江戸に移ってっこを東京都と命名
あらたな日本の首都として規定する。
また憲法発布、有力諸侯による合議を制度化、五大老などの
大大名を知事とし州と規定した地域の管轄を委託するなど
近代国家の前身となる。
佐吉少年(1560~???
観音寺小姓。
寺に立ち寄った秀吉にお茶を出そうとしたが足がもつれて
秀吉にぶっかけてしまった。火傷を負った秀吉は侍従に命じ少年を百叩きの刑に処した。
後に彼はこう言ったという、「最初はぬるいお茶にしときゃよかった・・・」
石田三成
豊臣秀吉の家臣であり吏令ぶりをつとに知られている。
当初は生地の近江に佐和山20万石で封じられていた。
奉行として辣腕を振るっていたが、彼の運命を暗転させる出来事があった。
九州筑前を誰に任せるかである。
当初予定していた吉川家が沙汰止みとなり、小早川家に秀吉の甥秀秋を養子として
いずれは筑前に置こうという思惑も沙汰止みとなったとき
登場したのが石田三成である。
筑前54万石に封じられたが実高は100万石あったといわれる。
本来は誰にも任せようがなく三成を代官としていたところ
思いのほか上手に統治していたところから三成を筑前に置くという
話が出たらしい。
当然家康や利家は能吏の三成が100万石になるのに反対だったといい
秀吉は折衷案として三成を奉行から外す措置を取った。
実際のところ、彼を朝鮮出兵に専任するためだったという。
朝鮮出兵においても全面的な兵站とともに自ら出征して
多くの将兵と苦しい戦いをともにしている。
治部が助勢なくば我はこの世になかったというのは帰国後の清正の
言葉である。
三成が100万石といわれつつ実際は奉行を外された左遷であり
その後苦しい他国での戦いを強いられた中
豊臣家では千利休切腹、秀次切腹といった
諸問題が噴出し手がつけられなくなっていた。
家康の専横と前田利家の死そして上杉景勝の反家康の旗幟の鮮明化
がきっかけとなり会津征伐が起きる。
そして西軍が決起する。
長らく豊臣から離れていた三成にも家康の誘いがあったが彼は
当初から西軍としての行動を決めていたようで彼の親友大谷吉継も
西軍に組している。
加藤清正を誘って直ちに大阪に赴いた三成は自分と清正の
奉行就任を申請、戦勝に大きく貢献する。
戦後は筑前を嫡男にまかせ佐和山を本拠として豊臣政権に復帰
活躍することとなる。
石田家の筑前豊前と豊後の一部で150万石、政権下では大老
官位は中納言という立場は豊臣直参では異例であり三成の手腕と功績が
しのばれる。
石田三成(1560~1615)
幼年の頃より豊臣秀吉に仕え、奉行衆の一員として半生を送る
豊臣秀吉・前田利家らの死をきっかけに加藤清正・福島正則ら七将に襲撃されるが、
日頃より懇意であった徳川家康に助けを求め、家康の公正な裁定により七将は失脚する
恨みに思った七将らは、家康・三成に不満を持つ大名を集めて挙兵するが、
三成は家康を中心とした連合軍を結成して対抗、勝利する
その後、徳川の幕下で辣腕を振るうことを選んだ三成であったが、
家康が豊臣家を除いて憂いを断とうとする方針を固めると、それに反発
豊臣を守るために手を尽くしたが、適わず大阪の陣が起こると徳川陣営から離反
豊臣陣営に加わり奮戦したが、彼の手腕をもってしても劣勢を覆すことはできず、
討ち死せんとする秀頼を説き伏せて共に大阪脱出を図るが、失敗し捕縛される
秀頼の助命を条件に、再び家康に仕えるという要求を呑んだ三成であったが、
後日、約定をたがえて秀頼が処刑された事実を知ると後を追って自刃する
三成の死を知った家康は、
「石田が共に消えると知っておれば、豊臣を滅ぼそうなどと考えなかったものを・・・」
