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内藤宗勝

内藤宗勝 (1516-1565)

丹波守護代・内藤国貞の婿。国貞の死後その跡を継ぐ。
1565年対立する豪族・赤井忠家の城を攻撃するが、逆襲に遭い大敗、討死した。

中村一氏

中村一氏 (?~1600)

前編

近江甲賀二十一家の1つ、瀧(多喜)氏の出と考えられ、初め瀧孫平次と名乗り秀吉に仕えた。
この一氏を召抱えた頃から、秀吉の本格的な大出世がはじまる。
金ヶ崎の退き口、姉川合戦、小谷攻略など、その目覚しい活躍の蔭には常に一氏の存在があり
軍師半兵衛と並んだ羽柴家の巨頭として、大車輪の働きをした。
その甲斐あって秀吉から200石!という大封を与えられ、一氏自身も大出世の名乗りを挙げた。
その後も様々な激戦で活躍し、当時最も恐れられていた雑賀衆の抑えとして泉州岸和田城主に上り詰めた

中編

その岸和田城主時代に武勇伝とも言える面白いエピソードが残っている。
羽柴家最強の一氏さえ討てば、戦局を優位に運べると考えた雑賀・根来衆が
その総力を結集させて岸和田城を来襲したのである。
一氏の抵抗は目覚しかったが、さすがに多勢に無勢。追い込まれ、あわや落城寸前にまで追い込まれた
その時、大蛸に乗った僧と数千の蛸が現れ城を救われたという伝説が残っているのだ。
モーゼの十戒をも彷彿とさせる、この逸話を持つ男、一氏。まさに神の領域である。
そして、その功により故郷の近江国甲賀郡水口岡山6万石城主になり故郷に大錦を立てる。

後編

その後、関東の雄・北条征伐の際に秀次隊の先鋒を務め、
ほぼ単独で、北条家中随一の猛将・松田康長の守る箱根山中城の主要部分を攻略。
その大功により駿河国駿府14万石を拝領する。
そして一氏の活躍によって、秀吉は念願だった天下統一を達成する
そして第一功労者である一氏は政権内一の要職と言われる三中老に任命された。
もはや天下は一氏を中心に回っていた。
そして天下一の実力者に上り詰めた一氏の死後すぐに、関ヶ原の合戦が起こる
それは家康が一氏の存在を心底恐れ、その死を待っていたという事実に他ならないだろう
家康さえも恐れさせた男、中村一氏。
その実力と人気は400年経った今でも、この戦国板で多くの信者を惹きつけてやまない

難波田憲重

難波田憲重(?-1546)

扇谷上杉氏の重臣。武蔵松山城主。弾正と称す。法名の善銀でも知られる。
北条氏に河越城を奪われた扇谷上杉朝定を松山城に迎えて衰運の主家を支え、
関東にあって日の出の勢いの北条氏の行く手に立ち塞がり、進撃を阻んだ。
松山城に攻め寄せた北条方の山中主膳との「和歌合戦」も有名であり、
彼が文武に秀でた名将であることを物語っている。

1546年、長年対立していた山内家・古河公方家を反北条の旗印の下に糾合し、
河越城奪回戦を発動。ここに新旧関東勢力の一大決戦の幕が切って落とされる。
故地河越に上杉の旗を再び掲げ、扇谷家の宿願が叶うかに見えた刹那、
戦国戦史に名を残す、かの北条勢の夜襲を受ける。世に言う「河越夜戦」である。
憲重は敵の猛攻を食い止めるべく奮戦したが、その一子・隼人正ともども
乱軍の中壮烈なる討死を遂げ、主家の滅亡に殉じた。享年は明らかではない。

その悲壮な死は巷間さまざまに伝えられ、伝説の光に包まれている。
憲重は主君朝定が討たれたことを聞くや、天を仰いで悲憤慨嘆し、
「もはや我が武運も尽きたり、北条の輩にこの首は討たせじ」と刀を銜え、
自ら古井戸に身を投じた――という物語があれば、あっぱれ名将、花も実もある
武者ぶりよと、聴くものの涙を誘わずにはおかなかっただろう。

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最終更新:2007年07月25日 22:37