などと、彼の死を悔やんだと言う
石田三成 (1560~1600)
豊臣家に仕えて奉行として頭角をあらわし、徳川家康や武断派諸将と対峙。
1600年、関ヶ原の戦いを指揮するも敗れ、捕らえられた。
六条河原の刑場に曳かれる途中、食べた干し柿を喉に詰まらせて死亡。
それ以来、水代わりに干し柿を供することは「 痰の毒」として忌まれることになった。
石田三成(1560~1603)
豊臣秀吉に知性をかわれ、出世していき、太閤検地・貿易町堺の発達
など、さまざまな功績を残す。
秀吉の死後、230万石の大大名であり、次の覇権を握ろうとする
徳川家康と関ヶ原で戦う。
島左近や、毛利家の活躍も目覚しく、午後12時ごろ小早川秀秋の
参戦により、東軍を圧倒、見事勝利を収める。
しかし、約三年後、石田三成にたいして不満を持っていた豊臣恩顧
の諸大名(関ヶ原の豊臣恩顧の大名以外)が突如三成の城である佐和山城
を包囲、三成は城兵の命を第一に考え、城兵の命と引き換えに、自分の
命を絶った。
*一条兼定
一条兼定(1543-1611)
室町末期・桃山時代の公卿、歌人、書家。権大納言・房基(1522-1549)の子。
1551年、9歳で正五位下に叙せられ禁色昇殿。同年元服し従四位上、
右少将・左中将。1562年には従三位に叙任。1575年内大臣、
76年右大臣、77年左大臣を経て1581年関白。82年、従一位・氏長者となった。
近衛前久らとともに朝廷勢力を代表して武家勢力と折衝に奔走、
織田信長ついで羽柴(豊臣)秀吉という天下人と真っ向から渡り合った。
1584年、関白を辞して出家し嵯峨野に隠棲、俗塵を離れ風雅に生きた。
和歌・連歌を能くし、『兼定集』(1598)は中世歌壇最後の輝きとして名高い。
書道は青蓮院流を学んで「桃山三筆」の一人として知られ、彼の筆写になる
『源氏物語(一条本)』『古今和歌集(土佐本)』は国宝に指定されている。
*今川氏真
今川氏真
古来より日本に伝わる蹴鞠から発展した、蹴球の創始者。1573年には、
初の世界杯を開催。初代日本代表の主将を務める。
今川氏真(1538~1615)
戦国大名
桶狭間の合戦で父義元が敗死したため家督を継ぐ
弔い合戦で織田氏を滅ぼし三河・遠江・駿河・尾張四国
の太守となる。
親族衆で弔い合戦の実質的な指揮を取った松平元康に実権を握られ
後半生は半幽閉状態で過す。
今川氏真
世界的蹴鞠ブームの火付け役
今川氏真
今川幕府2代将軍
父・初代将軍今川義元死後、父の作り上げた強固な官僚機構・常備軍を背景に、全国に渡って善政を敷いた。
戦は不得手であったが、彼の内政手腕は確かなものがあり、今川幕府の礎を築いた。
また、彼は風流人であったため、今日の日本文化に多大な影響を与えた人物でもある。
今川氏真
今川氏真(1538-1615)は、戦国期の武将。幼名五郎。
父・義元の死後、駿河今川家10代当主として、東海地方から、
美濃、近江にいたる大領国を継承する。
巧みな外交戦略によって東西に長い領国の安全を図った。
親戚筋の甲斐武田氏、相模北条氏とは協調して東海地方の安全を確保する一方、
かねてより親交のあった文化人達を通じて、伊勢北畠氏、
飛騨姉小路氏ほか、畿内の諸勢力とも良好な関係を維持した。
一時武田氏と不和になるも、北条氏、越後上杉氏と協力して経済封鎖
(俗に言う塩止め)を敢行、干戈を交えることなく武田氏を苦しめた。
その後、親今川派の義信が武田家を継いだこともあり、
武田氏との関係を改善させる事に成功した。
これは今尚、最も成功した経済封鎖の一例として名高い。
領国内で実施した楽市・楽座政策によって培われた強力な経済力が、
こうした外交戦略成功の背景となっていたのである。
また、清和源氏足利流の一角として、足利将軍家とも密接な関係を持つ。
後に足利家の発布した総無事令が東国で一定の効果を発揮したのも、
今川家及び、その同盟諸国が後ろ盾となったればこそである。
しかし、西国にまでその威令が及んだわけではなく、毛利氏や、
島津氏の増長に苦慮しながら、1615年、この世を去った。
*今川義元
今川義元 (1519-1582)
駿河の国の守護大名である今川氏親の子として生まれる
4才で仏門に出されるも1536年、兄の氏輝が病死したため玄広恵探との家督争いが発生
太原雪斎の尽力で勝利、今川氏9代駿河守護となる
その後三河を支配下におき「東海道一の弓取り」と呼ばれるようになる
1560年、大軍を率い京への上洛をはじめる
まず軽く尾張のうつけ者、織田信長を倒し(その後織田信長は宣教師の船に乗り海外へ渡ったと言われている)
美濃の国の斉藤家を破る その時の松平元康の活躍は素晴らしかった しかしそれが後に自分の首をしめることとなる・・
浅井とは同盟を結んだものの義元の敵は多かった 特に六角氏と三好氏の力は強大だった
しかしここでも元康が大活躍 そして自身も兵を率い見事京への上洛を果たした
義元は本願寺や朝廷とは上手く付き合っていたが将軍足利家との関係が悪化
同盟を結んでいた浅井家や朝倉家などと戦うことになる
1570年、姉川の戦いが発生 義元は13段の陣のうち11段まで突破されたが松平元康の奮戦により勝利(しかし、最近ではこれは否定されている)
その後も浅井、朝倉との激しい戦いは続くこととなった 特に先の戦いで大活躍だった朝倉家の武将、明智光秀に義元は苦戦を強いられる
しかし光秀はどれだけ活躍してもあまり朝倉氏に認められなかった それに目をつけた義元は朝倉氏と光秀の分断を図った 遂に光秀は義元に降り兵力で勝る今川軍は浅井、朝倉家を滅ぼすことに成功した
この勝利により今川家が新たな将軍家となるのは明確だった 足利義昭が毛利に逃げたとはいえ残る敵は毛利以外には上杉家ぐらいしか残っていなかった
しかし1582年、僅かな手勢を引き連れ入った本能寺で松平元康の謀反に合い殺されてしまう
息子の今川氏真は動かなかったため松平元康はあっさりと今川家の乗っ取りに成功する
その後徳川家康と改め天下統一を果たし徳川幕府が誕生した
義元 政治96 戦闘95 智謀92
元康 政治100 戦闘98 智謀84 野望100
光秀 政治23 戦闘99 智謀95
足利義元(1519-1588)
室町幕府の第14代征夷大将軍(在位:永禄11年(1568年)-天正16年(1588年))。
父は足利氏の傍流吉良氏の分家にあたる今川氏の第7代当主・今川氏親。
はじめ僧籍にあったが父と兄の死後、今川家を継ぎ駿河守護となる。
永禄3年(1560年)、永年の宿敵であった織田氏を滅ぼし今川氏の勢力は
駿河・遠江・三河・尾張という東海道の4ヶ国にまたがったため「海道一の弓取り」と称される。
義輝が松永久秀らに暗殺されると上洛し、足利宗家以外からはじめて室町幕府第14代将軍に就任した。
寄親・寄子制度を設け、軍事組織力の革命的な改革を行った。
破綻しかけていた幕府権力を再建したことから室町幕府中興の祖と呼ばれる。
..
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最終更新:2017年01月18日 07:40
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